■岡目八目■ |
まともな社会人なら、平日の昼間はおしなべて忙しい。まして、戦後復興の立て役者とも云うべき僕等のような人間は、余人の数倍忙しい。猫の手でも借りたいくらいだ。 それなのに何だ、その狐狩りにでも誘いに来たような衣装は。 壹番館で仕立てたに違いない上等な服を、まるで普段着のようにしっくりと着こなして、彼は僕の事務所の入り口に、実ににこやかな顔をして立っていた。 「こんな天気の善い日に、外に出ぬとは愚かな話だ。どうだ、今から靖国に行って、鳩を捕まえて遊ばないか?」 そんな罰当たりな真似、する訳ないだろ。 偶偶事務所に、客人の海外土産が山と積まれていたお陰で、彼の御機嫌は損なわれずに済んだ。さっきまで、僕が断ったらまず唖然とし、それからさも理不尽な目に遭ったとでも云いそうな顔で、機関銃のように文句を言い立てていたのだ。 大きく開いた口にチョコレートを放り込んでやったら、途端に善い笑顔になった。育ちが育ちなので上等な物を喰い慣れているだろうに、砂糖を塗したゼリーとか、ウィスキーボンボンとか、子供の喰うような安い菓子でも大いに悦ぶ。 勧めてもいないのに勝手にソファに座ったので、膝の上に菓子の缶を次次乗せてやったら、ショートブレッドだけ投げ返して寄越した。事務所の女の子がジャムを落とした紅茶を出してやって、それで漸く温順しくなった。 何が珍しいのか、全部の缶を開けて、ひとつひとつ味見をしている。来てものの五分も経たないというのに、もう事務所の中は玩具箱をひっくり返したような有様だ。この後に来客の予定がなくて、本当に善かった。 仕事をし乍ら様子を見ていると、彼は長々とソファに身を横たえて、鼻歌を歌ったり菓子を転がして遊んだり、暫くは楽しそうにしていた。 そのうちうつらうつらしてくるだろうと思っていたが、どうも眠そうな様子もない。中野の古本屋の処では、起きていた例しがないと云う話なのだが……。 「まだ、終わらない?」 彼は僕が見ているのに気づくと、顔を上げてそう云った。 「終わらないし、鳩も捕まえないよ、エヅ」 そう云うと、何やら唸りながら、つまらなさそうに顔を背けた。 退屈しているのは本当だろう。だが、ただ退屈なだけなら、まず中野に行って眠っている筈だ。犬や猫の居る処が好きなのだ。そうしないのは、きっと僕に、何か話があるに違いない。 「何かあった? エヅ」 そう聞くと、彼はまたちらりと僕を見て、目を逸らせた。 「別に」 別に、と云う顔じゃないな。 しょうがない。僕はペンを置くと、溜息を吐いてその場で彼に向き直った。 「お正月は熱熱だったじゃない。まだあれから、然程経ってないよ。もう冷めちゃった?」 「違うもん」 子供のような返答をして、彼は真っ直ぐ僕を見た。 「相変わらず忙しいけど、それでも前より善く寄ってくれるようになったよ。あれだって、前よりずっと沢山するようになったもの。時々、僕が吃驚するくらいに」 「……そいつは善かったね」 惚気に来たのか。それにしては、何やら腑に落ちないような顔をしているな。 「何がいけないの?」 「…………」 綺麗な眉を寄せて、彼は少し考え込んだ。云い難いと云うよりは、如何云って善いか解らない風情だ。 「儀式が……」 「は? 儀式?」 予想もしていなかったことを云われて、流石の僕も意表を突かれた。真逆、宗教に填っている訳でもあるまい。 「夜、仕事が終わってからうちに来るだろ?」 「うん」 「まず入り口で、和寅が腰の刀を預かる」 「刀? 修ッ公って帯刀してるの? いくら警官だからって危ないなあ」 「酒肴を出して、幇間が話を繋ぐ」 「益田君の事?」 「僕が六弦の三味線を弾いて、唄や踊り」 「エヅ公、踊るんだ。それは見てみたいな」 「散散呑んで騒いで、大分夜も更けてから、店の者は引っ込んで漸くお床入り」 「三千世界の烏を殺し、って?」 「うちは何だ? 遊郭か?」 さしずめ、榎木津楼ってところか? そうすれば確実に彼が臍を曲げるだろうと解ってはいたが、僕は我慢出来ずに机に突っ伏して、涙を流して笑った。声を立てないようにするのが精一杯だ。 慥かにあの四角四面の下駄男は、商売女しか知らず、まともな恋愛の経験が無い。人間、自分の知っていることしかやりようがないのだ。