雪柳 〜『君を知りぬ』・ある日〜




花言葉は『愛らしさ』
小さな花弁の舞う姿は雪のそれに似ていてとても綺麗
この小さな花は――そうだ、君によく似ている




「ったくよー、こんなところまで逃げやがって手ぇ煩わせんじゃーねーっつーの」
アイボリーのコートに身を包んだ青年が杖を片手に溜め息をついている。彼の名前は<A−O ORATORIO>。選ばれた研究機関だけが接続を可能とする特殊な閉鎖空間<ORACLE>の守護者である彼は今日も侵入者を一匹退治した。全くの小者だったので大したことはなかったがなんせ逃げ足が速くて、しかし囮というわけでもなかったのに気がつけばこんなところまで追ってきていた。
「くしょ〜〜。ま、データが無事だっただけでもよかったとしましょうかねぇ」
そう言いつつ背伸びをして<ORACLE>がある上位空間に転移しようとしたところでオラトリオの足が止まる。見知った人影が彼の視界に入ったからだ。
「ありゃあ…師匠?」
オラトリオがそう呼ぶのはたったひとり。Aナンバーズの最古参<A−C CODE>だ。桜色の髪に柳のような細身を縹藍の衣に包むその人はロボットプログラミングの母と称されるカシオペア博士の出世作でもある。稼働時間は最長を誇り、さらに攻撃プログラム『細雪』は触れたものすべてを消し去る刀剣だ。さらに彼自身にも迫力があって、流石のオラトリオも彼には頭が上がらない。
「なんでこんなところにいるんだぁ?」
オラトリオはきょろきょろと周囲を見回す。このあたりには確か自分の製作者である音井教授の電脳空間があるはずだ。コードがうろついていたからといって差し支えがあるわけではないが、オラトリオはなんとなく気になってあとをつけてみた。
このコードは実は今までお蔵入りになっていたロボットプログラムである。お蔵入りといっても現実空間にボディがなかっただけでこの電脳空間では自由に動いていた。というのはもともとコードはサポートロボットとして開発されたものでありながら、メインロボットであるバンドルが完成しなかったためにこのモラトリアムを過ごしているわけなのだ。
そんな彼ももうじきボディを得て外に出ることが先ごろ決定した。音井教授が丹精した<A−S>という最新型ロボットのサポートに、と要請があったのだ。この<A−S>はMIRAという特殊金属とSIRIUSという光変換性変軸結晶とを使って作られる、まさにロボット工学に革命を起こすロボットになるのだ。『こんな面白い話に乗らねば男がすたる』と言っていたコードだが、本当はバンドルを失って40年来、待ち続けた相棒を再び得られる機会でもある。
オラトリオの性質は『影』だ。だがそれは人間や低級なプログラムに気づかれないだけのことであってコードにはばれているかもしれない。それでもオラトリオはコードのあとを追う。コードはあるところでふっと立ち止まると、そのまま姿を消して、しばらく現れなかった。
「おんやぁ?」
オラトリオはなかなか現れないコードに業を煮やし、先ほどまで彼が立っていた場所に足をつけた。僅かな痕跡を読み取る。オラトリオはあちゃーと手で顔を覆った。
コードの行き先は地下空間――強く、賢しく、そして己に正直なものだけが生き残る弱肉強食の世界だ。アクセスすら違法とされる空間はコードがかつて腕試しに使った場所であり、現在では都合が悪くなったときの逃げ場所ともなっている。違法地下空間にオラトリオは行けない。なぜならオラトリオが<ORACLE>の守護者であるからだ。<ORACLE>だけを守るために存在し、そのための力を持つ彼は<ORACLE>とそのデータを守る以外に力を振るってはならないことになっている。オラトリオは諦めざるをえなかった。
「ま、別に師匠がなにしてたっていいんだけどね」
<ORACLE>からの『帰って来い』コールに、オラトリオは上位空間への転移を開始した。


