さくらの季節


 

こんな気持ち、知らなければよかった
桜さえその花の終わりには散っていくというのに
 
ねぇ、さくらさん
この思いも、その花びらに乗せて遠くへやってくれませんか?

あのひとに、気づかれないように…



「桜ももう散り際だね、シグナル」
「そうだねぇ」
煌く陽光の中をはしゃぐように歩く少年の後ろを、少しおっとりした雰囲気の少女が歩いている。二人ともおつかいの帰りだろうか、手には袋を下げていた。
少年の名は音井信彦。世界最高峰のロボット工学者音井信之介の孫にして天才ハッカー音井正信の息子でもある。もうひとつついでに言っておけばロボット心理学の権威であり、シンクタンクアトランダムを管理するマーガレット・カシオペアの義理の孫でもある。母親であるみのるがカシオペア博士の養女であった。母親もまた科学者である。
こういう環境にいて、彼の後ろを歩いているのがただの『姉』であるはずはない。アメジストに輝く瞳、紫苑色の透明感あふれる髪が彼女を人間ではないという。
少女の名は<A-S SIGNAL>――世界最初のMIRAおよびSIRIUSで作られたロボットである。彼女の製作者は音井信之介だ。
そういう縁で信彦とシグナルは仲のよい姉弟として日々を過ごしている。
二人は立ち止まって桜を見上げた。
花の命は短い。桜は咲いてから散るまでその命の美を謳歌する。古来より散る姿までも美しいとされたのは桜だけだ。
一陣の風が木をゆすると、桜は惜しげもなくその花を散らす。風に舞う花びらがシグナルの髪に止まった。
「あれ・」
「ああ、シグナル。俺が取ってあげるよ」
信彦はそういうとシグナルの髪に手を伸ばした。きれいな桜色が信彦の手に収まる。
「ありがとう、信彦」
二人は再び歩き出した。



「おかえりなさい、お二人とも。お買い物ご苦労様でした」
「ただいま、母さん」
「ただいまです。全部買ってきました」
二人を出迎えてくれたのは信彦の母、みのるだった。信彦はみのるに似ている。ちなみに父の正信はシグナルのモデルになっている。
「おやつ用意してあるから、食べなさい。シグナルちゃんもね」
「わーい、やったぁ」
ぱたぱたと走っていく信彦に微笑みかけながらシグナルも後を追う。そこでみのるは気がついてしまった――シグナルの些細な変調に。
キッチンにはすでにクリスがいて、お茶の用意をしていた。
「あんたたち遅ーい」
とか何とかいいながら彼女は二人を待っておやつには手をつけていなかった。クリスにとって信彦は弟のようにかわいいし、シグナルには同じ年頃の友達のように接している。
「シグナル、あんたも食べるんでしょ」
「うん。あ、私も何かやるよ」
自分だけぽけーっと突っ立ているのに気がついて慌てたが、すでにクリスが整えてくれていたので、シグナルはケーキを取り分けるくらいだった。
「いっただっきまーす」
信彦は元気よくケーキを口にする。クリスもおいしそうに食べた。シグナルだけが、ちまちまと突ついているのに気がついてクリスが声をかけた。
「どうしたの、シグナル。あんたチョコレート好きでしょ?」
「えっ…あ…うん、好きだよ」
言われてようやくケーキを食べるシグナルに、二人は思いっきり不審がった。
「シグナル…具合悪いんじゃないの?」
と信彦。クリスも云々頷く。
「そうじゃなかったら、喧嘩でもしたんでしょ」
「してないよ。もう、変なこと言わないでっ」
シグナルはむうとむくれたが、ケーキは相変わらずもそもそと食べている。
いつもらしからぬ『姉』の様子をみかねて信彦は心配でたまらなくなった。



ちがう。喧嘩なんかしてない。もちろん故障なんかじゃない。
夕食後部屋に戻るとシグナルは後ろ手にドアを閉めてその場にへたり込んだ。
―――どうしちゃったんだろう、私…
この気持ちの正体がはっきりすれば、そして消すことができたのなら、楽になれるかもしれない。

こんな感覚は以前もあった。でもあの時とは違う、あきらかな『負』の感情が彼女を苛んでいる。彼女自身、そう思っていないが。

なんだかわからないもやもやした気持ちの中にいたあのときは、あの人が助けてくれた。琥珀色の瞳で見つめて、ひとつひとつゆっくりほぐしてくれた。
そしてその感情に『恋』という名前をくれた。それから『ふたり』が始まって、いろんな事を一緒に乗り越えてきた。
あの人の声、あの人の腕、あの人の胸――触れるたびに深く強く惹かれていくのが嬉しかった。
それなのに…。
シグナルは両手で顔を覆った。
こんな気持ち、知られたくない…。
大好きなのはあの人。そして今もやもやしたこの気持ちを感じてるのは、あの人に近しい人。

