■ナイチンゲールと薔薇■
 曇りがちの、明瞭(はっきり)としない天気が長く続いていた。
 今日になって、何日かぶりに漸く青空が覗いた。風は微(そよ)かで、春のように暖かい。絶好の散歩日和になったので、僕はふと、坂の上の古本屋に足を向けてみた。
 僕の家とその古本屋は、至近と云う訳ではないが、遠いと云う程でもない。気まぐれの散策には、打ってつけの距離だ。
 常時(いつも)は用も無いのに来るなと怒られるが、今日のような日はさしもの彼も、善良な市民の漫ろ歩きを咎め立てるような、野暮は云わないに違いない。


 仏頂面の家主がいる和室の、庭に面した縁側は、終日日当たりが善い。常時は石榴が丸くなって寝ている場所に、人間の頭が見えた。薄茶色の、玉蜀黍の穂のような髪で、遠くからでも善く目立つ。
 身体の方は和室に入っているのか、縁側には首から上だけが出ていた。目を閉じて、ぐっすりと眠っているようだ。
 顔がまともに陽に当たっているが、眩しくはないのだろうか。こんな状態でよく眠れるものだ。

「やあ」
 奥に居る家主に声をかけると、彼は不機嫌極まりない表情で、読んでいた本から顔を上げた。
「どうして庭から来るんだ、関口君。まともに玄関から訪ねて来るぐらいの良識は持ち合わせていないのかね」
 こんな毒舌は常時のことなので、僕は曖昧に笑って縁側から中に上がり込んだ。
 表は「骨休み」の看板が掛かったまま、錠が下りていて、押しても引いても開かなかったのだ。
 多分千鶴子さんが、買い物か何かで留守にしているに違いない。本に夢中の亭主一人だけでは用心が悪いと思って、確乎りと戸締まりをして行ったのだ。
 案の定、京極が白湯のように薄い茶を出してくれた。彼女が居ない時は、いつもこうだ。

「今日は暖かいね。まるで春のようだ」
 茶を飲み乍らそう話しかけると、主人は眉に皺を寄せたまま、陰鬱な顔で僕を見た。
「今まで家で温順しくしていたのに、暖かくなると途端に顔を出す。まるで啓蟄だね。そんなに陽気が好いのが嬉しいのかね?」
 人の事を虫か何かのように云うが、この程度は僕も慣れたもので、気にもならない。
「退屈凌ぎに用も無いのに訪ねて来られるのも、大いに迷惑なんだがね。何度も云っていると思うが、僕は忙しいんだよ」
 続けてもう一度。これも目新しい皮肉ではなく、そろそろ自分でも感覚が麻痺してきて、痛くも痒くもなくなった。第一、忙しくないのは一目瞭然だ。
 ふと、その科白は榎さんにも云ったのだろうかと思った。
 云ったのだろうな。でも多分僕以上に効きはしないだろう。彼の寝顔は、実に平穏で屈託がなかった。

「榎さんは昼寝をしに来たのかな?」
「退屈なんだろうさ。旦那が忙しいから」
 僕は白湯を飲み乍ら、最近世間を騒がしている猟奇殺人事件の事を思った。
 つい一日か二日前の事件だ。旦那の管内の事件で、所轄署に大がかりな捜査本部が置かれた筈だ。まだ初動捜査の段階だから、きっと旦那は目が回る程忙しくしているだろう。
「じゃあ、今日は旦那は迎えに来られないね」
「一応、署の方に電話で言伝は頼んだんだがね。伝わっているかどうか判らないな。暗くなる前に目を覚まして、自分で帰ってくれると有り難いんだが……。駄目だったら、関口君、君が駅まで送ってやってくれ賜え」
「何で僕が!?」
「善いじゃないか。どうせ君も仕事が無くて、暇を持て余しているんだろう」
 暇は暇だが、仕事が無くては余計だ。
 僕が気分を害して黙り込んでいると、庭にのっそりと、意外な人物がやって来た。

「おい、何で表が開かねえんだ」
「旦那?」
 僕は吃驚して、俯いていた顔を上げた。
 まだ陽は高く、どう見ても仕事が終わる時間ではない。聞き込みか何かで此方まで来たのだろうか。それとも、また謹慎でも食らったのか。
「どうしたんです? こんな時間に」
 京極も、僕と同じ疑問を口にした。
「どうもこうもねえや」
 旦那は、顰めっ面で吐き捨てるようにそう云うと、縁側に上がって来た。
 行儀悪く榎さんの頭を跨ぐが、彼は善く眠っていて、目を覚まさなかった。
 旦那の声を聞けばいつもすぐ起きるのに、珍しい事もあるものだ。真逆、旦那がこの時間に此処に来るとは思っていないのかも知れない。
 旦那は座布団の上にどっかりと腰を下ろすと、京極の淹れた色のない茶を、呷るようにして飲んだ。
「本庁から捜査員が出張って来て、全部自分らで仕切ろうとしやがる。さりげなく所轄の捜査員を指揮系統から外しやがってよ。面白くないから、今日は直帰ってことで、もうフケて来たんだ」
 要するに、サボリらしい。仕事熱心な旦那が職場放棄なんて、前代未聞だ。