オラトリオの痕跡が完全に消え去ってしまうと、今度はコードがあたりを窺いながらひょっこり現れた。実はコードは違法空間の上空にちょっと足を踏み入れただけで完全に降りてはいなかったのだ。オラトリオをやり過ごしたのである。
「図体でかいひよっこめが…」
コードは小さく舌打ちすると、そのままファイルを開いた。それは金色に小さな鍵の姿をしている。コードはそれを虚空にさすと、カチッと回した。やがて扉が現れてコードを導くように開いた。あたりを確認し、中に入るとそこは柔かい光とオルゴールのような澄んだ音に満たされていた。コードが中に入ってしまうと扉は自然と消え失せてしまう。少し遠くから子どものはしゃぐ声が聞こえる。彼はそちらに足を向けた。
小さくころころとしたプログラムの中心は空色の髪をした小さな女の子だ。背中を向けているためか、コードに気がついていない。淡い青色のプログラムがその子の髪をくいくい引っ張った。するとその子はくるっと振り返り、すぐに満面の笑みを浮かべてコードに抱きついてきた。
「コードお兄ちゃん♪」
「しばらくだったな、<A−S>」
コードはその子の頭をなでてやる。女の子は嬉しそうに笑った。
彼女の名前は<A−S>。名前はまだないが、彼女こそのちにコードがサポートすべきロボット、<A−S SIGNAL>…の、幼少期の姿である。ふとした事故がきっかけで知り合ったふたりは今ではすっかり仲良しになった。
「エモーションお姉ちゃんは?」
「エレクトラは今仕事中でな、後で来ると言っていたぞ」
「よかったぁ」
<A−S>はほっと胸を撫で下ろした。エモーションとはコードの妹<A−E EMOTION:Elemental Electro−Elektra>のことである。エモーションとは本来はプロジェクト名であり、個体名はエレクトラである。が、彼女自身はどう呼ばれようともかまわないらしく、エルと呼ぶ人もいる。エレクトラと呼ぶのは兄のコードだけだ。
エモーションと<A−S>が知り合ったのも、元はといえばコードのせいだった。ある日気まぐれに始めた侵入者退治の最中にコードは細雪で音井教授の電脳空間の壁の一部をぶった切ってそのまま逃げようとしたのだ。そこを偶然<A−S>に見つかってしまい、それが縁でこうして彼女の様子を見に来ているのである。先ほどの扉は<A−S>がちょろちょろ出ていかないように作ったものであるが、なかなかやってこないコードに我慢できなくなった<A−S>がたった一度こじ開けて外に出てしまったことがある。そのとき<A−S>を保護してくれたのがエモーションだったのだ。あれ以来エモーションは彼女を娘同然に可愛がっている。
そんな出来事があったからこそ、自分と<A−S>のつながりを誰にも――特にオラトリオだけには知られてはならない。オラトリオは<A−S>の実の兄に当たる。彼に知られたらなんと言われるかわからないからだ。どうせばれるのなら<A−S>が起動したあとのほうがあとくされがなくていい。
「お兄ちゃん」
小さくて柔かい手がコードをくいくい引っ張った。コードは膝を折り、琥珀色の目を細めて<A−S>に視線を合わせた。
「なんだ?」
「剣のおけーこしよ〜」
「そうか、やるか」
「うん」
コードは彼女の手に引かれるままに歩き始めた。


「へぇ、コードがねぇ」
ウェッジウッドのカーゾンにレディグレイが優しく香りたつ。<ORACLE>の主人格であるオラクルは先ほどオラトリオが見かけたコードの話で盛り上がっていた。そこにはエモーションもいたのだが、コードとは口裏を合わせているためにただにこにこ笑っていた。彼女にはコードの行き先がわかっている。本当は自分も早く行きたいのだがそうとは言わずに黙っていた。内容によってはコードに報告しなければならない。ちょっとしたスパイ気分のエモーションである。
「地下空間に行かれちゃあ、俺にも手は出せねぇからなぁ。ま、細雪お持ちだし、大丈夫でしょ?」
「でもなんだってコードの行き先が気になるんだい?」
「師匠がある一定のポイントから下に降りてるのが気になるのさ」
「一定のポイント?」
オラクルが鸚鵡返しに訊ねるとオラトリオは頷いた。エモーションはぴくりと聞き耳を立てる。
「ここ数回、音井教授の電脳空間付近から下に降りてるんだ。どのくらい――まぁ、時間、階層どっちでもいいんだけど――降りてるかはわかんねぇ。けどあの師匠が場所を固定してるなんておかしくねぇ?」
コードは地下空間でも公共空間でも『Aナンバーズだと悟られないこと』を条件に電脳空間の徘徊を許されているのである。そしてそれはエモーションも同じだ。コードがどこから現れてどこに帰っていくのか、悟られないようにする必要があるにもかかわらず一定のポイントからのアクセスがオラトリオに疑問をもたせているのだ。
ここまで説明してオラクルはやっと納得した。世間知らずのオラクルには懇切丁寧に説明してやらねばならない。
「もしかしたら誰かに見つかるとやばいことでもしてんのかな。だから追ってきにくい地下空間に一時的に逃げてるとか」
「まあ、一体どのような?」
エモーションが興味のあるふりをしてオラトリオの推理の続きを聞いた。
「まさかとは思うけど…女、とか?」
「コードに…かい?」
オラクルが苦笑する。自分がこの電脳空間に生まれたとき、コードはもうすでにいた。コードとは長い付き合いだし、オラトリオができるまでは随分侵入者を退治してもらっている。いつも飄々として余り人を寄せ付けないコードに女ができたなどということが信じられないでいる。
「そういうけど、師匠だって男だぜ?」
オラトリオはそう言って笑い、話はそこまでになった。
『当たらずとも遠からず』――この言葉がエモーションの脳裏を駆け抜けたことをふたりは知らない。


