三学期の期末テストが終わると、何故か学校の中に差し込む日差しが侘しくなる気がする。
その日の放課後、本島夏海は図書室の狭い開架式の本棚の間で踏み台を椅子代わりにしながら、その少し栗色がかった眼を手にとった古びた書籍ではなく、まだ桜の色が見えない窓辺に向けていた。
「モトジマぁ。こんなとこにいたのか」
背中の方向から突然かけられた声に夏海が振り向けば、同級生の藤吾幸恵が自然科学部のユニフォームのような白衣をセーラー服の上から絶妙なだらしなさでひっかけた格好で立っていた。
「あ?トウゴ?」
何?とやや前髪の伸びたショートカットの髪をかきあげながら夏海がおざなりな返事を返すと、幸恵は座ったままの相手に呆れたような視線を洒落っ気のない銀縁眼鏡越しに落としながら話を続けた。
「あ?じゃない。まったくどこに行ったかと探したんだから」
「探した?」
「池内先輩が生徒会室に来てるのに」
「……知ってる」
夏海は小さく笑いながら立ち上がった。立ち上がれば夏海の顔は幸恵の眼の高さよりだいぶ高いところにくる。
バスケットボール部だとでも言えばしっくりくる夏海の細い170cmの長身を見上げるたびに、幸恵は「こいつにはセーラー服より詰襟でも着せておきたい」と思ってしまう。
「知ってるなら、顔だしなよ」
「あのさあ」
もう一度、夏海は物憂げに短い髪をいじりながら、幸恵に尋ねた。
「池内先輩って、今、大学の何年生なんだっけ」
「えーと。かの東大の3年生。今度4年生か」
幸恵の答えに、夏海はしばらく沈黙した。
図書館の静けさ。窓の外からテニス部の玉拾いの生徒たちが繰り返す掛け声が響いてくる。
会話がとぎれた無聊をごまかすように、幸恵は白衣の胸ポケットから持ち歩いている禁煙パイポを取り出すと、オヤジさながらの風情で口にくわえた。
古い本の匂いにまじって、二人が立つ狭い空間に少しだけハッカの香りが漂った。
先に口を開いたのは夏海の方だった。
「あたし、実は見かけたんだよ。学校の玄関で、池内先輩のこと」
「うん、それで」
「ちょっと、ショックでさ」
一瞬、誰かわからなかった。膝上の上品なグレーのタイトスカートにピンク色の柔らかなブラウス。華奢な白いパンプス。きれいなロングヘアにきちんとしたメイク。肩にかけたショルダーバッグは、わかりやすいヴィトンのモノグラム。
「大学に行くと、変わるもんだね」
夏海の声に混じる溜息の意味は、幸恵にもわかった。
池内先輩は中等部にいた頃の自分たちの憧れの存在だったのだから。
二期続けてこの学園の生徒会長を務めた彼女は、ボーイッシュなショートカットと大人びた黒目勝ちの眼がすばらしくりりしくて、女子校である学園の生徒会内ではもちろん一般の生徒にも人気のある人だった。
もっとも、夏海の持っていた感情は大多数の生徒とはちょっと違ったかもしれない。
大半の生徒が異性のアイドルタレントにときめくように、あるいは共学の学校で見目良い男子生徒に思いを抱くように“池内先輩”をとりまいていたことを、むしろ夏海は軽蔑していた。
だから、池内先輩の学年の卒業式の日。彼女を慕っていたはずの夏海が、泣いて別れを惜しむファンの後輩たちに取り囲まれた池内先輩を遠くから眺めていたことを幸恵はおぼえていた。
「本島と池内先輩ってホモっぽかったよね、そう言えば」
「ホモってな、お前」
眉をひそめた夏海にかまわず、幸恵は手を伸ばして、高い位置にある相手の髪に触れた。
「だって、本島が三つ編みやめて髪切ったのも池内先輩の真似だったんだしょ」
「うっさいな」
「本島、池内先輩が女っぽくなっちゃったんで会いづらいんだ」
「うっさいってば」
かたくなな友に呆れたように、ふぅっと幸恵は紫煙ならぬハッカの香りの息を吐き出した。
「まあ、いいや。私は行く」
パチン、と口からはずしたパイプにキャップをはめこんで白衣の胸ポケットにしまった幸恵がひっつめてくくった髪の房をゆらしながらくるりと背中を向けるのを、夏海は何も言わずに見送った。
並ぶ本棚の向こうに彼女の気配が遠ざかっていくにつれて、夏海の気持ちがざわめいた。取り残されたような不安だけがやたらに大きくなっていく。
「ちっ」
イライラしたような舌打ちをひとつすると、手に持っていた本を乱暴に書棚に戻し、夏海は早足で書庫をつっきり、図書室の出入り口へと向った。
司書の教師がいたらたしなめられそうな勢いで扉を開けて、夏海が図書室の外に出ると。
「来たね」
すぐ前の廊下の薄汚れた漆喰塗りの壁に背中をあずけて、白衣のポケットに手をつっこんだ幸恵が笑っていた。
