WILL



生まれたのは38年前――でもそこは真っ暗で、誰もわたしの存在に気がついてくれなかった。
いや、気がついていたけれど『わたし』を『わたし』として認めてくれなかった。


畸形嚢腫

それがわたしの名前だった。


生まれてから18年目。わたしは殺されることになった。

いや! 助けて! わたしは何にもしていないのに!!


…どうして?

ただ、闇の中にいただけよ――バラバラになって…



…生まれてこれなかった、それだけなのに。



――!

誰かがメスを入れようとしてる…殺される! 殺される!

――?

殺さないの? どうして?



気がついたら形があった。人になっていた。

世界がそこにあって、光に満ちていた。


「今日からお前はピノコだ」



世界をくれた人が、そこにいる。




「ちぇんちぇいったら、おおきくしてっていってもしてくえなかったのに、ひどいのよさ」
「おまえの手足の成長を待っていたんだよ。いやならやらないぞ」
「いやだなんていってないのよさ。じゃあちぇんちぇい、ピノコの手足がもっと大きくなったら今度こそおとなにしてくえゆ?」
「ああ、ちゃんと育ったらな」

初秋のベルリンは寒い。10月ともなると10度をしたまわる日すら出てくる。日本で言うと既に冬の様相がここにある。世界最悪の戦争によって引き裂かれたこの町も既に統一されて久しい。そんな街並みをベージュのコートに身を包んだ女性が買い物袋を抱えて歩いていた。
「…寒い」
ピノコはぽつりと呟くとかじかむその手に吐息を当てる。吐き出された息が白い。
「なんでベルリンはこんなに寒いのかしらね…」
そういってとても小さかったころのことを思い出した。あのとき何も知らずにあの人を追いかけて遠坂峠まで行ったんだった。あの人はものすごく怒ったけれど、それでも寒くなるからと自分のコートを着せてくれた。厳しくて冷たいようでいて、それなのに優しくて温かい人。
そしてわたしに世界のすべてをくれた人。
あれから20年経った。生まれたとき、実年齢18歳、見かけ7歳、戸籍上1歳だったピノコは戸籍上の20歳に合わせた体を数年前に手に入れていた。この件に関してもいろんな思い出がある。どんなに大きくしてくれと頼んでもしてくれなかったのに戸籍年齢が10歳を過ぎたころに少しだけ大きくしてくれた。手足は自分のものだったので当然成長が見られたのだ。このままにしておくとかなり変なので、ということで整形手術を行ったのだ。
今の彼女は幼いころから夢見ていた大人の女性の姿だ。すらりと伸びた手足に均整の取れた体。愛くるしい濃茶の瞳はそのままに、わずかに巻いた栗色の髪を肩先まで伸ばしている。この姿には充分過ぎるほど満足していたが、ひとつ困ったこともある。
「やぁ、そこのお美しいレディ。一緒にお茶はいかがかな?」
どんなに紳士的に言い寄られてもナンパはナンパ。ピノコはうんざりして歩き出す。18歳でドイツに留学してからというもの、男に言い寄られるのにもいいかげん飽きた。それに自分にはちゃんと夫と決めた人がいるのだ、いちいちかまってもいられない。
「お嬢ちゃーん、俺らと一緒に遊ばない?」
「お嬢さんたらー」
うっとうしい、かなりうっとうしいけど放っておくともっとうるさい。ピノコはぴたっと立ち止まるとにっこり笑顔で振り向いた。
「ごめんなさい、わたしには夫がいるの。とても大切な夫がね。だからあなたたちとは遊べないの」
こういうと大抵興味を失って帰ってくれる。しかし今日の連中はしつこかった。
「えー、旦那いるのー? でもいいじゃん、ちょっとくらい?」
「だめ。裏切れないもん」
「だってまだ20くらいでしょ? 旦那とより俺たちとの方が楽しいって」
…ああ、先生。
