■静けき夜■ |
犯罪に盆も正月も無く、むしろ警察はこの時期書き入れ時だ。 家族のある者はそれでも持ち回りで休みを取るが、俺にような独り身は、夜勤が回ってくるから常よりも忙しい。 奉職以来、正月を家で過ごした記憶がないが、何故か今年は無理矢理休みを取らされた。親の病や伊豆の騒動が、未だに気遣われているのかも知れない。 大晦日の晩はまだ職人も残っていて、大勢で出前の蕎麦を喰った。天麩羅をあてに酒が進み、思いの外賑やかな夜になった。 除夜の鐘を聞いてから職人達は家に戻り、家族だけで白山神社まで初詣に行った。覚束ない足取りの親父を介けて、深深と冷える石畳を歩いた。 振る舞いの屠蘇を飲み、破魔矢を購い、信心深い母親にお祓いまで受けさせられた。鬱陶しいが、孝行と思い忍んで従った。 道すがら義弟ともよく話した。妹の結婚以来一年は同居していた筈なのだが、何故かこの義弟とは親しく話した記憶がなく、こんなに話が弾むとは思ってもいなかった。 戻ってからもまた酒を酌み交わし、夜もかなり更けてから、気持ち好く眠りに就いた。 翌朝、起きると枕元に覚えのない羽織が用意されていた。 母親は親父のお古を仕立て直した物だと云うが、どう見ても新しい。今この家に、新品を誂える余裕はない筈だが……。 訝しく思い乍ら雑煮などを喰っていると、昼過ぎに年輩の夫婦者が年始にやって来た。近所の人だと云う話だが、俺には面識がなかった。 年始の挨拶は元旦を避けるのが普通で、この日に来るのは珍しい。だが家族と雖も、俺が家を出た後、俺の知らない処で、俺の与り知らぬ変化もあるだろう。それは伊豆の騒動で、厭と云う程思い知った筈なのだ。 親に勧められて、彼らは居間に上がって来た。夫婦だけかと思ったら、その後ろに居るか居ないか判らぬ程の温順しい娘が居て、俯き乍ら親の後に従って来た。 地味だが、ご面相は悪くもない。振り袖ではないが、きちんと髪も結い、品の善い晴れ着に身を包んでいる。此処に来て漸く俺は、羽織を着させられた意味を悟った。 今まで一度も、話すら持って来たことがなかったのに。うちはそんなことはしない家なのだと、ずっと思い込んでいた。 それ程、年を取ると心弱るものなのだろうか。そんなにも伊豆の騒ぎが、老いた身に堪えているのか。 「修太郎さんは、警察にお勤めなんですってね」 「近頃は物騒な事件が多いから、さぞお忙しくて難儀をなさっているでしょう」 人の善さそうな夫婦が、にこやかに俺に話しかけてきて、俺は顔が苦くなるのを誤魔化そうとするあまり、猪口ばかりを何度も嘗める羽目になった。 何を云っても話をそっちに持って行かれそうで、ろくに受け答えも出来ない。曖昧に頷くのが精一杯だ。 「愛想のない息子で、申し訳ありませんねえ」 母親はそう云うと、肘で俺を小突いた。 「此方のお嬢さんはね、一昨年旦那さんを亡くされて、ご実家にお戻りになっているのよ」 母親が、何やら得意顔で俺にその女を紹介した。 「もう喪もあけたことだし。どうだい、お前、この人をお参りに連れて行ってあげたら」 「いや、俺は初詣はもう……」 「ご迷惑ですから、小母さん」 女は小さな声で、そう云った。 「あたしのような出戻りと一緒に歩いたら、みっともなくて、恥ずかしいでしょう」 「何を云うの。こんな唐変木には、勿体ない別嬪さんじゃないか。こら、修太郎、お前って子は気の利かない……」 雲行きが急速に怪しくなってきて、俺は周章て席を立つと、作業場に避難した。 裸電球の薄い灯りの下で、古くから居る石工が鑿を振るっていた。 「留さん。元旦から仕事かい」 そう声をかけると、老石工は横目で俺を見て、つまらなそうな顔でまた作業に戻った。 「家に居ても、やることもねェんでな。仕事でもしてた方が余ッ程マシだ。おめえもそうなんじゃねェのか、修ッ公よゥ」 「違いねえ」 笑い乍ら、俺は袂から煙草を出して火を点けた。 煙を胸に吸い込むと、ようやく清清とした気持ちになった。 「あっちはいいのかよ」 目で居間を示されて、俺は小さく首を振った。 「いや、驚いたな。真逆うちの親が、あんな人並みのことをするたァ思わなかった……」 「どうなんだい、おめえは。ちッともその気はねェのかい」 「俺は……」 どう云ったものか迷って、俺は裾を捲って職人の側に腰を下ろした。 「二親には申し訳ねえとは思っているんだよ。