下校時刻間際の時間、部活を終えた何人かの生徒たちが廊下を慌しく通り過ぎるのを横目に見ながら、二人は会話も交わさずに3階から階段を下りて、1階の生徒会室に向った。
生徒会創立以来ずっと変わらないといわれている不思議な調子の伝統のノック。
トン。トントン。
「失礼します」
幸恵が先に足を踏み入れた。夏海も気後れをおぼえたまま生徒会室の中へと入り後ろ手に扉を閉める。
「本島」
しっかりと見据えられない部屋の奥からアルトの音色で響く声がした。
ああ。
声は、変わらないんだ。
「連れてきましたよ。池内先輩」
「ご苦労さん、藤吾」
余計な媚も上品さも省いた、あの頃憧れたその調子もそのまま。
ようやく覚えた安心感に、恐る恐る夏海が久しぶりに再会する卒業生に顔を向けると、いつのまにこちらに来たのか、今日見かけたピンクのブラウスの女性がすぐ近くに佇んでいた。少しパール感のあるコーラルに彩られた薄い唇が微笑みの形を作る。
「変わらないな。本島は」
「池内先輩は、なんかすっかり女らしく……なって」
歯切れ悪く言う夏海に苦笑しながら、池内由美子は保守的なデザインのスカートには似合わない大胆さで足を広げて、腕を組んだ。
「ははっ、驚いたか」
「ええ、ちょっと、その」
口ごもるような夏海の台詞をついで、幸恵が横から口を出す。
「本島は、先輩が変わったのがダメージみたいっすよ」
「おいっ、お前、余計なことをっ!」
慌てたように夏海が幸恵の首筋に揺れるしっぽをつかむのを見て、由美子はおかしそうに笑ってから、ふっと視線を泳がした。
由美子はそのまま、独り言のような口調で今はある代議士の事務所でアルバイトをしているのだと言った。
「まったく、私がバイトしてるところなんてお前らには見せられないね。信じられる?いっぱしの女子大生ぶって、オヤジたちにお茶汲んだりしてるんだ」
「池内先輩が?」
茶化すように言った幸恵に応じるように、由美子も軽い調子で答える。
「猫かぶってるぞ。声なんか一オクターブくらい高くしてる」
続けて“あほらしいよなぁ"と呟いた先輩の顔にちらりと自嘲的な陰がよぎっていったように夏海は感じた。
しかし。一度、伏せられた由美子の眼が、あらためて夏海のやや薄い色の眼を見つめたそのときの表情は。
「でも、さすがに選挙戦とかね、すごいよ。化けて潜り込むだけの価値はある」
少しだけ目を細めて、何かを企むように微笑する。
化粧をしていても、大胆不敵さを湛えたその笑みは確かにあの頃の池内先輩と同じだった。
「先輩、政治家になるんですか」
「まあ、政治家か官僚かは決めかねてるけど。ここの生徒会よりもうちょっとデカいものをしきってみたいとは思う」
並の男では到底吐けそうにもない台詞をさらりという由美子に、ようやく夏海の表情が緩む。いつも夏海についている幸恵からすれば、めずらしいほど素直に見えるくらいに。
「やっぱり、池内先輩だ」
「当たり前だ。変わりようがねぇんだよ」
「前からデカいこと言ってましたもんね」
「うるせーな、言うくらいいいだろ」
かつて自分がそうであったショートボブのさらさらした髪に遠慮なく手を突っ込んで、卒業生は少年のような後輩の頭をがしがしと撫でてから、下校時刻直前の学園から出ていった。
「ありがと」
「何が」
先輩を見送り、生徒会室の鍵を閉めてからそれぞれに学校指定の通学カバンを抱えて校門を出た二人は、並びながら春の夕暮れの中を駅に向って歩いていた。
「やっぱり、池内先輩に会えて嬉しかった」
「だしょ」
当然、というように幸恵が頷いた。
「藤吾が呼んでくれなきゃ、会ってなかったと思うんだ」
もう一度、ありがとうと夏海は繰り返した。
「本島、ヘンなところで意固地なところあるからな」
隣を歩く幸恵が悟ったように言うのに、夏海はぼやいた。
「まったく、かなわないなぁ」
「何が」
「あ? うん。いろいろ、と」
自分のつっこみに少し困ったように曖昧な返事を返す相棒がどんな顔をしてるのか見たくなって、幸恵は傍らを歩く同級生を見上げてみた。
「何?」
「いや、桜が咲き始めたのかと」
通りすがりの家の垣根から大きく張り出した桜の木の枝先に淡い花の色を見つけた幸恵の、何かはぐらかすような答えに夏海は小さく首を傾げたが。
それ以上何も言わず、ただ自分も同じ方向を向いて少しだけ綻んだ早咲きの桜の花を眺めやった。
END
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