ピノコは天を仰いだ。
先生の腕のよさ、ピノコはちょっとだけ恨みます…。そりゃ、大人っぽくつくってほしかったけど……普通でよかったのに、先生。美人にしてって言ったのがまずかったかしら? ああ、十人並でって言っておけばよかったかな、あ、でも先生は美人に作るの得意だしな〜〜…。
ぶつぶつと口の中で文句を言うピノコにかまわず、男の一人が彼女の腕を掴んだ。
「ね? 行こう?」
「しつこいわね、いやだって言ってるでしょ!!」
「いーから行こうって」
「いやよ、離して」
振り解こうにも男の力は意外と強い。そのままピノコの腕を引く男たちは背後にいる壮年の男性に気がつかずにぶつかってしまった。
「なんだよ、おっさん、邪魔だよ」
男は見るからに怪しげな風貌だ。過去に何があったのだろう、額中央から左頬に向かって大きな傷があり、しかも左目の周囲は皮膚の色が違う。髪も右半分が白髪だ。童顔なので年齢はいささか不明だが東洋人であるということがわかるくらいだ。
「…その子を離してやれ、嫌がっているだろう」
男たちが無視して過ぎようとするのを、その東洋人は止めた。明らかに喧嘩をふっかけられている男たちは黒ずくめの男に対し、斜に構えている。
「おっさんには関係ないだろう、退けよ」
事態は微妙に険悪なのにピノコはとても嬉しそうだ。彼女の王子様は白馬ではなく黒のクラウンに乗っている。そして赤ではなく黒いマントをひらひらさせている。彼の夢は血塗られて輝く生命と豊かな色彩の大自然だ。
悲しみを乗り越えた微笑に、ずっとこの人だけを信じて生きてきた――そう、ブラックジャック先生を。
それなのに。
「…そうだな。わたしには関係ないな。邪魔をした」
な・なんですと――!?
「そうそう、わかりゃいいんだよ。さ、いこ」
ふつ、ふつ、ふつ、ぶち。
動かないピノコを訝しんだ男の一人がそっとのぞきこんだ。その瞬間、ピノコはきっと顔をあげ、男の腕を力任せに解いた。
「ちょっと! 先生! 助けるんならちゃんと助けてよ!」
数歩歩き出していた黒ずくめの男は立ち止まって振り返る。
「なんだ、せっかくモテていたのに。助けるのは無粋だろうと思いなおしたのさ」
「先生以外に愛されたってわたしには迷惑なだけよっ!」
「せっかく八頭身の美女に作ってやったのに」
「何よー!! 先生はわたしが嫌いなの?!」
「…やっといなくなってくれたと思ったのに」
「だからドイツに留学させたのね!? お生憎様ー、わたしは先生の奥さんとしていつどこにいたって追いかける用意はしてありますー」
突然道端で始まった喧嘩(?)に道行く人々はなんだなんだと野次馬を為す。ピノコを連れて行こうとした当人たちもわけがわからず困惑気味だ。
「あのー」
「うるさいわね、ちょっと黙ってて!!」
「は、はいっ!!」
事情を聞こうとしてもこうだし、止めようとするともっと叱られるので彼らは本来の目的も忘れてただただ事態を見守っている。
「だいたい先生はどうしてドイツにいるの? いつも電話したってうちに居やしないんだから」
「わたしはお前と違って忙しいんだ」
「だから携帯電話があるんでしょう。そっちのほうもいつも電源が切れてるわよ!!」
「…電波が届かないだけだろう」
「嘘。使い方がわからないだけでしょう。メール送ってるのに一通だって返ってきたことないわ!」
「………」
勝った…と、ピノコは思った。その証拠にブラックジャックは無言で立ち尽くした数秒後にくるりときびすを返してしまった。誰もがピノコの勝利を確信したのだ。
けれど惚れた弱みなのだろう、さっさとその場を離れようとする男を追いかけるように彼女も歩き出したのだ。
「ああん、先生。待ってよぉ」
買い物袋を抱え、黒い男のあとを追うピノコを、一同唖然と見送った。


