偶然の風の中

「母様、続きは?」
 夫にそっくりな緑の目をくるくるさせて、愛娘のルーネが首を傾げた。シャンシルは微笑んで娘の頭を優しく撫でてやった。
「これでおしまいよ。」
 ルーネがきょとんとし、周りに寝そべっていた子供たちが騒ぎ出した。
「ええっ、終わりなの?」
「つまんなーい!」
「お姫様はどうなったの?」
 ルーネはいつも続きを求める。だから、シャンシルもいつも通りに締めくくる。
「遠い国で幸せに暮らしているわ。沢山の子供たちに囲まれて、幸せにね。」
 シャンシルが告げたのはいつも通りの全く変化のない結末であり、ルーネは嬉しそうに吐息を漏らした。
「ふーん、よかった。」
「お姫様は『運命の恋』をしたのね。」
 ルーネの隣で頬杖をつき寝そべっていた少女が悪戯っぽくシャンシルを見上げた。
「どうかしらね。」
 笑ってシャンシルは少女の頭をぽんぽんと叩いた。それから、年のわりに小柄な娘の体を抱き上げて、敷き布の上に横たえた。
「さあ、みんな。もう寝る時間よ。」
 シャンシルが首を巡らせると、子供たちもそれぞれの敷布の上に戻っていった。このだだっ広い子供部屋には、ルーネや彼女の弟妹の他にも元盗賊の子供たちが沢山寝泊りしている。十歳を超えた子供たちは男女別に隣の二部屋に収まっている。今頃は声を潜めて盛り上がっているか、或いは思い思いに自分の時間を楽しんでいることだろう。シャンシルは彼らと自分の子供に分け隔てなく愛情を注いだ。子供たちも皆、シャンシルのことを肉親のように慕っていた。
 毛布に包まれてルーネは少し不満そうであったが、シャンシルが額にキスをしてやるとおとなしく目を閉じた。
 ひとりひとりの寝顔を覘いた後、シャンシルは広間に足音を忍ばせて移動した。
 夫が作業の手を休め、顔を上げる。
「ルーネはもう寝たのか。」
「ええ。あの子ったら私が部落にいたときの話ばかり聴きたがるのよ。」
 パリィがふっと笑った。彼は随分と柔らかい表情をするようになった。自分と出逢った頃は若さ故かいつもどこか張り詰めた表情をしていたものだが。
 それでも彼は毎晩、就寝前にナイフを研いでいる。癖になってしまった、研がないと不安になるのだ、というのがパリィの言い分だ。
「他の子供に比べてルーネは少しぼんやりしたところがあるな。」
「そうね。夢見がちっていうのかしら。可愛らしいけどね。」
 シャンシルが微笑むと、パリィは少々呆れたようだった。
 ルーネは二人の間に生まれた初めての子だった。そろそろ七歳になる。時々、生意気なことも口にするが、まだまだ行動がはるかに追いつかない。夜中に用を足しに行く際も誰かしら起こして同伴させるし、年かさの少年少女によく甘える。幼い娘だと二人は思っていた。
 ところが或る夕刻、いくら待ってもルーネが帰ってこない。他の子供たちに尋ねても心当たりがないという。青くなったシャンシルは年長組と彼女を探し回ったが、街のどこにもルーネの姿はなかった。細い三日月が沈む頃合になっても愛娘は姿を現さなかった。
 すっかり意気消沈したシャンシルの元に、狐につままれたような顔をしてパリィが戻ってきた。腕に、ルーネを抱えている。彼女は皆の心配など全く介さず安らかに寝息を立てていた。
「……皇子に、遭った。」
 思いがけない科白にシャンシルはパリィを見つめた。彼は口角を下げて繰り返す。
「ルーネが、皇子に遭っていた。」
「どういうこと?」
「俺にもよく分からん。」
 ただ一人、答えを知るはずの娘は、穴の開くほど見つめられても左手を固く握り締めて昏々と眠り続けている。



 その日の昼下がり、ルーネは誰も見ていない隙を見計らって家を抜け出した。物心ついた頃からずっと聞かされていた『御伽噺』を彼女は事実だと信じていた。そう主張しても、他の子供たちはルーネを馬鹿にした。年長組の少女たちなど、信じていない様子を隠そうともしないのに、口調だけは優しく同意するのだ。腹を立てたルーネが姫は実在の人物なのかと尋ねれば母は笑ってはぐらかし、今はどこに住んでいるのかという問いには彼女の住む街かもしれないと冗談めかして答える。
