囁きの様に
それは、ほんの気紛れだった。 実家に帰ったのも。 ましてやカズミ…薬師寺香澄に『家に来 ないか?』などと誘ったのも。 それは、俺の中に起きたささやかな変化 だったのかも知れない。 「変わってねーな、ここ」 ピアノの定位置が床から10センチ高 い程度に設えられた『コンサートホール』。 つっても、50人入るか入らないかの、 まあ、大き目のフロアって言った所かな。 ……チビの頃、まだ自分がピアニストに なるんだと信じて疑いの欠片すら抱かなか った頃、毎週の様にこのピアノの前に座っ て公開『お稽古』をしたもんだ。 別に、今でもピアノが嫌いな訳じゃない。 音楽が嫌いな訳じゃない。ふと聴こえる演 奏に心震わされて、涙ぐんじまう事だって、 ある。 それでも、鍵盤には触らなかった。否、 触れなかった。高1の夏から今に至る5年 間の間。 前半の3年間は親の敷いたレールに対す る意地。そして後半の2年間は…『音楽』 に対する後ろめたさ故に、だ。 好きだったんだ。音楽が。でも、詰まら ない意地で自分から距離を置いてしまった。 そんな自分が、許せなかった。 そんな俺を変えたのは、カズミの一言。 『好きな気持ちとか、涙が出たりするっ て、理屈じゃないんだよね』 こいつを誘ってここに来たのも、自分の 殻を破りたかったから。こいつの存在は… 言ってみれば『お守り』、だ。 ピアノの蓋をあけて。指慣らしにコード 進行。ゆっくり繰り返す内に段々と感覚が 戻ってくる。そして、一緒に訪れる、音を 組み立てている時のあのワクワク感。これ だ!俺があの頃見失ったのはこの感覚だ。 つい嬉しくて即興演奏に走りたくなる指 を宥めて、改めて演奏を始める。静かで、 やや癖のある優しい男性ヴォーカルと静か なピアノが印象的なあの曲。メロディーを 辿って行く内に目頭が熱くなる。ふと気付 けば、カズミがハミングでメロディーを追 っていた。 「知ってたんか」 「深春がたまたま、ね。歌ったら、邪魔?」 「ちっとも。じゃ、最初からな?」 「ん」 カズミのキーに合わせて、ゆっくりと弾 き直す。囁く様な、でも真っ直ぐ伸びるカ ズミの声に包まれている様な、優しい気持 ち。 言わないけどさ。言ったらクサくなっち まうから。 でもさ、カズミ。 お前とダチで良かったよ、俺。 こんな気持ちを味わえたのが、この気紛 れの一番の収穫だよな。 俺は、胸の中で一人ごちた。
《コメント》 久々の表SSです。単発モノなのはご愛嬌。 何卒ご勘弁下さい。 これを書く前に、ふと好きだった曲が 頭の中に「降って」来ました。 そのイメージとカゲリ君の音楽に対する 想いみたいな物がシンクロして、 この設定が出来ました。 イメージとして借用したのは、 ZABADAKの「光降る朝」。 機会があったら聞いてみて下さい。