■恋愛体質■
 当直の日の夜明け前、丁度交代で仮眠を取っている時だった。
 緊急召集があって、まだ明瞭としない頭のまま現場へ向かうと、薄汚い路地奥の空き地に、見るに耐えない死体が転がっていた。
 若い女で、服装から職業は明らかだった。下着のような裾の短いワンピースに、安物のコート。派手な化粧で、髪は染めた赤茶色。血の気の失せた肌は紙のように真っ白で、すらりと伸びた日本人離れした手足と相まって、一瞬捨てられたマネキンのように見えた。
 大きく見開かれた目は、光を映さぬ沈んだ黒で、瞬きもせずビルの隙間の四角い空を見上げている。


 その場に居たのは、所轄署の平刑事が数人だけだった。本庁の捜査員も鑑識も、まだ誰も到着してはおらず、まるで行きずりの死体に偶然出くわしたような面持ちで、若い刑事が数人、死体の周りに踞っていた。
 その光景を眺め乍ら、恐らく俺は、ほんの少しの間、ぼんやりとしていたのだろう。
 気が付くと、たった独りで離れた処に立っていた。まだ仮眠から覚めておらず、目に映る光景が夢か何かの記憶か判然としない気分だ。
 もうそろそろ夜も明ける頃だと云うのに、厚い雲に覆われて陽は遮られ、景色はモノクロオムに沈んでいる。何もかも色褪せて、古い写真のように現実感が無い。
 突然、この場に不似合いな鮮やかな赤い色が目に入った。
 誰かが、女のワンピースの裾を捲ったのだ。外国製品と思われる、派手な赤いレースの下着が目に飛び込んできた。だが暫く、その意味が解らなかった。

 下着が引き下ろされようとするに至って、漸く俺は目が覚めた。
「おい、何をしているんだ……?」
 出来るだけ穏やかに声をかけると、下着に手をかけていた男は、腑に落ちないと云う顔で振り返った。
「調べるんだよ」
「何を」
「強姦されていないかどうか」
 それから、その男は薄い笑みを浮かべると、にやけた顔で周囲に同意を求めた。
「強盗と強姦では、大違いだからな」
 そうだそうだ、よく調べろと云う野次が、何処からともなく聞こえた。
「それは鑑識の仕事だ。俺らの仕事じゃないだろう」
「初動捜査が大切なんだよ」
 巫山戯ているとしか思えない、下卑た笑い声が一斉に起こったのと同時に、俺は考える間もなく飛び出していた。
 下着に手をかけていた男は、ビルの壁にめり込みそうなほど吹っ飛び、それを合図に乱闘が始まった。本庁からの捜査員が到着する頃には、現場は取り返しのつかない事態になっていた。



「旦那、どうなすったんです、その怪我!」
 何も考えずに歩いていたら、何時の間にか神保町へ来ていた。ノックもせずにうっそりと扉を開けると、真っ先に目が合った和寅が、叫び声を上げた。
 眇目のまま事務所の中を見回すと、珍しく下僕はみな揃っていたが、探偵の姿は無かった。
「……礼二郎は?」
「まだお寝みですよ。それより、中に入って下さい。手当しますから」
 和寅に袖を引っ張られるようにソファへ連れて行かれて、無理矢理座らされた。救急箱救急箱と騒ぎ乍ら和寅が自室に消えると、益田が向かいに座って、興味深そうに俺を見た。
 目を落とすと、襯衣の胸元が血で汚れている。処分を云い渡されてからすぐ、手当も断って署を飛び出して来た。こんな有様で、善く此処まで通報されずに歩いて来られたものだ。
「また、派手にやりましたね。捕り物ですか?」
「……そんなんじゃない」
「またまた。有名ですよ、暴走刑事ってね。相変わらず血の気が多いですよね」
 云い訳のようなことを口にしかけたが、急に面倒になって、俺は黙り込んだ。
 あの時、何がそんなに腹が立ったのかも、もう思い出せない。此処へ来て、ソファに腰を下ろした途端、妙に疲れたような気分になった。いや、疲れた事を思い出したと云うべきか。
 俺は話題を変えるように、閉ざされた寝室の扉を見た。
「もう昼になるぞ。あの馬鹿は、何時まで寝てるんだ」
「毎日、こんなもんですよ」
「そんなんで、仕事になるのかよ」
「善いんですよ。暇なんだから」
 益田ではなく、和寅がそう答えて、救急箱を持って俺の横に座った。
 消毒薬を綿花に浸して、顔の傷をそっと拭く。もう乾いた筈の傷が、濡れてぴりりと痛んだ。
 思わず、小さく顔を顰めてしまった。

