そのとき、僕は自分の周りの世界が音を立てて崩れていくような気がした―。 早くに両親を亡くし、物心ついた頃からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染。 そして、いつしか互いにほのかな恋心を抱いていた相手。 そんな彼女の口から己の存在を否定されるような言葉を聞く日が来るとは、夢にも思わなかった。 異形の存在に姿を変えた自分を見て、彼女の受けた衝撃が計り知れないものであった事は容易に想像できる。 けれども、それを理解していてなお――ショックだった。 ヴァレリア・シャトーが停泊している場所にほど近い野原の中、ちょうどよい大きさの岩を見つけると、 アシュレーは疲れたように腰を下ろした。 見上げた空には青白い月。 ――どんなものでも、月はあまねく平等に照らしてくれる。 外套を羽織っていても夜の空気はやや肌寒かったけれど、彼は飽く事なく空を眺めていた。 どれくらいそうしていただろうか。 微かに草を踏み締める音を聞いた気がしてアシュレーが振り返ると、 そこにはいつもの無表情な顔をしたカノンが立っていた。 「いつまでもこんな所にいては、風邪を引くぞ」 「……カノン?」 「まあ、魔獣に襲われるかもしれないという心配は、お前には無用のようだがな」 「心配してくれてるのか?ありがとう」 「まさか、こんな所で誰かに会うとは思わなかったよ…」とアシュレーが笑顔を作りながら言うと、 彼女はふいと横を向いた。 「…忘れるな。お前を殺すのは、このあたしだ」 だから他の誰にも害されるな…と、彼女は言いたいらしい。 無愛想な声音に隠された、不器用な優しさ。 ふとそれに気づいたアシュレーは、知らず口元に笑みを浮かべながら言った。 「僕よりカノンの方が寒いんじゃないか?そんな恰好で出てきて」 「あたしの身体はほとんどが義体だ。ゆえに寒さなど感じない。 スレイハイム周辺などでは、義体の調子が悪くなる事もあるがな」 「…………」 「そんな顔をするな、あたしが自分で選んだ道だ。 ……今にしてみれば、愚かだったとは思うが…」 だが、それも過ぎた事だ…と、事もなげに言う彼女。 強がりなどではなく、本当にそう思っているようだった。 「カノンは強いな…」 どこまでも凛としている彼女に、アシュレーは感心する。 彼女には、迷いというものがない。 そして、自らの選択の結果から逃避せず、しっかりと受け入れている。 「それに比べて、僕は…」と、アシュレーは俯いた。 「…あの娘の事か?」 "あの娘"というのがマリナの事を指しているのだと気づき、彼は一瞬顔をこわばらせた。 「ああ。……あなたはアシュレーじゃない、か…」 怖がらせてしまったな…と、彼はひとりごちる。 この身に宿る"炎の災厄"の事は、いずれはマリナにも打ち明けなければならなかった事だ。 けれどももう少し穏やかな形で伝える事ができたなら、彼女の衝撃も軽いもので済んだかもしれない。 そう思うと、あんな状況で明らかになった事は、お互いにとって最悪の形であったと言わざるをえない。 ……全ては、アシュレー自身の臆病さのせいだった。 「無理もないだろうな。あたしのこの身体も、随分と気味悪がられたものだ。 『炎の災厄』をその身に宿しているなどという話だけでは眉唾ものだろうが、 実際にその目で見てしまえば、否定したくとも否定できまい」 「…………」 「どうした?お前は"それ"を押さえ込むのではなかったのか?」 責めるような口調だが、彼女の視線にそのような意図は窺えなかった。 それで、ついアシュレーは今まで聞けなかった疑問を口に出してしまう。 「なあ、カノン…僕は僕…だよな?」 「何を今更。下らん、お前はお前だろう。それとも違うのか? ―もしもそうであるならば、あたしはお前を斬らねばならない…」 弱音とも取れるアシュレーの問いに返ってきたのは、案の定冷たく突き放すような言葉。 けれども、カノンが「お前はお前だ」とはっきり断じてくれた事に安堵して、彼は言葉を続けた。 「時々怖いんだ。僕は、本当に"焔の災厄"を押さえきれるんだろうか、って…」 「案ずるな。もしお前自身が災厄と化したならば、あたしが凶祓の名にかけてお前を祓ってやる」 「…怖いな、それは」 鋭さを増した瞳にアシュレーが緊張を強めると、彼女は不意に視線を和らげて言った。 「だが、そんな日が来ない事を祈っているよ、アシュレー。 お前のその弱さ、優しさは嫌いではない。 守るべき大切な者がいるならば、それこそが強さに変わるのではないか?」 「カノン…?」 「護りたいものがある、それだけで人は強くなれる。…少なくとも、あたしはそう思っている」 悲しげにも見える瞳に、アシュレーは違和感を覚えた。 彼女がいつもと違って見えるのは、あたりを照らす月明かりのせいだろうか? (カノンにも、そんな人がいるんだろうか?……それとも、いたんだろうか) 淡々と紡がれた言葉が、かえって自分の中に違和感なく受け入れられていくような気がした。 (そうだな…。信じよう、自分を。みんなを。……マリナを) ずっと座りっぱなしで硬直してしまった筋肉をほぐしながら、彼はゆっくりと立ち上がった。 何となく、ひとりでこの場所に来たときよりも気持ちが軽くなったような気がする。 (カノンのおかげだな) そろそろ城に戻ろうと彼女の方を振り返ると、彼女もまた先刻の彼のように夜空を見上げていた。 「月、綺麗だな」 「……?」 今更何を言い出すのだと言いたげな顔だ。 無理もないな…と自分の言葉に苦笑しながら、アシュレーは彼女の傍らに足を進めた。 「この先も、みんなで一緒に月が見られるといいな」 「…ああ」 自然、お互いに口元から笑みがこぼれる。 今度は彼も、心からの笑顔だった。