『コードに女ができた』という憶測はエモーションの言葉どおり当たらずとも遠からずである。
ひととおり剣のお稽古をした――というよりはチャンバラごっこだったが――<A−S>はコードとおやつに興じていた。コードとエモーションが教えてくれるすべてが<A−S>にとっては未知の物、ここでデータを学ぶことよりも二人の話のほうが面白いのもあるいは仕方のないことかもしれなかった。
そこにエモーションがやってきた。コードの横で最中をはもはもしていた<A−S>は挨拶をしようとして、けれど口いっぱいにほおばった最中が邪魔でつっかえてむせた。
「う〜〜〜」
「きゃああ、<A−S>!!」
「<A−S>、ゆっくり少しずつ飲み込めっ!!」
<A−S>はコードの言うとおりに少しずつしっかり飲み込んでいく。全部食べ終わってしまうとようやく息をついた。
「苦しかったぁ…」
「口いっぱいほおばるからだ」
こつん、と小さく小突く。<A−S>はてへへと笑った。子どもらしいあどけない姿にエモーションはほうと溜め息をつく。
「<A−S>は今日、何をしてましたの?」
二人を<A−S>をはさんで座る。
「えっと、コードお兄ちゃんがくるまでみんなで遊んでて、それからお兄ちゃんが来てくれたから剣のお稽古してました」
「まぁ、よかったですわね、<A−S>」
「はい。あたし、お兄ちゃん優しいから好きです♪」
<A−S>の大きな瞳がコードを捉える。コードはそっぽ向いた。そんなコードの態度に<A−S>はちょっといけないことを言ったのかと心配になってエモーションに向き直る。
「…怒っちゃったのかな」
「照れているだけですわ」
そう言ってエモーションは<A−S>を優しく撫でてやる。<A−S>はちょっと安心してにっこり笑った。
「ところでお兄様」
「何だ、エレクトラ」
「オラトリオ様がお兄様の行動を不審に思っておられますわ」
「…ばれてはおらんだろうな」
「ええ、今のところは」
「そうか、ならいい」
<A−S>には事情がわからないのでただきょとんとしている。彼女はなぜコードとエモーションに出会えたのか、知らないでいるのだ。突然現れたふたりを何の疑いもなく遊び相手にしてしまったところは世間知らずと言おうか、豪胆と言おうか。どちらにしろ蚊帳の外にいる<A−S>はそれでもオラトリオという単語に惹かれたらしく、コードの袖をくいくい引っ張った。
「ねぇ、コードお兄ちゃん」
「何だ、<A−S>」
「オラトリオって誰?」
<A−S>の無邪気な問いにコードは小さく笑って教えてやった。
「オラトリオは俺様たちと同じAナンバーズのロボットだ」
正確にはそうではない。オラトリオは<ORACLE>に関して治外法権を持つ独立した単体である。Aナンバーズというのは隠れ蓑にすぎない。けれど<A−S>の中ではそんなに難しい概念でなくてもよい。コードは詳しい説明を省いた。
「<A−S>のお兄様ですよ」
「あたしのお兄ちゃん? あたしにお兄ちゃんがいるんですか?」
エモーションはゆっくり頷いた。
「ええ。<A−S>にはお姉さまがお一人と、お兄様が二人おられるんですよ」
「ほえぇ…」
<A−S>は感嘆の声を上げた。紫色の大きな瞳はまだ見ぬ姉兄に思いをはせているようだった。<A−S>は後に音井ブランドの末娘としていろんな意味で注目されることとなる。
「俺様にも、あと二人妹がいる」
「私の妹で、双子なんですのよ」
今は音信不通となってしまった妹達、どこでどうしているか心配だがあの二人ならきっと大丈夫、コードとエモーションはそう信じている。双子のうち姉の<AE−1α ELARA>は<A−S>が起動してから初めて出会ったAナンバーズとなり、さらには工学的にもサポートすることになるが、それはもう少し先の話だ。
「じゃあ、あたしも、コードお兄ちゃんたちも、4人兄弟なんですね」
「そういうことになるな」
「楽しい偶然ですわね」
三人はなんとなく笑いあっていた。


