「質実剛健」というモットーは、貧乏をごまかすための詭弁にすぎない。
 大学の中でもリニューアルから完全に取り残されているような第一男子寮の蒸した四畳半の上、今ひとつ明るさの足りない味気ない色合いの蛍光灯を見上げながら、山内はそんなことを考えていた。
 窓は全開、以前に仕方なく自腹で取り付けた網戸からは夜風がかろうじて吹き込んではくるものの、肝心の風が熱帯夜そのものの温度と湿気を運んでくるため、部屋の不快指数は変わることがない。
 次善の策で、服を脱げるだけ脱いでトランクス一枚にもなってみたが、それもあまり体感温度の低減にはあまり効果がなかった。
 「クーラーつけるか、地球の温暖化止めるか、どっちかにしてくれ……」
 短い金茶色の髪すらうっとうしげにかきあげつつぼやく山内の希望は、話の規模は両者まったく違うが、どちらも現時点で実現困難という点では非常によく似ている。
 それにしても、この時期からこんな具合では早晩、自分は不眠か栄養不足で倒れかねないと暑さに弱い山内は意気地なく嘆いた。
 今日の夕食は学食でざるそばを食ったきりだし、今日も眠れるかどうか定かでない。もっとも、睡眠に関しては空調の効いた講義室で居眠りすれば事足りるのかもしれないが、それで単位を落とすわけにはいかない。
 夏休み前から留年の危機を感じる国文学科二年生は、すりきれた畳の上にころがったまま小さな机の上に乗せた目覚まし時計を見上げた。
「8時か」
 レポートの締め切りも近づいているが、狭い部屋の室温を上げるパソコンを立ち上げる気にはなれなかった。それどころかその他もろもろすべてやる気がおきない。
 そんな調子で、瀕死のアザラシさながらに部屋の主が90%裸の様相で寝そべっていると。
 「山内、いる?」
 部屋の安普請の扉を叩く軽いノックと聞き覚えのある声。
 「いるぅ〜……」
 「バイト先でアイスもらってきたんだけど食う?」
 「食う〜……」
 アイス、と聞いても飛び起きるほどの気力もなく、ただ間延びした答えを返した山内の視界に入ってきたのは、同じ寮に住んでる同学年の三園だった。
 だらしなさこの上ないという格好の山内とは対照的に、三園は爽やかな印象の白の開襟シャツにまだアイロンがけの張りが残っているベージュのチノパンという格好で、足元にころがっている男に対してめずらしい物でも見るように、細い銅色のチタンフレーム越しの視線を注ぎながら一言。
 「ボンソワール」
 「お前、その発音で仏文科かよ」
 カタカナなフランス語で“こんばんは”の意を告げた客に、ダレた口調で山内がツッコミをいれれば。
 「Bon soir」
 今度は律儀にやけにネイティブな鼻に抜ける響きで、三園は挨拶を言い直す。
 「で、山内。そんなセクシーな格好して、俺を誘ってるの?」
 続けてふってきた友人の言葉に、山内は呆れた顔をしながら裸同然の体をのっそりと起こした。
 「んなはずねぇだろ」
 「ナンだ。残念」
 さらりと言いながら三園は銀色の保冷袋を携えて、胡坐をかいた山内の前に正座した。
 自分の目の前に座った男の、まったく涼しげな表情を見ながら、一瞬、山内は何か上に着ようかどうか迷った。
 この仏文科二年の三園という男がホモだというのは、学内でもなかなか有名な話なのだ。
 何せ本人がのっけから誰にでもカミングアウトするのだから、広まらぬはずがない。一部の人間は本気で気色悪がって彼のことを避けているようだったが、彼を知るほとんどの人間は結果的にそのことに拘らず、友達づきあいを続けている。
 山内はその中でも三園とわりと親しくしてる方かもしれない。親しくと言っても、学科も違えば、部活もバイト先も違う。接点といえばこの寮だけで、何となくどちらからともなく時々一緒に食事をしたり酒を飲んだりする。そんな関係だ。
 山内にとっては三園がホモセクシュアルであるということは、他の悪友たちと“アイツはソーローだ”“アイツはホーケイだ”とからかいあって笑いあう、そんな下ネタ話の延長線上にあるだけなのだったが。
