■幸福の哲学■
 益田龍一がその年明けて初めて、出勤のために職場への階段を上って行くと、三階のどん詰まりのドアの処に、仰々しい貼り紙があるのが見えた。
 長い前髪を掻き上げ、目を眇めて見上げると、中中の達筆でこう書いてある。

「毎度お引き立て戴き有り難う御座います。当薔薇十字探偵社の新年の業務は、まことに勝手乍ら八日よりとさせて戴きます。
 本年度も、旧年と変わらぬご愛顧の程、宜しくお願い申し上げます」

「はあ!?」

 寝耳に水だ。
 昨年の暮れ慥かに、新年は五日からと聞いた。だから四日まで実家でのんびりして、今朝は早く出て此処まで直行したのだ。
 大体、五日までだって休み過ぎだ。世間の初荷は二日だし、三が日も過ぎればこの神保町も休んでいる店などない。下のテーラーも、会計事務所も、とっくに仕事始めを迎えている。靖国通りのビヤホールだけは、何故か六日まで休みなのだが、それは例外中の例外だ。
 それに、自分に連絡が無かったのも気に入らない。最初に云ってくれれば、朝早く出ることもなかったし、重い荷物を持ったまま無駄足を踏むこともなかったのに。
 益田は妙に頭に来て乱暴にノブを回したが、ドアには鍵が掛かっていた。扉は駄々っ子のように身を震わせただけで、頑として開かない。
「誰も居ないんですかー? おーい! 先生、寅吉さーん!」
 磨りガラスにひびも入ろうかと云う勢いで、ガンガンと扉を叩いたが、一向に反応がない。
 かつて、この事務所で鍵が掛かっていたことなど一度もなかったので、益田は無駄に動揺した。
 昼間鍵を掛けないのは、常に寅吉が居るからだ。と云うことは、本当に今、この事務所には誰も居ないと云うことだろうか。
 榎木津邸で何か不測の事態でも起こったのだろうか。昨年逢った時の元子爵は、迚も病後とは思えない程元気で、急変しそうな様子は微塵も感じられなかったのだが。
 ドアに耳を当てて中の様子を窺ってみたが、人の気配はしなかった。尤も、探偵が一人で奥の部屋で寝ていたとしたら、此処まで気配は届かない訳だが。
 よくよく見ると、貼り紙の下の方に、小さな字で何か書いてあった。

「益田君、急な事なので、連絡が取れなくて御免。善かったら、鳥口君の処でお昼でも一緒にしないか。待ってるよ」

 署名は無かったが、真逆榎木津が鳥口と二人で自分を待っている筈がない。寅吉の筆だろうと、益田は判断した。
 人の気も知らず、如何にも泰然とした様子で腹は立つが、少なくとも危急の事態ではなさそうだ。
 唯々諾々と指示に従うのは業腹だったが、矢張り事情を説明して貰う必要があると考え、益田は踵を返し、今来た階段をまた下りた。
 荷物を一度下宿に置きに帰り、少し時間を潰して、昼を目指して鳥口の下宿である中華料理屋へと足を向けた。