 それならば、とルーネは思った。姫の実在した証を探しに行こう。
 都の西に広がる草原地帯のどこかに姫の住んでいた集落がある。その集落はそれほど規模が大きくないらしい。母の語りからは大河の傍にあると聞かされていた。大河は大陸北東の高山から南西に流れ落ち、まっすぐ西へと向かっていれば畔に辿りつく筈だった。
 その日は天気がよく、幼いルーネは身一つで集落につくことができると無邪気に信じていた。荷物は水筒と外套、それと虫除けの薬草のみだ。いたって軽装で、彼女は常に右手に山を見ながら歩き続けた。だが、自分の肩くらいの背丈の草を掻き分けて進むのは、想像以上に疲れた。いつしか軽かった足取りは鉛のように重くなり、歩くのが億劫になった。
 日が暮れてくれば、吹きすさぶ風も冷たく、目印の山も闇に紛れてしまった。空腹で体に力が入らない。たまらなくなってルーネはべそをかいた。周囲を見回しても草の海しか見えない。最早、どちらが都であるのかすら分からない。空には細い三日月が浮かぶのみ。誰もいない。人恋しい。
 馬の嘶きが聞こえたような気がして、ルーネは足を止め耳を澄ました。気のせいではない。風に乗って、草を掻き分ける音が聞こえてくる。
 ルーネは腹の底から声を振り絞った。
「誰かいるのー?」
 もう一度、耳を澄ます。誰かがこちらに向かっては来ないだろうか。ルーネは目を擦ると口を開いた。
「助けてー!」
 声は空しく夜闇に響いて消えていった。空耳だったのか。ルーネは肩を落とした。
 他に頼るものもなく、三日月をめざし歩き出した。だんだんと草の丈が短くなり、やがて開けた場所に出た。むき出しの地肌に背の高い岩がいくつか集まっている。
 岩によじ登ってルーネは周囲を見渡した。まだ日の高いうちに見た景色と今、岩の上から一望した景色とは全く違う。彼女は軽く衝撃を受けた。束の間、人恋しさを忘れた。
 乾いた風が頬を撫でた。喉の渇きを覚え、ルーネは水筒の水を口に含んだ。そうして再び遠くへ視線を投げかけた。
 暗闇と草の海の境界を縫って何かが動いていく。ルーネは目を凝らした。それは、こちらへ向かっているようだった。拳大ほどだったのが、どんどん大きくなっていく。
 馬が疾走しているのだと気付いたのは、蹄の音がはっきりと耳に届いてからだった。騎手と目が合った。馬は呆然とするルーネの側にやって来ると足を止めた。
「助けを呼んでいたのは君?」
 騎手の漆黒の瞳が悪戯っぽく揺れた。
「うん……助けに来てくれたの?」
「うーん、助けに来たっていうよりは通りがかったっていうのが正しいかな。」
 彼はどこか呑気な口調で頭をかいた。ルーネより数年、年長だと思われる。少年はまじまじと彼女を見つめた。
「名前は?」
「ルーネ。」
「君は、こんなところに一人で何をしているの?」
 ルーネは恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。
「道に迷ったの……行きたいとこがあって、でも皆に言ったら止められると思って内緒で家を出てきちゃったの。」
「それで、一人で何も持たずに。」
 少年は呆れたように微笑んだ。馬鹿にされた、とルーネは頬を膨らませ少年を睨んだ。
「これ、持ってきたもん。」
 水筒を掲げてみせたが、少年は軽く聞き流した。
「お兄ちゃんはどこから来たの? どこへ行くの?」
「僕は都からね。都じゃないどこかに行こうと思ってさ。とりあえずは川を越えた隣の国かな。」
「お兄ちゃんの家族は心配してないの?」
「それはこっちの科白だよ。こんな遠くまで一人で出てきて。君の家族は今頃、凄く心配してるよ。」
 ルーネはぐっと言葉に詰まった。人が良さそうに笑っているのに、外見と裏腹に意地が悪い。
「だって、あたしはお夕飯までに帰るつもりだったんだもん。」
「夕飯までに、ねえ。じゃあ、君はどこまで行こうと思ってたの?」
