少し唐突だが、ここで昔の話をしよう。ある昼下がりの出来ごとをほんの少しだけ。なにせ昔の話なのであまり正確ではないのはご容赦いただきたい。
当時の名前は今とは違っている。性格も少し違っていた。しかし、今も昔もあまり変わっていないと思う。周りの人たちもそんなに変わっていないのではないか、表面から見れば大きな変化があるだろうけど、本質的にはあまり変わっていないのだと思う。



東海道中、旅人は一休み。腰をかけて茶を一杯、菓子をひとつまみ。茶屋の長椅子に駿河は足をぷらぷら浮かせて、古ぼけた本を食い入るように読んでいた。熱心に勉学に励む駿河に「偉いねぇ」と声をかける大人もいる。「どーもー」と愛想を振りまくと、気前のいいひとなどはお菓子をわけてくれたりしていた。ご機嫌で鼻歌をうたっていると、誰かが隣に座った。人の行き来が多いものだからあまり気に留めず、本から目を離さないでいると「すーちゃん」と何度も呼ぶ声がした。その「すーちゃん」というのが自分のことであるということ、その呼んでいる人が相模だと気づくのに、少し時間がかかった。

「え?なに?」
「すーはさっきから本の虫だ」
「ごめんね、さっちゃん。先生からの宿題で、全部覚えないといけなくて………ええと、なんの話だった……っけ……」

一瞬。燃えるようなお日様の日差しせいなのか、相模のせいなのか、目の前が眩してくらくらっとなった。海のような瞳がきらきらと光っている。顔立ちもなんとなくしゅっとしたなぁ、大人っぽくなったなぁとか、色々と思うところがある。背丈もほら、すごく伸びた。大きくなった。もうとっくに自分を追い抜いている。

「駿河、どうした?」
「あ、………えっと、お話聞くのはこの本読み終わってからでよい?」

少し傷ついたような顔。相模は少し寂しそうに笑って、「じゃあ、待ってる」とだけ言った。
そして相模はいつまでも待っている。駿河はもうとっくにその本を諳んじてしまっているのに、いつまでも本を読んでいた。動けない。喋れない。長い長い時間が流れる。そうこうしているうちにもう日が暮れてしまいそうだ。そこで、見兼ねた店の旦那が「もうお帰りよ」と声をかけてくれて、ようやく体が動いた。

「さっちゃん、かえろ」
「………うん」

相模に少し恨めしそうな目で睨まれた。駿河はその視線から逃げるように、少し俯き加減になって手を差し出した。相模はぴょんと長椅子から降りて、駿河の手を握った。
それから手をつないで帰った。その帰り道で、大人にもらった飴を2人で食べた。口の中で転がっている甘いはずの飴は、何故かほとんど味がしなかった。その味を強いて表現するのならば少し甘酸っぱくて、そしてあまりにもあっさりとしていた。

きっとその時、駿河が逃げなければ、相模がもう少し押しが強かったら、きっと素敵な思い出が出来上がったのだろう。出来ないはずはなかった。きっと、あまりにも長く一緒に居すぎたせいなのだ。







さて今は子どもはもうとっくに寝る時間で、当然静岡は少し眠たい。けれど今はもう少し起きていなくちゃいけない。

「カナちゃん」
「ん?」
「本当にそこにおる?」

鼻でふっと笑われた感じがした。

笑わなくてもいいのに。夜って怖いのに。暗いのは怖い。神奈川とお化け屋敷にいった時、手をつないでいるからして絶対に隣にいるのに静岡は不安だった。「カナちゃんいる?」「おう」、このやりとりを三回ほど繰り返すと、神奈川は返事が面倒になったのか何も言わなくなった。そのことがどれだけ静岡を不安にさせたことか!冷静に考えればあり得ないのだけれど、今腕にしがみついている相手が全く知らない人、もしかして人ではないものだったらどうしようとか、色々考えてしまう。そのあとは飛び出してくるおどろおどろしい化け物とか、口から心臓が飛び出てきそうな仕掛けとかにギャーギャー悲鳴をあげっぱなしで、なんとかお化け屋敷から脱出したときは本当に安心して、胸をなでおろした。そして手をつないでいる相手はもちろん神奈川で、これが一番ほっとした瞬間だった。
後から聞いた話によると、返事がなくなったのはその時の神奈川も相当怖かったそうで、短い返事をする余裕さえなかったらしい。そして神奈川は全く悪くないのに「ごめんな」と謝ってくれた。

そして今、あの時のお化け屋敷のように神奈川を暗闇の中を探す。

「カナちゃん、どこ?」

とりあえず手を伸ばしたが、何もつかめない。上に熱を感じるのに。確かに上にいる。手さぐりでやっと神奈川の手を見つけた。ちょんと少し触れると、神奈川は静岡の手を握った。神奈川は、静岡が今、してほしいことをしてくれる。
どうして優しいんだろうなぁ。都会の子はすごいんだなぁ。もう遠いんだなぁ。でもどうして一緒にいてくれるんだろうなぁ。
どうしようもない考えが頭の中でぐるぐると回って、静岡は何故かとても泣きたくなった。

