■雪夜■
 その夜東京はちらちらと雪が降って、迚も肌寒かったが、事務所の中は独逸から取り寄せた石油ストオブが勢い善く燃えていて、暑い位だった。
 多分僕は、冷えたベッドに入りたくなかったに違いない。風呂上がりの襦袢姿のまま、来客用のソファに横になった。裸足の足が一寸冷たいけれど、屹度和寅が何か掛ける物を持って来てくれる。

「先生、そんな処でお寝みになっていると、風邪引きますよ」
 小言の様な台詞と共に、毛足の長い毛布が被せられた。ほら、矢っ張り。


 毛布を目の上まで手繰り寄せて深く息を吐き、少しうとうととした途端に、世界が引っ繰り返った。
 眠い目を必死にこじ開けると、目の前に草臥れた革靴と事務所の床が見えた。何故、僕の頭は下を向いているのだ?
「ああ、旦那! うちの先生は土嚢じゃないんですから、肩に担がないで下さいよ! もっとお姫様みたいに運んで下さいよ!」
「莫迦云うな。こんな長い男を抱きかかえたら、足が邪魔で戸口が潜れねえだろうが」
 懐かしい声が上から降ってくる。
 ああ、本当に懐かしい。会わなかったのは多分ほんの数日だけれど、その間電話の一本も掛かって来なかった。久し振りに聞いた声は、少し嗄れて、疲れた様な響きがあった。

「ほら、ちゃんと布団に入れ」
 ベッドに下ろす時だけは抱きかかえられたので、僕はここぞとばかりに首に抱きついた。
「冷たいからやだ」
「冷たかねえよ」
 足を入れると、慥かに温かい。布団の真ん中に、綿入れにくるんだ湯湯婆が入れてあった。
「ほら、これでも抱いてろ」
 木場修はそう云うと、僕の腕を引き剥がしてそれを抱かせ、無理矢理布団の中に押し込んだ。
 頭がすっぽり隠れてしまい、僕は息苦しさに呻き声を上げて抗議した。

「旦那、何か召し上がりますか? と云っても、大した物は残っちゃいませんが」
 和寅の声が、扉の向こうから聞こえた。
「ああ、構わねえよ。腹に入れば、何でも」
「お湯もまだ落としてませんので、お風呂も良かったら。その間に支度しますんで」
「済まねえな。じゃあ、そうさせて貰うか」
 何だ、その夫婦みたいな会話は。
 木場修の手を取ろうと伸ばした腕は、空を切った。
 久し振りに会った僕より、風呂と飯なのか。口付けの一つくらい落としても罰は当たるまいに。
 僕は何だか面白くなくて、口を尖らせたまま、また布団の中に戻った。胸に抱えた湯湯婆は、うっとりする程温かい。こんな素晴らしい物を発明したのは、一体何処の誰なんだろう。



 しんしんと降る雪の音が聞こえたような気がして、ふと目を覚ました。
 まだこの部屋は、最先端のストオブとは縁がない。暖炉も見せ掛けだけで、只の大きい火鉢の様な物なのだが、寝る時しかこの部屋には居ないので、それで充分だった。
 今も灰の中にはほんのりと橙色になった炭が数本くべられてるだけだったが、寒くはなかった。何時の間にか、肩まで布団から出している。抱きかかえていた筈の湯湯婆は行方不明だ。

 ベッドサイドの小さな洋燈(ランプ)に灯が入って、人の顔が判別出来る程には明るかった。
 木場修はサイドテーブルの処に安楽椅子を引いて来て、深く身を預け乍らグラスを傾けていた。琥珀色の液体に、洋燈の灯が映ってゆらゆらと踊った。
「……飲んでるのか?」
 そう尋くと、壁に映った影が少しだけ揺れた。
「手前の間抜け面を肴にな」
 憎まれ口は、矢張り少し疲れている様に聞こえたけれど、その分優しげだった。
 事務所の方に、人の気配は無かった。和寅ももう寝たのか、それとも小石川の下屋敷にでも行ったのか……。
「僕の顔に見惚れていると、すぐに朝になってしまうぞ」
 そう云うと、何が可笑しかったのか、木場修は小さく嗤った。だが、それ以上は何も答えて来ない。

 今、何時だろう。時計の音さえ聞こえない。常時(いつも)なら夜中になっても靖国通りを走る車の音が聞こえるのに、今は柔らかな雪の降り積もる音しかしない。
「寝るか?」
 奥の方へ身を寄せ、木場修の場所を作り乍らそう尋くと、木場修は片方だけ眉を上げた。
「……そんな気分じゃねえ」
「解ってるよ。眠れって云ってるんだ」
 すぐ厭らしい話になると云う事は、少しは頭にあったと云う事か。
 木場修はまだ中身の残ったままのグラスをテーブルの上に置いて、気怠そうに安楽椅子から身を起こし、僕の隣に潜り込んだ。脱いだ丹前を、僕の剥き出しの肩に掛けてくれる。
 木場修が躰を落ち着ける前に、浴衣の胸元に鼻先を突っ込んで匂いを嗅いだが、石鹸の匂いしかしない。足を擦り寄せると、流石に少し冷えていた。
「おい、そんな気分じゃねえって」
「湯湯婆だ」
 そう云うと、木場修は諦めたように溜息を吐いて、僕をすっぽりと胸の中に入れてくれた。
「……慥かに暖けえや」
 さっきまで熟睡していた躰は、いい塩梅に温もっている筈だ。逆に僕には、少し冷えた躰が心地良かった。


