もう久しく見ることはなくなっていたのに、今になってときどき子ども時代の夢を見る。 よく遊びに行った森の、どこかつくりものめいた美しさ。 見せかけの平穏の裏に慎重に隠された、大戦の爪痕。 そして、厳しくもあたたかな愛情を注いでくれた、母や周囲の大人達。 幼い自分は、あの人工の楽園で手厚く護られていたのだと改めて思う。 今日は、ベッドに横になっている僕の傍らで、母さんが心配そうな顔をしていた。 どうやら僕は、風邪でも引いて寝こんでいるようだった。 『ジュード、何か欲しい物はある?』 普段は何かにつけて口うるさかった母さんも、 こんな時はただただ優しかったのを思い出して泣きたくなった。 いつもそうだ。 夢の中にいる時は妙に冷静なのに、現実に戻った途端どうしようもなく恋しくなる。 取り戻したいと思ってももう取り戻せない、幸せな時代の想い出は、 何もかもが懐かしく愛おしい。 あのまま何も知らずにいられたなら、僕は今頃どうしていたのだろう―-―。 そんなとりとめのない思考は、襲いくる睡魔の前にあえなく途切れた。 ぼんやりと覚醒に向かう意識。 ふと窓の外に目をやると、日は既に空高く昇っていた。 ――いけない、遅刻だ。 慌てて起き上がろうとすると、なぜか身体に力が入らない。 次の瞬間、額にふれたひんやりとした手が心地良くて、僕は思わずうっとりと目を閉じた。 「かあさん…?」 「いいから、おとなしく寝ていろ」 夢の続きかと思って反射的に口をついた言葉に応えたのは、母とは似ても似つかない低い声だった。 乱れた毛布を掛け直してくれる、男にしては繊細な手。 渡り鳥を生業としている間にやや武骨になったように見えるが、 その手の体温の低さは相変わらずだ。 「くるー、すにく……」 「来てたの…?」と声に出すことさえ億劫で目線だけで問うと、 「何か欲しい物でもあるのか?」と穏やかな笑みを向けられる。 初めて会ったときの硬い表情からは想像もつかない、柔らかなほほえみ。 このひとも、いつか自分の手の届かない世界に行ってしまうのだろうか――。 そう思うといてもたってもいられなくなって、僕は立ち上がろうとする彼の裾を掴んだ。 「いらないっ!何もいらないから、ここにいて…」 行かないで…とつぶやいた語尾が掠れる。 目頭ににじんだ涙は、今にもこぼれ落ちていきそうだ。 自分の服に縋るようにして言う僕を見て、彼は明らかに動揺していた。 「…どうした?」 少し困った顔をしながらも、そっと包み込むように抱きしめてくれる腕。 そのぬくもりに身をゆだねようとした刹那、僕はある事に思い至り、 そこから逃げるように身をよじった。 しがみつこうとしたかと思えば、今度は自分から遠ざかろうとする僕の行動に、 彼はますます不可解そうな表情になる。 無理もない。僕自身、自分が何をしようとしているか、よくわからないのだから。 そのまま黙って俯いていると、本気で抵抗するそぶりがないことに気づいたのか、 彼は僕を抱きしめる腕に力をこめた。 まるで、僕の不安をすべてわかっているとでも言うように。 「…これぐらいではうつらないさ。だから心配するな」 「え?」 どうしてわかったんだろう。 不思議に思って顔を上げた僕の目に入ったのは、おまえとは鍛え方が違うんだというしれっとした顔。 何だか悔しくなって、僕は彼の視線から顔を背けた。 ――僕は、この腕の中から逃げられない。 こんな時でなければ逃げるつもりもないのだけれど、 それを見透かされているような気がするのは面白くなかった。 (だって、これじゃあ僕だけひとりで空回りしてるみたいじゃないか…) 彼の気持ちを疑うわけではないけれど、その余裕は一体どこから来るんだろう。 あと一年もたたずに、自分は初めて会ったときの彼と同じ歳になってしまうのだけれど、 そうなったからといって彼のような余裕を持てるようになるとは到底思えない。 一生追いつけないんじゃないかとすら思う。 恋人とはいえ、やはりそれは男として悔しいことだった。 考えていることがそのまま顔に出ていたのか、頭の上でクルースニクが苦笑を漏らす気配がした。 「…拗ねた顔は、昔と変わらないな」と、耳に息がかかるほど近くで囁かれて、頬が熱くなる。 からかうような声音にむっとして彼を見上げると、 「この分なら大丈夫そうだな」と笑って腕の力を緩められた。 その顔がまた、憎らしいくらいかっこいい。 (ほんと、かなわないよなぁ…) 僕を解放し、キッチンに入っていく後姿を見送りながらそう思った。 思わず我を忘れるようなあの強い不安は、いつの間にかどこかに消え去っていた。