滅菌灯の青い光がたくさんの試験管やフラスコを照している。
うぃぃん、うぃぃんと振盪培養槽が単調な音を響かせている。
僕はうす緑の液体のつまったフラスコを持って、様々な培地がひしめきあっている棚を眺めた。
僕のカルス細胞の居場所は?
この培養室は基本的に全て何等かの目的で誘導されたカルス細胞、すなわち分化されていない細胞ばかりが集められている。分化されていないから、ラベルに人参とあろうが人間とあろうが皆、もこもことしたはっきりしない色合いの小さな塊に見える。それぞれの遺伝子が司どる性質が表れていない不定形の生命だ。
自分のフラスコの置き場所を探して視線を泳がせていると、ふと違和感をおぼえた。その原因は棚のごく隅に隠れるように静置された小さな培養瓶だった。その中にはあきらかにカルス細胞ではない塊が浮いていた。
僕はその培養瓶を奥から出してみる。他人のものを触るのはトラブルのもとだが、この瓶はルール違反だ。瓶にはラベルがなかった。その代り、瓶の蓋にマーカーペンで第4チームのFさんの名前が走り書きしてあった。
Fさんは何を培養しているのだろう?
僕は透明な液で満たされた瓶をしげしげと見た。
薄い桃色のわずかにつやを帯びた塊。親指ほどの大きさ。動物の組織のようだ。
後で尋ねてみよう。できれば別の培養室へ移してもらおう。カルス細胞を扱う人間は多いから、少しでも場所を空けてもらいたいものだ。
僕はFさんの瓶を戻し、自分のフラスコをねじこむようにその近くに置いて培養室を出た。
しかし、その日は別の用事が入って第4チームのセクタまで足を運べなかった。帰宅時間にもなると忘れていたというのが正直なところだ。
次の日、自分のフラスコのメンテナンスのために培養室に行って、改めてFさんの培養瓶について思いだした。一体これは何の細胞なんだ?目の高さまで持上げて見てみる。
おや?昨日より塊が大きくなっているではないか。2倍くらいにはなっている。ずいぶん増殖速度が速い細胞のようだ。動物細胞ならば異例ともいえるだろう。自分の実験用のやつもこれだけどんどん増殖してくれれば楽なのだが。いやいや、それはともかくFさんに知らせなければ。
しかし、昼休みに第4チームを尋ねるとFさんは出張中だという。明日の夕方には戻ると聞いて、とりあえず自分の部署に戻ることにした。
帰宅直前に気になってもう一度、培養室に行った。
Fさんの培養瓶の中身は数時間前よりもはっきりと大きくなっていた。驚異的増殖速度。目をこらしているとじわじわと大きくなっていくように見える。さすがに気のせいか。
明朝、仕事の前に培養室に行き、Fさんの培養瓶を見て、昨日のあれが錯覚ではないことを思い知る。薄桃色の塊は拳大までの大きさにふくれ上がり、そしてはっきりと増殖を続けていた。微妙に輪郭が変わっていくその様子に僕はこわくなってきた。
Fさん、早く帰って来て下さい……。
何と無く他人には言えないまま、昼休み。食事もそこそこに培養室を見に行く。
例の細胞はさらに大きくなっていた。ソフトボールくらいの大きさはありそうだ。この調子で大きくなっていったら、夕方には瓶いっぱいになってしまうだろう。Fさんはこの事を知っているのだろうか?
17時を過ぎて第4チームを訪ねてもFさんはまだ帰ってきていなかった。戻るついでにまた、培養室に寄ってみる。塊は培養瓶よりやっとひとまわり小さいくらい。持ち上げてみると重量はあまり変っていないようだったが、瓶のガラスが不気味な温もりを持っていた。一体全体これは何なんだ?!
突然、ドアが開けられた。外の灯りに滅菌灯の青みが一瞬弱まる。
振返るとFさんが、白衣も着けずに立っていた。
「どういうことだ」
その口調は僕では無く、細胞自身を問い詰めているようだった。Fさんは何げなく僕の手から培養瓶を奪い、その中の塊を見つめた。
「それ、何ですか」
「人間の海馬だ。脳の記憶を司どる」
Fさんは僕の方を見ることもなく答えた。
「生きて……いるんですよね」
僕の声は少しふるえていた。
「生きているとも。細胞も。記憶も」
Fさんはゆっくりと瓶の表面を愛撫するように指先を動かしていた。僕が彼の背中越しに見ている内にも瓶の中身は膨張し続けている。
まるで、この瓶から抜けだしたいようだ。ふと、そんな風に思えた。
少ししてFさんはだきしめるように瓶を抱えてすたすたと培養室を出て行った。残された僕はあっけにとられていたが、何故かFさんの後を追ってみたくなり、培養室を出た。
廊下の窓はもう、夕闇の色に染っていた。Fさんは暗い方へ暗い方へと歩いていくようだった。やがてFさんは非常口の扉を開け、避難用階段を上り始めた。華奢な鉄骨の階段の上は風が強く、寒かったが、彼は何も感じていないかのように同じ歩調で上がって行った。
5階ほど上がっただろうか。踊り場でFさんはぴたりと止った。4、5段低いところで僕も足を止めた。息をころすように見ていると彼はふところに抱え込んでいた瓶を持ち上げた。昇ってきたばかりの月と遠くの街の灯りに照されて、瓶の中身が見えた。あの塊はほとんど瓶と同じ大きさにまでなっていた。そしてFさんは手すりをこえて腕を伸ばし、瓶を重力にゆだねた。Fさんの声が聞こえた。
「これでいいんだろう?」
ずっとずっと下の方であの細胞が開放される音がした。
Fさんはまた、僕を無視するように階段を降りてきた。僕は何も言わなかった。狭い階段ですれちがう時になってFさんははじめて僕を見た。
「君にはないのか」
「何がですか」
「忘れることを許せないということが」
僕は何も言えなかった。Fさんはくるりと背を向けるとそのまま階段を降りて一番近い非常口から中に入っていった。
僕は非常階段を一番下まで降りて行った。踊り場の真下にあたるところで、あの瓶はコンクリートに当たって粉々に砕けていた。そして狂ったように増殖し続けていたあの塊は、みすぼらしい灰色の泥のようにガラス片に囲まれてつぶれていた。
Fさんはこれを人間の海馬、記憶を司どる脳細胞だと言っていた。
だとしたら、誰の記憶を持っていたのだろう。
その人が死んでもなお、永遠の忘却へと去ることが許されなかった記憶。Fさんはその記憶と何を共有していたのだろうか。
---終り---
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