昨夜はひどい雨だった。そして予想通り川の水かさは増え、あいにくの雨で川止めとなった。東海道中の旅人は皆、曇った空の下、肩を落としたのだった。

駿河は江戸にここ一番の宿屋を勧めるが、江戸はというと「屋根がありゃいい」の一点張りだった。当然、「そういうわけにも」と、駿河は困り果てる。「いっそその辺の荒ら屋でいい」と言うと、「そんなところを江戸さんに紹介するわけにも」と口ごもる。

「いいんだよ、こっちは金がねぇんだ。それに今日は混んでるだろ」
「だけん………」
「あんまり格式ばらなくてもいいから、ほら、俺は眠いんだ」

連日の不眠不休で江戸は疲れ果てていた。一刻も早く腰をおろして休みたいというのが本音だ。
駿河が通した宿屋はどこも満室といったところだった。駿河がこれから交渉してくれるそうだ。

「この宿は景色がいいところだもんで、評判いいんです」
「ふーん」
「あ、江戸さん!奥の部屋はいっちゃ駄目ですよ!」
「どうしてだ」
「駄目なものは、駄目だに」

いいですか!絶対にいっちゃあ行けません!と何度も念を押して、駿河は宿主を探しに行った。

「んなこと言われちゃ余計気になるじゃねぇか」

駿河の足音が遠のいたところで、江戸はそっと「自分が戻ってくるまで絶対に出ないでください」と言われた部屋を抜け出した。





一番奥の部屋、戸が少し開いていて江戸は覗き込む。すると女性が机に向かっている。
前もこんなことがあったような気がする。しかしその時よりはずっといい部屋だが。屋根も壁もしっかりしている。
パンッと威勢のいい音を立てて戸を開けると、その女性、京都はふと顔をあげて筆を置いた。そして顔をこちらに向けて、ちらりと視界に入れる。表情が少し変化した。ほんの一瞬だけ。
そしてその筆を再び取った。

「………若草色、おぞましいほど似合ってまへんなぁ」

第一声がそれとは少し味気ない。江戸としては結構気にいっている着物の色、柄であったので存分に異議を申し立てたい気分だった。

「今、向こうじゃこれが流行の色でね」
「へえ、それだけの理由で?」
「明日にはきっと違う色だ」

江戸は戸を閉める。一瞬だけ張りつめた空気はまるで昔々のあの時代を思い出させる。

「さて京都さん、あなたは何色がお好きですか」
「聞いてどうすんのや」
「それを明日の色にする、だから教えてほしい」
「………江戸はん、それくらい自分で探しやれ」

京都はつれなく答える。それくらい悟れってことだ。京都には落ち着いた色が似合う。軽い色は駄目だ。藤色がいいだろう。黒もいい。
そういえば先程着物を見た時、彼女に合いそうないい品があった。後でもう一度見に行ってみようかと
考える。しかし今は出なおした方がいいだろうと江戸は立ちあがった。するとほぼ同時に、失礼します、と廊下から声がかかった。

「………あーらあらら。江戸さん駄目でしょーに」

驚いて目がまんまるくなった駿河が、茶を持って部屋へ入ってきた。駿河は怒ってもあまり怖くはない。ここは江戸がケラケラと笑えばすぐにその怒りは収まる。

「京都さん、こっちの不手際でした。すみません」
「ええんどす」
「本当にすみません………ああ、そうでした。このお部屋もいいお部屋だけん、お気に召さなければ変えますよ」
「ああ、気を遣わんで。屋根さえあれば十分どす」
「おおっ!」

駿河はとっさに袖で口を隠す。

「どうしはった?」
「江戸さんと同じことおっしゃるもんですからついつい。あはは、なんか面白いー」

くっくっくと駿河は笑った。ふだんの駿河は気がききよく働くが、彼女自身、少しどころではなくおっとりとしていて時々ずれている。

「………いい部屋って言うけどよ、富士のお山は見えねぇな」

江戸は苦し紛れに話題を変えた。以前もこの部屋に泊ったことがある。あの日ここから眺めた時はそれはそれはいい眺めだったのだが、今日は霧がかかってよく見えない。

「富士山は女性で、ええと、京都さんがあまりに尊くて美しくいらっしゃるから、恥ずかしくて隠れてるんでしょう。多分」
「お上手やなぁ」
「受け売りだに」

ところで、と駿河は話を戻した。

「京都さん。明日、発たれるご予定で変わりありませんか」
「へえ」
「はい。ではこちらで全て手配しますんで、ゆっくりくつろいでください。なーんもありませんが」

京都はゆっくりと首を横にふる。

「駿河には人がたくさんおりますやろ。活気があって、窓から見ろしていると、ほんに楽しおす」
「江戸さんとこほどじゃありませんよ」
「………そやね」
「ところで駿河、俺の部屋はどうだ?とれたか?」
「すみません、無理でした」

