生温かい赤い海が神奈川の視界を覆っている。

海の中なのに息ができる。息を吐くとぶくぶくと泡がたって、上へ上へと昇っていく。このまま死んだら極上の気分で逝けるだろうな、とか馬鹿げた考えがぽっと浮かんだ。

自分は今、誰かの手を握っている。

今の今まで手を繋いでいたのに。この手が誰のものなのかわからない。さっきまでわかっていたのにわからない。どうすればいいのだ。とたんに怖くなり、手を離した。するとその手の主はゆっくりと離れていく。顔は見えない。赤黒く、そしてぼやけていて不鮮明だ。赤い海の深く、もっと深くへと。沈んでいった。あ、助けなくてはいけないんだ。あの人。誰だかは知らないけれど。このまま上へ昇っていけば、地上へ出られる。しかしこのままあの人を見捨ててもよいのだろうか。
駄目だ。それは駄目だ。どこの誰かは分からない。しかし見捨てては駄目だ。神奈川は引き返そうとする。手をのばそうとする。と、この映像、この感覚はもう何度も何十回も何百回も、夢の中で繰り返されていたものだと思い出す。


そして場面がすぐに切り替わった。今度は赤い恐ろしい海など無縁な、清らかな水色。緩やかな川の中だ。辺りをようく凝視する。川魚が泳いでいればもうけものだが見当たらない。いよいよ酸素が足りなくなり息苦しくなると、神奈川――― 相模は、勢いよく顔をあげて「ぷはっ」と新鮮な空気を吸った。


自分の背丈よりやや大きすぎる弓矢。本当は自分に合ったものを作ってもらえばいい。しかしあの人が昔使っていた弓がいいのだ。その弓を持って、相模は地を走り抜けていた。まるで風を追い越すように。

「稽古!俺に稽古つけてくれ!」

稽古の道具は一式そろえてある。あとは駿河に重い腰をあげてもらうだけだ。馬に跨っている駿河は一度そこから降りる。駕籠の脇についているお供に一言二言耳打ちをして、駿河は頬笑みながら相模へ歩み寄った。

「相模、弓はもう十分上手だら?うちより上手だと思うよ」
「あと少しだけ!頼むよ駿河」
「うーん………」

参ったなぁ、と困った顔をして駿河はしばし悩む。結局、「ちょっとだけだよ」と静岡が折れて、すぐに稽古場まで馬に乗せてもらった。稽古場に着くと、さっそく稽古に入った。矢を射る時の基本所作について、一番最初に聞いた説明と同じことを改めて聞く。

「真中に的中したら、今度は槍の稽古に付き合ってくれ!」
「はいはいー」

足をふみ、弓を構え、的を定めて。あとは聞いた通りだ。相模は中心を狙い、矢を放った。見事に巻藁まで届き、爽快な音が響いた。
それでも駿河にはまだ及ばない。そう思う。彼女の所作は一つ一つが流麗としているのだ。そして戦場へ出れば彼女は疾風となり、矢を放つ。

「どうだ!駿河!」

相模は誇らしげに、駿河にその矢の軌跡を見せつける。駿河は微笑んでいた。

「よく出来たねぇ」

駿河はかがんで、頭を撫でてくれた。その温かい手が大好きだった。

次は槍を使いこなして、剣を使いこなして、柔術も学びたい。鉄砲も。もっともっと強くなりたい。自分のためにも、駿河のためにも。
それだけのためだった。それだけといってもとてもとても大変なことなのに、その時はまだ本当に理解していなかった。





――― そんな胸糞悪い悪夢を見た後で、もう一度寝なおす気にもならない。神奈川は起き上がったまま、。本でも読もうかと思っていると、静かに戸が開いた。パジャマに半纏を羽織った静岡が入ってきたのだった。

「しず」
「………カナちゃん、まだ寝てなかった?」

寝てなかった?いやそれは神奈川のセリフだ。てっきり静岡は隣でもう寝ていたと思っていた。

時々こういうことがある。なにかアイディアが降ってきた時、静岡は所構わず自室にひきこもり何かを作り出す。凝り性なもので、止めてもまたすぐに再開をする。そしてぶっ倒れる。いい迷惑だ。昔はもっと、………もっとこう、スマートにこなしていたような気がするのは思い出補正のせいだろうか。