「お姫様のふるさと!」
 ルーネが胸を張ってみせると少年はゆっくりと瞬いた。
「お姫様?」
「あのね、河の近くにお姫様の住んでた村があるの。」
 ルーネはにこにこと言葉を続ける。
「母様からいつもお姫様のお話を聞いてたんだけど、そのお姫様はお話の中の人だからっていうの。でもあたしはお姫様が本当にいたと思うの。だから、お姫様の村の人に会えば本当にいたんだって分かるでしょ。」
「なるほどね。でも、もう夜なんだから家に帰ったほうがいいよ。」
「うん、でもね、お家がどっちかわかんない……」
 ルーネが俯くと、彼は苦笑した。
「しょうがないな、送っていってあげるよ。」
「本当?」
「本当だよ。君みたいな小さい子を見殺しになんてできないからね。」
 少年はルーネを抱き上げた。腕に抱え込んで馬にまたがる。颯爽と駆ける馬上からルーネは大きな目をいっぱいに見開いて、揺れる草を見ていた。馬に乗ったことなんて片手で数えるほどしかない。父の馬はこんなに速く走らなかった。少し恐ろしいが、快い。不思議な気持ちだ。少年と出遭えてよかった、とルーネは心の底から思った。
「お兄ちゃんはどうしてお隣りの国に行こうと思ったの?」
「どうしてだろうね。」
 少年の切れ長の目が曇った。ルーネは小首を傾げた。
「何か哀しいことがあったの?」
「何もかも厭になったんだ。」
 少年の手綱を握る手に力がこもった。馬が足を速める。振り落とされそうになり、ルーネは驚いて少年にしがみついた。
「僕はね、何一つ不自由しない家に生まれたんだ。昔から色々と勉強をしてきた。それは全部、みんなのためなんだ。他人のために生きる人生を強いられて、やりきれなくなったんだよ。」
 ルーネは少年を見上げていた。少年はルーネを見ようとせず、ひたすら前を向いている。彼が泣き出すのではないかとルーネは心配になった。
「僕は僕のために生きたい。誰よりも僕のためになることをしたい。そう思うのは我侭なのかな。」
「お兄ちゃんはみんなが嫌いなの?」
 少年は顔を強張らせてルーネを見つめた。
「あたしは、母様や父様やカロやイードやキュアや、みーんな好きだよ。お兄ちゃんは好きな人はいないの? なんだかお兄ちゃん淋しそう。」
「……うん、そうか、僕には好きな人がいないのかもね。」
「でも、お兄ちゃんの母様や父様はきっと、お兄ちゃんのこと好きだよ。」
 少年は顔を歪めた。
「あの人たちは、僕を道具だと思ってるよ。政治の道具……僕は人の上に立ちたいなんて思ってない。」
 少年の目が潤む。ルーネは眉をしかめて彼の胸に頭を寄せた。淋しい心音が耳につく。
「難しいことはわかんないけど、あたしはお兄ちゃんのこと好きだよ。お兄ちゃんはあたしのこと助けてくれたもん。優しいもん。」
 そっと小さな手を少年の額に伸ばした。少年はルーネの頭を撫でた。
「君はいいこだね。」
「お兄ちゃんもいいこだよ?」
「そうかな?」
「そうだよ!」
 ルーネは自信たっぷりに頷いた。ふっと少年の口元が緩む。
「もう少し、頑張ってみようかな。」
 彼は右手の中指から指輪を抜くとルーネの指にはめた。
 ルーネはしげしげと指輪を見つめた。黄銅の幅広の指輪には複雑な文様が刻まれている。自分の指には大きすぎる指輪をすかすかと動かしてみた。
「君にあげる。いいものをもらったから、そのお返しだよ。」
「いいもの?」
「その指輪がぴったりになる頃に、また会おうね。」
「うん!」
 ルーネは指輪を手の中に握りこむと再び少年の胸に頭をもたれた。頬と耳と首と、露出した肌に温もりが伝わってくる。揺れに身を任せていると、とろとろと瞼が重たくなった。
 寝息を立て始めたルーネの体を少年はそっと抱えなおした。草原を見据え、ただ馬を走らせ続けた。その横顔にはもう、迷いはなかった。





>>release  Apr.12. 2003 


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