何時までも落ち着かねえんじゃ、心配もするだろうさ。だけど、俺はもう一生の連れ合いは決めてあるんだ。籍も入れられねえ、子供も作れねえ相手だが、決めちまったんだから仕様がねえ。なのに、あんなことされちゃあ、俺も遣る瀬ねえよ……」 老石工は、手を止めて胡乱な目で俺を見た。 「何だそりゃァ。訳の解らねェことを云いやがって。真逆、余所様のお内儀に手ェ出しやがったんじゃねェだろうな」 「ああ、人妻の方が幾分マシかもな……」 俺は、薄く煙を吐き乍らそう云った。 石工の吐く煙と俺の煙が、赤っぽい裸電球の光の中を、ゆらゆらと並んで立ちのぼる。 あれが人妻だったらな。さぞや切ない恋愛が出来ただろう。あれが夢見るように、手に手を取って桜上水に身を沈めることもあるかも知れない。尤も俺は、情死なんざ真っ平御免だが。 「おめえが親不孝なのは今に始まったこっちゃねえや。世間様に迷惑さえ掛けなけりゃ、別に構うこたァねェだろう」 老石工は、ぼそりと案外鷹揚なことを云って、短くなった煙草を揉み消した。 「大丈夫か」 そう訊かれて、何が大丈夫なんだろうかと思い乍ら、それでも俺は大丈夫だと答えて、小さく笑った。 「籍が入れられねえから、役立たずだが扶養家族にもなりゃしねえ。何の保障もねえし、財産を作ったところで、俺が死んでも遺せなきゃ、遺族年金も出やしねえ。金も何も、ひとっつも意味がねえ。俺が生きて、一緒に居なくちゃ何にもしてやれねえンだ」 「そうかい」 興味も無いような素振りで、石工はそう云うとまた鑿を持った。 石を削る音が、作業場の薄灯りに淋しく響く。 「それなら、大丈夫だ」 矢っ張り話は解らなかったが、慰められているような気はした。 おめえにはきっと似合いなんだろう。精精大事にしてやンなと、石工はそう云って、それからもう口をきかなくなった。 結局二日まで実家に居て、三日目から職場に戻った。 その夜、あれも実家に戻っているだろうと思い乍ら、帰りに神保町に寄ってみると、ビルの窓に灯りが点いているのが見えた。 薄暗い階段を上ってドアを開けると、部屋のソファで、探偵が深く眠り込んでいた。 何時から換気をしていないのか、部屋の中は少し息苦しかった。頭が痛くなりそうで、俺は周章て窓を開け、空気を入れ換えた。 「おい」 肩を揺すると、探偵は眩しそうに薄目を開けた。 空き瓶が無造作に転がっていて、相当聞こし召した様子に見えた。 強いアルコール臭がする。開いた瓶から無駄に蒸発した分も、部屋の空気に含まれているだろう。 「風邪引くぞ。和寅はどうした?」 「親元に戻ってるさ。下僕だって正月は休みだ。常識だろう」 「奉公人の休みは藪入りだけだよ。まだ早い」 「そうか?」 目を擦って、訝しそうに辺りを見回す。まだあまり頭がはっきりしていないようだった。 「手前は実家に戻らなかったのか?」 「今年はうちは何もしないのだ。お前が来ると騒がしいから、顔を出すなとおもうさまが云った」 不機嫌にそう云ったが、矢っ張りまだ寝惚けているらしく、子供言葉になっているのに気づいていない。母親のことはともかく、人に父親の話をする時は、常時(いつも)はもっと大人ぶった話し方をしていた筈だ。 榎木津子爵が本当にそう云ったかどうか判らないが、本当だとしたら身体のことで逆に子供に気遣いをしているのだろう。礼二郎と違って和寅は真に受ける訳にもいかず、お屋敷の手伝いに行っているのだと思われる。 賑々しい新年の行事などは行われない運びなのかもしれないが、それでも古い家では何かと決まり事があって忙しい筈だ。本当は、何を云われても顔を出しておいた方がいい。もう三日も過ぎてしまって、今更云っても詮方ない話だが……。 俺は、溜息をついてグラスを出してくると、酒の残った瓶を探し出して、手酌で注いだ。 床を見ると、まだ口の開いていない瓶も何本か転がっていた。 「つまみはないのか?」 「和寅が何か、台所に置いて行った」 云われて台所を覗くと、綺麗に詰めた、二段ばかりの重箱が置いてあった。手をつけた様子はなかった。 俺が常時、暮れから正月にかけては夜勤が続くから、待っていたのだろうかと思う。真逆、実家に戻らないとは思わなかった。約束をすれば善かったのだろうか。 何か云ってやりたかったが言葉にならず、俺はただ黙って重箱をテーブルに運んだ。 