■プロポオズ■
 久久に、神保町の巫山戯た名前の事務所に顔を出すと、中は大変な騒ぎになっていた。
「ああっ、旦那、旦那! いい所に! うちの先生を止めてやって下さいよう!」
 俺の顔を見た途端、和寅が泣きそうな声で訴えてきた。

 躁病の発作を起こしたらしいあの馬鹿は、まだ漸く首が座ったばかりの赤ん坊を頭上に持ち上げて、奇声を上げながら事務所内を走り回っているところだった。
 その後を、返して下さい返して下さいと、薄幸そうな女が気弱く訴えながら、オロオロとついて回っている。
 その後ろをまた、和寅が必死で追いかけていると云う体だ。椰子の木の周りで、もうすぐバターになっちまう虎のようだ。一体これは、何の祭なんだ。

 とっくに礼二郎を止めるのを諦めて、隅の方に避難していた益田の説明によると、珍しくこの探偵事務所に依頼人が来たのはいいが、運の悪いことに子供を連れて来てしまったらしい。
 こいつの性癖を知らずに来たのは気の毒だが、少しでも評判を聞いていたら、まず仕事を依頼しようなんて気にならない筈だ。
 なまじ探偵事務所なんて看板を出しているから、罪もない市井の人間が騙されて被害に遭うのだ。こんなものを放置しておくのは第一級の犯罪だな。行政が看板を下ろすよう、指導する事は出来ないものだろうか。

「あはははは! 何て可愛いのだ! 素晴らしい! 最高だ!」
 礼二郎はテンションが上がり過ぎていて、子供に対する注意が疎かになっているように見えた。和寅ではないが、いい加減止めないと子供の命が危ない。
 この騒ぎでも目を覚まさないとはかなり根性が座っている餓鬼だとは思うが、いくら根性があっても、流石にあの高さから落ちたらひとたまりもないだろう。
 俺は徐(おもむろ)に礼二郎に近づくと、後ろから抱き取って頭上の子供を素早く奪った。
「ああっ、何をするんだ馬鹿!」
「馬鹿は手前だ! 落としたらどうするつもりなんだ、この無責任男!」
 子供を益田に渡すと、益田は目にも止まらぬ早業でそれを親に返した。頼りなさそうに見えるが、あれでなかなか手際が善い。
 礼二郎が子供を取り返そうと暴れるので、俺はそのまま暫く、奴を羽交い締めにしておかなければならなかった。
「すみませんね、奥さん、今日はもう帰った方がよろしいですよ。うちの先生、一寸病気が出ちゃいましてね。お話でしたら、後日私の方がきっちり伺いますんで……。いや、申し訳ありません、本当に」
 益田は何度も頭を下げながら、奇特な依頼人をそそくさと外へ追い出した。
「あああ〜……」
 礼二郎はあからさまに気落ちした顔をして、俺の腕の中でうなだれた。


 子供のように不貞腐れて、礼二郎は事務所のソファに丸まっている。激しい躁状態の、反動がきているようだ。
「ほら、先生、珈琲いれましたよ」
「いらない」
「冷めちまいますよ」
「いらない!」
「ああ、俺が貰うわ」
 礼二郎の機嫌を取ろうと和寅がいれてきた珈琲を、俺が横から手を伸ばして取った。
「和寅、修ちゃんなんかに何も出すことはないぞ!」
 何を逆恨みしたものか、礼二郎はそう叫ぶと、突然飛び起きて俺から珈琲を奪い、一気に飲み干した。
「熱っ!」
 そして、お約束のように口を押さえてへたり込む。
「手前な……」
 俺は呆れて、もう物も云えない。

「そんなに赤ん坊が好きなら、結婚でもなんでもして、自分で作ればいいじゃないか。何も余所様の赤ん坊を奪うような真似しなくったってなあ……」
「馬鹿だな、修ちゃんは!」
 礼二郎はそう叫ぶと、急に元気になってソファの上に立ち上がった。そして、演説でもするみたいに両手を広げると、偉そうに反っくり返って云った。
「余所の子供だからいいのだ! 自分の子供だったら、大きくなって髭が生えて可愛くなくなっても、一生面倒を見なければならないんだぞ! 余所の子供だったら、可愛い時だけ可愛がれば善いのだ!」
 自分が面倒を見るつもりでいるとは恐れ入る。どう考えても、礼二郎の方が自分の子供に面倒を見て貰うの間違いだろう。
 そう思うと、益益こいつが子供を持つのは妙案に思える。
 そういやこいつは、自分の老後のことなど考えたことがあるのだろうか。こんな迷惑な年寄りは、身内に責任を持って管理してもらわなければ困る。
 何処からかよく出来た嫁でも貰ってきて、少しは落ち着いてくれないだろうか。その嫁がこいつより長生きだったら、云うことはないのだが。

「あー……何だな、子供はともかくよ。手前には一生手前の面倒を見てくれる人間ってのが、必要なんじゃないのか?」
「……え?」
 しかし軽い気持ちでそう云った途端、礼二郎の奴が固まった。
 見ると、和寅も益田も、目を丸くして黙り込んでいる。何なんだ? この雰囲気は。

「ど、どう云う話の流れで、突如(いきなり)プロポオズなんかするんだ修ちゃん」
「してねえよこのウスラトンカチ!」
 何でそんな話になるんだ、馬鹿!

「旦那が先生の面倒を見てくれたら、此方としても願ってもないことで! 助かります」
「僕ァ、先生が落ち着いてくれるなら何でもいいです」
 しかも、下僕達まで馬鹿なことを云い出すし。
「下らねえ冗談はいい加減にしろよ、手前ら……」
「いーえ、本気ですよう」
 下僕達は、双子のように顔を並べて、同時に首を振った。表情が真剣なことから、日頃から厄介払いをする先を探していることが窺われる。
「みんながそんなに祝福してくれるとは思わなかった。有り難う」
 礼二郎は礼二郎で、勝手に下僕たちと握手など交わしているし。
「と云う訳で、僕はOKだ修ちゃん」
「どう云う訳なんだよ!」
 もう、怒る気も失せてきた。

 その日は前祝いだ何だのと、普段は同席しない下僕達まで交えて、明け方までどんちゃん騒ぎだった。
 ベロベロに泥酔して、事務所で折り重なるようにして目を覚ましたあと、昨日のことを覚えているのは案の定俺だけだった。
 そんなことだろうと思ったよ……。



(了)

単なるギャグです。
飲み始める前からすでに酔っていた可能性大。というかナチュラルハイ。下僕までもが。


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