「女だな、ぜってー女がいる!」
「まだ言ってるのかい、オラトリオ…」
「だってよー、あのコードがなーんかこそこそしてるなんて怪しさ120%じゃねーかよ」
仕事の最中だというのにオラトリオの思考が止まらない。そういう自分は自他共に認める女好きで、こういうことには敏感だ。
「だったらコードに聞いてみたらどうだい?」
「ばーか、あのコードが喋るかよ」
「だったらエモーションに聞いてみれば?」
「…そっちならなんか知ってるかもな」
オラトリオはどんどんたまっていく仕事に気がついてはいなかった。


それから数日たったある日、エモーションがコードからコピーしてもらった鍵を使って中に入ると、<A−S>がぶすくれていた。
「どうしました、<A−S>。可愛いお顔が台無しですよ」
「エモーションさん…」
<A−S>はエモーションの顔を見るなり、目にじわっと涙を浮かべた。エモーションはぎょっとして<A−S>を覗きこんだ。今にも泣き出しそうだ。
「ど、どうしたんですの、どこか痛いんですか?」
<A−S>はふるふると首を振る。空色の髪がさらさらと揺れた。
「コードお兄ちゃんに会いたいです…」
「<A−S>…」
あれからコードは現実空間にできるボディの調整や、それに伴うプログラムの変更で多忙を極めていた。自分がいけないかわりにエモーションを遣ってはいたのだがそれであの<A−S>が納得するとは思えない。なんせそれがきっかけで脱走を図ったほどなのだ。それでもこういう事情だから抜けるわけにもいかない。将来の自分のため、あるいは彼女のためにコードは頑張っているのである。
<A−S>だってわかっている。以前帰っていくとき、コードは『忙しくなるので来られなくなるかもしれない』と言っていたのだ。それが将来自分のためになることだと説き伏せられ納得はしたものの、幼い彼女にはやはり寂しいには違いない。
「コードお兄ちゃん…」
そう繰り返してはしくしくと泣く<A−S>を一生懸命宥めながらエモーションはほんの僅かな安堵を感じていた。
バンドルを自身の手で切り捨てたコードはそれから妹である<A−E>シリーズはおろか、多くのAナンバーズたちを見守ってきた。それはそれで嬉しかったけれど、でもエモーションは妹だからこそ、兄にも幸せになってほしいと願っていた。< A−S>はまだ幼いけれどコードに会えないことを寂しいと思ってくれる『家族』以外の新しい存在なのである。彼女ならきっと兄を幸せにしてくれるに違いない、とエモーションは小さいけれど明るい未来を掴んでいた。
「わかりましたわ、<A−S>。お兄様のところへ連れて行ってあげましょうね」
「本当ですか?」
エモーションはこっくり頷いた。<A−S>の顔が一瞬ぱぁっと晴れ、そしてまた暗い顔に戻る。
「でも、ここから出ちゃいけないってコードお兄ちゃんが…」
「ひとりで出るのは危険です。でも私が一緒にいますから大丈夫ですよ」
<A−S>は今度こそお日さまの笑顔を取り戻した。
「そうと決まれば<A−S>、私が一緒といってもお外は危ないですから、これを着てくださいまし」
そういうとエモーションは白いふわふわしたコートのようなものを取り出した。こう見えてもれっきとしたプロテクトで、簡単な守護壁も兼ねてある。<A−S>は小さな手をちょこんと袖から出した。それからウサギ耳の帽子もかぶせてやる。これはエモーションの趣味である。
「それから、額は絶対に見せてはいけませんよ。もし<A−S>だってわかったら大変ですからね」
コードもエモーションもそうやって彼女が<A−S>であることを確認しているのである。もし移動中にオラトリオにでも見つかった場合、額の刻印さえ見られなければただのウサギとして<A−S>を隠し通してしまえる。<A−S>は額を抑えてこくこくと頷いた。すべては大好きなコードに会いたいという小さな女心がなせる技であろう。
果たしてエモーションはウサギに化けた<A−S>を連れてコードの屋敷に急いだ。


