■似たもの同士■ |
東京ほど雪に弱い都市はない。 交通機関は殆ど麻痺しているし、唯一頼りになるタクシーは、スリップを恐れてのろのろ走るものだから、道は大渋滞だ。歩いた方がマシな速度とはいえ、路面が凍り付いていて三歩も行けば転倒する有様では、歩きもままならない。 本当は雪が止んだら、すかさず積もった雪をかいておくべきなのだ。そうすれば朝方どんなに冷え込んでも、歩く道くらいは確保出来る。東京の人間は、雪が凍るものだとは想像もしていないに違いない。 漸く事態の重大さに気づいた商売人が、自分の店の前だけでも雪をかこうとしているが、時既に遅しで、積もっていた雪は絶望的なまでに堅牢な氷の塊になっている。力の限りスコップを突き立てても、僅かにひびが入るだけと云う状況だ。 だが、それも昼過ぎには解消するだろう。高く昇った陽のお陰で、少しずつ道に黒いアスファルトが見え始めている。 今日、薔薇十字探偵社は休業と連絡を受けてはいたが、そんなことは直前に云われても困るのだ。今日はどうしても、依頼人に報告に行かなければならない。雪なので臨時休業しますと云って、通用する世界ではない。這ってでも行くのが商売人の誠意というものだ。探偵だって、立派な客商売だ。解っていない人間ばかりだが。 益田は、始業時間より大分遅れて、牛歩の様なタクシーを降りて神保町ビルヂングの前に立った。尤も常日頃、始業時間など有って無いようなものだが。 苦労して三階まで上り、「本日休業」の札を外し、ドアノブに手を掛けた。 が、がっちり鍵が掛かっているらしく、ノブはびくともしない。 「え、和寅さん居ないの!?」 冗談ではない。報告書も、報告用の資料も全部事務所の中だ。折角苦労して出社して来たのに、これでは仕事にならないではないか。 「誰か、誰か居ませんかー! オジサン! あー、あの人まだ寝てるだろうな……」 管理会社を訪ねるか、小石川の下屋敷を訪ねるか、どちらが早いだろうかと益田が扉の前で思案を始めた途端に、突然益田を突き落とす勢いで扉が開いた。 「うわあああああ!」 辛うじて鼻先を掠めるだけで直撃は避けたが、風圧でバランスを崩し後ろの壁に激突した。足でも踏み外していれば、階段を池田屋騒動の如く転げ落ちていただろう。危機一髪だ。 「危ないじゃないですか! 気をつけて下さいよう!」 焦って思わず文句が出たが、扉を開けた相手は益田の云うことなどまるで耳に入っていない様子だ。顔面は蒼白だし、寒さの所為ではなく全身が震えている。 寝乱れた髪は櫛も入っていないし、女物の襦袢は寝相の悪い子供みたいに、腰紐の処で漸く引っかかっているだけの状態だ。こんな格好で外に出た日には、癲狂院からの脱走だと思われて一歩も行かないうちに通報されてしまう。 「どう……」 「修ちゃんが! 死んでる!」 益田が口を開きかけた途端に、意味の解らないことを云われた。 「はああ?」 「来い!」 聞き質す暇もなく、物凄い力で腕を取られ、強引に奥へと引っ張られた。行き先は、どう見てもこの探偵の寝室だ。 「ちょ……! その部屋に這入るんですか!? 僕が!?」 探偵の私室は元元益田には用が無いが、彼が幼馴染みの刑事と懇ろになってからは、益益近寄らない様にしている。まして、この様子だと前夜はお泊まりだったに違いなく、この扉の向こうには屹度見たくもない、甘い夜の名残が……。 「うわっ、酒臭っ!」 しかし一歩足を踏み入れてみると、其処は艶っぽさとはまるで無縁だった。色気よりも眠気といった感じの、駄目なオーラが漂っている。寝穢く、自堕落で、非生産的な。 見れば、机の上に口が開いたままの酒瓶が放置されていた。飲みかけのグラスもそのままだ。全く以てだらしのない。 「朝起きたら、換気くらいして下さいよ!」 文句を云い乍ら益田が窓を開けると、彼を此処に引っ張って来た男は、心配そうにベッドに走り寄った。布団の中には見覚えのある大きな男が居て、見る限りは善く眠っているようだった。 そう云えば死んでるとか何とか、訳の解らないことを云っていたような……。 「修ちゃんが、起きないんだ! 幾ら起こしても! 僕より遅く起きることなんか滅多にないのに!」 ああ、そう云うことかと、益田はベッドに近づいた。 覗き込んで見ると、微かな寝息が聞こえる。顔色も善く、どう見ても死人ではない。 