「わたしにはさくらせんせいがいます。ですから……けっこうです」

そう言い残して、沙里亜は逃げるかのように常和から離れた。
ぱたぱたと小走りになって、やがて姿の見えなくなったところで止まる。
(――びっくりした)
まさか隣の組の先生が間に割って入るとは思わなかったのだ。
あの2人がしつこいかった為、適当に良い逃れようと思ったのだが思わぬところで助けが入った。
……少し、微妙な助け方ではあったが。
それでも一応、助けてくれたのだろう。
(……どうしよう)
驚いて、どう反応して良いのかが分からなくて。
困った末に、可愛くないことを言って去ってきてしまったのである。
おまけに、社交の場で身に付いた上辺だけの笑顔までみせて。
(おれい、ゆってこなかった)
幼心にも、あの態度は良くなかったと思ったのだろう。
困ったような表情を浮かべて先ほど後にしてきた場所のほうをちらりと見やる。
けれど今更、礼を言いに戻ると言うのも妙な気がする。
気恥ずかしい。
そう、沙里亜は恥ずかしかったのである。
あんな風に絡まれるのはいつものことだったのに、なかなか逃れることが出来なかった。
そこを、あまり直接的には関わりのない隣の組の先生に見られて助けてもらった。
人見知りと言うことでもないが、それに近いものがある。
一度あの場から離れてしまうと、また会ったときにわざわざその話をひっぱりだして礼を言うというのもやり辛い。
どうしてあの時に言ってしまわなかったのだろう、と沙里亜は思った。あの場で言ってしまえばそれきり悩む必要はなかったのに。
もっとも、あの時はうろたえていてそんな余裕なんてなかったのだが。
愛らしい紅顔の幼顔に似合わない、渋い顔のまま呻く。
このまま礼を言わないというのも流石にどうかと思う。
助けられて確かに戸惑ったが、嬉しかったという気持ちも勿論あるのだ。
しょうがない、今度あったときに礼を言うことにしよう。
そう決めて、とりあえずはほっと息をついた。



だが、一度言いのがしたことは後になるとどんどん言い出しにくくなるものである。
常和の姿を見つけても、何も言えないままで見送ったり、なんとなくその場から離れてしまったり、周りに誰かが居たりで、タイミングを逃してしまっていた。
おかげでその日は一日中もやもやとした思いで過ごすこととなった。
本当に、あのときに言っておくんだったと心から思う。
そんなことをしている間にも時間は正確に流れて、退園時間になってしまった。
今日はもう、常和に話しかけるチャンスは巡ってこないだろう。
幼い容貌に似合わない溜め息をつく。
が、次の瞬間には帰りの迎えに来た、兄の姿を見つけて顔を輝かせていた。

 「にいさま!」
 「迎えに来たよ、沙里亜。さ、帰ろう」

玄関口に姿を見せた兄に手招かれ、沙里亜は紗倉先生に別れを告げ嬉しそうな顔で飛びついた。
骨が細く肉の薄い少年は、飛びついてきた妹をよろけつつも辛うじて受け止めた。
手をつないで、迎えの車が停まっているところまで連れて行く。
今日の迎えが兄も一緒だと思っていなかった沙里亜は、上機嫌で大好きな兄の手に引かれていく。
やがて見えた黒塗りの大きな車、兄がドアを開けようとする前に、内側から開かれた。

 「沙里亜、待ってたぜ!」
 「こら、“お嬢様”だろう!言葉づかいもなおせ」
 「なんだよ、お前だって昔は沙里亜って言ってたくせにー」
 「うるさい、昔と今は違うんだ。……あ、お帰りなさいお嬢様」
 「お帰りー」