途中で誰にも会わなかったのは幸運だった。
エモーションは<A−S>を抱いて庭先に下りるとあたりを見回した。どうやらコードはまだ戻ってきていないようである。
「エモーションさん、コードは?」
「残念ながらまだお戻りではないようです。でもここにいらしていることは連絡しておきます」
そういうとエモーションは一通のメールを飛行機にして飛ばした。それはしばらく虚空を舞うとふっと闇の中に姿を消した。それをみていた<A−S>は小さく呟く。
「お兄ちゃん…」
「大丈夫ですわ、<A−S>の気持ちはきっと通じましてよ」
それから10分としないうちに紙飛行機を手に慌ててコードが戻ってきた。どたどたと廊下を走る音に<A−S>は嬉しそうだ。ばたんと派手な音でふすまを開けたコードを見、<A−S>は嬉しそうに笑ったがコードはそうではなかった。
「エレクトラ! <A−S>がこっちに来とるそうだな!!」

「あら、お兄様。お早いお帰りで」
「お邪魔してます、コードお兄ちゃん」
もこもこウサギに、コードは一瞬言葉を失う。目の前の白い物体が<A−S>だとはすぐにわからなかったのだ。
「なんだ、あのふざけた格好は…」
「プロテクトですわ。可愛いでしょう?」
可愛くないといえば嘘になるがそれにしてももっとまともなプロテクトはなかったのだろうか、コードはちょっと頭を抱えた。
「じゃなくってな!」
「なんですの?」
「どうして<A−S>がここにおるんじゃいっ?!」
「コードお兄ちゃんに会いたかったの。それで、エモーションお姉さんに連れてきてもらったの」
そういうと<A−S>はコードに抱きついた。
「あたし、寂しかったの…お兄ちゃんが忙しいって知ってたけど、でも、寂しかっただもん…」
<A−S>はぽふと顔を埋める。泣き顔を見られないようにしているのかもしれなかった。小さな肩が揺れているのに気がついたコードは<A−S>をゆっくり抱き上げた。そして<A−S>にだけみせる笑顔を向けた。
「ほんのちょっとだけだぞ。お前がいないことがばれたら大変だからな」
「…うん♪」
よくわからないけどコードは怒っていない、そう確信した<A−S>はにっこり笑ってコードに自分の頬を摺り寄せた。甘えているつもりなのである。
「こら、やめんか。くすぐったい」
「えへへ」
まるで親娘のような二人にエモーションは笑みを絶やさなかった。
それから<A−S>はコードと庭に出てたくさんの木や花に触れた。コードは蝶や小鳥も出してくれた。彼にしては珍しく大盤振舞いである。
木の高さ、花の色、鳥の声、蝶のはばたき――百聞は一見に如かず、それらすべてが<A−S>の五感を驚かす。
この庭から出なければ大丈夫だろう、そう思ったコードが縁側に戻ろうとしたとき背後でものすごい音がした。
ばっちゃーん!!
何事かとコードが振り返ると蝶を追って走り回っていた<A−S>が足元にあった池に気がつかずに落っこちてしまったのだ。エモーションも慌てて飛び出してくる。
「<A−S>、大丈夫かっ?」
池にはまってびしょびしょに濡れてしまった<A−S>は、なぜか泣きもせずにぼんやりと自分の体を見回していた。
「おい、<A−S>」
「<A−S>、<A−S>、大丈夫ですか?」
たまらずコードは池に入り、<A−S>を抱きあげた。それでやっと<A−S>ははっとしてきょろきょろと大きな瞳をめぐらせる。頭でも打ったかと思ったのだがその心配はなさそうだ。とりあえずほっとしたふたりは<A−S>を乾かしてやる。
「ねぇ、コード」
頭をがしがし拭かれながら<A−S>はふっと顔を上げた。
「なんだ?」
「今の、『水』だよね」
「そうだ。あれが『水』だ」
「…冷たい」
コードははっとした。これまで<A−S>とおやつに興じていた際、彼女には飲み物を与えていたのに彼女はそれを『水』だと認識していなかった。もちろん『水』そのものを与えていたわけではないのだが『液体』としての感覚は希薄だったことをコードは改めて知ったのである。
「なぁ、<A−S>」
「なあに?」
「お前が冷たいと感じたのが『水』だ。それを温めると『湯』になって、さらに温めると『水蒸気』になる。わかるな」
『水』そのものを感じたのは初めてだが、このへんは基本中の基本なので<A−S>もこっくり頷いた。
「その量が少なければ乾き、多ければ溺れる」
<A−S>はまたこっくり頷いた。
「この世の万物がすべて己に有益とは限らん。どんなものも使い方や量を誤れば命を落とす」
そしてコードは真剣に<A−S>を見つめた。紫水晶もかくやの瞳はただコードを真剣に捉えていた。
「…強くなれ、<A−S>」
「はい」
<A−S>は力強く頷いた。

