■のちの物語■ |
微かに鼻を擽る、善い匂いで目が覚めた。 身を起こしてベッドから降りてみると、常時(いつも)のようにちゃんと寝間着代わりの緋襦袢を着ている。 一体何時着替えてベッドに行ったのか、爽然記憶にない。 寝室のストーブは消えていたが、乾燥しているのかやけに顔がパリパリと張る気がした。 醤油の匂いを辿って台所へ行くと、木場修が背を向けてコンロの前に立っていた。 昨日床に転がっていた筈の酒瓶は、何時の間にか綺麗に片付けられていた。 「起きたか」 僕の気配に気づき、片手に行平鍋を持ったまま振り返る。 「蕎麦しかなかったが、喰うか」 そう云って、僕の返事も聞かず丼に鍋の中身を注いだ。葱と、重箱に入っていたらしい蒲鉾がちらりと見えた。暮れに和寅が、干し蕎麦を大量に買い込んでいたから、それを見つけたんだろう。 木場修は両手に丼を持って、一つは探偵机の上に、一つは接客用のテーブルの上に置き、僕が食べ始めるのも待たず、早々に掻き込み始めた。 僕が朦朧(ぼんやり)した頭で椅子に端座り、箸を取る頃にはもう食べ終わっている。 「済まねえが、ネクタイ貸してくれ」 そう云うと、勝手に僕の寝室に這入り、箪笥を開けて物色し始めた。 「何でこんな派手なのしかないんだよ」 文句を云う声が、扉の向こうから聞こえた。 のろのろと蕎麦を啜り乍ら、僕は一体何がどうしたのか思い出そうとしていた。 酒を飲んで事務所で寝ていたのは覚えているのだが……。 木場修は来たんだっけ。ああ、慥か夜になってから来たんだ。一緒に飲んだな。正月は珍しく休みで、小石川の実家に帰ったとか何とか、そんな話をしていたな。 事務所で飲んだんだ。それは間違いない。何時着替えて、何時ベッドに行ったんだろう……。 「そんなにのんびり喰ってると、蕎麦が伸びちまうぞ」 木場修は僕の頭を軽く叩いて、玄関に向かった。 「夜は何喰う? 志乃多寿司で海苔巻でも買ってくるか?」 「助六にしてくれ。あそこの稲荷は甘くて好きなんだ」 「解った。じゃあ、神田回りで来るわ」 木場修がドアを開けた途端、僕は箸を捨てて飛び上がり、玄関に駆け寄った。 「何だ?」 袖を掴む僕を、木場修は訝しい顔で見下ろした。 「今日も……。今日も来るのか?」 「手前が七日まで居ろって云ったんじゃねえかよ。何云ってやがるんだ」 七日? 何で七日なんだ? 「弁当が付いてるぞ」 木場修は苦笑したような顔でそう云うと、屈んで僕の唇の端を嘗めた。葱か何か付いていたのだろうか。 そのまま下唇を嘗めて、僕が朦朧している数秒の間、唇を吸われた。 「じゃあな」 パタンと扉が閉まる音がして、僕は漸く我に返った。 木場修は、昨夜此処に来て、泊まったんだ。だけど何もしていない。 いくら酔っていてあまり記憶がないとはいえ、何かしていれば解る。ベッドに運んで、着替えさせたのも木場修だろう。 木場修は何処で寝たんだ。隣に居たか。何で訳が判らなくなる程飲んだりしたんだ。折角和寅も居なくて、二人きりだったのに。酔い潰れて何もしないとは、何たる不覚! 木場修も木場修だ。起こせばいいのに。起こしたくない程、僕の寝姿は可愛いのか。 苛ついて部屋の中をぐるぐると歩き回っていると、突如(いきなり)電話が鳴って、僕はその場で飛び上がった。 「何だ!?」 「何だはないでしょう。私です。寅吉です」 受話器を取ると、聞き慣れた声がした。 「年越しの晩以来ですね。ちゃんとご飯食べてましたか、先生。これからそっちに戻りますんで」 「何だと!?」 僕は吃驚して、受話器を握りしめたまま大声を上げた。向こうから、辟易した気配が伝わってくる。 「何云ってるんですか。五日から仕事始めだって仰ったのは、先生じゃないですか」 五日? 五日だって? 木場修が七日まで泊まるのに? 「冗談じゃない。帰って来るな。仕事始めは八日まで延期だ」 「それじゃ休み過ぎですよ。それに今、小石川の下屋敷におりますんで。歩いてもすぐですよ。何か要る物はありますか?」 絶望的な事を云われて、僕は細い悲鳴を上げた。 「ご実家から、お餅を貰って来ましたよ。今年は何ンにもしなかったんですが、お餅だけはお米屋さんに頼んであったんで」 僕が机に伏せって不貞腐れていると、和寅が包みを抱えて戻って来た。 「先生、まだお着替えになってないんで。正月早々だらしのない。新年ぐらいきちんとして下さいよ」 小姑のような事を云うので、恨めしい顔のまま緩緩と顔を上げると、和寅は一瞬大きく目を見開き、そのまま噎せるようにして吹き出した。 「何だ?」 「い、いや……そ、その……」 まるで瘧にでもなったみたいに、小刻みに身体を震わせて、笑いを堪えている。目には涙まで浮かんでいるではないか。 「一体何だ! 怒るぞ!」 「せ、先生、か、か、鏡……」 「鏡?」 和寅が笑ってそれ以上話せなくなってしまったので、僕は渋渋席を立って、洗面所に向かった。鏡を覗くと、鼻の頭が黒く塗ってあり、頬に猫髭が描かれていた。 一瞬、何が何だか善く解らなかったが、すぐさま顔に血が上った。し、信じられない! 信じられない! 何たる事! 「木場修ーーー!!!」 