「先生、起こしましょうか?」
「いや、いい。一寸寄っただけなんだ」
「お忙しいんですか」
「うん……」
 何とも云えず、俺はまた顔を顰めた。
 娼婦殺しの捜査本部は立つだろうか。身元も知れない女の変死体など、きちんと扱う気があるのかどうか判らない。浮浪者や娼婦の変死など、今時珍しくもないのだ。
 どちらにしろ、それが決まる前に放り出されたから、今の俺が知る術は無い。
「実は……謹慎くらってな」
「ええ? 一体どうなすったんで?」
「同僚と喧嘩したんだよ」
「何だ、捕り物じゃないんですか」
 黙って聞いていた益田が、何が面白いのかけけけけと、鳥のような笑い声を上げた。
「どれくらいで?」
「とりあえず三日」
「じゃあ、此方にお泊まりになりますか」
「自宅待機だよ。すぐに下宿に帰らないと……」
「ああ、煩瑣い」
 突然寝室の扉が開いて、寝ぼけ眼の探偵が顔を出した。
 寝癖の付いた髪はあちこちに飛び跳ねていて、寝間着代わりの緋襦袢は、辛うじて袖が通っているだけだ。もし女性客でも来ていたら、悲鳴を上げて逃げ出しただろう。
「話し声と笑い声が煩瑣くて、ちっとも眠れない」
「丁度善かった。そのまま起きて下さいよ。もうお昼ですよ」
「うん?」
 探偵は和寅の軽口には答えず、見え難いものを見るように、目を細めて俺の顔を見た。
 それから、不愉快そうに柳眉を顰めて云った。
「何だ、その汚い死体は?」

 そう云われた途端、急に肩の力が抜けた。
 がくりと、頽れるようにソファの背に身体を預け、見るとはなしに天井を見た。汚い死体か。その通りだ。大層重い物を背負っていた気がしたが、それ以上でもそれ以下でもない。
「旦那は、お仲間と喧嘩騒ぎを起こして三日間の謹慎だそうですよ」
 救急箱を片付けながら、和寅はそう云って探偵に場所を譲った。
 礼二郎は寝乱れた格好のまま、俺の隣に腰を下ろした。まだ眠いのか、しきりに目を擦っている。
「じゃあ、うちに泊まるか」
「残念ですね、先生。自宅待機ですって」
「連絡が付けば、何処でも善いだろう。此処に居るって、電話してこけし君に云え」
「……青木はもう俺の同僚じゃねえよ」
「そうなのか?」
 不思議そうな顔で、礼二郎は俺の目を覗き込んだ。
 久しぶりに、明るい処であれの顔を見たような気がする。茶色いと思っていた瞳は、光の加減でむしろ青みがかった灰色に見えた。
 こんな、透き通るような色だったか。こんなに明るく、澄んだ色だったか。こんなに美しい……。俺は何をしている。日の射さぬ、昏い路地裏のモノクロオムばかりが、澱のように溜まる一方だ。
「どうした。疲れた顔をしているな」
 吸い込まれそうな色の瞳で、礼二郎はそう云うとますます深く俺を覗き込んできた。
 目眩がする。底まで透明な湖に、ゆっくりと沈んで行く気分だ。