「益田君、此処此処!」
 顔を出すと、寅吉と鳥口が、真っ昼間から奥のテーブルに陣取り、上機嫌で酒を飲んでいた。他にもちらほらと客は居たが、この席が一番騒々しい。
 見れば彼等の他に誰も、こんな時間から聞こし召している者は居ない。周りは食事が終われば仕事に戻る人達ばかりで、この行状は云いようもなく不埒である。
「どうしたんですか? 仕事はいいんですか?」
 普段真面目に働いているとも云い難いのに、人が遊んでいると何かむかっ腹が立つような気がして、益田は不機嫌に声を荒げた。
 しかしまあまあと調子良く宥められて、無理矢理椅子に端座らせられ、抵抗する間もなくコップを握らされ、安っぽい冷や酒を注がれた。
 中華料理店ではあるが大陸の酒ではなく、明らかに混ぜ物だらけの安い日本酒だ。
「明けましておめでとう!」
 きっとさっきから何度もこの乾杯をしているに違いないが、彼等は大きな声で唱和すると、益田のコップに自分たちの物を重ね合わせて、また豪快に呷った。
「鳥口さん、雑誌の方は善いんですか」
「大丈夫大丈夫。うちはホラ、不定期だから。仕事始めも仕事終わりも、盆も正月も無いから」
 鳥口はそう云うと、益田の肩を親しげに叩いた。
「でも、そっちも休みで嬉しいなあ。世間で遊んでいるのは、僕だけだと思ってたのに。青木君も呼ぼうと思ったんだけど、向こうは年末年始は書き入れ時でね。もう、正月からこっち、退屈で退屈で……」
「そうだ、どうなってるんですか、八日って……」
 益田は、寅吉の方を向いて詰め寄った。
「聞いてないですよ。鍵まで掛かってるし。事務所、誰も居ないんですか?」
「そうそう、ソレなんだけど」
 寅吉は明らかに酔っている風体で、半眼になって益田を睨み付けた。
「八日まで、何人たりとも愛の園には立ち入るべからず、だよ」
「愛の園ォ?」
 益益、訳が解らない。

「木場の旦那がね、今先生のお部屋にご連泊中なんで」
 ああ、とか何とか、益田は呻くような声を上げた。
 あの二人がわりない仲だと云うことは知っていたし、そのことで揶ったこともあるのだが、実際そんな現場を目撃した訳でもなく、正直然程実感がない。
 だから、泊まっただの寝ただのと云う話が出ると、今でも軽く違和感を覚えてしまうのだ。想像が、中中追いつかない。
 あの乱暴で意地悪で、綺麗で不遜なオジサンと、あのヤクザか警察かはっきりしない、怖い怖いオジサンが。
 それ以前にも、木場が飲みに来てそのまま酔い潰れて泊まっていくことはあったが、その頃と今と、何処がどう違うのか。
 深い仲になった後も、特別来る頻度が増した訳でもない。慥かに、何日も続けて泊まり、人払いまでするのは尋常ではないが……。
「旦那もそんなおつもりじゃなかったみたいなんだけど、急に七日の夜まで泊まるって話になって、もう先生がね、大はしゃぎで。お邪魔をしたら、私ら馬に蹴られてあの世行きだよ」
 随分人気のない愛の園もあったものだ。
 真逆あんな朝っぱらから、鍵を掛けて営んでいた訳でもあるまい。実際、人の気配など微塵も無かったのだが。
「誰も居なかったみたいだけど?」
「旦那はお仕事に行かれたんだと思うよ。先生はお出かけじゃないとしたら、奥でお寝みだったんじゃないかな」
「え、木場さん仕事行ってるんですか。じゃあ別に、事務所開けてもいいんじゃないですか?」
 益田は、ふとそう思って口にした。
 探偵が寝ていて、客の応対をしないのは常時(いつも)の事だ。昼間木場が居ないのなら、探偵社の仕事に別に支障はない筈だが……。
「そりゃあまあ、理屈ではそうなんだけどねえ。あの忙しい旦那が続けて泊まるなんて、滅多にないことだからね。先生は一時でも惜しいんだと思うよ。旦那がお帰りになった時に、僕等がまだ仕事してたら、追い出す暇も惜しいって云うか」
「そうなんですかねえ……」
 益田は、何と云っていいか解らず、コップの縁を小さく嘗めた。
 探偵は、今朝あの時、部屋に居たのだろうか。居たとしたら、鍵を掛け世俗を閉め出し、甘い夢に浸っていたのか。それとも、目を覚まして夜までの時を数えていたのか……。

