■何よりも甘い唇■
「へえ、そんなことがあったんだ」
「ええもう、そりゃあ驚きましたよ。あの旦那がねえ……」
「珍しいこともあるもんだねえ」

 僕は、賑やかな声に反応して目を覚ました。
 うっすらと片目を開けると、正面に自分の足が見える。その向こうに、盆を膝に抱えたままの和寅と、まだ春先だと云うのに、真夏みたいな派手な柄の襯衣を着た男が目に入った。
「起きたよ、ホラ」
 喜久ちゃんが、面白そうに僕を見て云う。
「わんこが『散歩』って言葉を聞いたみたいに、ピクッて耳が動いたよ」
「真逆。うちの先生は、耳は動かないですよ。その辺だけは普通なんです」
 何が可笑しいのか、二人して楽しそうに笑ってる。
 喜久ちゃんは、何時来たのだろう。全く気付かなかった。
「そんな格好で寝ていて、身体が痛くなったりしないの? エヅ」
 そう云われて、緩緩と組んでいた脚を解くと、探偵机から下ろした。下ろす時に三角錐を蹴り落としてしまったが、取りに行くのも面倒だ。

「一体警察で、何があったんだろうね」
「喧嘩をなさったとしか仰らなくて……。あんまり聞いちゃ悪いと思って、私もそれ以上は聞かなかったんですがね。余程嫌なことでもおありになったんでしょうよ。随分と凹んでいらして……」
「そうなんだ」
「ええもう、この私ですらぱっと見て解る程ですから。それで、小さい子供みたいに、一寸でも先生の姿が見えないと、礼二郎は、礼二郎はってお探しになられてね」
「そりゃあ見たかったなあ」
 どうやら、この間のことを話しているらしい。
 僕は寝ていた椅子から立ち上がると、目を擦りながら二人の側まで行った。
「和寅、僕にも珈琲」
「はいはい。只今」
 和寅が今まで座っていた場所に、入れ替わりで腰を下ろした。見慣れた金縁の眼鏡は、綺麗に磨かれて僕の顔が映るくらいに輝いている。何だか知らないけど、今日も彼は上機嫌だ。僕の機嫌は、最低最悪だと云うのに。
「まだおねむかい、エヅ。近江屋のサバランを買ってきたよ。はい、あーん」
 反射的に口を開けると、甘い菓子が飛び込んできた。シロップの強い甘みで、少し目が覚めた。

「泣いて引き留めたんだって? エヅ」
 自分も菓子を頬張りながら、喜久ちゃんは何気なく聞いてきた。
 そんな話をしてたのか。あの時、マスカマには見られただろうと思っていたが、和寅まで見ていたとは思わなかったな。
「修ちゃんは、弱いものや、可愛いものが泣くのが嫌なんだ。この場合は、僕は『可愛いもの』のカテゴリーに入る訳だけど」
「あ、矢っ張り計算だったのか」
 矢っ張りってどう云うことだよ。
 僕は、目を眇めて喜久ちゃんを睨み付けた。
「嘘泣きじゃないよ。修ちゃんのことだと、簡単に気が高ぶるんだ。わざと泣いた訳じゃない」
「でも、泣くと解ってて追いかけたんだよね」
「…………」
 喜久ちゃんがあんまりニコニコしているから、僕は不愉快になって黙り込んだ。
 そりゃあ、追いかけて詰め寄ったりしたら、きっと興奮して涙のひとつも零すとは思ったけど。それで修ちゃんが動揺するのも予想がついたけど。
「でも結局無駄だったよ。あれから半月以上も顔も見せない」
「しょうがないですよ。意外な大事件になっちゃいましたからね」
 和寅が、僕の前に珈琲を置きながらそう云った。
 あの時、一人の娼婦の行きずり殺人だったものは、その後大量の連続殺人に変わった。警察を揶揄する手紙が送られ、彼らはメンツを賭けて犯人を挙げなければならなくなったのだ。
 地方からも応援の警察官が呼ばれ、今東京は警察官だらけだ。大変なのは解っている。どれだけ僕の涙にほだされても、抜け出す暇もないだろう。多分、暫く自分の布団で眠ってもいない筈だ。
 僕に容疑者を見せてくれれば、幾らでも犯人を当ててやるのに。証拠がなきゃ逮捕も出来ないから、捜査が混乱するだけ余計だと云われるだろうけど。
「まあ、向こうは忙しく働いているからいいけどさ……」
 喜久ちゃんは、珈琲を口に運び乍らそう云った。
「あんまり間が空くと、エヅ公が辛いよね。独り寝は侘びしいよ」
「あ、艶っぽいお話ですか?」
 和寅が顔色変えて、後ずさった。
「そう云うお話でしたら、私席を外させて戴きますが」
「じゃあ、お芋買ってきて」
 喜久ちゃんは、訳の解らないことを云った。
「なるべく沢山ね」