酒の残り香はするが、具合が悪そうにも見えない。寧ろ、快眠だ。 益田は木場がこんなに深く眠るのだと知って、少なからず驚いた。見かけによらず神経質だと思ったのに、今は人の気配にまるで無頓着だ。 「眠っているだけのように見えますけど……」 「でも、起きないんだ! 夕べは何もしないで寝たから、朝起きたら屹度あれをしようって約束したのに!」 「知りませんよ! てか、そんな話僕にされたって困りますよっ!」 「おや、何で皆こっちに居るんですか?」 その時、ひょっこり和寅が顔を出した。腕には風呂敷包みがあり、漆塗りの重箱が顔を覗かせている。 「下屋敷でお弁当を作って来たんですがね。そろそろお目覚めの頃かと思ったんですが、旦那はまだお寝みで? これは珍しいですね。先生が先に起きるなんて」 「和寅!」 益田が頼りにならないと見たか、探偵は益田を突き飛ばして、到着したばかりの書生に縋り付いた。 「修ちゃんが、目を覚まさない! 屹度死んでる!」 「真逆。死んじゃいませんよ先生。落ち着いて」 「でも、幾ら起こしても起きない!」 「一寸失礼しますよ」 和寅はそう云うと、眠っている木場の肩に手を掛けた。 「旦那、旦那」 声を掛けながらやや強く揺さぶると、少し眉を寄せただけで、木場はそれ以上の反応を見せなかった。続けて揺すってみても、煩瑣げに手を払い除けたが、それでも目を覚ます気配はない。 余程熟睡していると見える。仕事柄睡眠時間が少なく、眠りも浅いと聞いていたが、あれは嘘か。 「ね、起きないだろう?」 「はあ、慥かに……」 和寅は、部屋に掛かっている外国製の時計を見上げた。 「余程お疲れなんでしょうね。でも、そろそろ起きてお昼でも召し上がって戴いた方が宜しいですね」 そう云うと、和寅は益田に目配せした。 「は?」 「部屋出て、益田君」 和寅は益田の肩を押して一緒に部屋を出乍ら、ベッドの側に蹲る探偵に向かってこう云った。 「先生、一発で起きる善い方法をお教えしますよ。顔中を、嘗め回してみて下さい」 「……顔?」 背後で、探偵の間抜けた声が聞こえた。意味を反芻して確かめている様な声だ。 そして、和寅と益田が揃って部屋を出て、扉を閉めた途端に、象でも轢き殺したような野太い悲鳴が事務所中に響いた。 「……ったく、何しやがるんだ手前はよう……」 木場は、和寅の淹れた珈琲を口にし乍ら、まだ文句を云っていた。顔を洗って来はしたが、まだ気になるのだろう。新聞を広げていたが、余り目には入っていないようだ。 「今思い出しても鳥肌が立ちやがる!」 「修ちゃんが起きないからいけないんだ! 僕はずっと前に起きて、待っていたのに!」 「何を」 「起きたらあれをするって、約束しただろう?」 「はああ?」 本気で厭そうな顔をして、木場は声を荒げた。 「こんなお天道様の高い時間に、何云ってるんだ手前は! 頭怪訝しいんじゃねえのか!?」 「酷い! ちゃんと約束したじゃないか!」 「起きてその気があったらな、って話だろ。こんな時間にそんな気になるか!」 「何だそれ! 狡いぞ!」 「あー、お二人とも。そういうお話しは、二人っきりの時になさって戴けませんかね」 和寅はそう云うと、二人の間に割って入り、木場の前に風呂敷包みを広げた。重箱の蓋を開けて並べ、箸を置く。 「まあまあ、お昼でも召し上がって下さい。朝を抜いたんじゃ、さぞお腹も心細いでしょう」 「僕は要らない!」 拗ねたような声でそう云うと、探偵は不機嫌に席を立った。 「風呂に入る!」 「もう少しで埋まりますよ、先生」 「入っているうちに埋まる!」 明らかに臍を曲げた風で、探偵は態とらしく大きな跫音を立て、浴室に向かった。歩き乍ら、脱いで行くのも忘れない。和寅がその後から、落ちた衣類を拾って歩き、脱衣籠まで運んだ。とんだ殿様ぶりだ。 「じゃあ、僕ぁ仕事がありますんで……」 必要な資料を集めた益田が、残った木場に遠慮がちに声を掛けると、木場は振り返らず新聞に目を落としたまま、おう、とか何とか答えた。 「あ、私も出ます。一寸待って益田君」 和寅は、風呂敷を畳み乍ら、事務所を出ようとする益田を追いかけて来た。 「旦那、私はもう一度小石川に戻りますんで。お弁当、夜の分もありますから、済みませんがお二人で過ごしちゃ戴けませんか」 「おう、気にするな。適当にやるから。