■温泉行・その後■ |
「そ、それは本当の話なのかい。旦那と榎さんが、そ、その、や、や……」 「関口君!」 頭の天辺まで真っ赤になった猿君が何やら下世話な表現をしそうになった気配を感じて、京極堂は恐ろしい形相でそれを阻止した。 「仮にも君は文壇の人間だ。筆の力で糊口をしのぐ輩(ともがら)だ。文学的で、詩的な表現をし賜え。少しでも不愉快な表現をしてみろ。この猛猫を君にけしかける」 主人に善く懐いている忠実な獣は、主人の言葉に反応して、シャーと鳴いて関君を威嚇した。 良く出来た下僕だ。猫だと思っていたが、案外京極の式神なのかもしれない。 如何云い繕ったところで内容は同じなのだが、関君は脂汗を流し乍ら苦悶していた。仮にも文士の端くれなどと、余計なプレッシャーをかけるものだから、殊更言葉が出なくなっている。 全く、意地悪な男だ。此処は神である僕が、哀れな下下の民に救いの手をさしのべるべきではないだろうか。 「やった、でいいじゃないか。じゃなければ、寝た」 「榎さんは黙っていて下さい!!!」 しかし僕の親切心は、語気荒く蹴散らされた。当事者がそれでいいと云っているのに、何故無関係の人間に却下されねばならないのだ。 「あ……愛し合った……?」 「わははははははは!」 タイミング良く関君がギャグを繰り出すものだから、僕は畳に倒れてのたうち回った。 「睦み合った……」 「それは公滋さんのパクリ。オリジナリティを出して!」 「情を交わした……」 「……う……ん、まあ、今までで一番マシか……」 それから関君が合格するまで、実に半時もかかり、僕はすっかり寝入ってしまった。 漸く終わった気配を感じて起き上がると、関君の手には幾筋かの線条痕が出来ていた。襲撃は避けられなかった模様だ。一体何を云ったのだろうか。 「で、本当の話なの? それは……」 やや疲れた顔で、恐る恐る関君は僕に聞いた。今になっても、まだ半信半疑と云った風情だ。 「少少信じ難いんだけど……。あの難しそうな旦那をどうやって……」 「聞きたいかい? 君達がそんなに聞きたいと云うなら、話してやるに吝かではないよ?」 「聞きたいとは云ってないよ。寧ろ聞きたくないよ」 「どうせ、泣き落としか何かに決まってます」 僕の得意満面な様子が気に入らなかったらしく、京極が僕らの会話に口を挟んできた。 豪く断定的な口調だ。見ていたとでも云うつもりか。 「旦那が情に厚く、同情的な性質なのを利用したのに決まってますよ。この人は、いざとなったらどんな手でも使いますからね。嘘泣きぐらい平気の平左ですよ」 「嘘じゃないぞ。一瞬振られたと思った時は、本当に悲しかったんだ」 「えー! じゃあ泣き落としって部分は、合ってる訳!?」 猿君は、何だか素っ頓狂な叫び声を上げた。 「そうは云うけどね、関口君」 京極は、豪く真面目な表情になって関君の方を見た。 「こと旦那に限っては、泣き落としは有効かつ効果的な手段だよ。例えば君だって、その手を使えば充分旦那を落とすのは可能だ」 「ええ!? ぼ、僕は旦那の前で泣く理由なんかないよ!」 やけに真っ青な顔になって、関君は云った。 何を想像してそんなに嫌な顔色になっているのか。恋愛関係の当事者を目の前にして、その相手を愚弄した態度を取るとは、失礼も甚だしい。 「いくらでも捏造出来るじゃないか。例えば、そうだな……。先の戦争で命を助けて貰って以来、ずっと貴方のことを想っていたとか……。結婚して、忘れようとしたがどうしても忘れられない、近頃は妻も薄薄感じてきたのか、どうも夫婦仲がよろしくない。貴方の所為だ、僕は一体どうしたら……と云って泣いて縋ってみてご覧。もしかしたら、旦那はほだされるかもしれないよ」 「悪い冗談はやめてよ京極堂!」 「猿君の家の夫婦仲が悪いのは、修ちゃんの所為じゃないだろう」 「悪くないよ! と云うか、今のは喩え話なんだから、榎さんは真に受けないでよ!」 関君は、もう泣きそうだ。 僕なら関君が泣いて縋ろうが如何しようが知ったことではないが、慥かに木場修は一寸困るだろうな。困った顔をするだろう。