僕が絶叫すると、和寅は終に、床に転げて大爆笑を始めた。 「旦那もそんな、子供っぽい悪戯をなさるんですねえ」 必死になって顔を洗っていると、和寅が蕎麦の丼を片付け乍ら云った。 全くだ。よくこんな猫の髭を描いた顔に、真面目に接吻などしたものだ。あそこで少しでも木場修が吹き出していたら、僕も何事か気づいたのに。 すっかり騙された。とんだ役者だ。あれはもっと、判り易い馬鹿だと思っていたのに。意外に小賢しい処がある。 「お正月はずっとご一緒だったんですか?」 「いや、二日までは小石川の実家に居たそうだよ。泊まったのは昨夜が初めてだ」 和寅が手渡してくれた手拭いで顔を拭き乍ら、漸く落ち着いて、僕は答えた。 幸い墨で描いたらしく、悪戯描きはすぐに落ちた。 「じゃあ、新年は先生お一人で……」 和寅は、そう云ったかと思うと顔を曇らせた。なんだその、憐れむような目は。余計なお世話だ。 「お蕎麦も旦那ですか?」 無理に明るい笑顔を作って、話題を変えてくるのが逆に腹が立つな。まあ、怒っても埒のない事だが……。 「うん。修ちゃんが今朝作ってくれたんだ。これを僕に食べさせてから、仕事に行ったよ」 「旦那も小器用な方ですねえ。中中美味しそうなお出汁の匂いがしますよ」 「うん。美味しかった」 「お寝間着、左前になってますよ」 僕から手拭いを受け取ると、和寅は僕の前に立って、襟を取って直そうとした。 自分で着た訳ではないので、合わせがどうなっているのかなど気にもしなかったな。と云うか、着替えるなら合わせなんかどうでもいいのに。 腰紐を緩め、前を開いた途端、和寅は微妙な顔をして、俯いた。 「あの、先生……」 「何だ?」 「私に来るなって仰ったのは、もしかして今晩も旦那が……」 「そうだよ。七日まで居るんだ。何で七日なんだかよく解らないんだが……」 「そりゃあ多分、ランチョンの開店日ですね。飲む約束でもなすったんでしょう」 そそくさと、手早く寝間着を直してしまうと、和寅は完爾(にっこり)と微笑んだ。 「承知しました。お屋敷の方に戻ります」 「え?」 それは願ったり叶ったりだが、何故急にそんなことを云い出したのだろう。 「でも一寸、台所のお片づけと、お掃除をしていきますよ。晩ご飯も何か作っておきますか?」 「いい。修ちゃんが志乃多寿司を買ってきてくれるって」 「じゃあ、御御御付だけ作っておきましょう。お雑煮のお出汁も作っておきますから、明日お餅を焼いて召し上がって下さい」 「うん。そりゃあ助かるな」 何故急にそんなことを云い出したのか解らないが、和寅は手早く掃除を済ませ、料理をして昼過ぎには帰って行った。 木場修もそこそこ片付けは得意のようだが、和寅の手際の善さには敵わない。事務所は、輝くばかりに綺麗になった。 夜になるまでまだ間があるし、また酔って機会を失っては困るので、僕は酒を厳重に封印して、風呂にでも入って時間を潰すことにした。 自分で湯を張って支度をし、寝間着を脱いでいたら、ふと洗面所の鏡に映る自分の姿に、違和感を覚えた。 近づいてよくよく見ると、胸にいくつか鬱血の痕がある。 辿ってみると、それは腹から太股の内側にまで点点と下がっていた。 「…………」 なる程。和寅が変な顔をしたのはこれか。 別に構わないが、何もしていないのに何かしたように思われるのは、些か不本意な気がする。 こんな悪戯をするくらいなら、起こして抱けばいいのに。いくら酔っていても、いくら眠くても、欲してくれれば僕がどれ程嬉しいか解らないのに。 何だか気落ちしてくるようで、僕は小さく溜息をついた。 木場修は、きっと僕のことが可愛い。それは間違いないと思うけど、昔からそうだったのだし、肌を重ねるようになった今と、以前がどれ程違うのかが解らない。 狂おしい程の恋がしたいのに、これではまるで、完了してしまった物語のようだ。昔は目出度し目出度しで終わった話の、その後があるなんて思いもしなかったが、実際の話、終わった後の方が、それまでの物語よりずっと長いのだ。 死で終わる恋物語は、迚も美しい。劇的で、爽然していて、余分がなく、面倒もない。僕のような人間には、迚も善く似合うのに。 だけど、恋は二人でするものだし、僕一人で物語を綴る訳にもいかないのだ。あの無粋な四角四面男は、道ならぬ恋に狂った女優に刺されて死ぬと云う、この上もなく美しいストーリィを逃して、今度は僕と、どんな物語を組み上げるつもりなのか。 少なくとも、簡単に結末を見るつもりではないのだろう。だからきっと、急ぐ素振りさえないのだ。 鏡を見乍ら朦朧とそんな事を考えていたら、何時の間にか湯が溢れて、風呂場は大洪水になった。 (了) 神田から神保町まで歩いて行ったことはないんですが、多分西口商店街をまっすぐ抜けて行けば早いんじゃないかと…。 西口でちょっと右に曲がって靖国通りに出て、淡路町→駿河台下→神保町というルートでもそんなに時間かからないと思います。淡路町の志乃多寿司も、このルートなら通り道かと。 ※神田駅利用の理由などをちょっと追加 ところで榎木津家の下屋敷が小石川にあったかどうかは捏造なので、この辺正確なことが判明したらまた変更します。 |