 和寅が買い物に出て、喜久ちゃんと二人だけになると、一旦会話が途切れた。
 そう云えば、マスカマはまた外回りなのだろうか。今日は喜久ちゃんは、何を売りに来たんだろう。
「何も逃げることはないのにね」
 和寅が去った扉を見ながら、喜久ちゃんは可笑しそうに云った。
 昔の芸者がらみの武勇伝などは和寅も喜んで聞いていたが、相手が修ちゃんの時の話は聞きたがらない。顔を合わせたこともない芸者の話など幾ら聞いても平気だが、知っている人の話はばつが悪いのだろう。マスカマはそう云うのは平気だが、何故かあいつに話すと、損をしたような気がする。
「半月も空いて平気?」
「僕とつき合う前はねえ……」
 窓の外に視線を向けると、無駄に善い天気だった。
「赤線に行くのも、二ヶ月に一度くらいだったんだって」
「そりゃまた、見かけに似合わず淡泊だねえ。お金がないからかな?」
「それもあるけど。でも、本当に必要だったら工面してでも行くよ。それで平気だってことだよ」
「まあでも、それは生理的な話だろ。気持ちは違うじゃない」
 喜久ちゃんは、キスでもしそうな程顔を近づけて、そう云った。
「遠慮も我慢もする必要がないんだから、向こうも会いたいって思ってる筈だよ」
 じゃあ、どうして電話一本も寄越さないんだ。忙しくて会いに来られないのは解る。でも、電話する暇くらいはあるだろう。
 僕が鼻に皺を寄せると、喜久ちゃんはその鼻の先を指でつついた。
「向こうが来られないなら、自分から会いに行けばいいじゃん。温順しく待ってるって約束した訳でもないんだろ? それこそ、柄じゃないよ」
 何が云いたいんだろう。
 僕が訝しい顔をすると、喜久ちゃんはまた、完爾と笑った。善い笑顔だけど、何を考えているのか解らない。
「……喜久ちゃんは、今日は何しに来たの?」
「エヅ公が中野に行く理由と一緒だよう」
 ……退屈ってこと? 警察はあんなに忙しいのに、僕の周りだけは暇人で一杯だ。