桜は、あの人の色。

「…コード」
シグナルはぽつりと呟いた。
彼女の思い人は<A−C CODE>という。カシオペア博士の手になる男性型のロボットで、T・Aの開発したロボットのうちでは古参ナンバーになる。もともとサポート機として開発されていたコードは現在シグナルのサポート機として稼動している。MIRAという特殊金属を用いているため、非常時には融合して戦うこともできる。そんなことが縁で、シグナルはコードと恋に落ちた。

琥珀は、あの人の瞳。

コードは電脳空間でこそ人型だが現実区間では鳥の姿となる。シグナルのサポートをすると決まったとき、コードが鳥形になりたいと望んだからだ。
でも、そんな姿をしていてもコードはコード。それに自分も信彦のくしゃみで小さくなるというバグを抱えている。ひとつの『自分』という存在に二つの姿を持っている。鳥でも人でも、コードが好き。

縹藍は、あの人の衣。

コードも自分のことを好きだといってくれた。ずっとずっと待っていた愛しい存在だ、とも。
何故かはわからなかったけど、コードだけはひどく特別に思えた。すぐにひよっこだって言うけど、それは仕方がないもん、そう思う。
だって自分はまだ生まれたてで、何も知らないから。

だけど、気づきたくなかった。
コードのこと、好き。すごく好き、大好き。
でもあの人を見るのが今はつらい。私にすごく優しくしてくれるのに……どうしてだろう。

それに、こんなこと打ち明けたら、きっと嫌われちゃう。
だってあの人は、コードの妹なんだもん。


「エモーションさん…」
<A−E EMOTION:Elemental Electro−Elektra>。世界初の女性的人格を持つロボットプログラムで、コードの妹。現実空間にボディを持たず、今も電脳空間で暮らしている。電脳空間に行けば温かく迎えてくれて、楽しい事をたくさん教えてくれる。シグナルが生まれる前にもお世話になった人。
シグナルはエモーションに、負の感情を抱いている。そしてそのことに気がついて、居たたまれなくなった。
<ORACLE>に遊びに行ったとき、シグナルはコードと談笑するエモーションを見た。
なんて穏やかに、華やかに笑いあっているのだろう。自分といるとき、コードはあんなふうに笑ってくれているだろうか。
自分はエモーションのように、コードの支えになっているだろうか。
気がついたら、もうその場にはいられなかった。見ていたくないと思った。一歩一歩と後ずさり、走り出していた。
「おっと」
「きゃ…」
廊下を駆けて来たシグナルを抱きとめたのは彼女の兄である<A−O ORATORIO>だ。彼は妹が悲痛な顔をしているのに気がついた。
「廊下は走っちゃ危ないぞ、シグナルちゃん」
「ご、ごめんなさい…」
彼女がそういうとオラトリオはそっと抱きとめていた体を離した。シグナルの体が一瞬ふらつく。
「大丈夫か? 休んでいくか? ちょうど師匠も来てるし、エモーション嬢もいるし」
エモーションの名が出て、シグナルはびくっと体を震わせた。オラトリオは見逃さなかった。
「どうした? なんかあったのか?」
「な、なんでもないよ。あ…私、信彦と約束があるから帰るね」
珍しく口篭もる妹は紫苑の光となって消えうせた。その光を見送って、オラトリオはぽりぽり頭を掻いた。
「…なんかあったなー、ありゃあよぉ…」
信彦はシグナルの弟だ、とてもかわいがっている。その信彦との約束があるのならなぜここにいる? 来る必要があったのか?
約束なんて、きっと嘘だ。オラトリオの直感はそう言っていた。
「お兄ちゃんにも言えないのかね」
――誰のために泣き、誰のために笑う? ときには自分のために泣いたっていいんだぜ? 
そう思いながらオラトリオはメインフロアへ続く扉を開けた。暖かい光が満ちているこの空間。真っ先に彼に気がついたのは相棒たるオラクルだ。よう、と片手を挙げるとオラクルはにこやかに応えた。
「やぁ、オラトリオ」
「まぁ、ごきげんよう、オラトリオ様」
「ご尊顔を拝し、恐悦至極。ますますお美しいエモーション嬢」
「お上手ですこと」
シグナルなら真っ赤になって叫び出しそうなこの行為もエモーションは笑って取り合わない。コードはただギロリとひと睨み。
「師匠もあいかわらずのよーで」
