■ナミダ■ |
もう大分昔の話だ。 近所で飼っていた年寄りの犬が、弱って愈愈駄目だと云う夜に、何故か母親と二人だけで看取りに行った。父親も妹も居なかったように思う。 何か病気だったのか、老衰だったのか、今となっては思い出せない。 敷き詰められた古着の上に横たわる犬に、母親が「あんた、本当に死んじゃうの?」と声をかけた。 犬は弱々しく鳴き乍ら、力を振り絞るようにして母親に向かって首を上げ、ぽろぽろと涙を零したのだ。 犬も人のように涙を流すのだと、俺はその時初めて知った。 気が付くと、礼二郎のベッドに独りで眠っていた。 そう寒くもないと云うのに、頭から蒲団を被り、子供のように手足を丸めて。 西日が部屋の中を熟れた橙の色に染めていたから、多分夕刻になるのだろう。何故こんな時間に、こんな処で寝ているのか解らない。しかも独りで。 思わず自分の横を手で探ったが、人が居たような窪みも無ければ、僅かな温もりも残っていない。最初からずっと独りだったのだ。 ご丁寧に寝間着に着替えていたが、辺りを幾ら見回しても、それまで着ていた筈の背広が見当たらない。 仕方がないので、そのままの格好でおずおずと事務所の方に顔を出した。 「おや、お目覚めですか。善くお寝みでしたね」 相変わらず暇な探偵事務所に客の姿は無く、それどころか素っ頓狂な探偵も調子の善い探偵助手もおらず、書生が台所で夕飯の支度をしているだけだった。 壁を見ると見覚えのある服が、丁寧にブラシをかけられて吊されていた。だが、襯衣だけはそこにも無かった。 「血の染みが、中中取れなくて」 書生はそう云うと、包丁を持つ手を休めて俺の方を向いた。 「干してあるんですが、まだ乾かないんですよ。ご不自由でしょうけど、暫くお寝間着で居て下さい」 そう云われて、漸く襯衣を洗ってくれたことに気付いた。 「……礼二郎は?」 「それが珍しいことに、お風呂の支度をして下さっているんですよ! あれには私も吃驚しました。明日雪でも降らなければいいんですがね」 耳を峙たせると、慥かに水の流れる音がする。風呂場へ行くと、あの探偵が腕まくりをして、熱心にタイルの床を束子で擦っているところだった。 脱衣所の隅に、行方不明の襯衣が干されてあるのを見つけた。手を触れてみると、まだ少しだけ湿った感じがした。 「やっと起きたか、寝坊助め。僕のことばかり悪く云うが、お前も大概善く寝るぞ」 礼二郎は俺に気付くとそう云って、額の汗を拭い乍ら笑みを見せた。 浴槽は八割方埋まっていて、蛇口からはまだ勢い善く湯が迸り出ていた。満杯にする気なのだろうかとはらはらして見ていると、探偵は何喰わぬ顔で蛇口を閉めた。 「でも丁度善いところに来た。入るだろう?」 「……うん」 何だか変な物を見たような気がする。働いている礼二郎を見るのは、初めてではないだろうか。 「何だ、赤い目をして。怖い夢でも見たか?」 礼二郎は揶うようにそう云うと、まだ泡の残った手で俺の鼻を抓んだ。 そして、濡れた足のままで靴を履き、鼻歌を歌い乍ら事務所に戻って行った。和寅の小言を云う声が、小さく聞こえてきた。 緩慢と熱い湯に浸かり、身体の芯までふやけてから漸く上がると、外はもう暗くなっていた。 脱衣所には、アイロンがかけられて、きちんと畳まれた襯衣が出してあった。 他の服も全部用意されている。風呂に入っている間に支度をしてくれたらしい。草臥れた背広も、手入れされたのか何処かしゃんとしている。 襯衣には善く糊が効いていた。血の痕も判らないし、喧嘩で破いた部分もあったと思うのだが、上手に繕ってあって、俺はやけに申し訳ない気分になった。 どうせこの後は酒を呑んで寝てしまうだけだから、寝間着のままで構わないかと思ったものの、気遣いが嬉しくてまた袖を通した。 和室に卓袱台が設えてあり、小ぶりな七輪の上に土鍋が乗っていた。湯気が立ち、馥郁とした匂いが鼻に届くと同時に、急に空腹を自覚した。 そう云えば、朝から何も食べていないのだ。喧嘩騒ぎでそんな暇もなかったし、食べる気にもならなかった。 相変わらず事務所には誰もおらず、書生が忙しなく台所と和室を行ったり来たりしていた。 「もうすぐ出来ますから、旦那は端座っていて下さいな」 見ると、座布団は二つしか出していないし、茶碗や箸も二人分しか用意していない。常時は下僕達も一緒に卓を囲むのに、今日は違うのか。そう云えば、お調子者の探偵助手は、もう帰ってしまったのだろうか。 時計を見ると、そろそろ何処の会社も終業時間を迎える頃になっていた。 「……礼二郎は?」 「すぐ戻りますよ」 和寅は、忙しく立ち働き乍らそう云った。 「お酒を買いに行ったんです。酒屋が忙しいみたいで、すぐに配達出来ないなんて云うもんですから、先生が御自分で」 そう云っている間に、乱暴に扉が開いて、酒瓶を抱えた礼二郎が戻って来た。 「全く、この僕の用命を後回しにしようとは、善い根性だ! もう二度と、彼処と取引はしないぞ!」 賑やかなご帰還だ。文句を云い立て、地団駄を踏み、踊るように手を振り回す。抱えた一升瓶が落ちないかと、俺はひやひやした。 