深い溜息をつくだろう。そして、厭厭猿君の夫婦仲を取り持つよう奔走するだろう。 それでも、もしどうしても駄目だったらどうするかな……。関君を見捨てたり、突き放すことはしないかもしれない。尤も、夫婦仲が本当に修復不可能でなければ実現しない話だが。 「一寸、試してみないか関口君」 京極堂は、やけに熱心だ。 「案外善い話かもしれないぞ。旦那は聞き上手だから、君のような失語症の人間の話でもじっくり聞いてくれるし、頼り甲斐があるから、情緒不安定な人間は側に居るだけで癒されるだろう」 「変だよ。何でそんなに熱心に薦めるんだい」 「榎さん程度でも落とせたぐらいだから、君だって出来る筈なんだ。僕の仮説を証明してくれ」 「何云ってるんだよ!」 「僕程度ってどう云うことだよ!」 二人で一緒に叫んだものだから、会話が重なって、その後一瞬嫌な沈黙が落ちた。 「冗談はともかく……」 僕は、ひとつ小さな咳払いをした。 「修ちゃんに色目を使うような真似をしたら、刺すから」 「しないよ! と云うか、本当に刺すよこの人! 怖いよ!」 木場修よりはつき合いが短いとは云え、京極堂も関君も、僕の人となりは能く解っているらしい。関君は、青黒い厭な顔色になって、必死で首を横に振った。 それにしても、木場修を巡って僕と関君が刃傷沙汰を起こすと云うのは、あり得ないが一寸面白そうだ。 元華族の名探偵、幻想文学の作家を刺す。原因は、同性の愛人を巡っての痴情の縺れ……。マスコミが放っておかないな。 「刃傷沙汰か……」 うっかり笑顔で口に出して云ってしまったものだから、また関君が大騒ぎだ。 「うっとりしてるよこの人! 怖いよ!」 「波瀾万丈、大好きですからねえ……」 諦めたような、京極堂の溜息がひとつ。 なんだ、僕のことを能く解っているのは木場修だけだと思っていたが、案外そうでもないかもしれないな。 「でもまあ、正直なところ、旅行から帰って来て、あんたは雰囲気変わりましたね」 京極は、僕を見てそう云った。 「変わった? どう?」 「艶っぽくなったと云うのか……」 僕は、京極の言葉に笑みを返した。 彼にそう見えると云うなら、そうなんだろう。僕に隙が出来たと云うことだ。余裕が出来たと云うべきか。 以前なら、僕にとって同性は許容範囲外だと思われていただろうが、男の情人がいるのなら、少なくとも全く以て圏外と云うことはなかろうと、誰でも考えるだろう。 触れても落ちそうにない花には、誰も色気は感じない。色とか艶とかと云うのはつまり、可能性の有無なのだ。 「僕も男にとって、性の対象になったってことだな」 「う、うわー……」 関君は、魂が消えそうな程脱力した声を出した。失敬な奴だな。温厚な僕でも、流石に気分を害するぞ。 「いくら対象だって云っても、君達にはさせないから安心し賜え」 「大金積まれたって御免ですね」 京極が、膝に置いた本に視線を戻して、淡淡と云った。失敬の二乗だ。 「ふん。どうせ君達は、細君とだって盆と正月にしかいたしていないのではないか。年二回のお勤めだって厭厭やっているのだから、それ以上はいくら僕が魅力的だからって、体力的にきつかろうな」 「何で知ってるの!?」 関君が、語るに落ちる発言をした。 「品のない想像はしないで下さい。と云うか、うちでそんな下品な話題はお断りです。これ以上続けるなら、石榴をけしかけます」 式神は、またシャーっと鳴いて僕らを威嚇した。 「おいおい、外まで聞こえるぜ。千鶴子さんが居たらどうするんだよ」 その時、木場修が顔を出した。 千鶴さんが京都に帰って居ないことを知っているから、話題が率直だった訳だが。流石にご婦人に聞かせるには差し障りがある。 「何が聞こえたんですか」 「年二回が如何とか……」 木場修は、京極と話し乍ら、ごく自然に僕の隣に腰を下ろした。 一瞬、吃驚して僕は固まった。木場修は、特別な仲であれば殊更、外では距離を置こうとするタイプだと思っていたからだ。 僕が馬鹿みたいにポカンと口を開けていると、木場修は僕の寝乱れた髪を掻き回して、「よう、元気だったか」と優しい声で云った。 