「悪かったな」
互いに憎まれ口を叩くのは二人がシグナルをめぐる恋敵だからである。オラトリオも、シグナルのことを想っていた。しかしそれは妹に向かうものではなく、恋人に向かうものだった。本来オラトリオはAナンバーズではない。<ORACLE>という特殊財団法人に籍を置く、独立主権のロボットなのだ。そして<ORACLE>を守護し、機能停止時には彼自身が<ORACLE>にシフトチェンジされなければならない。Aナンバーズだというのは隠れ蓑に過ぎない、とは彼の言葉である。
オラトリオは諦めていた、これが自身の存在意義なのだと。
だが、それを聞かされたシグナルはオラトリオにすがって泣きじゃくったのだ。
――なんでオラトリオが、と。
電脳空間から動けないオラクルと、自我の希薄を要求されるオラトリオと。
彼女は泣いてくれた。シグナル自身ではどうしようもないという憤りと、<ORACLE>のすべてに。
泣いたからといってどうなるものでもなかったが、自分のために泣いてくれるこの小さな存在が、オラトリオには嬉しかった。そして彼女に恋をした。
そんなことを思い出して、はたと気がついた。先ほどのシグナルだ。
「そういや師匠、シグナルと一戦ぶちかましましたか?」
「はぁ?」
オラトリオの問いにコードは珍しく素っ頓狂な声をあげる。『一戦』とは痴話喧嘩のことだ。これにはエモーションやオラクルも興味を惹かれたらしく、コードのそばによる。エモーションなどはかわいい娘がまた泣かされたとあっては黙っていられない。
「また<A−S>を泣かしましたの、お兄様」
「お、俺様は何もしとらんぞ。だいたいそういう根拠はどこにあるんだ、オラトリオ」
言われてオラトリオはおどけたように肩をすくめた。
「いえね、さっき俺のかわいい妹がなーんか辛そうにしてましたからね。聞いても何にもいわねえし、何かあったのかと思ったんすけど」
「そういえばシグナル、なかなか入ってこないなーとは思ってたんだよね」
のほほんというオラクルにオラトリオはげんなりと肩を落とした。
「あのなぁ、オラクル…」
「なんだい?」
「そういうときは気を使ってやれって」
言われてやっと気がついてオラクルはそうかと納得した。
「そうだね、今度からそうするよ。でもシグナル、本当にどうしたのかな、心配だね…」
「私たちには言えない悩みでもおありなのでしょうか…」
そう言ってエモーションはやはりコードを見つめた。現実空間で四六時中シグナルと一緒にいるはずのこの兄が気がついていないとは何たることか。
「だから、俺様は知らんぞ」
「それを解決するのがお兄様のお役目です」
コードはしぶしぶ立ちあがった。


それから一週間ほどが過ぎている。みのるの相談してみると、彼女もシグナルの様子がおかしいことに気がついていた。
「やっぱり何か悩んでいらっしゃるのですね」
プロジェクターからエモーションが言う。祈りの形に手を合わせ、そっと目を閉じた。
「で、いったい何をだ」
「それはシグナルちゃんにきいてみないと」
と話している研究室の外からばたばたと足音がする。ノックもせずに駆けこんできたのは信彦だった。ひどく慌てていて、顔は青ざめている。
「母さん!」
「どうしたの、信彦」
信彦はそれでも何とか言葉をつむぐ。
「シグナルが倒れたんだ!」
一同が驚きの表情を見せる。開け放たれたままのドアからコードがすうっと出て行った。廊下に出ると階段を上がってくるパルスとクリスに出会った。パルスの腕にシグナルが抱きかかえられており、これから第2研究室に運ぶという。
「いったいどうしたんだ」
これには信彦が答える。
「わかんないよ。俺、シグナルと一緒に遊びに行こうと思って声をかけたんだ。そしたらシグナルがリビングで倒れてて…」
当時誰もリビングにはおらず、シグナルが倒れる瞬間を見たものはいない。
研究室に運ばれたシグナルはそのまま調整台に寝かされた。左右対称の白い顔はただ眠っているようにしか見えなかった。なんでもなかったかのように起きて『みんなどうしたの?』とこともなげに笑ってくれるのだろうか。信彦は心配でたまらなかったが、自分にできることがないのでパルスとともに部屋を出た。
「シグナル、大丈夫だよね」
パルスは無言で頷いた。


