夢ひとつ
薄暗い闇の中、篝火の前で一人の娘が舞っている。彼女の白い腕が空を切る度に、爆ぜる火の粉が舞い上がり、明るい光が生まれ、一つに編んだ亜麻色の髪が優美に弧を描く。
その様子を息をひそめて人々が見ている。
そんな静かな『祭り』の様子を遠目に見て取り、馬上の青年は目を細めた。一気に加速する。篝火の前に駆け寄ると動きを止めた娘を抱え上げて、そのまま部落を駆け抜け草原へと飛び出した。
月明かりに照らし出された夜の草原に、黒馬と青年と娘の影が刻まれる。
『巫女』がさらわれたぞー、と悲鳴や怒号の交錯する集落を、振り返って見つめていた娘は、自分をしっかりと抱いている青年に視線を移した。
彼は黄色い肌をしていて左腕に大きな傷があった。そっとなぞってみると、彼は初めて娘と目を合わせた。
娘はすかさず、こう尋ねた。
「カオタイ?(名前は?)」
「言葉は分かる。」
「……答えてはくれないのですか?」
「パリィ、だ。リンデオ(草原の民)の姫よ。」
そう言うと、再び緑の瞳が草原に向けられた。
娘はその横顔を見上げ、尚も感情の篭らない声で言葉を続けた。
「貴方は旅人なのですか?」
「……」
「私の名前はお訊きにならないのですね。」
「……」
「私はシャンシル、あの部落の長の娘。貴方は何故、私の部落にいらしたの?」
「……」
「何も言ってくれないのね。」
少しむっとしたように息を吐き出すと、シャンシルは剥き出しの腕を擦った。
パリィがマントを脱ぎ、彼女に着せ掛けてやる。
シャンシルはマントを体に押さえつけた。
「私を返してくださいませんか。あの部落のパティート(巫女)は私だけなのです。パティートがいないとアジーム(祭り)が出来ません。アジームが出来なければ……山の神や川の神が猛り、日照りが続き、死者が出るかもしれません。いくら貴方が異国の方でも、このくらいはご存知なのでしょう?」
彼女がそう口にすると、パリィは眉を寄せた。
「……本当に、それでいいのか?」
「え」
「本当に、パティートがお前の望んでいる道なのか?」
青々とした草の海を強い風が渡っていく。
シャンシルが口を歪める。
その様子を見ながら、パリィは二年前の出来事を思い出していた。
『兄貴、兄貴! あの女、いい服着てるけど、何スかねえ?』
弟分の一人に腕を引かれ、パリィは彼の示す指の先を見た。なるほど、色とりどりに染め上げた生地をたっぷりと使った上等な仕立ての服を纏い、装身具を身につけた少女が馬に乗っている。彼女を先導しているのは首都の衛兵達だ。
なんのことはない。
『あれは、リンデオの姫君だ。』
『何で、リンデオの女が帝都にいるんスか?』
『リンデオがどうして帝国から攻め入られずにすんでいると思う? 自治権を守る代わりに、人質として何年かに一度、集落の姫を差し出しているんだ。帝国に反乱を起こさせないようにな。』
『なるほどー。兄貴はやっぱ、頭がいいなあ。』
彼の見てきた『草原の民』の姫たちは、大抵が怯えたように俯いて馬を御していたのだが、この少女だけは違った。凛と前を向く、その姿に恐怖を感じている様子は微塵もない。ただ深い苦悩と鬱積と、微かな期待が、異国風の整った横顔に滲み出ていた。
ふと、彼女の目の前に一羽の蝶が舞いだした。彼女が小さく身じろぎをした、その時に外れた髪飾りが道に投げ出された。
すかさずパリィの弟分でも最年少の一人が飛び出して掻っ攫う。
先導していた兵士が馬の足を止め引き返してこようとした。
『おやめください』
やんわりとした、しかし芯の強さを感じさせる声が兵士の動きを止めた。しかし、と不満そうに口にする兵に首を振ってみせると、彼女は感情を映し出さない瞳で少年を見た。
少年が小さく声を上げて走り出す。それを見届けて、彼女は再び馬を進めた。
この瞬間、彼は決意した。
「もう一度、訊く。本当にパティートがお前の望んでいる道なのか?」
「私が望もうと、望むまいと、それが私の運命なのだから、部落にいなくてはいけないの……そうよ、仕方のないこと。」
「……望んではいないのだな?」
「私はパティートです。」
すぐにシャンシルの声は『巫女』のそれに戻った。
今度は、パリィが小さく息を吐き出した。
「俺は普段は帝都で暮らしている。草原に出ることなど年に一度あるかないか。」
「なら、何故……」
「長の娘ということは、一度くらいは帝都にやって来たことがあるのだろう?」
「ええ。最近でしたら、二年前に参りました。半年間だけなら暮らしたこともあります。」
シャンシルが体を硬くしたのが、パリィの腕に伝わってきた。ふと厳しい表情を緩め、紺青の空に浮かぶ満月のような金色の瞳を覗き込んで、パリィは畳み掛けるように言った。
「何故、部落から『連れ出してくれたのか』と言ったな?」
「……貴方こそ、本当は術者なんでしょ。私の心を読むことが出来るんじゃない?」