「その様子じゃ、それ程進展していないみたいですね」
「当たり前だ。所轄が一番地元の事情に詳しいんだ。所轄を外して捜査なんて進むもんか」
 珍しく、旦那は雄弁だった。本庁の捜査方針が、余程腹に据えかねているらしい。
「何にせよ、早く解決して欲しいものです」
「関心でもあるのか? 意外だな」
 旦那がそう云うと、京極は苦々しい顔で首を横に振った。
「違いますよ。コレです」
 彼が指差した先には、長い手足を遠慮なく伸ばして眠る、背の高い男が居た。
 だらしない寝姿だが、こんな格好でも彼は類い希なる美男子だった。瞼を閉じていても、目鼻立ちの麗しさ、華やかさは少しも損なわれる事はない。
「あんたが忙しいと、彼が退屈して僕の仕事を邪魔しに来るんですよ。本当に迷惑しているんだ。ちゃんと毎日散歩に連れて行って、運動をさせて下さい。それが出来ないなら、勝手に人の家に上がり込んだり、履き物を隠したりしないように、きちんと躾けて戴けないですかね。あんたの義務でしょう」
 履き物は冗談だと思うが、冗談を云っているにしては、京極堂の口調は厳しかった。もしかすると、本気で怒っているのかも知れない。
「いや、迷惑かけてすまねえとは思っちゃいるが……」
 旦那は困った顔で、何度か頭を掻いた。
「俺だって、警官として、一市民としても、事件の早期解決は願っているよ。でもそんな事云ったって、こればっかりはお天道様でもねえ限り、判りゃしねえ。だからと云って、こいつに首輪をつけて繋いでおく訳にもいかねえし。あんまり邪魔をするなとは、いっつも云っちゃあいるんだが……」
「…………」
 溜息が落ちて、京極はふと読んでいた本を閉じた。

「榎さんが、女の人だったら善かったですねえ」
 京極堂が突然、とんでもない事を云ったので、僕は思わず白湯を噴き出してしまった。
「小さな子供でも居れば、榎さんだっていくら旦那の仕事が忙しくたって、退屈しないでしょう」
 ああ、なる程、そう云う事か……と、僕は胸を撫で下ろした。何だか変な想像をしてしまった。
 慥かに子供が居れば、彼の事だから子供にかまけて、中野の事など忘れるだろう。彼は無類の子供好きで、特に小さければ小さい程、興味が深いようなのだ。赤ん坊は、きっと彼を夢中にさせる。
「いいね。榎さんは子供好きだし、陽気だし、美人だし、きっと女の人だったら、素敵なお母さんになったよ」
 僕が京極に賛同すると、旦那は苦々しい顔で、白湯を啜った。
「馬鹿云え。飲んだくれで、夜昼構わず寝腐っているような母親に、子育てなんか出来るもんかよ。第一、子供に馬鹿が感染(うつ)っちまう」
「慥かに、子供の教育上宜しくない気はしますがね」
 京極は、相変わらずの無表情で云った。
「でも、考えた事はありませんか? 榎さんが女の人だったら善かったって。今は華族制度も廃止されたし、お互い独身だし、男と女なら何の問題も無いのに……ってね。たった一度でも?」
「…………」
 旦那は、少しの間黙り込んだ。
 ない筈はない。元元男色の趣味があった訳ではなかろうし、旦那は男性との恋愛関係など、想定してなかったに違いないのだから。