「先生、先生ったら」
「元気でやっているみたいだな、安心したよ」
「それだけ言いにわざわざドイツまで?」
二つの靴音がベルリンの街に響く。ピノコは久しぶりにブラックジャックに会えて嬉しそうだ。しかし一方のブラックジャックといえば薄く微笑んでいるにすぎない。いつものこととはいえ、ピノコにはそれが少し寂しかった。
「ドイツには手術しに来たんだよ」
「難しいの?」
「でなきゃわざわざ私を呼んだりしないだろう」
ブラックジャックはもう若年の医師ではなかったが、年を重ねるごとにその技術はさらに繊細さと正確さを増し、治療を希望する患者も増えている。
「先生はこっちでも有名よ。奥さんとしては鼻が高いわ」
ピノコはうきうきした気持ちを抑えられないでいる。ブラックジャックはふっと苦笑した。
だがそんなほのぼのとした雰囲気もクラッシュする音と悲鳴にかき消された。
そして二人の前方でたくさんの人がごった返し始めた。
「なんだ?」
「先生、交通事故だわ!」
ざわめく人々をかき分けて二人は事故現場近くにやってきた。
2台の車が折り重なっている。上の車に乗っていた人は近くの人によって救出されたが、下の車の運転手は気を失っているのだろうか、ぴくりとも動かない。
「先生…」
「一刻を争うな、ピノコ」
「はいっ!」
二人はコートを脱ぎ捨てると運転手の下に歩み寄った。
「誰か、救急車と警察を! それと男の方は手伝って! 上の車をどけるわ!」
事故の現場を保存しておきたいのは山々だが、そうも言ってはいられない。早くしなければこの運転手は助からないかもしれない。
数名の男性の手を借りて、上の車を押し落とした。ドーンと派手な音を立てて道の上に転がる。
さらに下の車から運転手をそっと降ろして寝かせるとブラックジャックは首筋に手を当てて脈を取った。
「先生…」
「脈が弱いな、それに見ろ」
ブラックジャックに促されて、ピノコはその左腕を見た。フロントガラスの破片なのだろうか、無数に腕に刺さっており、二の腕にはナイフのように大きなガラス片は刺さっていた。
「橈骨神経が切断されているだろうな。急がないと麻痺してしまう」
「他は大した傷はなさそう」
ピノコは運転手の襟からネクタイを抜き取り、左腕を少し持ち上げると肩口を少し強めに縛って止血した。
「先生、用意できました」
「よし、じゃあ応急処置として橈骨神経の接続を行う」
ピノコはブラックジャックのコートの中から必要な手術道具類を取り出すと自分のコートを敷いて並べた。
「麻酔は?」
頭を三角巾で覆い、手袋をしながらブラックジャックはピノコに向き直った。彼女は無言で頷く。
「ここには先生が持っている分しかないけれどしておきました」
「よし…じゃあメス」
「はい」
たしっとブラックジャックの手にメスが渡る音がする。周囲はざわめきながらも二人の行動を見守っていた。
「ピンセットと…血管縫合針」
「はい」
ブラックジャックの腕は相変わらずで、ピノコはいつもどおり助手に徹している。
「先生、出血がひどいわ」
「ああ、副腸直筋を掠めたんだろう。だがこっちの神経のほうが先だ。ピノコ、止血の処置を」
「わかったわ」
そういうとピノコはいったん彼の助手を辞めて患者の腹部を調べた。びっと服を引き裂くと血で赤く染まった腹を清める。かすったガラス片が小さかったのが幸いしたのだろうか、出血は多かったが大事な神経や臓器にまで到達する傷ではない。
「先生、ここの消毒は?」
「お前に任せる。傷の具合は?」
「深くないわ、少し裂けた程度」
「なら大丈夫だろう」
ブラックジャックはもう腕の皮膚の縫合をしていた。ピノコは脱脂綿に消毒液を含ませると患部をちょんちょんと叩くようにした。麻酔が効いているので染みるとか騒いだりしない。
「ここも応急に塞いでおこう。メス、それから鉗子だ」
「はい、先生」
二人はみるみるうちに応急処置を済ませた。そしてすべてが終わってしまうと、救急車がやってきた。
「被害者はどこです?」
「彼だよ。応急処置は済ませておいた。後は頼むよ」
「は、はい」
そうして何事もなかったかのように去っていく二人の後姿を、救急隊員は呆然と見つめていた。
応急処置にしてはほとんど完璧に整合が終わっていたからである。


「あいかわらずの腕前なんでうっとりしちゃった」
「おいおい、手術中にうっとりされちゃかなわんな」
「今日の請求はどうするの?」
「そうだな。身元が分かっているからゆっくり取り立てるさ」
そういってブラックジャックはくすくすと笑った。
「先生、かわったわね」
「ん?」
「だって以前の先生なら事故現場で怪我人を助けるなんて絶対しなかったのに」
そういってピノコが笑い出すと、ブラックジャックはすっと足を速めてしまう。
「お前と一緒だからな、どうせ助けてやれとか言い出すんだろうと思ってな」
「ほんと?」
「……行くぞ」
無言の肯定にピノコはこっそりと微笑んだ。