流石にお客さんを無理やり追い出すわけにもいかなくて、と駿河はしゅんと小さくなった。

「だろうなぁ………」
「多分どこも満室で、相部屋になってしまいます。もう少し早く、江戸さんが来るってわかっていればなんとかなったんですがねぇ」

江戸に帰ることができるのはいつになるのやら。
いっそ駿河の家に泊めてもらおうかとも思う。ただ働く者食うべからず。きっとこき使われるだろう。少し面倒だ。江戸と駿河はどうしたものかと悩んでいると、京都が口を開く。

「せや、この部屋でよければここに泊ればよろしおす」
「………あ?京都さんよ。言ってる意味、わかってんのかい」
「駿河の仕事を増やすのはなんや心苦しゅうてな。あとはひとえに親切ごころからや。下心はありまへん」

腹の内は宿代を折半したいといったところだろうか。いい男女が2人同じ部屋に泊るなんて、何も起きないわけがないのに。信頼されているのか侮られているのか。しかし相部屋という洗濯は節約になる。それにこれから別の宿屋に移動するのというのは少し面倒だ。駿河も忙しいだろうし。
江戸は京都の提案を受け入れた。

「………だそうだから、相部屋させてもらうよ」
「お二人がそれでいいっていうなら、いーんですけど。ほんっとーによいですか?ほんとに?」

駿河は二度三度確認をとって、帳簿を取り出して小筆でさらさらと書きつける。

「まだ仕事がありますんで、失礼します。何かあれば声かけてください」

ではごゆっくり、と駿河は頭を下げて退室した。







「入れ違いにならんでよかったわ」

衝立越しに、ぽつりと京都の呟きが聞こえた。江戸は寝転がって夕餉の時間までうたた寝をしていたが、頑なに言葉を交わそうとしない京都の呟きが聞こえたのだ。江戸は起き上がって、その仕切りからひょいとのぞいた。

「会いに行こうと思っとったのや、あんたに」
「何故?」

京都は扇子で顔を隠しているが、目はうっすらと笑っている。

「あ、そうだ。あの後、馬鹿なことはしてねぇだろうな」
「へえ、あの約束はちゃあんと守りましたわ。そな怖い顔せんで、まずは近江に聞いておくれやす」

確かに約束の日から数日経ってから、近江から文が届いた。「確かに帰ってきましたよって心配せんでええよ」とかなり軽い文体であった。そうか、あの日の京都さんは本当に京都さんだったのかと、数日間気が滅入ってばかりだった。夢というものは遠くにあった方がいい。遠くありすぎても駄目だ、馬鹿なことをしかねない。近すぎても駄目だ、壊れた時の衝撃は筆舌に尽くし難い。
そしてその文には、江戸が本当に知りたかったことは全く書いていなかった。

「なんであんなことしたか、理由を聞いてなかった。よければ聞かせてくれるかい京都さん」
「………なんも出来ん自分が嫌でなぁ」
「それで?」
「それだけや」
「は、それだけかい?」
「自暴自棄になってたわ。名ばかりでなんもできん自分が嫌になってなぁ。江戸はん、ほんに感謝しとります。あの後目が覚めましたわ。せやけどな、後悔はしてまへん。色々わかったこともあったのや」

あの時の京都には何か憑いていたとしか思えない。しかし今はいつもの京都だと断言できる。

「………心まで貧しくなったら終わりやと思います」
「それを忘れない限り大丈夫だ。京都さんは大丈夫だ。名や格式はどうやってもすぐには作れない。俺は喉から手が出るほど欲しいもんだ」
「はれ、力はありますやろ」
「あと、金もない」
「ま」

京都は初めて声をあげてころころ笑った。

「せやけど江戸はん、ここは見栄張ってもええやろ」
「四六時中見栄張ってるってのは、疲れるんだ」
「へえ」
「慣れねぇことはするもんじゃねぇや」
「よう言うわ」

京都はくすっと小さく笑った。そしてぱちんと扇子をたたみ、心から安堵するような表情を江戸に見せた。やっと京都の緊張がとかれたようだ。

「ああ、よかったわぁ。あんたに言いたいこと全部言えたわぁ」
「そりゃあよかったな」
「ほんによかった、無駄足にならんで」
「文でいいじゃねーか」
「うちの性格知っとりますやろ」
「………京都さんの文はわかりにくいから」
「ふふ、まだまだ子供やなぁ」
「それだけじゃあ、ないんです」

