ざまあみろ。
東方司令部2階の廊下の突き当たり。隅へ隅へと追いやられたようなその場所に、こじんまりとしたささやかな喫煙スペースがある。
しかし喫煙場、とはいっても、そこにはくたびれたベンチと錆び付いた灰皿がひとつぽつんと置いてあるだけだ。
司令部も特別な書庫以外は禁煙というわけでもないので、わざわざこんな端までやって来る物好きな人間はほとんどいない。
そんな人気のないさびれた場所で、ハボックは悠々ときしむベンチを独り占めして煙草をふかしていた。
煙草はたとえ仕事中だろうと上司の前だろうと片時も手放さないハボックだったが、やはり人の多い司令室よりもこうした所の方が誰はばかることなく思う存分吸えるというものだ。第一、未処理の書類の山の前で吸うのとは気分からして違う。気分が違えばやっぱり味だって変わるのだ。
ぽかりと吐き出した煙が上手く輪を描いて、天井近くまで昇っていく。ゆっくり煙に合わせて視線をずらしながら、ハボックは今夜の夕食の献立に思いを馳せる。
こんなふうに美味い煙草の味を噛み締めながら仕事の合間の小休止を楽しむことが、最近のハボックの日課になっていた。
だが今日の休憩は穏やかには終われないようだった。
「おーっす少尉!こんな所にいたのか」
唐突に横から声が掛けられる・・・よりも先に、勢いよく肩を叩かれた。無駄に気配を消していたから始末が悪い。油断していた所に不意打ちをくらい、うっかり煙を変な所に吸い込んでしまってゲホガホむせ返る。
だが声の主は苦しげなハボックの様子など気にも留めず、久し振りだ元気だったかと、背中やら肩やらばしばし叩きまくる。彼なりのスキンシップだろうが、ハボックからすればこの状況は新たないじめの一種としか思えなかった。
「約3ヶ月振り?相変わらず忠犬ハボ公やってっか?」
「ヒュ、ヒューズ中佐・・・!気配消して驚かせんのやめてくださいよ!」
大体、忠犬ハボ公って何だ。
果敢に抗議するが、涙目では大した効果はない。相手がロイでさえ手玉に取る食わせ者のヒューズともなれば、いっそ逆効果だった。
おおそんなに泣くほど俺に会いたかったか可愛いな〜とにやけ顔で腰に回してきた腕を、間髪入れずに叩き落とす。じとり、と睨みつけてやれば、怖い怖いとまったく本気に思えない仕草でヒューズは両手を上げて降参のポーズを取りつつ、どかりと遠慮なくハボックの隣に腰を下ろした。
「そんなに怒るなよ。久し振りに会いに来たんだから」
「あんた仕事で来たんでしょうが」
「仕事はついでだついで!今日ははるばる中央から東部の連中へ素晴らしい土産を持参してだな」
「どうせ、『愛しの妻の手作りお菓子』とか言うんでしょう」
「おう、今回はアップルパイだ!いやぁ言う前から分かるなんて、以心伝心、つくづく愛って偉大だと思わないか?」
「思いませんね」
素っ気なく一刀の下に切り捨てるが一向にヒューズは堪えていないようだった。むしろこんな言葉の掛け合いさえも楽しんでいる風があり、突っぱねることのあまりの無意味さにいっそ馬鹿らしく思えてくる。
せめてもの抵抗に深いため息をひとつ付いてから、諦めてハボックはどこまでも脱線しそうな会話に軌道修正を図った。
「で、その奥さんの料理自慢で多忙なはずの中佐殿が、こんなさびれた場所まで何の御用っすか?」
「司令室行ったら、黄色いヒヨコはただ今留守にしておりますって言われてな。せっかくの俺のカミさんの絶品アップルパイを食べられないなんてこれ以上ない不幸だから、呼びに来た」
皮肉がたっぷりきいたハボックの言葉に当然気付いているだろうに、ヒューズといえばまったく悪びれない堂々たる態度だ。
思わず襟首つかんで揺さぶってやりたい衝動に駆られる。しかし仮にも相手は上官だ。犬なんだかヒヨコなんだか、せめてどっちかにしてくれないだろうか、とやや逃避ぎみに思考を逸らすことで、何とか伸びようとする腕をぎりぎり押し止めることに成功する。
だがそんなハボックのふつふつと苛立つ内心などお見通しだ。むしろ意図的なものだったのだろう。
「まあ、ようするに俺が会いたかったってだけのことだ」
落とされたところを浮かされて。絶妙なタイミングで入るフォローに、面白いように翻弄される。
相手の言葉ひとつで一喜一憂させられるのが悔しかった。顔には出していないのに、すっかり見透かされている。
「・・・今、俺休憩中なんで。最後に後1本だけ吸ったら戻りますよ」
しかしたとえ見透かされているとしても、ここで素直に「俺も会いたかったです」などと口が裂けても言えるはずがない。