「別にボディにもプログラムにも異常はないぞ」
コンピューターデスクに向かっていた教授は椅子ごとみんなを振り返った。そこにいたのは息子の正信と、みのる。助手のクリスにハーモニーだ。ハーモニーは音井教授が作った世界最初のHFRである。が、そのサイズは30センチほどで、実質的に人間と同じサイズとなるとカルマが最初ということになろう。
シグナルは未だ調整台の上で目を閉じたままだ。
「ということは…」
「精神的なこと、かしらね」
みのるがぽつんと呟いた。クリスも小さく頷いたのをみて教授は不思議そうな顔をした。
「なんじゃい、クリス君も思い当たることがあるのかね?」
「ええ、まぁ…」
クリスは口元に手を当てて思い出していた。きっと彼女だから、いや、女性だから気がついただろうシグナルの異変。
「買い物に行ったときなんですけどね、変に桜の木を避けようとするんですよ」
「桜の木?」
正信が鸚鵡返しに呟いた。
「ええ。でも桜の木ってこのへんはごろごろしてるじゃないですか。そしたら今度は急に早く帰ろうって言い出して」
「そういえばこのごろ、お使いを頼むとちょっと困った顔をするのよね、シグナルちゃん。外に出たくない理由があるのかしら」
さくら、さくら…もう散り際だというのに。
「やっぱりコードのことなのかしら」
コードは今信彦と一緒にいる。みのるがコードの名を出すと一同があっと声をあげる。二人がどういう想いで結ばれているのか、知っているからだ。
「どういうことなんですか、みのるさん」
ロボット心理学は正信の専門外だ。今はみのるの説明を聞くほうが手っ取り早い。信彦の姉であるシグナルは彼らにとっては娘同然なので心配なことに変わりはない。
「<ORACLE>でも様子が変だったんですって」
みのるはエモーションから聞いていたことを話した。話を総合してクリスが推理する。
「やっぱりコードと喧嘩したんじゃないですかぁ?」
「でもあの子達、こんなに長引く喧嘩したことある?」
一同、う〜んと唸る。シグナルとコードはめったに喧嘩をしないし、しても24時間以内に元の鞘に収まっている。周囲があきれるほどのラブラブぶりだというのに。
「じゃあ、やっぱり何かほかにあるんですかね」
「でもコードのことだと思うのよ」
「みのるさん、どうしてだね?」
と、教授が問いかける。みのるは寂しそうな笑みを浮かべた。
「だって、桜を避けてるんでしょ? 桜っていったら、コードの髪と羽の色ですよ」
色鮮やかなHFRの中で古桜色の髪を、そして翼を持つのはコードだけである。ハーモニーはサーモンピンクで、桜には遠い。
シグナルはきっと、桜の中にコードを見ていたはずだ。コードが藤の花にシグナルを見ていたように。