「俺は自由気ままなその日暮らしの身だからな。あんな閉鎖的な部落にいて運命だと言われてパティートを務めるなんて絶対に出来ない。」
「……帝都で暮らしている、と言ったけれど。貴方は何者なの? どうして私を連れ出したの?」
パリィは、シャンシルの髪を留める飾りを外した。夜風にさらわれて長い髪が広がる。その一房に手を絡め、彼は囁いた。
「俺は、盗賊だ。」
「盗賊……帝都の盗賊?」
「そうだ。俺が頭をしている。他は皆、俺より年下の子供ばかり……女だっている。皆、身寄りがなくて独りではやっていけないから、盗賊団を結成したわけだ。善良な市民を搾取して私腹を肥やす役人どもから余分な財産を盗って、返すときにそのおこぼれをもらって……」
シャンシルは眉を寄せてパリィを見上げた。
パリィは彼女の頭に手を置いた。
「一生、奪って生きていくの?」
「まあな。そうしなけりゃ俺達年長はともかく、八つ九つ……一番下は四つか。そういう無力なチビたちが飢えることになる。」
「そんなの……」
「必ず誰かが犠牲になって人間の社会ってものは成り立っている。そのことは、他ならぬシャンシル自身が一番よく知っているんじゃないのか? それなら好きなように生きる方がいいだろう。リンデオから姫君を盗んだり、な。……お前には何かやりたいことは無いのか? パティート以外にも何か一つくらい、やってみたいことはあるだろう?」
そう言ったきり黙りこんでひたすら馬を駆るパリィの顔を、じっとシャンシルは見つめていた。しばらく考え込み、それから少し頬を赤らめて、彼女は呟くように言った。
「うん……あのね、私、裁縫が好きなの。一番初めに帝都に上ったのは十歳の時で、城にやって来ていた仕立て屋さんに裁縫を教えてもらったの。それから二年ごとに帝都に行くたびに、少しずつ装身具と裁縫道具や布とを交換してもらったりしたわ。ほら、こういう装身具は結構高値で売れるのよ。」
言いながら、首の翡翠細工を外してパリィの首に付け替えた。パリィが首に手をやると、彼女はその手を押し留めた。
「外さないで、これは貴方にあげるんだから。」
「俺は男だ。」
「だから、売ってお金にすればいいでしょう? それで皆の食料を買ってもお釣りがくるはずよ。」
徐々にシャンシルの声から感情が消えていく。
パリィはシャンシルの小さな手を強くつかんだ。
「それで、お前は部落に戻るのか?」
「ええ。だって皆、私がいなかったら困るもの。パリィ、貴方に出逢えてよかった。私の気持ちを解ってくれる人がいるって、そう分かっただけでも嬉しいの。ねえ、今戻らなかったら、きっともう戻れなくなってしまうわ。」
そう言いながら、金色の瞳から涙が一粒、二粒と溢れていく。
パリィは手を離し、シャンシルの頭を抱きしめた。
「お前の人生だ、お前の好きなようにすればいい。部落に戻るのもいいかもしれない。……だが、もう一度だけ言うぞ。お前は本当にパティートがやりたいのか? 部落を離れて独りで生きることだって出来る。……独りが淋しければ、或いは俺たちのところに来たっていい。」
「……貴方達のところへ?」
シャンシルは彼の腕に両手をかけた。
パリィが馬を止める。
力強い腕から解放され、シャンシルは草原に降り立った。
手綱を彼女に任せ、パリィが草原に横たわる。
「すぐに決めろとは言わない。後悔しないようによく考えてみろ。お前の思うがままになるのだから。」
頷くと、シャンシルは月光に浮かび上がった粗末な麻のマントを撫でた。それから、馬の温かな背筋に手を当てた。
「ねえ、あなたはどう思う?」
馬は嘶くと、空に向けて首を動かした。
つられて空を仰ぐ。暗い空には満月と天の川が、音の聞こえそうなほど、強い光を放っている。
「……神様に訊きなさいって?」
馬が小さく頷いたような気がして、シャンシルは微笑んだ。
空を仰ぐシャンシルの手に小さな光球が生まれる。その様子を見ていたパリィは、ゆっくりと瞼を下ろした。草に溜まっていた夜露が頬にかかる。乱暴に手で拭おうとすると、ひんやりとした手が雫を払った。
「決めたわ。」
目を開ける。シャンシルが微笑んで彼に手を差し出していた。
「私、貴方と一緒にいきたい。」
馬に乗りながら、彼女はこう言った。
「貴方のところには女の子もいるって言ったわよね? その子達に裁縫を教えてあげたい。この衣裳も装身具も全て売って、そのお金で仕立て屋さんを始めるの。」
後ろに乗ったパリィの手が手綱にかかる。その手にシャンシルは、やんわりと触れた。
「……勿論、すぐに盗賊を止められるとは思っていないわ。でも徐々に違うことを始めていけばいい。」
パリィを振り返る。
「そうでしょう?」
頷いて、パリィは再び馬を駆った。
月が地平線に沈み、次第に星の数が減り、果てしない草の海に朝がやってくる。そんなように皆が自然に生活を営み、そうして笑顔を浮かべていられるように。
シャンシルはパリィの腕の中でそう祈った。
>>release Nov.1999