020/100 合わせ鏡 → 双子 同じだけれど正反対
少年、双子、プラトニック。
幼い頃の思い出。嫉妬と愛情のせめぎあい。
雨の中、暁人は濡れる服も構わずに走っていた。
引っ掛けて破れてしまった邪魔な雨傘は、とっくのとうに捨ててしまっていた。
彼が辿るのは、いつも理人と会う公園への道。
両親が離婚したあの日から、2人は離れていた。そして公園で偶然に会った時から、偶然にまかせて2人公園で会い続けていた。
会い続ける2人の間に、確固とした約束はない。たとえ何回も繰り返した「また」という微かな約束を、暁人がかけがえのないものと感じていても、それは理人には関わりのない事だ。
だから暁人には、降り続けている雨の中で、公園に理人がいるか分からなかった。
だけれど暁人は希望に縋って走り続けた。待っていてくれているかもしれない、そんな願いにも近い可能性に公園への道を急いだ。
暁人は公園の入口で立ち尽くす。
雨に濡れたベンチ――いつも彼と話していたベンチ。
彼が求めていた姿はそこにはない。
上がっている息を落ち着かせながら、暁人は口の端を上げて笑う。
冷静に考えれば、理人が待っているはずがなかった。
彼の祖母、つまり暁人にとっても祖母である訳だが、長じてから殆ど会っていない彼女はとても暁人に厳しい。それは愛情から出るものだし、理人もそれは分かっていたから、彼女の事を話す時には困った顔をしながらも笑っていた。
そんな理人がこんな雨の中、彼女に心配させるような真似をする訳がないのだ。
暁人は急に重く感じ始めた、濡れた体を引きずるようにして雨宿りが出来そうな遊具の方へと歩いていく。
いつもは子供たちが滑って遊んでいる遊具。その滑り台は、コンクリートで小さな球のように作られていて、その中の空洞に側面にある入口から入れるようになっていた。
高校の同級生の中では小柄な暁人にも、少しその穴は小さい。膝を少し曲げれば大丈夫だと思ったが、頭が天井に当たる。痛みに頭を下げて、泥に汚れたコンクリートの地面を見ながら潜り込む。
開けている空間に頭を上げた暁人の目が、驚きに見開かれる。
目を閉じて壁に寄りかかっている理人の姿。また彼も体をぶつけたようで、制服が擦った様に汚れていた。
声をかけようとした暁人は、声を出す寸前で思いとどまって口を閉じる。
彼が起きない様に息を殺しながら、暁人は彼と同じ様に壁に背を預ける。
球の中は、外から見るよりも広い。自分と同じ様にそれを知っていた理人は、雨宿りにここへと潜り込んだのだろう。
意外に広い空間は、雨から2人を守り包み込む。
睡眠中の呼吸に、理人の肩は僅かに上下する。
疲れているのだろうか、暁人は眠る理人の姿を見つめながらそう思う。
理人は双子でありながらも、暁人より体力がない。それは生まれ持った素質というよりも、環境によるものだ。また性格にもよるものだと暁人は思う。
理人は自分とこんなに似ているのに、何もかもが違う。
大人しく、優等生な理人。
自分より父親に愛された理人。
眉を寄せ、頭を振って浮かんだ考えを振り払う。理人を思う感情とは別の、たびたび襲う嫉妬に暁人は苦しんでいた。
置いて行かれた母親と自分は様々な事に苦しみ、父親は長男である理人を手に入れて楽に暮らしている。
2人はお互い日々の生活を話しながらも、家族に対しての大きな不満は決して口にしなかった。家族でありながらも友人に近い、しかし確かに家族であった日々を共有する2人は、僅かな距離をお互いの間に置いていた。
その嫉妬も、双子でなかったならばここまで肥大する事はなかったかもしれない。
こんなに似ているのに。
少しだけ早く生まれただけなのに。
2人は僅かな時間だけを隔てて生まれた。何かが違っていたら、暁人の方が先に生まれ、父親に選ばれ愛されたかもしれない。自分を襲う様々な外聞から身を隔てていられたかもしれない。
その考えは、余りにも自分本位の考えだ。理人の思い、生活を考えに入れず、子供のように己の中だけで悪意を増大させているだけだ。
だが暁人はその幼さゆえに、兄に会うたび自分の中の悪意に苦しみ、理人を慕う気持ちに苦しんでいた。
