土曜日の午後の気だるい日差しに満たされたマンションの一室で、留守電機能がとうに壊れた古い電話がつまらない音をたてた。
 その電話器から一番近いところにいたTシャツ姿の男は、ただ鬱陶しそうに電話のほうを眺めるだけで、今寝そべっている古びたソファベッドから下りようともしない。
 こんな時間、この電話を鳴らす輩はロクな者ではないと察している。
 デート商法のお誘いやら、布団クリーニングのセールスやら、ただの間違い電話やら。
 無視するに限る、と彼は中指でかけた眼鏡の位置を直しながら、文庫本の文字の羅列に視線を戻そうとする。
 すると、ガラリと隣の部屋に通じる襖が開いた。
 「ジュンさん、いたんかい」
 眼鏡の男は文庫本から襖の向こうへと顔を向けて、襖を開けた青年にソファの上から声をかける。
 「ひどいや、コウさん」
 ソファに寝転ぶ同居人を見て言いながら、もう少し動く気力のありそうな細身の青年は狭いリビングをつっきってしつこく鳴り続ける電話をとった。
 「もしもし? ああ、おばさま? こんにちは。純一です」
 純一は、無意識に電話の相手に向って会釈をする。
 「……あ、幸助さんですか?……きのうから出張で、今日は戻ってこないと……」
 「え? 僕のお見合いですか? いやいや、僕なんて。年齢から言っても幸助さんのほうが先に……お兄さんさしおいて婿になんて行けませんよ」
 「はい、はい。戻ってきたらそちらに電話を、と。わかりました。伝えておきます」
 純一が受話器を置いたのを確認してから、幸助はソファから身体を起こした。
 「お袋からか。留守にしてくれて助かった」
 「わかっていて、でなかったの?」
 「そういうわけではないけど、こんな時間の電話はおよそロクなことがない」
 悟りきったように言うかなり年上の相手に、純一は小さく笑った。
 「ついに、俺のほうにまで来たぞー。お見合い話」
 「何で、あの姉妹は見合い話が好きなんだろうな。他にシュミはないのかね」
 純一と幸助は従兄弟同士だ。
 純一は今年で27歳、幸助は38歳になる。
 純一が東京の大学に進学した折に、家賃負担の軽減と親への体裁をかねて、すでに会社員として働いていた幸助のマンションで共同生活を始めて以来、二人は一つ屋根の下で生活を続けていた。
 純一が大学を卒業して就職しても、幸助が転職しても、変わらぬ調子で、まだ。
 1日互いの顔を見たり見なかったりする生活が、もう10年近くになろうとしている。
 今日もまた、そんな日々の流れに埋もれていくありがちな休日の様相を呈していて。
 何か、こういう休日ってときどきあるよなぁと既視感を感じながら、何気なく幸助が尋ねた。
 「ジュンさんは、今、彼女とかいないの?」
 「いるよ。一応」
 幸助の足元、フローリングの床に座り込みながら純一が答える。
 「コウさんは?」
 「こないだ、ふられた」
 「そうなんだ」
 少し沈黙が流れた。
 「彼女、ケッコンしたいんだってさ」
 幸助がポツリと言った。
 「すればいいじゃん」
 「今更?」
 突き放したようでいて自嘲じみている、冷めた幸助のセリフに彼がどんな表情でそんなことを口にしたのか見たくなって純一は相手の顔を見上げた。
 幸助の眼鏡越しの視線は自分を向いていた。
 目があった。
 「今更、ねぇ?」
 幸助の薄い唇がもう一度同じセリフを繰り返す。
 「ダメ、だね。居心地がよすぎるんだ。今の生活が」
 独り言のようにも聞こえるソファの上の男の声に、純一の心臓がコトリと鳴った。
 静かなリビングに聞こえるのではないかと感じるほどに。
 「コウさん、ホモだったの?」
 「違う違う」
 何に驚いているのか、目を大きく見張った年下の従兄弟のなげかけた質問に、苦笑しながら幸助は首を振った。
 だけど、と付け加えたところで、眼鏡の下の一重の眼が微妙に優しい色を帯びる。
 「ジュンさん以外の人間と暮らしている自分が想像できない」
 そう言ってゆるく笑う相手を見上げながら、純一は試しに頭を働かせてみた。
 この部屋を出ていく自分や、今の彼女と一緒に暮らしている自分を想像してみようとしてみるが、いつのまにか日当たりのいいリビングにはこの男が寝そべっている。
 寝そべって笑っている。今みたいに。
 「俺もそうかもしれない」
 コウさん以外の人と暮らすなんてどんな生活なんだろう?と自問自答する。
 「想像力貧困だなぁ」
 幸助がまた笑う。純一の想像の中の彼と同じ笑顔で。
 またしばしの沈黙が通りぬけるが、それは気まずいものではない。
 「俺ら、このままでいいのかな」
 「お袋ドモはヤキモキするだろうな」
 軽口を返しながら、あらためて幸助は純一を見る。
 彼は単純に本当に想像力がちょっと足りないだけだ、と思いながら。
 自分よりも10歳も若いのだから、ここ数年で一緒に暮らして子どもを作って家庭を持ちたいと思うような女性に巡りあうのが妥当だろう。
 いつか、いつかきっと。
 彼はこの部屋を出ていく。
 「なんだよ、コウさん」
 見つめられて、戸惑ったようにわずかに眉間にしわを寄せて純一が言った。
 その声に、はっと我にかえったように幸助はとってつけたような日常的な話題を口にした。
 「今日の晩、何喰おうか?」
 「俺。」
 純一のセリフに続く、一瞬の鮮烈なまでの沈黙の後。
 男二人の遠慮ない爆笑がリビングをゆるがした。
 二人で笑い転げる。腹を抱えて、涙を流して、時にソファや床を拳で叩いて。
 笑って笑って笑って。
 やがて、互いの声が少しずつ小さくなっていく。
 「はー、コウさん笑いすぎ……」
 腹いてぇーところがっていた床から身体を起こした純一は、同じくソファの上に伸びていた幸助の顔を覗き込んだ。
 「そんな大泣きするほど笑えるネタかなぁ?」
 純一が指摘するほど、幸助の眼鏡の下からは幾筋も涙の跡が線を描いている。
 「いや、なんかツボにはまって」
 「それにしたって笑いすぎだって」
 すまんすまん、と言いながら幸助はソファの背中にもたれるように純一に背を向けた。
 違う、違う、違うんだ。
 一瞬、本気になりかけた自分を忘れたくて、笑ったんだ。
 冗談だと自分に言い聞かせるために、笑って笑って笑って。
 何も考えられなくなるまで。
 「あー、笑ったら喉乾いちゃった。コンビニに行ってこよっかな」
 純一は立ち上がると、コウさんはコーラね?と勝手に決めつけながら玄関先へと向う。
 その後ろ姿に手を振りながら、幸助はまだソファから立ち上がろうとしなかった。
 ああ、そうか。
 笑って笑って笑った後の脱力感は、セックスの後に少し似ている。
  

END

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