ところで最近、恐ろしい噂が巷で溢れかえっている。その女と目を合わすとたちまち魅入られて死んでしまうだとか、年若い男限定であったり、男女問わなかったりとさまざまだ。しかし、その似たような噂が示す土地はほとんど一致していた。

駿河によるついでに、国の行き来が活発な駿河なら何か知っているだろうと思い、江戸は彼女に尋ねたのだった。


「噂は聞いたことありますけん、詳しくは知りません。尾張か、相模に聞いてみますか?うちより何か知ってるかも」
「いや、いい」
「じゃあどうでしょう、会いにいってみては。火の無い所に煙は立たないっていいます。それにほら、江戸さんに敵う者はいませんで、恐いもんはなんにもないと思います」
「そりゃそうだ!駿河も言うじゃねぇか」

江戸は調子よく頷いた。

「お前の言うとおりだ、確かめに行くのがいいか」
「今からですか?」
「駿河も行くか」

駿河は急いで首を横に振る。

「噂だけでも恐ろしいだ」
「所詮噂だ。てぇしたこたぁねえ」
「本当に、大したことがなければいいけんねぇ。気をつけてください。………それにしても江戸さんはその噂が気になってしょうがないみたいで………あ、ああ。そうでしたねぇ。なるほど」

駿河は何度も頷く。噂の出所がよりにもよってあそこで、これほど話題の種になったのだ。江戸が気にするのも当然と言えば当然だ。
駿河はこの時代には高価な眼鏡をかけ直す。

「まさかとは思いますけん、帝は………」
「お上はでぇーじょうぶだ、多分な」

江戸は最後の砂糖菓子1つ、放り込んだ。






それから江戸は駿河の国を出て、西へ西へと進んでいった。行かない方がいいと口をそろえて言うものだから、ますます気になってしまう。
噂を追っていきたどり着いたのは山奥の小屋だった。来る途中、たくさんの地蔵が並んでいた。首が変なふうに曲がっていたり顔の部分が破壊されていたり、とても不自然で、嫌な予感はした。
小屋に入ると足元には赤いものが転がっていた。達磨や鞠、布切れ。どれも薄汚れて色が落ちていた。
死臭と煎じた薬の臭いがはびこっている。うめき声が耳から離れない。奥の方でごろりごろりと薬草をするような音がする。医者が一人。こんなところに放り込まれるとは哀れなことだ。噂の妖怪がいるはずがない。
江戸は蓆の上に寝かされている病人をちらりと見た。とっさに袖で口を隠す。

「ひでぇな、こりゃ疱瘡か」

医者に話を聞こうと江戸は思い声をかけた。この小屋に入った時、何故か江戸はその医者が老人だと思った。ごり、ごろり、やがてゆっくりと手を止めた。やつれた表情の女が顔をあげた。目をまんまるにして驚いた。

「京都さん」
「なんや、江戸はんまでこないなところまで」

病人や散らかった道具を蹴飛ばし、江戸は京都に駆け寄る。よく似た人であるわけでもない、妖怪でもない、本当に京都だ。

「京都さんが、なんだってこんなところに?」
「帝がずぅっとお心を痛めてはった」
「それだけの理由で?」

江戸は乾いた笑いが出た。あんな高貴な人が、今にも死にそうな病人に囲まれて………。何かの嘘だと思いたい。噂よりも衝撃的な事実に江戸はしばらく言葉が出なかった。

「こんなところ出た方がいい」

そのままぽっきりと折れてしまいそうな手首を掴み、引っ張り上げようとするが、京都はそれをかたくなに拒む。

「もうこの人たちはようよう死にますえ。うちはわかるんどす。長くありまへん。最期を看取ってから戻ろうと思っとります」
「ああ、立派な心掛けだ!涙が出るよ。だがよ京都さん、あんたはここにいるべき人じゃねぇ」

さあ、さあさあ、と立つように促す。しかし京都は動かない。気の短い江戸は、いつもなら斬ってすてるところだ。いや、彼女がさようならばと江戸はその場に座り込んだ。
「おおきに」と京都は小さく頭を下げて、先程の作業に戻る。一通り薬を煎じ終えると、江戸と向き合って座った。

「江戸はん、これはうちの我儘や。その我儘があんたのところまで耳に入ったのは驚きましたけど、きっと近江の差し金やな。………せやけどな、うちはここを離れるわけにはいかんのや」

京都は頑として動かない。なんだこの人は。出家でもしたのか。聖人ぶってどうするつもりなんだ。江戸は少しばかり呆れた。

「京都さんの言い分、よーくわかった。全く同感できねぇが」
「江戸はん」
「今から言うことを約束してくれるっていうんなら、俺はここを去る」
「………へえ」

これより三日後、必ずやこの場所から離れて身を清め療養するように。それが約束だった。京都は承知した。

江戸が山を下る際、未練がましく何度も何度も小屋の方へ振り返ったのだった。

念の為だが京都のことを近江に頼むと、まずは江戸に感謝をして、その役目を快く引き受けた。どうやら噂を流した張本人は彼女だったらしい。彼女も説得に苦労したそうだ。近江は「なんだってこんな思いつきしたんだか」と、とても呆れていた。






「ともあれ、なんもなくていいっけねぇ」
「駿河よぉ、俺ぁぶったまげたよ。俺には出来ねぇ芸当だ」

芸当なんて言葉は似合わない。かといってもっと崇高な言葉をあてるべきかというと、それも違う。言葉は難しい。
絶望的な環境に身を置き、そして粗末な身なりであったとしてもやはり美しいと思わせるのは、やはり人格なのだろうか。

「今回の旅で、俺より病人の方がいい男だったってことがわかったよ」
「え?あ、ええっと、そんなことは、えー………」

なにか気のきいた言葉をかけようと駿河は言葉を探しているようだった。江戸は小さく笑い、駿河の頭を軽く叩いた。本気で叩いたつもりはないが、眼鏡がずれてしまったようだ。

「………ほんとによ、あんなことされたら余計好きになっちまうなぁ」
「長い恋だら」
「恋ねぇ。つらくてながーい恋だ」

駿河は笑顔で頷いた。

「楽な恋なんてありゃしません」
「そうだな。楽になっちまったら、おしまいだな」
「本当に、その通りです。………なんだか、江戸さんとこんなに長く話すのは本当に久しぶりで」
「新記録だな」


そうだ、他人の空似だったのかもしれない。ならば次に彼女に会うときはもっと、身分相応のきらびやかな場所で会いたい。彼女の真意がわからないままならば、さっさと忘れたいのだ。
なんだか訳がわからないままおかしくなって、江戸は腹を抱えて笑った。つられて駿河も笑った。


江戸はあの時の京都がしたような真似などとてもできない。考えもつかない。だからますます手の届かない人であると思い知らされるのが、少しばかり悔しいのだ。今回は本当に、それだけの出来事だった。

そうして江戸は、もう一日だけ駿河のところで旅の疲れを癒して、城へ戻ることにした。

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