大典禅師こと相国寺の和尚、梅荘顕常が気の向く折にふらりと足を向ける処がある。
 その京の山中の庵は、天気のよい日に近づくと入り口から不思議な気配がする。
 静謐とした空間が似合う小さな庭にけたたましくうごめく鶏。何十羽も。
 青い空の下、白や黒の羽を震わせながら縦横無尽に庭を闊歩する鶏たちをかきわけるようにしながら、和尚は家屋の方へと歩んでいく。
 「いますか」
 「ああ」
 ほどなく戻るぶっきらぼうな声は庵の主。京でも一、二を争う青果商の旦那だった男だが、過日に齢四十にして家督を弟に譲った。以来、ここでずっと絵を描きつつ隠居の生活を送っている。
 名は茂右衛門、号は若冲。
 この号は禅を学びに自分の下を訪れた風変わりな男に和尚がつけてやったものだ。もっとも歳の頃は大差ないのだが。
 和尚と茂右衛門のつきあいは短くない。
 何時ほど前になるのか、ひょんなことで知り合った枡源の若旦那は、若年から相国寺の学僧として修養を積んできた和尚とは対象的に、無口で無粋、絵を嗜む他は無学無芸な男だった。
 「あがらせてもらいますよ」
 墨染めの衣の裾をひるがえし、和尚は小さな玄関へと踏み込む。
 主は日当たりのよい縁側で、一幅の絵を干しつつ眺めているところだった。
 その男は出家したわけでもないのに頭を自分と同じように刈り込み、粗末な鈍色の着物をだらしないほどの緩い着方でまとっている。身なりなど構う様子もない。
 「久しぶり、だな」
 和尚は声をかけてきた男の顔を認める間もなく、足元に置かれた絵に目を奪われた。
 老松の上に踊る驚くほどに繊細な鳳凰。真白な線条細工のようにうち広がる尾羽の先は、鮮やかな朱や緑青で彩られている。
 「これはまた。鳳凰ではないですか、どこぞで見かけました?」
 日頃から「自分が目にできるものしか描かぬ」というふうなことを茂右衛門が言うのを知っている和尚は片膝をついて、からかうようになじみの画家に尋ねた。
 すると、茂右衛門は若々しいながら少し無骨な趣の顔を、むしろ公家のような典雅さをもつ細面の学僧に向ける。
 「もちろん、見て描いたのだとも」
 「ほほう、ここの庭には鶏のほかに鳳がおりますか」
 「飼っているわけではないがな。ほれ、そこに」
 そう言ってあまり表情を変えずに言う男に苦笑を返しながらも、和尚はつい辺りを見回してしまう。
 「禅師の神気は、かような鳳凰に見えた」
 さらりと言われて、禅問答負け知らずの和尚が絶句する。
 「お前さま、あのねぇ」
 溜息まじりに、絵を見なおした和尚は、この鳳凰が雄であることに気がついた。
 「なんですか、神気が見えるほどに私のことは見尽くしましたか」
 和尚に言われて、茂右衛門は少し困ったように小さく首を傾がせ、もはや絵筆しか持つ気のない指で画布の縁をなぞった。
 「見尽くしたなどとは申しますまい。まだまだ観察足りぬと反省しきり」
 「ほう」
 ついた膝をさらにたたんで、和尚が茂右衛門の向かいに腰を下ろす。
 「観察、足りぬと」
 「もう少し、和尚に足繁く通うていただければ、まあ、今よりもましになろう」
画家がよこした愚痴にも似た呟きが、和尚の胸にほんの少しだけ漣を引き起こす。
女に「つれない」と嘆かれるときにも似た、優越感ともいじらしさともつかぬねじれた悦びは、僧として歳を重ねていてもなお心の奥深く、底の底に残っているものらしい。
 「そうですねぇ、拙僧も忙しくて」
 禅師としては切れのない返しに、画家は静かに答える。
 「それは百も承知だが」
 言いながら、茂右衛門が目線を落とす。描き上げたと思ったばかりの自分の絵の上に。
 ああ、まだ終わりではなかった。まだ足りぬ、目の前の鳳凰を写し取るにはこれではまだ。
 庭にたむろする群鶏を描くときのように、一日二日いや一月一年とこの優雅で気高い鳳凰を我が庵に留め置いて心ゆくまで眺めていられたらどんなにかよかろう。
 「……すみません、ね」
 少しおいてからかけられた意外な言葉に、驚いたように画家は顔を上げた。
 和尚がこちらを見ていた。自分よりも少し年下の男の、いつもこの世の先まで見透かしているのではないかと思われる切れ長の双眸が確かにじっと向けられていた。
 「別に、禅師が謝ることではなかろう」
 「ただ、私がそういう気持ちなのですよ」
 和尚の答えにしばらく茂右衛門は黙っていた。黙ってただ飄々とした佇まいで笑みに似た表情を見せる相手を眺めていた。
 「禅師」
 「何です」
 「もうしばらく」
 「かまいませんよ」
 画家は立ち上がり、部屋の奥へと入って筆と絵皿、水入れと絵の具を手にして戻ってきた。
縁側に広げた絹布の絵の脇にそれらの道具を置き、そしてまたじぃと目の前の男を見る。
見られる和尚も黙って、目をそらすことなく見つめることもなく視線を返す。
 そんな時間がどれだけ過ぎたのか。突如と茂右衛門は息をはき、筆を手にとると、絵皿の上に幾つかの絵の具を選んで水で溶いた。そして一度乾かした絵の上に慎重にほんのわずかの色をさしていく。
 やがて。
 また再び大きく息を吐きながら茂右衛門が身体を起こし、和尚の目の前に画の全体が現れた。
 決して多く手を入れたわけではないのに、そこにある鳳凰の輝きは数段と増していた。そればかりか、神仙の鳥と見るには、これはあまりにも。
 「ずいぶんと艶っぽくなったのではないですか」
 和尚の小さな笑いを含んだ声に、茂右衛門はなぜか気難しげな顔を作り庭に群れる鶏へと目を泳がせながら言った。
 「俺は、自分が目にできるものしか描かぬと言ったろう」
 

  

END

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