「それにしても、そんなに喜んでいるんだったら、木場さんも仕事くらい、休んであげたらいいのに……。今、そんなに大きな事件って抱えてないでしょ?」
 慥かに、事件がないから鳥口も暇な訳だが、彼は手酌で冷や酒を注ぎ乍ら、そんな事を云った。
 寅吉が、尤もらしい顔でそれに答える。
「よく判らないんですが、休みは元旦に取って、ご実家にいらっしゃったみたいですよ。元旦に休んじゃったら、後は取れなかったんじゃないかなあ」
「それでもさ……」
「仕方ないですよ、先生は日がな一日恋をしているけど、旦那は仕事が第一で、仕事が終わってからでないと恋が始まらないもの」
 益田は、それを聞いて無言で頷いた。
 あの二人にある温度差は、益田にも解る気がした。木場はきっと、彼にしては榎木津の気持ちを最大限に汲んでいると思う。だが、それでもあの探偵には足りないだろう。
 榎木津が悪い訳ではない。彼は純粋で、浮世離れしていて、ほんの少し普通と違うだけだ。木場は誠実だとは思うが、多分、ごく普通の男なのだ。
 あの変わり者の探偵や古書肆と対等につき合えると云うことは、彼も矢張り変人の一種には違いないし、益田らの普通とは普通のレベルが違うだろうが、それでも、榎木津と同じ恋愛は出来ないのだろうと思う。
 尤も、では誰があの探偵と同じなのかと云うと、そんな人間は居ないし、また木場以外に手に負える案件ではない気はするのだが……。
「何だか……」
 益田は、ぼそりと呟いた。
「オジサン、一寸可哀想ですよね」
「益田君」
 寅吉が、怖い目をして云った。
「間違ってもソレ、先生の耳に入れたら駄目だよ。君みたいな三下に同情されたなんて知ったら、先生は屈辱のあまり自殺しちゃうよ。いや、逆か。君、殺されるよ」
「三下ってなんですか! と云うか、同情とか云うんじゃないですよ!」
「犬でも飼ったらどうかな?」
 突然鳥口が、そんな事を云ったので、益田と寅吉は揃って目を見開いた。

「は?」
「要するに、退屈しているからいけないんだよ。だから、関心が全部恋人に向いちゃってるんだ。本当はちゃんと仕事するのが一番なんだけど、榎木津さんには無理そうだし。手間のかかる犬でも飼って、忙しく世話をしていたら、少しバランスが取れると思うんだよね」
「なる程ねえ」
 寅吉は、大袈裟に頷いた。
「そりゃ、名案かも。昔から、犬は一匹で飼うより、多頭飼いした方がいいって云いますもんね」
「ん?」
 益田は、首を傾げた。
「犬を何匹も飼うんですか?」
「何でだよ。一匹で充分だよ」
 だって今……。
「犬の話をしてるんですよね?」
「犬の話だよ」
 寅吉は、平然とした顔で云った。そこそこにしか酔っていないように見えるが、実はもうへべれけなのか。
 深く追求しても、寅吉本人が何を云ったか解っていない可能性もあるので、益田は小さく溜息をついて、その場は流した。


「でもさあ」
 鳥口は、気怠げに頬杖をついて、云った。
「端であれこれ云っても、実は見当違いかも知れないよ。僕らにはアンバランスに見えても、本当はあれで釣り合いが取れているのかもしれないし……」
「そうですねえ」
 益田も、同じように頬杖をついて答えた。
 慥かに刑事が仕事も放り出して構ってくれれば、あの探偵は嬉しいかもしれないが、だからと云って今不満で、不幸だとは限らない。
 むしろ足りないくらいのギリギリの処で、幸福を最大限に感じるバランスを取っているのかも知れないのだ。
 冷めない恋を。一生の間続く恋愛を。
 そのバランスの妙は、きっと当事者でなければ、知ることはないのだ。

 そう云えば、あの冷淡だった探偵が、近頃はほんの少しだけ、下僕にも優しい時がある。人は自分が幸福でない時は、他人に優しくは出来ないものなのだ。
「つまり、『衣食足りて礼節を知る』ってことですね」
「?? 何がつまりなんだい?」
 寅吉と鳥口は、益田の言葉に、二人揃って大きく首を傾げた。



(了)

のちほど細かく直すかもしれませんが、暫定版ということで…。
一応松の内シリーズはこれで終了です。この先本編の方で、正月早々何か事件に巻き込まれて、東京にいない人など出てくるかもしれませんが、その時は様子を見て、書き直すかそのままバックレるか判断します。

ところで益田くんの下宿ってどこでしたっけ…。実家は神奈川でいいのかしら…。本当にもう、暫定版もいいところです。


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