時流は過ぎ行く

 その家を目にした時、私は思わず息を飲んだ。
 以前訪れて辞する時に不遜にも『この家は晩年を迎えて
いる』と思ってしまったものだが、それは、私の若さ故の
傲慢な思い込みだったのかも知れない。
 この家はただ、緩やかな時間の中に存在していただけだ
ったのだ。周囲であたふたしている私達とは異なる時間の
流れを迎えただけなのだろう。
 感慨に浸ってばかりも居られない。現当主も待ちかねて
いる事だろう。
 玄関のベルを鳴らし、暫し待つ。

 「ようこそ」
 静かな声。動かない表情。ただ、纏っている雰囲気に穏
やかさが滲み出ている。
 「自らのお出迎え、恐縮です」
 「人が居りませんから。さ、どうぞ」

 調度も、全くあの頃の侭。そして華やぎを与える人は、
もう居ない…と思っていたが、彼女が居る時と同じ空気が、
静かに部屋に漂っていた。
 「香を、焚いていらっしゃいますか?」
 「ええ、京都のお方に合わせて戴きました」
 私の方に紅茶碗を滑らせて微笑む。
 「ああ、彼女が。でも、面識は…」
 「青山のご老人の手引きで二度程」
 「成程。あの方も抜け目が無い」
 こうやってゆっくり話すのは初めてに等しい。でも、同
じ人々の思い出を共有して居ると言う事実が、共犯者意識
で私達を結びつける。
 「お話を受けて戴き、感謝します」
 「決心には、時間が掛かりましたがね。貴方からの依頼
で無ければ断っていたかも知れない」
 「そう言って戴き光栄です」
 「何しろ貴方は、」 
 言葉を切り、私の目を正面から見据える。
 「彼女の聴衆であり、私の聴衆であり、涙を捧げて下さ
った方なのですから」
 「……恐縮、です」
 畏まる以外、私に何が出来るのだろう。
 そして固まってしまった私に、不意に当主がにやりとし
た笑いを見せる。
 「今日は仕事の打合せでは有りますが、故人を偲んで無
礼講と言う事で」
 「?」
 「多少のアルコールが入られても平気ですね?」
 「ええ、まぁ」
 「故人には一つ、貴方…じゃなくて君に心残りがあった
らしくて」
 いきなり言葉を崩した当主に対してどう反応すれば良い
のか、と戸惑いつつも応対の言葉だけは紡ぐ。
 「何でしょう?」
 「ちゃんと成人した君にワインを勧めつつ、せめて一曲
捧げたかった……機会があの後訪れなくて、ね」
 「そうでしたか」
 「音源のマスタリング確認は、今日じゃなくても出来る
よね?」
 「…強引に持ってきますね」
 只管苦笑のわ…じゃなくてぼく。
 「お望みなら完璧を目指しても良いんだが?」
 不敵な微笑で対する現当主。
 「それは、興醒めになりますから止めましょう」
 「そうだな」
 「では、聴かせて戴けませんか?」

 レコードから流れる音にはかなり雑音が混じっていた。
無理は無い。公式な録音ではなく、今で言う海賊盤と言う
位置に当るレコードなのだから。でも、ぼく達の心を揺さ
ぶるには充分な歌声だった。
 「芙蓉さんは」
 「うん?」
 「過ぎ行く時を拒んでいたのでは、無かったんですね」
 「肯定もしなかったけどね、多分」
 「奇跡を見せて貰えて、嬉しかったです」
 「その言葉、何よりの手向けだと思うよ」 
 グラスを静かに傾けて、問わず語り。
 「彼女はあの後、もう一度奇跡を起こしたかったのだと
思う。私の力が足りなくて実現しなかったけどね」
 「多分、彼の事でしょう?」
 「知ってたのか?」
 「偶然知ってしまいました。観たいかどうかは、複雑で
すけどね」
 「君にとってはね」
 「奇跡は一度…それでも良いと思えます。今なら」
 「では、何故この仕事を受けた?」
 「夢を届ける手伝いをするのは、自由でしょ?」
 「そこからは、それぞれの運だと?」
 「奇跡を見出すのも、奇跡を拒むのも同じ人間ですから」
 我ながら、静かに笑って言えたと思う。
                 (2003.2.11)

《コメント》
主役達だけが小説を構成するのではありません。
登場人物達の時間の積み重ねが重なって
小説の色彩が生まれるのだと思います。
そして、ここではあえて追憶で
その一端に迫る試みをしてみました。

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