「竹内くん。顔色が悪いよ。根つめすぎじゃないかね」
天文台の教授は、ここ数日、研究室に籠もりっぱなしだった若い職員に声をかけた。
「すみません。こないだ送られてきた衛星のデータ解析が進まなくて」
もう何日も徹夜したかのように青ざめた顔で告げた竹内に教授は言う。
「初めてリーダーになったプロジェクトに焦る気持ちもわかるが、まだ時間はある。今日は家に帰って休め」
いつもは意地でも居残る竹内だったが、この日はおとなしく昼前には天文台を去って行った。
竹内は帰宅せずにとある総合病院へ向かった。
患者かと思われる様相の竹内が、診療時間の終わった病院を入院病棟の方へと引きずるような足取りで向かうにつれて、古い病院の廊下は薄暗くなっていく。
「すみません、特別病棟の里井義明さんに面会を」
1階のナースステーションに竹内が声をかけると、看護士が書類をはさみこんだクリップボードを差し出した。所定の書式にあわせて、面会人が名前や住所を書き込んでいる間に、看護士は内線の受話器を取り上げて、面会を申し込まれた方へと連絡をとろうとする。
「里井さん?おやすみでした? 面会を希望される方が見えていますが。竹内さん、ええとタケウチ・マモルさんという方です」
竹内がボールペンを置くと、看護士が告げた。
「301号室です。面会は長くても30分程度でお願いします」
渡り廊下を通って階段を上がった先の特別病棟は、何もかもがこじんまりしていて、それでいてひどく静かだった。
通常の病棟ならあるはずの患者の名前を書いた表札のない、番号だけの扉が並ぶ廊下はさながらマンションかあるいは刑務所のよう、ということになるのだろうか。
竹内は勝手知った様子ですぐに301号室の扉にたどりついた。
扉に備え付けられた小さな呼び鈴を押すとその横の小さなスピーカーから掠れた声で“どうぞ”という返事が聞こえた。
病室は四畳ないほどの個室。病院らしい簡素でやや小さいベッドの上、パジャマを着た痩せた男が体を起こして、入ってきた竹内を眺めていた。
「どうしたの、守。顔色悪いよ」
「病人のお前に言われたくない」
竹内は苦笑して、ベッドの傍らにある折りたたみ椅子を開き、そこに腰掛けた。
「仕事は?」
「今日は早退」
「やっぱり体調悪いんじゃ」
「ん、お前ほどじゃないよ」
そう言った竹内が、枯れ木のようになった腕にそっと触れさせた手。
そこに里井はさらに自分の手を重ねた。
手の甲に残る点滴の跡を示す痣が竹内の目にはひどく痛々しく映った。
「俺も、最近はまずまずいい具合なんだけど」
「そうなのか?」
「少なくとも、守が来ない間はな」
相手がしばらく見舞いに来ていなかったことを冗談まじりに責めてから、里井は竹内の顔を覗き込んで「忙しかった?」と労わるように尋ねた。
「まあね」
歯切れの悪い返事だけして、竹内がただ静かに自分の腕を優しく撫でる様子に、里井もしばらく次 の話題を見つけられずされるがままになっていたが。
「なあ、お前さ。自分の病気のこと知ったとき、どう思った?」
「……エイズのこと?」
突然に自分の傍らの男から発せられた重苦しい質問に、今度は里井のほうがしばらく黙り込む。
「月並みだけど。最初の最初は頭が真っ白になった、かな」
「死のうとか、思った?」
「えーとね、まず考えたのは」
里井は自分の掌の下にある、竹内のややがっちりとした手を一瞬強く握った。
「守に伝染ってたらどうしよう、って」
守が陰性だってわかってから考えた。いつまで生きられるんだろう、とか、そういうこと。
訥々と血の気のないひび割れた唇から紡がれる自分の言葉を黙って聴いている竹内に、里井は苦笑の気配を滲ませながら言う。
「どうして、そんなことを聞くの」
尋ねられて、竹内は里井の顔を見上げた。月のように色を失い翳を帯びた頬が、声の通りに少しだけ笑ったような形を作っている。
「来月、世界が終わるから」
そう答えた竹内自身が、自分の声をあまり硬い声色だと思った。
「ほら、前に話したろう。昨年打ち上げた、地球と同じ軌道の人工衛星。あれがよこしたデータを解析したら、わかってしまった。地球を壊滅させるレベルの小惑星群が近づいてる」
あまりに突拍子のない話に、里井は目をしばたたかせ、まだ笑った表情のまま言った。
「何だそれ」
「信じていないな」
「信じるもなにも」
首をひねる相手に、なおも竹内は話しを続ける。
「何度も計算してみた。回避しようがない。きっともう他にもつきとめている連中がいる。ひょっとしたら俺よりずっと前にわかっているやつもいたんじゃないかと思う」
「でも、何でニュースにも何もならない?」
「あまりに絶望的だからだ」
こんなことが知れたら、世界は大混乱だ。わかるだろう?
そう呻くように言う恋人の肩越しに、里井は小さな窓から見える青空へと視線をやった。
いい天気だ。
こんな病気を抱えた自分より先に、この大らかな世界が終わってしまうなんて。
「不思議だなぁ……」
暢気に呟きながら、余命いくばくもないと言われた男は間近にある恋人の手をさすり続ける。
自分の乾いた指先の中でぬくもりを持つこのモノこそが、まるで自分を現実に繋ぎ止めている綱のようだ。
「守が何か間違っているわけじゃないんだよね」
「失敬な」
この期に及んで天文学者としてのプライドを傷つけられたのか、眉間に皺を寄せた恋人の顔に里井はいよいよおかしくなる。
「守が俺をかついでいるわけでも、ないんだよね」
「こんなつまらないネタは言わない」
強い語調で言い、立ち上がった竹内はベッドの端に膝をついて里井の顔に顔を寄せた。
もう何ヶ月も触れていなかった相手の唇に、自分の唇を触れさせる。
押し付け、柔らかな舌を潜り込ませて、熱を帯びた口の中へと忍び込む。
「……!」
里井の弱った腕が伸ばされ、辛うじて竹内を突き飛ばした。
「おい、お前……」
「これくらい本当」
他人の唾液に濡れた自分の唇を舌先で舐めてから、里井を見つめつつ竹内は淡々と言った。
「退院しろよ、義明。また一緒に暮らそう」
「ちょっと、待てよ」
「一緒に飯食って、風呂はいって、セックスして」
離れた体がまた近づくのを、里井は拒めなかった。あまりに貧相になってしまった自分の背中を昔と変わらない腕の感触が包み込むのに、溜息を吐く。
一緒にいようともう一度ささやいた竹内の声は、どこか頼りなげな啜り泣きのようにも聞こえた。
「エゴだとでもなんとでも言え」
「我侭すぎるよお前。今まで、人をこんなところに閉じ込めておいてさ」
悪態をつきながらも、里井もまだ愛しさの衰えることのない相手の背中を抱きしめずにはいられなかった。
抱きしめあったまま、竹内の肩先に埋めた顔を少しだけ動かして、もう一度里井は青い青い空を見上げた。
「一緒にいたかった。俺だって」
世界の果てこそ、君と一緒に。
END
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