そのいい雰囲気をぶち壊すかのようにエモーションが乱入してきた。
「お兄様、一大事ですわっ!!」
「何事だ、エレクトラ!」
もしや侵入者かと思い、コードはさっと<A−S>を抱き寄せた。
「オラトリオ様がいらっしゃいました! お兄様に伺いたいことがあると!!」
「なんだとぉ〜〜」
もしや…ばれたか?! コードは慌てて<A−S>を押入れに隠すと何も喋るな動くなと言って締めた。よくわからないけれど自分がいてはまずいらしい、<A−S>は何も疑わずにじっとしていた。
そのころ玄関で待っていたオラトリオは急に中が騒がしくなったことを気にとめていたがすぐにエモーションがやってきたので取り立てて聞くことはなかった。
座敷に通されるとあいかわらず凛とした空気の中にいるような緊張を覚える。程なくコードがいつものようにやって来て上座にどかっと腰をおろす。
「わざわざこちらにくるとは珍しいな、何かあったか」
「いえね、ちっとばっかし師匠にお伺いしたいことがあったんですよ」
「ほう、なんだ」
いつものポーカーフェイスでコードは淡々と茶をすする。
「20年程前でしたっけ、正信とタメはってた女流のハッカーがいましたよね」
「ああ、確か"浮舟"とかいう…まだ現役でやっとるはずだが」
「その浮舟が<ORACLE>をハックしてきたんですが、どうも彼女の手口だと思えんのですよ〜〜。彼女にしては乱雑ですからね」
「で?」
「師匠がその浮舟関係の資料をお持ちだと聞きましてね、できれば拝借したいんすけど」
「しかしハッカーは退治したのだろう、今さら浮舟を洗ってどうする」
「別に。ただ有名なハッカーのことは把握しておきたいだけっす」
そのとき、オラトリオの背後のふすまががたっと動いた。オラトリオがくるっと振り返り、その間にコードの背中がざわっと揺れた。
じっとしていろといわれた<A−S>だったが、『オラトリオ』といういちばん上の兄がどういう人だか見たくなって、ちょこっとだけふすまを開けてしまったのだ。
「…なんかいるんすか?」
「おらん。で、浮舟のデータだったな」
そういうとコードはすっと立ち上がった。さてどこにしまったか、と頭を掻きながら押入れを小さく開け、<A−S>が隠れているところに頭を突っ込んだ。<A−S>は何も言わずにじっとコードを見つめていた。コードは口に人差し指を縦に当ててからここにはないな、と呟いて閉めてしまった。
「なんせ古いものだから奥にしまってあるのだろう。あとで探して<ORACLE>にでも送っといてやろう」
「いえ、そんなお手間は取らせませんよ。手伝いますから探しましょうや」
「急がんだろう?」
「手伝いますって♪」
「急がんよな、オラトリオ?」
「は、はい、急ぎません…」
咽喉元に煌く白刃はコードの愛刀、細雪。刀身に触れるものすべてを雪のように霧散させる最強の攻撃プログラム。オラトリオはホールドアップの姿勢をとらざるを得ない。オラトリオが降参するとコードはようやく刀をしまった。
「解ればいい」
それからしばらくしてオラトリオは帰っていった。
『なんだ、女隠してんのかと思ったのに…』
オラトリオの推測は鋭かったが、今一歩であった。