「明けましておめでとう」 そう云うと、探偵は薄く笑った。 「何だ、今頃」 だがあれのグラスにも酒を注いでやると、戯けた仕草でそれを取って、打ち合わせてきた。 「おめでとう」 高らかなグラスの音が、静かな室内に響いた。 まだ町は動いておらず、たまさか通る車の音が、遠くから微かに響いてくる。あれの淋しげな、何処か安堵したような小さな溜息すら、俺の耳に強く残った。 「修ちゃんは、正月はどうしてたんだ?」 重箱をつつき乍ら酒を飲んでいると、機嫌の善くなってきた礼二郎は、楽しそうな顔で訊いた。 「珍しくこの時期に休みが取れたんでな。実家に顔を出してきたよ」 「そうか。百合ちゃんは元気だったか?」 「ああ。おふくろも親父も元気だよ」 「それは善かった」 礼二郎は、何が可笑しいのかクスクス笑い乍ら、水のような勢いでグラスを重ねている。明らかに度を超しているが、俺は止めなかった。明日も仕事だが、此処から出勤すれば良いだろう。 「そう云えば、元旦に見合いをさせられそうになってなあ」 「見合い?」 興味があるのか、礼二郎は目を輝かせて俺を覗き込んできた。 「突如(いきなり)知り合いの娘とか云うのを連れて来たんだよ。吃驚したなあ」 「それで、どうしたの?」 「どうもしないさ。逃げて来た」 「何だ」 やけにがっかりした顔で、礼二郎は云った。何かあるのを期待していた訳でもあるまいに。でも解らないな。こいつは、揉め事が迚も好きなんだ。 「小父さんも、きっと病気をしてから心細いんだよ」 まともなことを云って、礼二郎はまたグラスを傾けた。 「時々、顔を見せてやればいいのに」 「そんな暇はねえよ。仕事は忙しいし、偶の休みは手前と一緒だ。家に寄る暇なんかありゃしねえ」 「僕に逢う前でも逢った後でも、いくらでも寄れるじゃないか。白山通りを真っ直ぐ行ったら、すぐ修ちゃんの家だ」 「え?」 俺は、驚いて礼二郎の顔を見た。 「知らなかったのか? 此処から小石川は近いぞ」 思わず窓の外を見ようと、腰を上げかけた。 常時神保町から直接来ていたから気づかなかった。駿河台下を上ればお茶の水だ。古本屋街の九段寄りから白山通りを上れば……。慥かに小石川だ。 「真逆……」 そう云うと、礼二郎は小さく笑った。 「東京の刑事が、東京の地理に疎いとは笑い物だな。警察官だと云うのに、そんなことでは道案内も出来ないぞ」 一瞬、呆然としてしまった。そんなことがあるだろうか。そんな……。 「手前……。どうして神保町にビルを建てようと思ったんだ?」 そう訊くと、礼二郎は考え込むようにして首を傾げた。 「『ランチョン』があるからに決まっているだろう?」 ランチョンと云うのは、明治通りにあるビヤホールだ。本郷からも遠くないので、礼二郎は帝大時代によく此処まで繰り出して、この老舗のビヤホールでジョッキを傾けたり、山の上ホテルのラウンジで飲んだりしていたようだ。 古本屋街だし、学生時代に馴染みのあった街には違いない。でも礼二郎はきっと、俺が小石川を出て、小金井なんぞに行くとは、思ってもいなかった筈だ。 「嘘だろう?」 そう云うと、礼二郎は涼しい顔でグラスを呷った。 「嘘じゃないぞ。この辺で黒ビールを置いているのは、彼処だけだ」 澄ました顔が、憎らしい程可愛く見えた。歳の所為か酒の所為か、何でもないのに不意に泣けてくる気がする。 「そうか……。じゃあ、店が開いたら黒ビールでも飲みに行くか」 「七日からだ。それまで、泊まって行け」 礼二郎はそう云うと、フラフラと頭を揺らし乍ら俺の膝に乗ってきて、犬のように丸まると、その儘また眠り込んでしまった。 奥のベッドに運ぼうかと思ったが、俺も酒が回ってきたのか、面倒になってきた。ストーブの側を離れるのも厭で、膝の上の温もりを撫で乍ら、グラスを重ねた。 とうに初荷の車も出て、街は動き始めている筈なのに、その夜辺りは何処も静かで、まるでこの世に二人きりのように思われた。 (了) 学生時代、神保町から白山通りを上って水道橋を通り、丸ノ内線の後楽園駅までよく歩いたので、自分的には近いような気がするんですが、どうなんでしょう…。 「ランチョン」の当時のメニューに黒ビールがあったかどうかは不明な上、他に出している店があるかないかも不明です。スミマセン…。話の都合上いろいろ捏造…。 ※最寄り駅をちょっと修正。 |