却って済まねえな」 「どういたしまして。じゃあ、お願いしますよ」 和寅はそう云うと事務所を出て、扉にまた「本日休業」の札を掛けた。 都電も省線も止まっているし、タクシーは呼ばない限りは空車など捕まりそうもない。来た時よりは多少歩きやすくなった道を恐る恐る進み乍ら、益田は考えていた。約束の時間までまだ間があるとはいえ、徒歩で行っていては間に合わないだろう。かといって、省線の駅まで行っても何時運転が再開するか判らない。 矢張り一度戻って、事務所から車を呼ぶことにしよう。この様子だとすぐに来るかどうか判らないが、寒い駅舎で運転再開を待っているよりはマシだろう。 「失礼します……」 転ばないように時間を掛けて事務所に戻り、扉を開けると今度は鍵は掛かっていなかった。 覗くと、さっきと同じように木場が背を向けてソファに座っており、何やら気になる記事でも見つけたのか、熱心に新聞に見入っている。探偵はまだ風呂から上がってはいないようだ。 益田は、読書の邪魔をしないようにそっと事務所に這入ると、電話に近づいた。 「あー……」 跫音を聞きつけたのか、木場が態とらしく咳払いをした。 「あのな、一言云っておくが……」 え、僕!? と、益田は飛び上がって、辺りを見回した。余りこの暴走刑事と、個人的に話をすることなどないのだが。 「俺は、手前とあれをするのが嫌って訳じゃねえんだ。寧ろ……その、なんだ、吝かじゃねえっつーのかな……。だけどな、手前はもう一寸情緒というか、機微みたいなもんをだな……」 「えーと……」 益田は、返答に困って意味もなく頭を掻いた。 「機微とかそういうのって、あのオジサンに解れって云っても無理なんじゃないですかねえ……」 そう云った途端に、木場がソファから飛び上がった。 恐ろしい勢いで振り返ると、物凄い形相で益田を睨んだ。慣れない者が見たら、失禁でもしそうな凶相だ。 木場は、突如読んでいた新聞を鷲掴みにすると、床に叩きつけた。 「お前かよ!!!」 そっちが勝手に間違えたんじゃないですかー、とは、流石に益田も口にしなかった。 「何だ、煩瑣いぞ。お、まだ居たのかマスカマ。と云うか、今日は休業じゃないのか。何で出て来ているのだ」 探偵は、バスローブの上から更に大きなタオルを肩に掛け、今更のようなことを云い乍ら浴室から出て来た。すっかり機嫌は直っているようだ。もしかしたら、風呂に入っている間に忘れたのかもしれないが。 「まあ、そんなことはどうでも善いが。二人で何を話していたんだ?」 「いえね、木場の旦那が先生とあれを……」 「うわああああ!」 木場はソファから飛び出して来ると、脱兎の如き勢いで二人の間に割って入った。 「何でもない! 何も話してない!」 「怪訝しいぞ、修ちゃん。何だその慌てようは。何か善からぬ話でもしていたのか?」 「してねえ! そんなこと気にするな手前は!」 「いいや、怪訝しい。絶対怪訝しい。さてはこの僕の悪口でも云っていたんだろう!」 「煩瑣い煩瑣い煩瑣い!」 流石、名前だけとはいえ探偵だ。あながち間違ってはいないな、と、益田は変なところで感心した。それにしても、本人に云う積もりだったのなら、今更照れなくてもいいのに。 「少し黙りやがれ手前!」 「ふふん」 探偵は、何やら思いついた顔で笑みを浮かべると、偉そうにふんぞり返って、腰に手を当てた。 「僕を黙らせたかったら、方法はひとつしかないぞ。修ちゃんなら、知っていると思うがな?」 「おお」 何を思ったのか、木場は人の悪い笑みを返すと、指を鳴らし始めた。 「腕ずくで来いってか? 面白え、上等じゃねえか。力じゃ手前には負けねえぞ」 ちがーう、と、益田は心の中で叫んだ。 折角オジサンが珍しく、洒落た言い回しをしているのに……。機微が解らないのはどっちなんだ……と、益田は溜息を吐いた。 そして、タクシーを呼ぶのは諦めようと決め、そのまま今すぐにでも取っ組み合いの喧嘩でも始めそうな二人に背を向けて、扉のノブに手を掛けた。 (了) 一応前の話と続いていて、あの大雪の日の翌日ってことで…。本当は2月か3月かに発表できればよかったんですが、遅くなってしまってスミマセン。もう秋って言うか次の冬だし…。 ちょっと色っぽい話を狙っていましたが、やっぱりギャグに。次こそは…次こそは…(永遠にループ)。 |