「ここはベルリンなの。お茶漬けはないけどおいしいソーセージとビールならあるわ」
「もう食べ飽きた気もするがね」
「そう言わないで。美味しく仕立てるから」
そういったピノコの言葉どおり、料理はとても美味しかった。日本にいたころから妙に料理上手だったがその腕はドイツに来てからも衰えていない。ブラックジャックにとっては久しぶりの家庭料理だ。
「先生」
「なんだい?」
「今何食べてるの? まさかボンカレーはどう作っても美味しいとか言ってレトルトで済ませてるんじゃないでしょうね」
「そんなことないよ。まあ外食が多いには多いが。飯さえ炊いておけば何とかなるんでね」
意外かもしれないがブラックジャックはちゃんと自炊できる。家族を亡くした彼は一人で生きていかなければならなかったため、家事の一切は自然とできるようになっていた。やらなくなったのは医者としての職務が増えたこともあったが最大の要因はピノコの存在があったからだ。
「わたしがいなくてもちゃんとできるっていうのは知ってるけど。でも心配なの。先生はわたしが夢を叶えるのに反対しなかった。それどころかこうやってドイツに留学までさせてくれた……だからこそ、先生のことが…」
ピノコはフォークとナイフを握ったままうつむいた。ブラックジャックは何も言わず、ビールの入ったグラスを傾けている。一気に飲み干すとカタンと音を立てるようにしてそれを置いた。
「ピノコ」
呼びかけに応じるようにピノコは無言で顔を上げた。
「恩に感じるのならそれを姿勢で示すんだな」
「姿勢…?」
「私はな、ピノコ。お前も知ってのとおり事故で体をバラバラにされた。瀕死の私は本間先生に救われた。それから私は本間先生の姿勢や技術に感銘を受けて医者になったんだ。本間先生のように誰かを救う手助けをしたいとな。お前はどうして医者になりたいのか、それを忘れるな」
それからブラックジャックは何も言わずにもくもくと食事を続けた。ピノコもやっとフォークを持ち上げたが、その顔に憂いはなかった。



ねぇ先生
わたしたちは同類なの
バラバラだった体をつないで生き延びて
それなのに大事な人からは捨てられて


でもね
わたしはあなたを
あなたはわたしを見つけたの


それだけで充分よ……



ピノコが目を覚ました時、ベルリンの街はまだ薄暗い靄の中にあった。
(やだ、早く起きすぎちゃった…)
それでも二度寝するには中途半端な時間で、仕方なく起きることにした。リビングのソファで寝ているブラックジャックを起こさないようにそっと洗面所へ行き、顔を洗ってまたこっそり部屋に戻り、身支度を整える。パジャマから部屋着に着替えて、それから朝食の用意だ。
「先生が来るって知ってたらお米用意しとくんだったなぁ…」
後の祭りと知りつつピノコはなんとなくつぶやいた。
リビングのブラックジャックはまだ眠っているのか、すーすーと寝息を立てている。無防備な寝顔は昔からちっとも変わってない。
「可愛い…」
ピノコは小さく微笑むと彼が寝ているソファの横に静かに跪いた。そしてそっと身を乗り出し…。
「ご馳走さま、先生」
ピノコは嬉しそうに笑いながらキッチンに入る。
ブラックジャックは未だ夢の中。






ねぇ先生
永遠なんてどこにもないって知ってるけど
でもわたしたちはずっと一緒よ
ずっと一緒に命を助けていくの




―――大好きよ





≪終≫




≪ついにやってしまった…≫
せんせー、ごめんなさーい\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?
手塚治虫先生の不朽の名作『BLACK JACK』より、BJ×ピノコです。ピノコ誕生から20年くらい経ったのが今回の時間軸です。
大人になったピノコを書いてみたかったので。先生はちっとも変わっていないです。
あー…もうコメントないです。すみません、逆さに吊ってきます…。 注: 文字用の領域がありません!

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