■好キト云フコト■
 煙るような長い雨が、幾日も続いていた或る日のことだった。
 京極の家で不思議なものを見た。古着に包まれて眠る子犬だ。
 朽ちかけた古い木箱の底に、毛糸玉のような小さな犬が眠っていた。木箱にはご丁寧に「拾ってください」と書かれた貼り紙がしてあった。
 あまりに静かなので死んでいるのかと思ったが、よく見るとお腹が規則正しく動いている。神社に捨ててあったらしく、この雨ではと見るに見かねて、京極が連れてきたらしい。
 僕は、玩具のような小さな鼻と、小さな手足にそっと触れてみた。少し、毛色が変わっている。耳の形が、普通の犬と違うようだ。辛うじて目は開いているようだが、こんな生まれたての犬を見るのは初めてかも知れなかった。
 さわさわと、遠い波のような雨音がする。その音に、微かに子犬の寝息が被る。この家に古くから居る猫が、障子に半身を隠して此方の様子を窺っている。
 その視線の音さえも聞こえるような静けさが、仄暗い居間に落ちていた。

「今、お茶をお持ちしますね」
 千鶴さんの声がして振り返ると、木場の旦那が立っていた。
 僕は夢中になって犬を見ていたらしく、人の気配に気づかなかった。
「何だ、捨て犬か?」
 旦那は珍しそうに、僕の肩越しに木箱の中を覗き込んだ。
「捨て犬を拾うなんて、案外お優しいな、神主さん」
「この雨だから仕方がないでしょう。放っておけば死んでしまう」
 皮肉のような物云いだが、旦那の口調は優しかった。旦那は近頃、雰囲気が迚も柔らかい。世間では相変わらず鬼刑事で通っているようだから、僕らのような親しい者だけに解る変化なのかも知れない。

 旦那は家主の横に腰を下ろそうとして、その時ちらりと座卓の下を覗いた。
「榎さんなら来てませんよ」
 と、京極が云うと、
「別にあいつを探しに来たんじゃねえや」
 と、照れ隠しなのかぶっきらぼうに云った。
 あんなに長い男がこの下に入っていたら、手足か頭が必ずはみ出しているだろう。居ないと解っていても探してしまうのだから、旦那も可愛いところがある。
「適当に二三冊見繕っておきましたけど……」
「借りても善いのか?」
「調べが終わったら返してくださいよ。売り物なんですから」
 どうやら旦那は、京極に仕事の資料を借りに来たらしい。家主から本を受け取ると、難しい顔をして捲って見ている。あまり面白い本ではないようだ。
「時に、関口君」
 京極は、僕に向かって云った。
「そんなに気に入ったのなら、その犬引き取ってくれないか?」
「え! べ、別に気に入ってないよ! 生き物は苦手だし!」
 僕はそんなに熱心に、この犬を見ていただろうか。単に、珍しかっただけなのだが。慌てて、顔の前で手を横に振った。
「それにうちは、生き物を飼う余裕はないよ」
「それもそうだね」
 僕がそう云うと、実にあっさりと京極は引き下がった。もう少し何か、云わせてくれても善いのに。

「ここで飼えば善いじゃないか」
 何となく不満を感じて、僕は京極に云った。
「犬は吠えるから駄目です。読書の邪魔になる」
 猫もよく邪魔をしに来るが、それは善いらしい。
「旦那のところは……」
「無理に決まってる。下宿だぞ。それに、夜勤とかあるのに犬の世話なんか出来るか」
「ですよね……」
「榎さんのところは?」
 僕が云うと、二人は揃って剣呑な目をして、僕を見た。何もそんな、示し合わせたように見なくったって善いじゃないか。
「だ、だって……。榎さん動物好きじゃないか」
「そりゃあ好きでしょうよ。寧ろ、大好きですよ。狂おしい程に」
「なら善いじゃないか。榎さんも良い友達が出来るし、暇を持て余して此処へ読書の邪魔に来ることも少なくなるかもよ」
「慥かにそれは有り難いんですがね……」
「無理だな」
 旦那は、やけに決然とした口調で言った。
「実際世話をするのは、誰だと思ってるんだ?」
「あ……」
 僕は、思い当たって口を噤んだ。
 あの榎さんがこまめに生き物の世話なんかする訳がない。可愛がるだけ可愛がって、面倒な世話をするのは全部、あの和寅という青年だ。
「ただでさえ大きな赤ん坊の世話で大変だってえのに、その上犬の面倒まで見ろってのは、気の毒過ぎて俺には云えねえよ」
「そ……そうだよね」
 あまりに尤もなので、僕は消沈して肩を落とした。
「それにこんな小さな犬、可愛がりすぎて殺しちまう」
 好きとなったら全力で愛情を傾ける彼の性質は、僕らも充分解っている。受ける方も生半可では命の危機だ。結局、それだけの器を持つ対象は限られてくると云うことだ。