「ねえな」
 だが、旦那は眉を寄せるようにして、事もなく云った。
「もしこいつが華族のおひいさんだったら、石屋の小倅と知り合うこともなかっただろうよ」
 どんなにお転婆で、好奇心旺盛だったとしても、慥かに戦前の教育では、身分の違う男女が知り合うことなどあり得なかっただろう。
 戦後自由恋愛の気風が出来てからも、刑事と令嬢が知り合って、恋に落ちるとは考えにくい。第一、良家の子女ならこの歳まで独身でいる訳がないのだ。
「面倒な恋愛に巻き込まれたって気持ちが、無い訳じゃねえよ。だが、こいつが俺の人生に登場しないなんて、考えられねえな。手前らも、結局はそうなんじゃねえか?」
「慥かに……」
 僕は、旦那の言葉に小さく頷いた。
 僕が高校時代、深刻な鬱状態から脱する事が出来たのも、結局はこの躁病のような先輩が居たからだ。彼の居なければ、多分今の僕もない訳で、そう云う意味では大きく僕の人生を変えた人物だと云える。
 京極は彼が居ようが居まいが、今とそれ程変わらない人生だっただろうが……と思っていると、案の定彼は、にべもなく言下に否定した。
「僕は関係ないですね。いっそ彼が女学校へ行ってくれて、そっちで婦人運動か何かで暴れてくれて、僕の人生と関わらないでくれたら、どんなに善かったかと思いますよ」
 相変わらず酷い云い草だが、女学校で暴れる榎さんを想像して、僕は少し愉快になってしまった。旦那も気を悪くする風ではなく、煙草に火を点けて小さく笑っている。
 自分で云って可笑しくなったのか、最後には京極も、薄く笑顔を見せた。



「あれ!? 何で修ちゃんが此処に居るのだ!?」
 暫くして、漸く榎さんが目を覚ました。
 まだ陽は充分高かったが、風に少し夕刻の気配がある。縁側に落ちる陽のオレンジ色が、心なしか濃くなったようだ。
「今、警察はナントカ事件の捜査でてんてこ舞いなんじゃないのか?」
「何だよ、ナントカ事件って。ちゃんと新聞読んでるのか、手前は」
 旦那の口調はぶっきらぼうだったが、何処か優しい風情があった。
「捜査本部に本庁から偉そうな捜査員が来てよ。面白くねえから勝手に帰って来たんだよ。全く、あのエリートって人種は、鼻持ちならねえにも程があらあ」
「やった! それならもう暇なんだよな! 飲みに行こう! 今すぐ飲みに行こう!」
 榎さんは、傍目にもはっきり判る程、顔を輝かせた。
「人が不愉快な目に遭ってるってえのに、手前はご機嫌だな、オイ」
「だって、こんな機会滅多に無いもの。何処に行く? 修ちゃんの好きな処でいいぞ!」
 榎さんは、起き抜けだと云うのに頗る上機嫌だった。
 今までずっと寝ていて、起きてすぐ酒か……。一体何時働いているのだろうと思うが、これでこそ榎さんと云う気もするな。
 とりあえず、矢張り彼が母親だったら、問題があり過ぎるのは間違いない。

 僕等も一緒にどうかと誘われたが、京極と二人揃ってお断り申し上げた。
 こんな時間からあの酒豪連中につき合う気は無いし、どう考えてもお邪魔だろう。案の定と云うか何と云うか、それ程強く誘いもせず、千鶴子さんが戻って来る少し前に、彼等は揃って帰って行った。
 彼女は榎さんに夕食を振る舞うつもりでいたらしく、多少残念そうにはしていたが、代わりに僕が中禅寺家の夕食によばれることになった。
 彼女が支度をしている間、僕は本に没頭する主人に相手にもされず、手持ち無沙汰に徒然の事を思い出していた。
 旦那の仕事が上手くなくて、旦那が面白くないと榎さんがご機嫌だ。昔、旧制高校の時に、そんなフレーズのある小説を読んだ気がする。
「なあ、京極。こんな話はなかったかな。あの人が悩んでいる事が、私には嬉しいとか、そう云う文章のある話」
「オスカー・ワイルドの『ナイチンゲールと薔薇』だね」
 本から顔も上げず、京極は事も無げに云った。
「『あたしにはうれしいことが、あのひとには苦痛なんだ。恋ってほんとにふしぎだもの。エメラルドより貴く、繊細なオパールよりも値打がある。真珠や柘榴石でも贖えないし、市場にだって並んでやしない。商人から買うわけにもいかないし、黄金を以てしても秤りきれない』」
 全く、どうしてこの男は、読んだ文章をいちいち覚えているのだろうと、僕は感心した。
 素直にそう云うと、高校時代に英語の講義で、コンポジットの例文に使われていたじゃないか、もう忘れたのかと、僕は彼に散散馬鹿にされる羽目に陥った。



(了)

旦那、「踊る大捜査線」の青島刑事風で。事件は別に、特定のものを想定しているわけではありません。話の都合上の捏造。
コンポジットは英作文というか、翻訳文から英語に直し、原文と照らし合わせる感じで。そんな授業、するかどうかわかりませんけども。


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