江戸はぱっと立ちあがり京都の手を握り抱き寄せた。こんなもの、早い方が勝ちだ。ひっぱ叩かれようが江戸はどうでもよかった。ずっとこうしたかったのだから。あの日はあまりにも腐臭がひどくて、そういった淡い感情なんぞあっという間に消え失せていた。

「一文字一文字に見惚れて、あっという間に時間が過ぎちまう。京都さんがどんな顔で、どんな気持ちで、どんな風に筆を取っていたのかと考えるんだ。本当にこればっかりはキリがねぇ」

ホントに、ほんとうだ。

これ以上の言葉は野暮というものだ。京都の身を貫くほど強い強い江戸の視線。京都の頬に触れている江戸の手に、そのしなやかな手をおそるおそる、重ねる。

「………夜にはまだ時間がありますえ」
「じゃ、ちょいと外を歩こうかね」
「それもええなぁ」

江戸はすっと立ち上がり手を差し伸べた。すると京都は優雅にその手を取った。

「ああ、おひいさんがようやっと顔を出してくれたわ」

窓から差し込む陽光に、京都は嬉しそうに笑っていた。江戸はつられて笑う。彼女があんまり意地悪なことを言うようだったら、先程の贈り物の件はなかったことにしようと思った。

お日様に向ける笑顔の方が、自分のそれよりもずっといいことに江戸は少し嫉妬する。








「あの猿、夜這いかけよった」
「あらら」
「ま、追っ払ったんやけど」
「………京都さんが強いのか、江戸さんが弱いのか」
「どっちやろうなぁ」

昔ならいざ知らず。今は江戸の天下、天下泰平。もう何も言うまい。京都は黒い碁石をぱちりと連珠盤に最後の一手を決める。駿河はうっと唸り、すぐに「参りましたー」と頭を下げた。

「はー負けた負けた。京都さんはお強い。手加減してもらってもこれだもんねぇ。………でも、よかっただに」
「何が?」
「その調子じゃ言えたんでしょう。よかったじゃありませんか。うちもすごく嬉しいですや。川止め伸ばした甲斐が………おっと」
「なんとまあ不用心な子やこと」

京都と駿河は顔を見合わせ、くすくすと笑う。この展開へと仕向けたのは駿河で、望んだのは京都で、乗ったのが江戸。
江戸さんと京都さん、2人にいい展開があれば万々歳、失敗したら次の機会は数年後になるだろうか。その時は出しゃばらない程度に、2人の仲直りの場をつくろうと駿河は思っている。なにせ2人は自分たちから動こうとしないのだから。

「京都さん、京にもどりますか?」
「へえ。皆に心配かけとりますし」
「じゃあ、江戸は寄ってかんのですか?」
「………もう十分や」

そうですか、と駿河はゆっくりと頷いた。

女2人の夜、ゆらゆらと揺れて光を灯す蝋燭は爪ほどしかない。新しいものに取りかえる。


「ほんで、京都さんは心残りはなく旅立たれるわけですね」
「いいやまだまだ。あんたに連珠を叩きこみますえ。ここまで来たんやから、もちっとうまくなってもらわんと」

勝負のついた石を綺麗にまとめて最初の状態に戻してから、「さあさあ」と京都はにっこり満面の笑みを浮かべ小首を傾げる。
駿河はため息を飲みこむ。

「連珠とかそういったもんはどうも苦手で………」
「弱音は聞きまへん」
「京都さんは意地悪いなぁ」
「駿河は、もっと打たれづようなりや」

手厳しい一言に、駿河は苦笑いをするしかなかった。ああ江戸さん、これは本当に骨の折れる恋路だねぇ。常に駿河の中には江戸への同情に似た感情があった。

「さ、もう一局や」
「これで最後にしましょうね、そろそろ寝た方がいーら」
「わかっとります」

自分と連珠を打つより江戸さんに会いに行けばいいのになぁ、と駿河は思うが心のうちに留めておく。きっと彼女が一番強く思っているのだから。

なにより駿河はこの2人に関してはとにかく傍観者でいたかった。この2人は静かなようで激しすぎて駿河はとてもついていけないのだ。

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