 こうやって汗ばむ季節になって、あらためてそんな噂の男の前で無防備な姿を晒していることを自覚すると少しだけ気まずいような気分を覚えた。
 そんな山内の逡巡に気づいているのかいないのか、三園自身も自分の性癖を露悪的なぐらい平気で笑いのネタにする。
 「もっと暑くなったら全部脱いでくれるわけ?」
 「見るなら金とるぞ」
 「あんまりお粗末だと払えないなぁ」
 上品な風貌に似合わぬ切り返しをしつつ、三園はごそごそと銀色の保冷袋を開けて畳の上に霜すら付いた蓋付きの小さな紙カップを並べた。中身が白いのが二つ、あとは鮮やかなピンクと黄緑色。
 「何味?」
 「ヴァニーユにフロマージュ、フランボワーズ、それとピスターシュ」
 フランス菓子専門店のアイスクリームは味付けまでフランス語らしかった。まるでぴんとこない外国語オンチの山内は細かく聞き返すのも面倒で、何も考えずに三園に尋ねた。
 「で、お前的にはどれがオススメ?」
 「フロマージュかな。美味しいよ。チーズケーキ味」
 じゃあ、まずそれを食ってみる、と山内は白いカップの片方を取り上げると三園から差し出されたプラスチックのスプーンでまだ固いクリームの山をほじくりかえし始めた。
 「どう? 」
 「うん、うまい」
 ほのかにレモンの香りが効いたレアチーズケーキのような味わいの舌触りもなめらかな冷菓をしばらく黙々と食べていた山内だったが、ふと三園の方を見て、彼がその手に持った得体のしれない派手な緑のカップにまだスプーンをつきたてていないことに気が付いた。
 アイスも食べずに何やら楽しげにじぃっと自分の方へと目を向けている。
 「何?」
 「いや」
 そう言いながらも三園の薄い唇は、小さく笑いに似た形に歪んでいた。
 「山内の口元がエロいなぁと思ってさぁ」
 「はぁ?」
 呆れたように言いながら、山内は指先にとろけて落ちたアイスクリームの雫を舌先で舐めとろうとしてハッとした。
 白い液体がまとわりついた自分の指が、何やらを連想させるひどく卑猥なオブジェに見えて。
 きっと自分の口の周りにも溶けたアイスクリームが薄くついているに違いない。ということは、このホ モだかゲイだかの男は、口で淫らなことをシた跡のような様子になっている自分の顔を楽しんでいるに違いなかった。
 「あのさぁ、三園。白いアイスクリームを勧めたのは、俺にセクハラするためか?」
 山内は溶けたクリームに濡れた指をもてあましながら、ニコニコとしている三園を恨みがましくにらんだ。
 「えー、このラインナップだったらフロマージュがオススメってのは本気」
 とぼけたように言いながら、三園はフフフとわざとらしくいやらしげに笑う。
 「でも、まあね。結果的になかなかイイ感じよ」
 そんな三園に対して山内は異議ありげに口を尖らせつつも、それ以上のことを言うのをやめた。そして、すでに空になったカップを脇におき、無造作に今度は愛らしいピンク色を詰め込んだカップを手にとり。
 「こっちの白いのは、お前食えよ」
 逆ギレとも言えなくもない台詞とともに、普段の食事から早食い気味の男はまだ一つ目を食べ終えていない三園に最後のカップを押し付けた。
 「ん、まあ、いいけど」
 まったく気にも留めない様子で三園は残された白いアイスクリームを引き寄せるのを見送って自分が選んだ方のアイスクリームの蓋を開ければ、途端に何となく香水を思わせるどこか人工的な甘ったるい匂いが立ち上り、山内はひっそりと眉根を寄せた。
 だいぶ柔らかくなったクリームにスプーンをつっこんで、口にも運ばずにただグルグルとかき回しながら、やっぱり白い方にすればよかっただろうか、などとしばし後悔してみる。
 “変えてくれ”と言う選択肢もないわけではない。今ならまだ間に合う。
 そんな葛藤を経て、ついに山内はプライドより食いたいものを取ろうと決めた。