善く見ると、腕に抱えている他に、子供のお使いみたいに風呂敷で背中に何本も括り付けていた。一体どれくらい呑むつもりなのだろうか。 「先生を怒らせたって怖くないですよ。どうせ来週まで覚えちゃいないんですから」 「何だと! 和寅のくせに何て云い草だ!」 礼二郎を揶い乍ら、和寅は俺達に、食事を始めるように勧めた。 初めの何本かは和寅が温燗にしてくれたが、それも間に合わず途中からは冷やのままコップに注がれた。 善い酒らしくて口当たりが善く、食も進む。 鍋は常時よりやや薄い味付けで、優しい味がした。消化に良い物ばかりが、じっくりと煮込まれている。 こんなことひとつにも、細やかな気遣いを感じる。余程心配させたのだろうと思うと、また酷く申し訳ない気になった。 「俺達だけで善いのか?」 和寅にそう聞くと、彼は給仕の手を休めて云った。 「ええ、今日は小石川の下屋敷の方に行こうと思っているんです。益田君が帰ったら、一緒に水道橋の中華に寄ろうと云っていたんですが、遅いですねえ」 「あんなオロカモノを待っていることはないぞ! そうだ、鳥ちゃんを誘え! 鳥ちゃんと呑んだ方が、余っ程楽しいぞ。あんな奴は放っておけ!」 「そう云う訳にいきませんよう」 苦笑し乍ら礼二郎とそんな話をしていると、事務所の方で電話が鳴った。 「益田君かな」 まだ出ていないのにはいはいと返事をし、小走りで電話を取りに行く。小声で少し話してから、和寅は俺を呼んだ。 「旦那。警察からお電話ですよ」 何時、謹慎の間此処に居ると連絡したのだろう。それさえも覚えていない。訝しみ乍ら腰を上げ、和寅から受話器を受け取った。 電話をかけてきたのは、俺が殴ったのとは違う同僚だった。彼は怪我は如何だと一言聞いてから、簡単に用件を云った。 「悪い! この埋め合わせは必ずする!」 その場で云い立てると、事務所を飛び出し大急ぎで階段を駆け下りた。 青い顔をした礼二郎が、扉に追い縋って大きな声で俺を呼び止めた。 「一体何だ! どう云うことだ!」 「捜査本部が立ったんだ!」 その時の俺は、きっと満面に笑みを浮かべていたに違いない。礼二郎の顔が、それと反比例するように険悪になった。 「今朝の事件の、捜査本部が立ったんだ! 捜査員は全員集合だ!」 「お前は……! 自分が弱っている時だけ人に甘えに来て! 何時までも僕が甘い顔をしていると思ったら、大間違いだぞ!」 「肝に銘ずるよ!」 気がはやって、その場で足踏みを始めてしまった。それが益益礼二郎の逆鱗に触れたようだ。 「もう、二度と来るな!」 「解った。当分来ない」 「馬鹿!」 礼二郎は顔を一気に顔を赤くして、事務所を飛び出して来た。そのまま、階段を何段も踏み飛ばして俺の胸に飛び込んで来た。 あんな大男が重力も考えずに激突してきたのだから、衝撃で危うく転げ落ちるところだった。一瞬、本気で息が止まる。 辛うじて踏み留まり、何とか転落を回避した。呼吸が戻るまで、少し間があった。 「馬鹿! お前は本当に馬鹿だ!」 力任せに掴むものだから、折角の背広も襯衣も、たちどころに皺になった。 見上げる瞳は夜の所為か暗灰色で、階段の頼りない電灯を映して揺れている。今にも泣きそうな程に濡れているのが判った。 此奴が泣くのは別に珍しいことでもないが、それでも出来れば見たくない。喉の奥が熱くなるし、気持ちが乱れて落ち着かなくなる。泣かれるのは、迚も嫌だ。 きっと、礼二郎は俺がそうだと、端っから知っているのだ。 「狡い。お前は馬鹿で、その上狡い」 「それはこっちの台詞だ」 俺は、片手で礼二郎の腰を支え、空いた手で血の色が透けそうな白い頬を撫でた。 「そんな顔をするな。堪らない」 礼二郎の睫毛に涙の雫が浮かぶと同時に、煩瑣い文句を吸い込むように、唇を重ねた。 「うわわわああああああ!」 賑やかな声と共に、階段を転げ落ちる音が聞こえた。 視界の端に、階段の一番下で、みっともなく尻餅をつく青年の姿が見えた。 「見なくていいように、ずっと外回りに出てたのにー!」 不幸な探偵助手は、打った腰をさすり乍ら、ようよう立ち上がった。長い髪は乱れて落ち武者のようだし、服も転んだ所為かやけに埃っぽくなっていた。 礼二郎が俺の首をしっかり抱え込んでいて動けないので、仕方なく手を振って、上に上がるように指示した。 「……失礼します……」 小さな声でそう云うと、彼は忍び足で礼二郎の脇をすり抜け、ちらちらとこちらを振り返り事務所に戻って行った。 それから、礼二郎の気が済むまで結構な時間がかかった。下僕達は帰るに帰れず、さぞ不自由な思いをしただろう。 (了) 水道橋の中華は、なんとなく「北京亭」という店をイメージしていたのですが、いつから営業していたのか確認できなかったので、名前は出しませんでした。 もう一軒白山通りに古い中華があったように思うんですが、店名を思い出せません。汚いビルの2Fだったんですが…。 その辺確認できたら、ちょっと店名を入れて書き換えたいと思います。 犬が泣いた話はほぼ実話。うちの母親が会ってきて、「可哀想に、ピラニアで死ぬんですって」と…。ママ、それフィラリア…。 |