こっちだってれっきとした男なのだ。たかが男の矜持と侮るなかれ。崩壊寸前、もしくは崩壊済みであろうと、たかが矜持されど矜持である。
距離と時間を置くことで、不利な態勢の立て直しを図る。
だが相手は中央の軍法会議所所属の中佐殿。頭脳戦、心理戦などお手の物だ。
「お、そうか。ゆっくり吸えよ」
ハボックがさりげなく込めた「先に戻れ」の意など気付いた上で傲然と握りつぶし、背もたれにどっしりと身体を預けてヒューズはお前が戻るまで動かないぞと態度で示す。
完敗だ。
はっきり戻れと言わなかったことが敗因なのか。いやしかし、この相手ならたとえ明言したとしても強引に居座ることだろう。
とすると最初から勝ち目などなかったことになる。何てことだ。
ヤニで黄色く染まった天井を仰ぐハボックの隣で、ヒューズはにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
10年早いぞ若造、とでも言いたげだ。
敵わない。ハボックは非常に不本意ながら、心の中で白旗を振ったのだった。
降参して抵抗を諦めたことで、やっと煙草を楽しむゆとりができた。
気が付いたらほとんど吸わない内にすっかり短くなっていた煙草を灰皿に押し込み、新しく取り出した1本に火を点ける。
ライターで着火する仕草をまじまじと覗き込んでくる視線を感じながら、ただ男2人黙って並んで座っているのも気詰まりなので、ハボックはふと思いついたことを口に出した。
「そういえば中佐は煙草吸わないっすね」
「んー、昔は吸ってたんだけどな」
言われて想像する。確かに、あまり違和感がない。
「昔は、ってことは、止めたんっすか?」
禁煙はかなり辛いものだ。ハボックも過去試みたことはあったが、どれも1日と経たない内に挫折している。今ではすっかり煙草は食事と同じ感覚だから、止めようと思ってももう無理だろう。
「ああ。結婚してちょっとしてから、グレイシアの妊娠が分かった頃な」
我が妻と娘、マイスイートエンジェル達に悪影響与えるわけにはいかんだろ?
途端にでろでろに崩れた顔になるヒューズに、確かにこの人ならいかにもありそうな話だとハボックは思う。
「へー・・・俺だったら何があっても絶対止められませんけどね」
「馬っ鹿、それを可能にするのが愛の力ってやつだろうが」
どこまで本気なのか、胸を張って宣言する。
それにハボックは少々呆れた視線を向けた。
「愛、ねぇ・・・」
「愛だろ愛!」
その時、ハボックの目の青が本当に微かに色を変えたことに、果たしてヒューズは気づかなかった。
「じゃあ、」
すっと、ハボックは唇から煙草を離した。
「あんたが、愛する家族のために煙草を止めたって言うんなら」
空気が変わったことにヒューズが行動を起こすよりも先に、手に持った煙草を彼の口元へ持っていく。
火のついた方を押し付けてやろうかと一瞬考えたが、ちゃんと今まで自分のくわえていたフィルターの方を向けてやる。
これが先ほど散々からかわれたハボックなりの、最大限の譲歩というものだ。
「愛する俺のために今、吸ってくれたっていいんじゃないっすか?」
ね?と笑顔でハボックは微かに首を傾けながら、しかし手付きは乱暴に吸いかけの煙草を目の前の相手の口にねじ込んだ。
それきり、さっさと1人立ち上がる。
「ちょっ、待てコラ」
驚きながらもちゃんと煙草を落とさないように支える仕草に笑いをかみ殺しながら、踵を返す。
背後からは珍しく少し慌てて呼び止める男の声が聞こえてきたが、ハボックは構わずひらひらと背中越しに手を振った。
最後の煙草はなくなった。これで今日の休憩も終わり。
仕事部屋では、冷たい書類の山と冷めても美味いアップルパイが待っている。
甘いアップルパイと苦い煙草のどちらも好きだというような我侭な男には、吸いかけの煙草分程度の愛なら、たまには請求してやったたって構いやしないだろう。
「愛の力ってやつなんでしょ?」
ほんの少しだけ愛の力の偉大さを噛み締めて、背後から追いかけてくる男に今までの仕返しにできるだけ人の悪そうな笑みを向けてやった。
そのときの顔といったら。
ざまあみろ。
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某ヒゲと某ヒヨコ。
友人との交換条件でした。
やっと書けたよ長かったー・・・・・・
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ふてぶてしい少尉とずうずうしいヒューズ中佐。
見た時萌えまくって、挙動不審になりました(笑
どうもありがとうございました!
長い間アップしなくてごめんなさい。>万葉野さん