押さえる事のできない感情に暁人の手が、ゆっくりと理人へと延ばされる。
今なら誰にも知られないだろう。誰にも気づかれる事はないだろう。そして理人も。
理人の首に、暁人の指先が触れる。
小さな溜息をつく暁人。
同じ顔でなかったら、この感情がここまで肥大する事もなかっただろうと、暁人は思う。
息を殺し、理人が目を覚まさない様に、添う様に手の平でゆっくりと首を包み込む。
そのまま僅かな力がそこに込められる。憎しみにも似た感情が、そこには込められていた。
自分の悪感情全てが、相似形の顔のためにある様な気持ちに暁人は陥っていた。
それでも暁人は、それ以上の力をそこに込めることができない。
同じ顔でなかったら、この感情にこんなに迷い続ける事もなかった。
それを思うと指に込めた力が緩み、暁人はそのまま混乱した感情に、堕ちる様に暁人は流されて行ってしまう。
雨に濡れて体温を奪われ、血色の悪くなった唇で、理人のそれに触れる。
触れるだけのそれは、他の行動に出ないにも関わらず、暁人に甘美な感覚を与え、
「―――っ」
また裏切りと後悔をも彼に与えた。
目に戸惑いと怒りを浮かべ、また涙を浮かべて渾身の力で突き放した理人を、暁人は呆然と見上げる。
そして雨からの庇護から抜け出し、強く打ち付ける雨の中に走り出した理人の名前を、暁人は泣き出しそうな声で叫ぶ。
「理人……っ!」
追いかけて雨の中呼んだ声に、理人は1度も降り返らない。
双子に拒否された暁人にそれ以上追う事は、できるはずもなかった。
彼にできるのは、ただ雨の中立ち尽くす事だけだった。
子供が使うような、キャラクターの入った古びた洋服ダンス。
地味な色のカラーボックス。木で作られた勉強机。
母親と自分があの家から出た時から、使い続けている家具。幾重にも重ねられた布団の中から、重くなる頭を抱えながらも、暁人はそれらを見つめる。
――もう会ってくれないだろうな。
そう思ったら、この厚い布団の中に潜って消えて行ってしまいたいような気持ちに襲われた。
暁人の瞳に涙が滲む。酷く弱気だと自覚しながらも、そのまま溢れ頬を伝う涙を止める事はできなかった。
幼い頃から自分の拠り所にしていた兄に見捨てられるだろうという想像は、容赦なく暁人を打ちのめす。
何故あの時首に手をかけ、口付けてしまったのだろう。
何故憎んでしまうのだろうか、何故愛してしまったのだろうか。
いくら考えても、喉を乾かし胸を圧迫する咳の衝撃と、体を重く包み込むような熱に、思考は霧散してしまう。
暁人の胸が痛いのは彼を思うためなのか、風邪による激しい咳のためなのだろうか。
誰もいない部屋で重い体を抱えながら、暁人は兄への思いだけを、己へと手繰り寄せていた。
暁人は背の高い草の中、縮こまる様に膝を抱えていた。
その頬は涙に濡れ、涙は流れて立てた膝を濡らしていた。
昨日、両親から離婚を決心した事実を、暁人と理人は知らされた。彼らの話によると、暁人は母親の元に、理人は父親の元に、それぞれ引き取られるそうだ。
暁人はそれに、ただ離れたくないと思った。
父親と理人と。それまでの楽しい家族の形と。
暁人も幼いなりに両親の仲が、決していい物ではなくなっているのは感じていた。そして暁人も理人も、毎夜繰り返される口論と母の涙に傷ついていた。
しかし、離婚という決定的な別れを、幼い暁人は受け入れたくなかった。父と兄はこの家を出ていってしまい、幸せだった頃の家族はもう完全に戻ってこないのだとは、信じたくなかったのだ。
理人は泣きながら、冷たい風から身を守るように膝を抱える。
通常でも冷たい風は川の冷たさに力を借り、暁人の体から少しずつ体温を奪っていく。
ここには誰もいない。そして暁人がここにいる事を、誰も知らない。暁人はこのまま河原にいるつもりだった。別れると言う両親の絆を、少しでも繋ぎとめるために、暁人は家出をしたのだ。
彼らは必死に探してくれるだろう。そして何のために自分が家出をしたか言えば、離婚を思い止まってくれるだろう。
そんな幼い願いに、暁人は寒い中で孤独に耐えていた。
しかし、いくら待てども涙は止まらず、不安は暁人の心から溢れ出す。