上質な革張りのシートには、兄と同い年である従兄弟の双子の姿があった。
何やら言い争っていたが、2人とも直ぐに笑顔で沙里亜を迎えた。



 「ミナとシィもいっしょだったんだ」

車に乗り込み、沙里亜は改めてよく似た2人に目を向ける。
兄だけではなく2人も居るなんて、とても嬉しい。
双子の片割れ、やや茶色みを帯びた髪の方がそれに答える。

 「そ、そ。今日は何も予定なかったからさー」
 「だから私たちも一緒に帰って来れたんです」

あとを次ぐように、黒髪の片割れが口を開く。
似ているのは外見だけで、性格は全く似ていない2人だが、息が合うところを見るとやはり双子らしい。

 「それで?きょうはなにかあった?」

期待のまなざしを向ける沙里亜に、今日学校であったことを報告するかのように双子は話し始めた。
といっても、主に話を進めたのは茶髪の方で、黒髪の方は言葉づかいをちゃんとしろとたしなめたりで少々口を開く程度だったが。
軽くツッコミを入れつつ、穏やかな表情でそれを見ていた兄が、今度は沙里亜に問いかける。

 「お前はどう?今日も楽しかった?」

その一言で、すっかり忘れ去っていた今日の一件を思い出した。
きらきらと瞳を輝かせていた表情から一変、難しい顔になった沙里亜に、年上3人は不思議そうに首を傾げる。

 「何か、あったのか?」
 「まさか、苛められたとか…」
 「そうなんですか、お嬢様?」

当事者の沙里亜よりも、よほど真剣な顔になって3人は沙里亜を見つめる。
――うちの可愛いお姫様に手をだしたらどうなるか、存分に思い知らせて後悔させてやる。
そのとき、3人の心は一つとなっていた。
それに気付かない沙里亜は、ふるふると小さく首を振る。

 「ううん、ちがうの。……ねえ、にいさま。
  なにかしてもらって、すぐにおれいゆえなかったときってどうする?」

何か思い悩んだ様子の妹に、何故とは聞かず問われた彼は口を開く。

 「そうだなあ……やっぱり後でちゃんとお礼を言うかな。
  ああ、感謝の気持ちに何か贈るのもありだね」
 「おくりもの……そっか!」

難しい顔で考えていたが、何事か思いついたらしく急ににこりと笑顔になった彼女を、3人はやはり不思議そうな表情で顔を見合わせるのだった。



次の日。
朝早く、里見幼稚園の職員室の傍に小さな影があった。
まだ時間が早い為か、職員室に保育士の姿は一人しかない。
その一人が、今日のお話に使う絵本を取りに職員室を離れた。
その姿を見届けると、息を潜めていた小さな影は動き出した。
からりと職員室の引き戸を開け、素早く慎重に部屋に入り込む。
そして、きょろきょろと部屋の中を見回し、つま先立ちになって机を一つ一つ確認していく。
やがて目当ての机を発見したのか、大事に手に抱えていたものを手を伸ばしてそうっと置いた。
よし、と満足げに頷いて、影は再び出入り口へと向かった。
からり。
その影が扉を開ける前に、扉は自動的に開かれた。
此処の扉は自動ドアだったろうか、そんなことをぼんやりと考えつつ、妙にゆっくりとした動きで上を向く。
と、そこにはまつ組担当の常和の姿があった。
扉を開けたところで、足元にいた小さな人影に常和は目を瞬いた。

 「……聖。随分早いな、どうしたんだ?」

問いかけられた沙里亜は、何も答えずに大きく目を見開いていた。
いや、答えなかったのではなく答えられなかった。
目の前にいる人物をみて、大いに驚いていたのだから。
更に、頭の中は何故常和がこんな時間に居るのだろうと言う疑問でいっぱいだった。
動きを止めた沙里亜に、怪訝そうに呼びかける常和。

 「聖?大丈夫か?」
 「……!なんでも、ない!」

その声に我に返った少女は、ふるりと首を振ってそう言うと、常和の横をすり抜けて走り去った。
その後姿をやや呆気にとられて見送った常和は、嫌われているのだろうか、とかちょっと思ったかも知れず。
しばらく少女が走り去っていった廊下を眺めていたが、やがて中に入り、自分の机に見慣れぬものが乗っていることに気付いた。
綺麗に包まれた白い霞草の小さな花束。
何だろうかと思い手に取ると、白いカードが付いていることに気付いた。
そこには幼い筆跡でこう書かれていた。

『ときわせんせいへ  ひじりさりあ』


それを知ってのことか知らずのことか、白の霞草の花言葉は感謝と切なる喜び。
小さなお嬢様からの、分かり辛いささやかな感謝の形である。

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