 えい、と自分の手元から三園の方へと向き直ったが、時はすでに遅し。
 三園のスプーンはすでに彼にとって二つ目のカップのクリームの中へと投入されており、折しも最初の一口を運ぼうとしているところだった。
 いよいよ溶けかけてスプーンの端から滴りそうなアイスクリームは三園の口へと消えていく。彼の赤味が強い薄い唇の上にとろりと濁った跡を残しながら。
 白く汚れた三園の唇。
 ホモだもんなぁ、やつの方こそ他の男の、咥えたりもするんだろうなぁ。
 おそらく無意識なのだろう、舌先をわずかに出してちらりと唇を舐める三園の様子はノンケのはずの自分にも扇情的に見えて、慌てて山内は視線を自分の手元へと戻した。
 そのまままだ口に運べないピンクのアイスをこねくりまわしながら、山内は自分の頭に勝手に湧いて出た露骨なカットに、気持ちが悪いというよりも落ちつかなく心が揺れて、小さく息を吐いた。
 まったくこんなことを考えるなんて一体どうしたことか。暑さで脳細胞がやられたとしか思えない。
 肩を落として、はぁと再び盛大にため息をつけば、さすがに不審に思った三園が話しかけてくる。
 「何、ため息ついてるの。……フランボワーズ、嫌い?」
 どうやら三園は、山内が不機嫌に見える原因をさっきからぜんぜん減っていない山内のとったアイスクリームに帰したようだ。
 「別に、そういうわけじゃない」
 答えながら山内の胸中にふわりと広がるのは、そのケのないはずの自分が目の前の同性にわずかなりとも欲情を覚えたという自覚と、経験済みの小さな自己嫌悪。
 同じように夏の日に、親友だった異性の幼馴染を、突然「女」と意識してしまったときの感覚に似ていた。
 サマードレスの下に柔らかそうな肢体を隠していることに、突然気づいてしまったあのとき。
 いつだったかも定かに思い出せないほど昔のぼやけた記憶へと意識がさらわれている間にも、山内の汗ばんだ手はまだアイスクリームをかき混ぜていて、いつのまにかカップの中はピンク色の液体がただ渦を巻いているような状態になりつつある。
 まるで、嫌いなおかずを食べずにつつきまわす子どもさながらに。
 「食わないならよこせ。こっちのバニラと交換してやるから」
 「いいよ、食うから」
 三園が気遣いを示せば、山内は慌ててイチゴよりもだいぶ酸味の強いラズベリー味のアイスを口に運ぶ。
 そんな意固地な様子の山内に、三園はちょっとだけ後悔した。ひょっとしてさっき“エロい”とからかったのは、山内にとって本気でイヤなことだったのではないかと。
 だけどそれくらいは勘弁してほしいよな、と誰にでも気楽に自分の性癖を打ち明ける男は心の中だけで独り言を呟いた。
 冗談にでもしなきゃ、君の前にいることも許してもらえないだろう?
 三園は、男なら誰でも体の隅に溜め込んでいる体液よりももっと白くて甘くて冷たいものを口の中でとろかしながら、そっと眼鏡のフレームの上の線を飛び越すような上目遣いでしかめつらしく  好みではないらしいアイスをすする山内の口元を眺めていた。
 「……今度はさ、お前の好きな味もらってきてやるよ」
 三園が静かな口調で言えば。
 「うん」
 苦手な味を飲み込むのに苦戦している様子がありありとわかる具合で、ただ山内はうなずいた。
 「で、何味が好き?」
 続く質問に、ようやくラズベリーの風味を飲み下した男は質問者の方を向く。
 「あのフロマージュは好き」
 「白いアイスだよ」
 「わかってる」
 「また俺、セクハラするかもよ?」
 「セクハラしかえす」
 それぞれアイスクリームを片付けつつ、ようやく元のテンポを取り戻した会話にほんの少しだけ本音に似た音を混ぜながら、二人は淀みがちな暑い空気の中に自分の着地点を探す。
 互いの存在が等しく軽い、重力の歪んだ場所へ。

  

END

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