「榎さんと云えばさあ……」
 僕は、ごく最近彼に会ったことを思い出した。
「こないだ出版社に行った時に、一寸寄ったんだよ。相変わらずの様子だったけど、少しべらんめえ口調になっていて、驚いたな」
 素っ頓狂で突飛な性格だが、元華族で育ちが善いのは間違いなく、云っている内容は怪訝しくても、言葉遣いが悪いと云うことはない。それが最近になって下町の言葉を使い始めたので、僕も違和感を覚えたのだ。
 学生時代、交友の広かった彼は所謂軟派な不良ともつき合っていたが、決して悪い言葉が感染ることはなかったのに。今頃下下の口調になるのはどうした訳だろう。
「旦那の口調が感染っているんですよ」
 まあ、それはそうなんだろうと僕も思うけど……。今頃と云うのが得心がいかない。
「口調が感染ると云うことは、相手のことが好きと云うことですよ。無意識レベルでの好意の表現です」
「へえ……」
 慥かに、嫌いな人の口調を真似たいとは思わないな。
「榎さんは、余程旦那のことが好きなんだ」
「別に、映画を見て役者の口調を真似る奴だって居るだろう。好きたって、それぐらいのもんかも知れねえよ。それに、感染るならもっと早く感染ってるだろうよ」
 旦那は、照れ隠しも間に合わないのか、少し目元を赤くして怒ったように云った。
 躰も馴染んで、益益好きと云うことだろうか……と思ったが、口にするとまた下世話なことを云うと京極に怒られそうなので、僕は話を変えた。
「でも、羨ましいよ。雪絵なんか、僕の口調を真似てくれないもの」
「関口君に口調とかあったっけ?」
 二人は、また揃って訝しい顔で僕を見た。
「……鬱だとか、死にたいとか?」
「そんなこと云ってないよ! というか、それは口調じゃないよ。もし云っていたら口癖だよ!」
「そういう口癖は善くないな」
「だから、云ってないって!」
 何だか、話が変な方向に行ってしまった。

「遅くなりまして」
 千鶴さんが、旦那の分の茶を持って来た。
 僕がまだ犬の側に居るのを見て、彼女は柔らかく微笑んだ。
「関口さんが、貰ってくださるのかしら?」
「あ、否!」
 また僕は、慌てて顔の前で手を振る。
「何だか不思議な犬だなあと思って……。耳が垂れて、手足が大きくて、毛足が長い。こんな犬、見たことないですよ」
「洋犬の雑種ですよ。まだ珍しいけど、これから増えるでしょうね」
「へえ……」
 千鶴さんが、犬に詳しいとは知らなかった。
「そうなんだ。知らなかったなあ」
「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」
 彼女はそう云うと、悪戯っぽく微笑みながら、頭を下げて部屋を退出した。
 僕も、旦那も、京極も、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、彼女の後ろ姿を追ってしまった。
「…………」
「…………」
「あれって……」
「京極の口癖……だよね?」
 物真似か? 或いは、常日頃「〜なのだよ」などと彼女は云っているのか?
「結局、つまり、何だな……」
 旦那は無愛想な顔で、京極を睨みつけた。
「俺はこんな処まで来て、手前の惚気を聞かされた訳か?」
「あんたが最初に惚気たんじゃないですか!」
「惚気てねえよ!」
 京極も照れたのか、何だか目元が赤い。
 全く、この歳になって今頃、艶っぽい話題が多いと云うのは如何なものか。他人の春が、余所に感染るなんてことがあるのだろうか。
 だが情熱と幸福が感染るのは、誰しも吝かではないだろう。悪いことではない。それが、こちらにまで拡がってくれると善いのだが。

 結局、犬は後日氏子の誰かの家に引き取られたと聞いた。
 僅かの間京極の家に子犬が居たことを、誰も榎さんに話さなかったので、一瞬三人で秘密を共有したような、妙な気分になった。



(了)

犬でもうちょっと話を広げられないかと思いましたが、なんだかこぢんまりとまとまってしまいました。ガク…。

そういえば最近うちの母親が、私の口調を真似しています。今頃私のことを好きになったようです。老いては子に従え?


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