暗闇しかない一本道で何かに追いかけられていた。指をさされて、なにかひどい悪口が聞こえてきて、少しでも立ち止まったりしたらつかまってしまう。殺されてしまう。消えてしまう。
ようやく夢から覚めて意識がこちらに帰ってきた時、神奈川は汗をびっしょりとかいていた。息を切らして、肩が震えて、気がつけば号泣していた。どうしようもなく不安で仕方がなかった。
傍に心配そうな顔をした女の人がいた。その優しい人は「大丈夫だよ」と汗を拭いて頭を撫でてくれた。たまらずその優しい人にすがるように抱きついた。「ただの夢だから」「うちがいるよ」優しい温かい胸に抱かれている内に、だんだんと落ち着いてきた。ただの夢だということ、この人が近くにいるとわかってからはもう怖くなかった。
幼いころはこの優しい人が大切で、大好きで、だからこそつらくて仕方がなかった。それはいつの時代だっただろう、いつのことだったろう。もうすっかり忘れてしまったが、その温かさは忘れていない。






何気ない夕飯時、静岡は「恋人つくらないの?」と唐突に神奈川に尋ねた。そういったプライベートな話題を出すタイミングは、少し違うような気がする。神奈川はよくご飯を噛んで咀嚼してから、ずずずと音をたてて味噌汁を吸った。
さてなんと答えようか、ちょっとからかってみるかとか、味噌汁の器をのぞきながら考えている。

「………しずの味噌汁がうますぎるから」
「うん?」
「当分はパスだな」
「そう来たか。そうやって誤魔化してもいいけん、いつか、いい人紹介してね」

静岡は笑った。まあ確かに、静岡から見れば『神奈川の恋人』として見える奴は何人かいる。いるにはいるが、恋愛対象として見たことはない。そういう恋愛感情を抱いたこともあるかもしれないが、後になって冷静に考えると多分勘違いか、その場に流されただけだと思う。

「だからいねぇって」
「またまた御冗談をー」
「だから」
「………本当にいないの?」
「………鈍すぎるだろ」

静岡は一瞬、きょとんとした顔をした。まだわからないのかと神奈川は少し呆れる。

「しずが大きくならねぇから、わかんねーんだよ」

きっと、長くいすぎてわからなくなっているだけだと思う。しかしそれでいいにしたくなかった。

「………んっと、じゃあ、うちが大人になるまで待ってくれる?そうすればわかる?」
「待つ」
「ほーか、それは嬉しいなぁ」
「たくさん食って、早く大きくなれよ」

そんなの無理に決まっている。馬鹿なことを言ったもんだ。しかし静岡は「うん!」と頼もしげに頷いた。
そして彼女はその夜の晩御飯は残さずに全部、綺麗に食べた。





神奈川がいるときは静岡に夜更かしはさせなかった。本人は徹夜してなんぼと言っているが、夜更かしは肌に悪いしなにより成長の妨げになる。
仕事の電話が終わって静岡の隣に敷いてある布団に入ろうとすると、うなされているような声が聞こえた。暗くてよくわからないが、静岡の声だ。なんだかとても苦しそうな………。

「しず?」

神奈川はオレンジ色の灯りをつけた。額に汗を浮かべて、涙がにじんでいた。怖い夢を見ているのだろうか。
あの人のような優しい手ではない。あの人のような優しい言葉は思いつかない。それでも神奈川はおそるおそる、手をのばして静岡の顔に触れる。

静岡は薄く目を開けて、神奈川を見上げた。何かに怯えている表情だった。神奈川は静岡の小さい手を握って、涙のあとを指ですくった。落ち着いたのか、静岡はむくりと起き上がった。

「カナちゃん、ごめんね、昔の夢見て、そんで」
「怖い夢か」
「ほんと、思いだしたくなかったのに」
「そっか。………ほら、もう大丈夫だろ。夢なんだから」

神奈川は静岡を抱きよせて、頭をくしゃくしゃと撫でた。今度はいい夢を見られるように、優しい夢を見られるようにと。
まだ起きるには早すぎるので、もう一度寝るように言うと静岡は素直に布団にもぐった。

「カナちゃん」
「ん?」
「ありがとね」
「いいって、………おやすみ」

おやすみ、と小さい声が返ってきた。しばらく見守っていると、やがて安らかな寝息が聞こえてきた。神奈川は寝顔をのぞきこむ。優しい寝顔だった。

もう大丈夫だろうか、まあ大丈夫だろう。

神奈川は自分も布団に入って横になり、近くの灯りを消した。

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