素人相手にこんな不手際を披露していても、多分本人は何が問題なのか、露程も気づいてはいないだろう。 「許してやんなよ、エヅ。悪気は無いんだから」 「そんな事は、知ってる」 軽く頬を膨らませて、彼はそっぽを向いた。今怒っているのは、多分僕が笑った事に対してだ。 話は簡単だ。何をしているかを筋を立ててきちんと説明してやる。馬鹿じゃないんだから、それですぐに気づくだろうし、恥じ入って改めもするだろう。だが、そう簡単に済ますのも癪なのかも知れない。 僕は、彼の処へ歩いて行って、肩を小突いて起き上がらせた。ソファの空いた処に腰を下ろして、眼鏡の奥からまじまじとその端正な顔を見た。 長い睫毛。伏し目がちにしていると、何かもっと高尚な悩みに打ち沈んでいるように見えるから不思議だ。憂いに満ちた横顔は、一幅の絵画みたいに綺麗だ。 「じゃあ、そんな頓痴気は懲らしめてやればいい」 「え?」 そう云うと、彼は目を丸くして僕を見た。 「どうやって?」 「儀式の邪魔をして、困らせてやればいい。行ってみたら誰も居ない。下僕が何時までも帰らない。エヅが先に寝て居て何をしても起きない」 「それで?」 「まあ、一月でもお床入りを出来なくしてご覧。そのうち何か変だと思うだろうさ」 「…………」 そう云った悪戯を、彼は悦ぶかと思った。だが、何か意外なような顔をして、彼は瞬きもせずに僕を見るばかりだ。 「如何したの?」 「僕は……」 真逆、この話でこんなに困った顔をされるとは思わなかった。 彼はうっすらと眉を寄せて、当惑したような顔で僕に云った。 「善く解らない。そう云う駆け引きのような事は、した事がないんだ」 今度はこっちが驚く番だった。 善く考えれば、それも至極当然だ。彼には今迄、そんな真似をする必要が無かったのだ。まともな恋愛経験が無いのはこちらも同じだ。色事に長けているのと、恋愛巧者とはまた別だ。 彼が恋を得た時の話は、もう何度も聞いた。それだって、手練手管では無く、ただ情熱のなせる業だったのだと思う。大体彼に、そんな小器用な真似が出来る筈がない。 「喜久ちゃんが云ったような事を、僕は巧くやりおおせるだろうか?」 あまりに真剣な顔をして此方を見るものだから、薄い色の瞳に自分の顔が映っているのまで見えた。 吸い込まれそうな目だ。修ッ公も明るい処で、もっとこの瞳を見つめれば善いのに。そうすれば自分がどんなに幸運で、どんなに愚かなのか解るだろう。 「御免御免」 僕はそう云うと、宥めるように彼の頭を叩いた。 柔らかな綿毛のような毛先が、指の動きに合わせて飛び跳ねた。 「嘘だよ。何にもしなくて善いよ。心配ない。ああ云う堅い男だから、色色時間の掛かる事もあるだろうけど、少しずつ、自然に変わっていくから。エヅは何にもしなくて善いんだよ」 「そうなの?」 「そうだよ。もう少し待ってご覧。きっと向こうが変わるから」 確乎りと頷いてやると、彼は首を傾げて少し考えてから、完爾と笑った。 これで善い。端から見ている方が善く解る事もある。この恋愛に強い影響を受けて、より善く変わっているのは明らかに向こうの方だ。 結局その日は、仕事は中断せざるを得なかった。 彼が僕の手を引き、立ち上がらせ、奢るから寿司政で抓もうと云ったのだ。まだ時間が早いから、多分その前に鳩を捕まえる事になるだろう。 僕は引きずられるように事務所を出乍ら、どうか罰が当たりませんようにと、英霊に向かって真剣に祈った。 (了) 寿司政というのは行ったことないんですが、靖国の近くで古くからやっている店…と思って検索したら、ここがヒットしました。宮内庁に出前もしているらしいです。榎さんにはピッタリ…。ランチは1800円からやっているらしいので、一回行ってみたいです。 壹番館は銀座の老舗テーラー。ここか高橋というところが有名みたいですが、壹番館の方が名前がそれらしかったので。自分的には、テーラーと言えば英國屋だと思っていましたが…。 靖国は鳩がみんな白いので有名。榎さんが捕まえて遊んでいたら絵になるかなと思って<きっと怒られます。 これとセットで、榎さんがほんのちょっと溜飲を下げる話を、次回書きたいと思います。気長に(オイ)お待ち下さい。 |