「うわわわわわ!」
 奇妙な声がして、益田がソファから飛び退く気配がした。そのまま、慌てて台所へ逃げるような足音がする。
「おやおや、あれまあ!」
 カップがソーサーの上で踊る音。珈琲の香りが鼻腔を擽る。多分和寅が用意してくれたのだろう。だがこちらに届く前に、益田と一緒に台所へ引っ込んで行く。
 気が付くと、隣に座っていた男を力任せに抱きしめていた。逃げる訳でもないのに、羽交い締めにするような勢いだ。か弱い相手だったら、何処か痛めていただろう。
「どうした」
 礼二郎は驚きもせずに、自由になる手で俺の頭を撫でた。
 抵抗されないのに安堵して、漸く少し力を緩める。溜息を吐くのと同時に、脱力してずるずると頽れていった。しまいには完全に身体が倒れて、膝の上に頭を乗せる格好になった。
 堅い膝で、頭の座りが悪い。とても居心地が悪いのに、何故か動かす気にならなかった。
 事務所の窓から直接射してくる陽が眩しい。そう思っていると、長い指が俺の目を覆い隠して、日陰を作った。
「どうした」
 また、何事も無かったかのような声が、そう聞いてくる。

 何故俺は警官になどなったのだろう。理想でもあったのか。何かもっともらしい、人に誇って語れるような何かがあったか。警察が偉い訳じゃない。むしろ時に犯罪者より下らない。俺は、何を求めていたんだろう。意地を張り通す理由は。俺は、何の為に、どうして、この職業を選んだのか……。
 だが何一つ言葉にならず、俺はまた小さな溜息を吐いただけだった。熱を持った瞼に、礼二郎の冷たい指は気持ちが好かった。
「ふうん」
 笑ったような気配と共に、柔らかな声が降ってきた。
「お前は、下着の中身を見なかったな。感心感心」
「……興味ねえから……」
 何となく、照れ隠しのような口調になった。興味のあるなしが問題なのではない。
 礼二郎は、子供を褒めるみたいに俺の髪を撫でている。こんな剛毛ではさぞ手触りも悪い事だろうが、余り気にしている様子はない。
 楽しそうで、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気だ。膝から下をぶらぶらと動かすものだから、益益頭の座りが悪い。何がそんなに、ご機嫌なのだか……。
「なあ、僕がそんな死体になったらどうする?」
 覗き込むように身を屈めてきて、そんなことを聞いた。
 捨てられたマネキンみたいに、礼二郎が路地裏に倒れている姿を想像した。
 それは酷く不自然で、決してあり得ない事のように思えた。これは人知れず、独りでひっそり死ぬような事はないだろう。もし死ぬとすれば大変な騒ぎになって、俺も他の友人も世間も、きっとみんなが巻き込まれるに違いない。

「追って、死んでくれるか?」
「……冗談じゃねえ……」
 また何か、大時代的で芝居がかった、大仰な妄想でも抱いてやがるのだろうか。相変わらずだ。流行映画じゃあるまいし、人生がそんなに華やかでたまるか。
 急に馬鹿馬鹿しくなって、俺はぶっきらぼうに云った。
「誰が後追いなんぞするか」
「じゃあどうする?」
「もしお前が居なくなったら、世話焼き婆にでも頼んで、すぐに次の連れを探してもらう」
 当然だ。これはすぐに生きるの死ぬのと云うけれど、同じ事が出来る人間など滅多に居やしない。死に別れれば、違う道を生きて行くだけだ。ただ……。
「僕みたいなのは、すぐには見つからないぞ?」
「誰でも善いんだよ。美人だろうがおかめだろうが、犬だろうが猫だろうが……」
 俺は、ほっとまた溜息を吐いた。
「誰でも構やしねえが、その代わり、もう一時も独りじゃ居られねえ……」
 そう云うと、礼二郎の膝は小刻みに震えた。笑っているのだ。
「同じ意味だぞ?」
「何がだよ」
「僕が死んだら、生きちゃ居られないってのと」
「違う」
「同じだって」
「同じじゃねえよ」
 不毛な応酬が、少しの間続いた。

「いい気味だ」
 礼二郎はぴしゃりと俺の額を叩き、無理矢理話を終わらせると、矢っ張り泊まって行けと、うっとりしたような声で云った。



(了)

まあアレです。一度動物を飼ってしまうと、ペットロスには耐えられない体になってしまうと、そういう話です。身も蓋もない…。

榎さんがちょっと「いい気味」だと思うような話を書こうと思ったのですが、あまり前のとペアにはなってなかったです。考えた時はペアだった気がしたんですが、出来てみたらなんか独立した感じになってしまいました。別にどうでもいいんですけど…。


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