■神の憂鬱■
「先生、ちったあ凝乎としていて下さいよう。これじゃタイも結べやしない」
「おいおい、何だよこの騒ぎは」
 和寅が僕の礼服のタイを結ぼうと悪戦苦闘している所へ、木場修がやって来た。

「馬鹿父が、僕にナントカの授与式のパーティに出ろと云うのだ。下らないことに、主催者側は礼服を着用する義務があるのだとか」
 口を尖らせて文句を云うと、木場修は愉快そうな顔で軽口を叩いた。
「主催ねえ……。てことは、来賓をもてなす立場じゃねえか。こんなのを呼んだ日にゃ、折角の授与式だか何だかが、滅茶苦茶になっちまうだろうが」
「私も御前様に、そう申し上げたんですがねえ」
 和寅と木場修は、何が可笑しいのか二人で声を揃えて笑っている。

 ちらりと木場修の記憶を見ると、覚束ない足取りでよたよたと歩く、不格好な鳥が見えた。どう見てもあれはペンギンだ。
 この僕の礼服姿を見て、あんな愚鈍な生き物を思い出すとは、どう云う了見なのだ。

「旦那は、どう云う御用で?」
「何、偶には一緒に飲ろうかと思って来たんだが……。そう云うことなら俺は失礼するよ」

 全く、常時(いつも)忙しい忙しいと云っていて滅多に訪ねて来ないくせに、偶に来たと思ったら間が悪い。
「そう仰らずに。善かったら此処でお待ちになっちゃいかがですか。どうせうちの先生は、すぐに飽きて帰って来ちまうと思うんで」
「いや、いい。また今度にするよ」
 折角和寅が引き留めたのに、木場修は素っ気なく断った。

 その時木場修の頭に浮かんでいたのは、猫のような顔をした女だ。
 僕も知っている女だった。商売っ気のない酒場の女主人で、木場修は僕が居ないなら其処へ行こうと、彼女を思い出したのだろう。
 僕の記憶によれば、その女は猫そっくりの顔に多少の愛嬌はあるものの、特にどうと云うことのない只の年増だ。
 木場修の記憶の彼女は、何やら艶めいていて、そこそこ美しかった。




 馬鹿父はどうやら、僕がパーティで暴れるのを半ば愉しみにしていたようだが、ご期待に添えそうもない。誰が話しかけてきても不機嫌に押し黙っていたら、やがて腫れ物を避けるように周りから人がいなくなった。
 ボーイを捕まえてありったけの酒を運ばせていると、見知った顔が目に入った。

「どうしてこんな所に猿がいるんだ? わかった、余興で呼ばれているのだろう。パーティで猿回しなど、なかなか気が利いている。それにしても、親方は何処に行ったのだ?」
「酷いなあ。僕も招待客なのに……」
 猿に似た男は、おどおどと恐縮したような仕草で僕を見上げた。
 此方は礼服ではなく、何処の古着屋で買ってきたのか、身の丈に合わぬ貧相な背広姿だ。
 この男の記憶に、でっぷりとした禿頭が見えたので、僕は落胆して肩を落とした。その頭にも見覚えがあった。
 それにしてもこの男に、人並みに顔つなぎのような真似が出来るとは思わなかった。
「何だ、出版社のお偉いさんの招待か。そう云えば君も、末席とはいえ文壇の人間だものな」
「ああ、見たんだね」

 僕の力を知っているから、この男は驚きもせずに云った。
「記憶が見えると云うのは、便利なものだね」
「便利?」
 こんな猿だか人間だかわからぬような男に、神の苦悩が解ってたまるか。

「便利なものか。君には到底解らぬ深遠な苦悩だ。選ばれし者の憂鬱とでも云うのかね」
「そ、そりゃあ僕にはそんな力はないから、便利だなあぐらいにしか思わないさ。便利じゃないなら、何なんだい」
「君は頭の中身も猿並なのか。便利じゃなければ、不便なのに決まっているだろう。考えてもみろ。相手が自分に気のないことまで、判ってしまうのだぞ」
「ああ」

 漸く猿君は、合点のいった顔をした。
「そいつは大層切ないねえ、榎さん」
 したり顔で半端にわかった様なことを云うものだから、僕は無性に肚が立って、関君に飛びついて頸を絞めたところまでは覚えている。
 どうやらその時点で相当酔いが回っていたらしく、数人に羽交い締めにされて引きずられた辺りから記憶がない。



 後から聞いた所によると、馬鹿父だけは、「礼二郎を呼ぶと退屈しない」と、いたくご満悦だったと云う話だ。



(了)
初キバエノ。
なんか旦那、すっごくヘテロなイメージがあったので…。スミマセヌ…。
エノさんはこんなネガティブじゃないような。
相手が自分に気がないからって、そのようなことはノープロブレムな気がします。
ということで、次作はポジティブなカンジに路線変更いたしました。


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