 あの事件は、僕が木場修に詰まらぬ繰り言を云ってから、ほんの数日で怒濤の様に進展し、劇的に片付いた。その分、捜査本部は目も回る程忙しかったようだが。
 風呂場で髭でも当たったのか、今は綺麗な物だが、此処に来たばかりの木場修は、どんな顔をしていたのだろう。生憎僕は酷く眠くて、善く顔も見ていなかったが。
「……忙しかったか?」
 そう尋くと、木場修は小さく欠伸を噛み殺した。
「ああ……。もう、寝る暇もなかったな」
「どれ位?」
「さあなあ……。襯衣のまま柔道場の布団に倒れ込んで、うとうととしたらもう叩き起こされて……。右に行ったり左に行ったり……」
 善く見ると、目の下にはくっきりと隈を作っていた。指で触れると、半分目を閉じたまま、煩瑣げに眉を顰めた。
「和寅は?」
「小石川の下屋敷に行くとよ。悪い事したな、こんな夜中に追い出して……。構わねえでくれって云ったんだが」
「善いんだよ、近いんだから」
「何云ってんだ、手前。東京は今夜は未曾有の大雪だぞ」
「え?」

 そう云われて窓を見たが、硝子は曇っていて何も判らない。尤も此処は三階なので、窓を開けて下でも見ない事には、何も判らなかったが。
「この分じゃ、明日出勤して来るのに難儀するぞ。あのお調子者も……」
 マスカマのことか。
 木場修は、もう完全に眼を閉じていた。眠いのに、あんな奴の出勤の心配などしなくても善さそうなものだ。
「大丈夫だ。明日うちは休みだもの。来ないよ」
「休み?」
「そうだよ」
 屹度和寅が、入り口に休業中の札を掛けてくれている。朝には連絡だってしてくれるだろう。マスカマは交通が麻痺した都内を、苦労して出勤などして来ない。たとえ連絡が無かったにしても、朝積もった雪を見れば外に出るのを諦めるだろう。
 善い時に雪になった。丁度善い時に。何もかも終わって、木場修が僕の寝床に帰って来た、丁度その時に。


「修ちゃんは、明日は休み?」
「ああ、流石にな……。交代で代休を取るから、明後日には代わらなきゃならねえが、明日一日は……」
 もう、木場修は半分寝ている。声が夢うつつだ。
「じゃあ、予約だ」
「……はあ?」
 寝惚けた様な声を出して、木場修は薄く眼を開けて、僕の顔を見た。意味が解らないという顔だ。
「明日、起きた時に気分が乗ったら、あれをしよう」
「…………」
 木場修は、難しい顔をして黙り込んだ。暫しの沈黙が落ちる。

「断るなよ」
「いや、待て、オイ……」
 そのまま、頭痛でもするみたいにこめかみを押さえた。
 そんなに困る様な事か? 芸者衆と付き合っていた時は、僕は善く云われていたが。眠っている間に帰ったら嫌よとか、起きたらもう一回しましょうよとか。赤線の女は、朝寝すらしないのだろうな。何とも刹那的だ。
「真逆予約を入れられるとはな……」
 木場修は、複雑な声でそう云った。
 断るのかと思ったら、その唇に笑みが浮かんだ。
「まあ、そいつは朝起きてみなくちゃ判らねえや」
 笑い出しそうに、肩が震えている。
 僕も愉快になって、首を伸ばして木場修の唇を吸った。木場修は厭がらず、唇が離れた時には深い溜息を吐いた。

 呼吸がゆったりと、長くなってきている。もう眠る寸前だ。その呼吸と合わせるともなく合わせていると、僕も散々眠ったにも拘わらず、また眠たくなって来た。
 雪の音が、子守歌の様に耳に響く。本当は、雪の音など存在しないだろうに。
 消し忘れた洋燈の灯も、細く弱くなって来た。部屋が仄暗くなると、窓の外の白さが善く判った。

 あの向こうで、雪が舞っている。世界が真っ白になる程の雪が。
 時が止まりますように。朝が来るのが遅くなりますように。車の音が彼を目覚めさせないよう、何時までも雪が降り積もりますように。

 胸の上に頭を乗せてそんな事を思っていると、何時の間にか不意に、僕の記憶も無くなった。



(了)

あまりに間が空いたのでなんですが、松の内→その後事件→半月放置→さらに一ヶ月近く木場さん大忙し→で、設定としては二月下旬〜三月上旬頃ですかね。一番東京で雪が降りやすい時期かなあと思って、雪の話にしてみました。暖冬の時の二月三月は、大雪になりやすいそうです。
まあ、本当は翌朝のエロいのをお読みになりたいのでは…と思いますが、本当にもう久しぶりなので、ちょっとリハビリということで、軽い感じで終わらせてみました。どうもスミマセン…。


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