「しず、嫌なら嫌って言えよ」
「嫌じゃないよ」
「急に泣きだすから。………普通は嫌だから泣くんだろ」

嫌じゃないって、と何度も必死になると嘘をついているように聞こえる。静岡はとりあえず、涙で滲んだ目を指でこすった。

「ごめんね、眼鏡かけていい?」
「お好きにどうぞ」

手を伸ばして、枕元にある眼鏡ケースから大きな眼鏡を取り出す。度が合わなくなってきたかもしれない、今度お店に寄って行かんとなぁと静岡は思いながら神奈川を見上げる。

「………カナちゃん、すごく、悲しい顔してる」
「そうか?」
「いつもこんな顔してたんだね、うち、知らんかっただに」

神奈川はまた寂しそうに笑った。あの日の相模の笑顔と少し重なったような気がする。

「………昔、カナちゃんがうちに言いたかけたことってあるよね」
「たくさんありすぎてわかんねぇよ」
「一番言わなくて後悔してること、ある?あったら教えて」

静岡はじっと神奈川を見つめる。あの時のお日様の光は今はない。あるのは夜の闇だけ。今日は月がきれいだから、その光が差し込んでうっすらと神奈川の顔が闇夜の中でも見えていた。

「しずの背を越したら言おうって思ってたことがある。でも、言えなくてさ。しずはいつも忙しそうにしてたから」
「違うよ。あの時は、うちが聞く耳を持たんかっただけで、………ひどかったよね。ごめんね」
「謝んな。もういいんだよ、変わっちまったんだよ」
「………うちのこと嫌いになった?」
「………いや」

神奈川は言葉を選んでいるように見えた。ため息をついて、静岡の上から退いた。

「燃えるような恋は終わったってだけで、嫌いになるってことはねーよ。………あれと同じ経験なんて今後一切ねーだろ」
「そっか」

とても嬉しいことを言ってくれているのに、静岡に派まるで他人事のように聞こえてくる。自分が神奈川と距離を置こうとしているからだ。本当はとても不誠実なのだけれど、こうでもしないともっと混乱してしまいそうだったのだ。
本当にこの子は大人になった。自分はまだ子どものままだ。羨ましいと思う。けれど追いかけたいとは思わない。今が、この瞬間がとても好きだから。

「うちも燃えるような恋、してみたいなぁ」
「………改めてふるなよ、へこむだろ」
「ん?うち、また変なこと言った?」

神奈川はため息やら舌打ちやらを一気に飲み込むような動作をして、静岡の上に再びのしかかって、首筋に顔を埋めた。髪の毛がくすぐったいと静岡はくすくすと小さく笑い声をあげる。

「あんね、カナちゃん」
「ん?」
「カナちゃんは早足だからうちはとってもついていけん。だから、時々は立ち止まってくれると嬉しいだに」
「わかってるよ」

何年何百年の付き合いだと思ってんだ、と神奈川は言いながら、静岡のぷにぷにと柔らかい肌にある小さな膨らみに口づけて、外れたパジャマのボタンを止め直す。今夜は最後までいかないようだ。

「………せめてこのちっせー胸がなんとかならないかな………」

この何気ない一言。そういえば毎回毎回、同じようなことを聞いているような気がする。

「カナちゃん」
「ん?」

静岡は少し迷ったが、思い切って理由を尋ねた。

「カナちゃんはうちの胸の大きさが悩みなの?」
「え?普通、お前が気にすんだろ?」
「うちは全然気にならんけん、なんでカナちゃんが気にするの?」

その静岡の言葉に、神奈川の全ての動きが止まる。彼の中の時間までがとまったようだ。

「………そそそそそんぐらい分かれよ!馬鹿!ちくしょう!鈍すぎんぞ!」
「気にせんでいーのに………」
「ったくよぉ、静岡はこれだから!くそっ!」

本当に悔しそうに頭を抱えて神奈川は嘆いた。

「あらー楽しそうだねぇ」
「楽しかねぇよ!馬鹿!しずの馬鹿!いいか、今日は絶対寝かせねぇからな!」
「えー………寝ないと大きくなれんだら………」

それを言われると神奈川はうっと引いた。何も言えない。あら、ちょっと意地悪言いすぎただ。神奈川は少し拗ねてしまった。

「カ、カナちゃん、えー………あ、そうだ!う、腕枕してほしいなぁ」
「腕疲れるんだけどな」
「まあ、そうだよねぇ。疲れるならいーよ」
「………」

いいよと言っているのに、神奈川は黙って腕を差し出す。………まあいいか。静岡は眼鏡を取りケースにしまって、喜んで彼の厚意に甘えた。腕枕をしてもらって身を寄せてくっつくのは、神奈川に少し負担がかかるかもしれないが、あったかくて安心するので静岡はとても好きだ。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

すぐに眠気が襲ってきて、うとうと、瞼が重くなってくる。

そういえば、神奈川の燃えるような恋はもう冷めてしまったらしいが、静岡に燃えるような恋が芽生えたのは昔々の大昔のことだ。そしてまだ燃え続けているのだと思う。
問題はその情熱ベクトルがあっちこっちへと好き勝手に向いているせいで、どれが恋なのか全くわからないというのが現状なのだ。

そういった訳が分からない状況下、彼のそれは女を抱くというよりは小動物を可愛がっているといった表現の方が合っているのかもしれない。好きなように愛撫して、キスをして、戯れて。最後までいくのは本当に稀なことだ。静岡はこういった行為を、ただの遊戯の延長だと思っていた。本当にそう思っていた。信じていた。なんとなく変だな、とは思っていたけれど。

優しく名前を呼ばれても、手を握っても、まるで一人きりで暗闇に相対しているよう。ただ、それを考え出したら眠れなくなってしまう。静岡はすぐにこのことを忘れて、寝返りをうって寝てしまった。

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