知らない人が見たら仲が悪いのではないかと疑われる程、喧嘩腰のことの方が多かった。こんな風に人前で、優しげに、愛おしげに、頭を撫でられるなんてことがあろうとは、想像したこともない。 僕も驚いたが、京極も関君も驚いたとみえて、二人揃って接接(まじまじ)と木場修の顔を見た。 「何だよ、その顔は?」 木場修は、鼻白んだように、太い眉を寄せた。厳つい顔が、益益硬くなる。 「いや、今、榎さんから旅行の話を聞いていたんですが……」 流石の京極堂も、弱弱しい口調だ。世の中に不思議なことなど何もないと云い放つ、常時(いつも)の不遜さがなりを潜めている。 「旦那はその……隠すとは云わないまでも、外では否定も肯定もしないんじゃないかと、その……」 「馬鹿。俺がそんな半端な真似をするかよ」 木場修は、不愉快そうな顔で云った。 「今度のこたぁ、こいつと所帯を持つぐらいの覚悟でしたこった。隠し立てや誤魔化しごとなんぞするつもりなら、最初(はな)っからしてねえよ」 ああ、何と云うことだろう。 こんなにも、自分の選択を言祝ぐことになろうとは。 僕は、間違わない。こんなにも、こんなにも、僕は正しい。 何か軽口を叩こうと思ったが言葉が出ず、あの日の月のように、木場修の四角い輪郭が、不意にぼやけて見えた。 「もう日は落ちました。足下にお気をつけて……」 珍しく、京極が玄関先まで見送りに出てきてくれた。 暗くて道の先が能く見えない。光量が落ちる夜は、この坂は僕には真闇になる。 「邪魔したな」 「…………」 「手前も何か云えよ」 木場修に促されたが、何も云えずに僕はただ、殊勝に頭を下げただけだった。 玄関先の灯りで、関君が驚いた顔をしているのが朦朧(ぼんやり)と見えた。僕が頭を下げたことが、余程珍しかったのだろう。 黙ったまま、僕らは緩慢(ゆっくり)と坂を下った。黙っているつもりはなかったのだが、僕はさっきからずっと、言葉がつかえて出なくなっていたのだ。 「手前ももうトシなんじゃねえかあ?」 僕を気遣い緩い歩調で歩き乍ら、木場修は云った。 「涙腺緩くなっちまってよ。餓鬼の頃だって泣いてるとこなんぞ見たことねえのに……」 照れ隠しなのか、僕より僅かに先を歩く。 漸く、しゃくり上げるような声が出た。 「なあ……。所帯持つって……」 「は? ああ、ありゃ、物の喩えだよ」 振り返らず、殊更大きな声で、木場修は云った。 「じゃあ、一緒に住んだりはしないんだ……」 「俺と手前は、適当に距離があるところで善いんだよ」 何だ、つまらない。嬉しかったのに……。僕らが一緒に住んで、何処がいけないのだろう? 「でも、あれはするんだろう?」 「あれ? あれって……あ」 顔は見えなかったが、赤くなった気配は判った。 人前では堂堂としているくせに、逆に僕の前で照れると云うのは如何云う精神構造なんだろう。 木場修が僕を知る程には、僕は木場修を知らない。きっと、これから沢山の発見があるだろう。いくつもいくつも、僕の知らない木場修があるだろう。 妙に楽しくなって、僕は揶うような口調で云った。 「今度何時する?」 「何時って、手前……」 実は、旅行から帰ってから、会ったのは今日が初めてだ。あれから半月は経っている。 「あ、ああ云うのは、そう度度するもんじゃねえ。偶にするから、善いんだよ……」 「ふうん」 僕は、わざと興醒めしたような声を出した。 「善かったんだ?」 「手前はなあ! つまんねえこと喋ってないで、ちゃっちゃと歩けってんだ!」 まるで人を恫喝するような大声を上げて、木場修は僕の手を引くと、強引に歩を速めた。 坂の半ば過ぎまで転げるように歩き、突然木場修は足を止めた。 前にのめりそうになって、木場修の肩にぶつかって漸く止まると、握る手が花が綻ぶように緩慢と緩んだ。 強ばっていた指が開き、僕の指と絡まり、躊躇いがちに、だが確乎りと握り直される。 僕は薄い目でその動きを追っていて、木場修の顔がすぐ側まで近づいていたことを、直前まで気づかなかった。 (了) 前回の続き……というか、オマケ。旦那、男前ってことで。 |