コードは確かに押入れに女を隠していた。
コードはふすまを開けてやると<A−S>を出してやった。
「お前なぁ…」
「ごめんなさい、オラトリオお兄ちゃんってどんな人かと思って」
「それはまたおいおい教えてやる。そろそろ帰らんと教授が心配するだろう」
「うん」
<A−S>はコードに会えただけで満足なのだ。それに今日はエモーションにわがままを言ってここに連れてきてもらった。だからそろそろ帰れといわれればちょっと残念だけれども素直に家路に付くことにした。
「エレクトラ、送ってやれ。すまんが俺様、これからまた打ち合わせでな」
「わかりましたわ、さぁ、<A−S>」
そういうと<A−S>はエモーションにプロテクトを着せられて外に出た。
「…なんだ、その格好は」
「ひよこさんですわ、可愛いでしょう?」
今度は黄色のもこもこしたケープに、黄色の帽子を被っている。コードはもはや何も言わなかった。<A−S>が無事に帰り着けばまぁよしとしよう。
「また近いうちに遊びに行くからな」
「うん、お兄ちゃんも、お仕事がんばってね」
「ああ。じゃあ、気をつけてな」
「うん♪」
<A−S>はエモーションに手を引かれ、立ち止まっては振り返り、コードに手を振って帰っていった。
コードの上に白いものがひらりと舞う。
「雪?」
いや、これは
「雪柳…か」
小さな花弁がひらりひらりと舞い落ちてくる。この小ささは――そうだ、<A−S>――彼女に似ている。
コードは花びらを一枚懐にしまう。後に彼は散りゆく花のかわりにひとつの木を植えた。
彼女が<A−S>としてここを訪れたのはこれが最後となった。




今、自分の傍らで眠るのは<A−S SIGNAL>。コードと永遠を誓ったその人である。
小さな雪柳のような幼女は艶やかな藤の花となって咲き誇っている。
「ん…コード?」
「なんだ、目が覚めたのか」
「やだ、私寝てた?」
シグナルは顔を赤くして身を起こした。コードのそばでひなたぼっこをしていたのは覚えているけれど、そこから先の記憶がない。きっとコードに寄りかかって寝てしまったのだ。その間コードは動くに動けず、じっとしていたに違いない。
「ごめんね、コード」
「別に気にせんでいい」
シグナルはほっと息をついた。ここはいつでも温かい光と澄んだ音に満たされている。時には闇に染まることもあるけれどそれはまたふたりだけの時間を隠してくれる。
16歳の少女の姿をとるシグナルはコードと恋に落ち、そしてめでたく結ばれていた。
「ねぇ、コード」
「ん?」
「なんか、白い花が散ってるよ」
「雪柳だな」
「綺麗だね」
そっと寄り添う肩を抱くと、シグナルははんなりと微笑んだ。恋を知った女性の笑顔に、あのころのあどけなさをほんのりと残して。
「<A−S>…」
「ん?」
「いや、なんでもない」
コードの呟きにちょっと顔をあげたシグナルはまたゆっくり身を寄せる。
「ずっとこうしていたいな…」
「望むなら…いくらでもな」
ふたりはそっと口づけを交わした。




雪柳の花言葉は『愛らしさ』
小さな花弁の舞う姿は雪のそれに似ていてとても綺麗
この小さな花は――そうだ、君によく似ている


時々思い出して、こう呼ぶのだ。

――<A−S>、と。






≪終≫




≪もうしないって言ったのに…≫
もはや定番となりつつあるC×S♀の電脳空間出会いシリーズ。この話はタイトルどおり『君を知りぬ』という作品の、『ある日』という設定です。こういう話書くときにはアドレナリン惜しまないんですけどね、私は(笑)。
小さい子どもに接する機会があったのでなんとなく書いてしまいました。まぁ、小さくっても女性は女性ってことで。

注: 文字用の領域がありません!

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