 制服を着た警官が麻布署の中へ入ろうとしていたので、「豆腐頭の下駄男を出せ」と云ったら、頻りに首を捻り乍ら中に消えたが、程なくして本当に木場修が出て来た。
「やっぱり! 此処でも下駄男で通じるんだ!」
 驚いて指を指すと、修ちゃんは怒った顔で僕の頭を叩いた。
「この馬鹿野郎! 入り口で頭の怪訝しい男が、豆腐がどうとか下駄がどうとか云っている……って云われりゃ、嫌でも解る!」
「焦ったか?」
「何が面白いんだ、手前は!」
 大声で怒鳴り乍ら僕の襟首を掴んだ木場修は、しかし窓と云う窓から同僚の顔が覗いているのを見て、慌てて僕を建物の横の路地裏へ連れ込んだ。
「……ったく……」
 独りでぶつぶつ文句を云っているが、本気で怒っている風ではない。
「何しに来たんだ、この忙しいのに」
 そう云い乍ら、草臥れた背広のポケットから煙草を出して、燐寸で火を点けた。微かに硫黄の匂いがして、役目を終えた小さな棒が靴の先に落ちる。
 半月前、和寅が綺麗にブラシをかけた背広は、暫く見ない間にもう元の木阿弥になっていた。
 木場修が息を吸い込むと、ふわりと辺りは明るくなった。こんな小さな火でも、街灯の明かりも届かない中では、とても目立つ。
「これ」
 手に持っていた包みを手渡すと、彼は訝しい顔でそれを受け取った。
「何だ?」
「差し入れ。和寅が大学芋を作った」
「…………」
 僕が答えると、益益顔に皺が寄って来る。
「……手前が、差し入れなんて気の利いたこと考える訳はねえな。誰の入れ知恵だ? また司か?」
「入れ知恵とか云うな」
 折角の親切が、台無しじゃないか。
 だが、一寸だけでも顔を見たかったのは本当だ。こんな口実など抱きかかえて来なくても、会いに来て構わない。それくらいの仲にはなっている筈だ。だが、矢張り今夜は、こう云う物が必要な気がした。
 お前は会いたくはならないのか。せめて声だけでもと思わないのか。僕とは違うのか。半月前のあれは、何だったんだ……。
 色色、聞きたいことがあるような気がしたが、口をついて出たのは、違うことだった。
「……下宿には、帰っているのか?」
「ああ、とんぼ返りだけど……。着替えを取って、洗濯物を婆さんに渡して……。それだけだよ。ずっと、署の柔道場に蒲団敷いて、雑魚寝してる」
 溜息と共に煙を吐き乍ら、木場修は云った。その言葉には何処か後ろめたいような、仄暗いニュアンスがあった。
「もう、な、差し入れとかいいから……」
 彼は、消え入るような小さな声で云った。柄にもない弱い声だ。
「会いに来るなよ」
「どうして?」
 煙草が落ち、路地は善く顔も見えない程の暗闇になった。僅かに街灯が届くお互いの背広の肩口だけが、浮いたように見える。
 また泣くと思ったのか、無骨な指が僕の頬に伸びて来て、涙を探すように指先が頬をなぞった。
 不意に息が、頬に触れる。

「一緒に、帰りたくなるだろう……」

 何も見えないけれど、目を閉じてみた。
 唇を吸われる感触がして、濡れた舌が咥内に入り込み、僕の舌先に絡む。
 その時初めて、僕も此処へ来たことを後悔した。今、こんなに近くに居るのに、別々の場所へ行かねばならないことが、こんなに切ないとは思わなかった。この嫌な思いをしたくなくて、彼は僕の顔を見たがらないのだろうか。

 そのまま抱きしめられるのに任せていると、木場修の身体は小刻みに震え始め、暫くして堪えきれないように僕から離れた。
「……お前、つまみ食いしたな」
 細かく笑い続け乍ら、木場修は僕に、今までした中で一番甘いキスだったと云った。
 それから、近いうちに必ず休みを取るからと、耳元で約束した。お前の所為で仕事の段取りが台無しだと、憎まれ口を利くのも忘れなかったが、僕はそれを、随分と甘やかな気持ちで聞いた。



(了)

近江屋は淡路町の方の洋菓子店です。サイトの「近江屋の歴史」を見ていたら、戦後は材料不足でしばらくろくなケーキ作ってなかったみたいですが、とりあえず「昔から作っている」と書かれていた、サバランを使ってみました。
昔から作っているからって、戦後作っていたとも限らないのですが…。

大学芋は水気がないので、榎さんは嫌いかもしれないですが、とりあえず話の流れとしてつまんでみました。あー、タイトルに工夫がなかった…。残念。


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