暁人は本当に1人になった経験は少ない。いつもそばに理人がいて、そして今の状況は遊びでの友達が散る様とは全く違う、と暁人も感じていた。
このまま消えて行ってしまうような不安感に、暁人は襲われる。
「……りひ、と……」
暁人はたまらず、双子の名を呼ぶ。
普段は何てことはないはずの、流れる川の音、ヒヨドリの鳴く声、風の音、町の音が暁人を襲う。
圧力を含む音から逃れる様に、暁人は縮こまる。
流れる川の音の中のヒヨドリの声、吹く風が自ら音を立て草を襲い、走るトラックの音が響き、のどかな日常の声が。
と、暁人は涙に濡れた顔を上げる。
よく知る、片割れの声が風の中に聞えた。
しかし、そんな事がある訳がないと、暁人は顔を伏せる。
理人は父の子――父に引き取られる子だ。厳しい父が、母に引き取られる暁人とは違う、そんな理人に暁人を探させるはずがない。理人が言っても、その幼さも理由に含めて、絶対に捜索の中に入れるはずがないのだ。
けれど。
――理人。
片割れが己を探している、そんな想像に一度取り付かれると、暁人は理人を求める気持ちを抑えきれなくなる。
涙を流しながら、しゃくりあげながら、心は理人だけになる。
――理人理人理人理人理人、
「――暁人?」
そして暁人は、今度ははっきりと聞えた声に、顔を上げる。
暁人と鏡うつしの、同じ顔。小さな耳を隠す、長めの髪。色違いの、シャツとズボン。互い違いの靴。
そして大きなつぶらな瞳は、潤み、
「あ゛ぎひど―――っ」
泣きながら抱きついて来る。
初めは呆然としていた暁人も、泣き止まない理人の泣き声に、涙を溢れさせる。
離れる不安に、求めていた片割れに会えた喜びに、2人は抱き合って泣き続けた。
泣きながら、理人と暁人は家に戻った。
帰ってきた双子に、母親は泣きそうな顔をした。
彼女の前にいた父親は、ごめんなさい、と言おうとした自分の手を握った理人を抱き寄せる。そして子供だというのにも関わらず、彼は容赦ない力で暁人を殴った。
強い衝撃が訪れた後、暁人の身に深い絶望が訪れた。
その情の感じられない、憎しみだけがこもった冷たい目に、父親は既に自分を愛していないのだと知った。
暁人はもう泣きわめくこともできず、呆然と殴った父親を母親の胸の中で見つめ、震えながらも父親の腕の中にある兄を見つめて。
汚れた天井が滲む。
少しずつはっきりしていく意識に、暁人は自分が泣いていたのだと知る。
眠っていて夢を見たのか、朦朧としながら昔を思い出していたのか、どちらかは分からない。
暁人は泣きながら、布団を掴む。
昔の思い出は、混濁する意識に霧散していく。
降り続いた雨は、いつの間にか止んでいた。
休日の間に引いた熱に、暁人は母親を心配させないためにも、学校を休む訳には行かなかった。
学校に行っても、春までは部活をしていた暁人が、寝ながら授業を受けるのを変に思う者はいなかった。
さすがに正午になる頃には、体調の悪さは感付かれたが、繰り返す後悔は友人に隠し通した。
そして放課後。
暁人は、いつもの道を辿る。
理人と、双子の片割れと出会ういつもの公園へ、暁人は足を運ぶ。
もう会えないかもしれない。
おそらく彼は自分に嫌悪感と恐怖を抱いた。それは確かだ。脳裏に浮かぶ理人の表情にそう思う。
それでも、暁人は公園への道を歩く。わずかな可能性――信じるのが愚かなほどの、わずかな可能性に暁人は賭けずにはいられなかった。信じていなければ、自分が成り立たなくなっていくのを感じていた。
それでも、見捨てられるという可能性を感じながらも、見捨てられたという事実を目にするまでは、暁人は片割れに見捨てられないという可能性を信じるしかないのだ。
例え公園に彼の姿がなかった時の絶望が、果てしないものであろうとも。
暁人は公園の入口で足を止める。すぐに公園の中を見る勇気はない。
暁人は息をついて、そして、
「――暁人」
呼ぶ声に、頭を上げた。
ベンチから立ち上がる、泣きそうな顔で笑う、制服を着た双子の姿。
「――理人」
暁人は笑って兄の名を呼び、彼の元へと歩き出した。
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