「んー………寝られないの?」
「………」
「じゃ、外の空気でも吸おうか。今夜はお月さんが見えるよ」





休日は2人で過ごすというのが約束、いや、約束というよりは当たり前になっていた。どこかに出かけるといっても近所の公園に遊びに行くとか、近くでなにか展示会やイベントがあれば一緒に見にいってみるとか。とてもゆったりとして、唯一張り合わなくてもいい時間だった。気が楽になる時間だった。

眠られない夜、いつもの場所に腰掛け夜の庭を見渡して、月を見上げる。
今夜は半月だった。

「どうした?」
「ううん、なんでもない。なにか思いだしそうだったけど、気のせいだったや………ああ」

静岡は目をつむって鼻をすんすんと鳴らす。

「キンモクセイの香りがする………いつだったかなぁ、あの木を植えたの」
「どの木だ?」
「あそこの、見えるかな。暗くてよく見えないだに」

花盛りはもう過ぎてしまったし、もう葉しか残っていないのだが。

「ああ思い出しただ。あの木、カナちゃんが元服した日に植えたんだ。長生きだなぁ」
「そうなのか」
「懐かしいなぁ。昔のことはあんまり覚えてないけどね」

ふふっと静岡は笑って、足をぷらぷらと揺らす。神奈川もつられて笑った。

「変な夢、見たの?」

ぽつりと静岡が呟く。なんだお見通しか。神奈川は黙って頷いた。

「そっか」

慰めのつもりなのか、その小さな手で神奈川の頭を撫でた。今は誰もいないから、恥ずかしがらなくてもいい。周りを気にしなくていい。

「………おいしいご飯を食べて、たっくさん仕事して、体動かして汗かいて、そんでたくさん寝るのが一番健康にいいんだけどねぇ」
「そんなに簡単な世の中じゃねーよ」
「本当だね。………カナちゃんは、精神的に疲れてるのかもねぇ。有給とれないの?」
「いつ取れんのかな」
「そういうのはもぎ取んだー」
「無理」

神奈川は言い切った。まあそりゃそうだよね、と静岡は理解を示す。

「大人ってさ、家族とか友達とか恋人とかペットが支えになって、そんで頑張れるんだね。どーしても誰かが必要なんだろねぇ。誰かがいないと、不安になるんだろうね。怖いんだろうね。うちも同じだけど」
「しずも不安な時ってあんのか」
「あるに決まってら。そりゃもう山ほどねー」

何か気軽に気分転換できることってないかなーと静岡は悩む。犬とか猫とか。あれ、カナちゃんはアレルギーだっけ。植物もいいなぁ。うーん、と静岡は唸る。

あれは違う、これも違う、あ、これはいいかもしれない!ころころ変わる静岡の表情が面白くて、犬やら猫なんかよりずっと癒されると神奈川は思った。

「あ、そうだお酒。カナちゃんが好きなの取り寄せといたけど、ちょっとだけ飲む?たくさんは駄目だよー。飲みすぎると毒だから。あとちょっと高いからすぐ無くなっちゃうのは………カナちゃん?」

神奈川がしばらく無言でいると、静岡は身を乗り出して神奈川の顔を覗き込む。近くでみる静岡。眼鏡をかけていないせいか、静岡は細目で眉間にしわが寄っていた。

「しず………今度、川に行こう」
「川?釣りするの?鮎はいつ解禁だったかなぁ。うん、気分転換になってえーら。今度行こうねぇ」

リフレッシュに最適だね!と静岡は手を合わせる。

「約束だかんな」
「うん、約束」
「忘れんなよ」
「カナちゃんこそ、いくら仕事が忙しすぎても忘れんでね」
「忘れねぇよ」

歌いながら指きりをして、あと手帳にも控えておく。忘れるわけがないと思うが、忙殺されてしまう可能性はゼロではないのだから、念には念を入れる。


こうなったらなんとしてでも有給を取る。取ってみせる。もぎ取ってやる。後が大変でもまあなんとかなるだろう。そうだ、早めに旅行計画を立てよう。旅館もいいところを確保した方がいいだろうし。
旅行は計画を立てる時が一番楽しいかもしれない。しかし静岡とならきっとどこへ行っても楽しいのだろう。神奈川はそう信じている。きっと静岡もそうだと思う。これは少しだけ自信がないが、「楽しみだね」と笑う静岡を見るとそういった不安はなくなるのだった。


あの恐ろしいほど鮮やかな赤い夢は、しばらく見なくなった。

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