ゆるりと目を開けて違和感に気がつく。
「あ…れ?」
私、リビングにいたはずなのに…。
「目が覚めたのね、シグナルちゃん」
ひょいと覗きこんできた顔に安心したシグナルはほっと息をついた。
「みのるさん…ここは?」
「研究室よ。あなたリビングで倒れてたのよ。覚えてる?」
シグナルはぶんぶん首を振った。みのるはシグナルに異状はないかと尋ねるとシグナルはにっこり笑って起きあがった。
「大丈夫です」
「そう、それはよかったわ。でもね、シグナルちゃん」
「なんですか?」
「みんながね、あなたのことすごく心配してるの。何があったのか話してくれる? もちろん、話せるんだったらでいいけど」
みのるはシグナルの髪を優しく撫でながらたずねた。
みんな心配してる。そう言われるとシグナルも黙っているのが辛くなった。誰かに聞いてもらってこの気持ちがなんなのか教えてもらえたら、楽になれるような気がした。
――もうよそう。みんなを心配させちゃいけない。
「みのるさん…」
「なあに?」
みのるは先を促そうとしなかった。シグナルがぽつりぽつり話すのを、時々相槌を打ちながら聞いた。
「私……エモーションさんを見てるのが辛いんです」
みのるはまあと声をあげた。エルは――エモーションは幼き日のみのるの姉だ。今でもそれは変わらない。それにシグナルにとっても彼女は電脳空間における仲の良い友人のひとりであるはずだ。そのエモーションの存在がまさか彼女を苦しめようとは。
「エモーションと何かあったの?」
シグナルは再び首を横に振った。プリズムパープルの髪が悲しげな光を弾く。
「ありません、なんにも。…でも」
「でも?」
「…コードと楽しそうにしてるところを見ると、たまらなくなるんです。私は…エモーションさんみたいにコードを笑わせてあげられてるかと思って…」
シグナルの頬に、銀の雫が流れ落ちた。
「でも、それ以上に…エモーションさんは私が生まれる前からずっとコードのそばにいて…私、なんだかわけがわからなくなっちゃって。エモーションさんを、わけもなく嫌いになりそうで…怖くて」
「でもそんなことを言ったら、今度はコードにも嫌われるんじゃないかって思ったのね」
今度は頷いた。自分の中に生まれた正体不明の感情に彼女の心は暴走したのだ。
みのるはそっと、シグナルを自分の胸に抱き寄せた。
「大丈夫よ、シグナルちゃん」
「みのる…さん?」
「そういうのはね、『嫉妬』っていうの。ジェラシーとか、やきもちって言ったほうがいいかな」
「嫉妬…」
「あなたはエモーションにやきもちを焼いたのよ。コードを取られるんじゃないか、ってね」
嫉妬、ジェラシー、やきもち…。シグナルははっとした。名前をつけてもらってやっと思い当たる。
――自分はエモーションに嫉妬していた。
「コードは幸せね」
「え…」
みのるはにっこり笑いかけた。
「それだけコードはシグナルちゃんに愛してもらってるんだもの。嫉妬ってね、愛情の裏返しなのよ」
それだけいって、みのるはシグナルを離した。ここまでいえばもう大丈夫。あとは彼女自身がどうするか、なのだ。そこで壁にあたったのならまた悩んで、それでもだめなら話してもらえばいい。
「いけないのは、一人で何でも抱えこんでしまうことよ。遠慮しないで…怖がらないで話してみて」
そういってみのるは部屋を出た。そして心配しているだろうエモーションに連絡をとった。
いつも遊びに出ていったら鉄砲玉のエモーションがすぐに出てきた。彼女はシグナルが心配でずっと連絡を待っていたのだという。
「いかがでした、<A−S>は」
「もう大丈夫よ。落ち着いたみたいだから」
みのるがそういうとエモーションはほっと息をついた。
「それはよろしかったこと。もう元気になりますのね」
「さあ、それはどうかしら」
「まだなにか?」
いたずらっぽく笑うみのるの目も笑っている。エモーションははらはらと次の言葉を待った。
「シグナルちゃんはね、あなたにやきもちやいてたのよ」
エモーションは言葉もなく立っていた。しばらく時間があってからようやくまぁと驚いて見せた。
「<A−S>が私に…ですか」
「そう。コードとあなたが仲良くしてるところを見てそう感じたのね」
「そうでしたの…」
エモーションは若緑の瞳を伏せた。自分は今までと同じようにコードに接してきた。もちろん、彼女から兄を取り上げようと思ったことはない。むしろ熨斗をつけてさしあげたつもりでいた。いつもいつも自分たち――妹たちばかりを愛してくれた兄を愛してくれる誰かを彼女もずっとずっと待っていたのだから。
「私が<A−S>を苦しめていたのですわね…」
そういう割に、エモーションは微笑んでいた。
「<A−S>はおばかさんですわね。私にはオラクル様がおりますのに。いまさらどうして<A−S>からお兄様をとりあげましょうか」
自分で月下氷人しておきながらシグナルはそのことをすっかり忘れていた。それほどまでにコードを思っている証なのだ。そう思えば嬉しいことには違いない。
「それにね、みのるさん」
「なあに?」
「私、本当はお兄様に嫉妬しておりますのよ」
エモーションは晴れ晴れと告白した。その顔に憂いはない。
「いいえ、私だけではありませんわ。きっと<A−S>を慕うどなたもが、お兄様に嫉妬しているでしょう」
優しい紫色の光に包まれた、ロボットの未来を切り開いていくジャンヌ・ダルクに愛されたのは誰でもない、コードなのだ。
そして天狼を抱くやわらかな肌に触れられるのも。
「そうね…」
みのるも穏やかに目を閉じた。
「<A−S>がもっと自信を持ってお兄様を愛してくだされば、それだけでいいのですわ」
きっと、なにも間違えない。
「お兄様も、<A−S>を愛していらっしゃいますもの…」


電脳空間にも桜が咲く。季節ごとに景色を変えるコード邸の庭は満開の桜をたたえていた。
「みのるに聞いたぞ」
コードはシグナルを振り返らなかった。ただ桜の木を見つめている。
「エレクトラに嫉妬したそうだな」
コードだけが、エモーションを固体名で呼ぶ。エモーションだけが、コードにそう呼ばれる。
ちょっと前の自分なら、エモーションを特別だと思っただろう。でも今の彼女はそう思わなかった。コードは誰のこともちゃんと固体名で呼んでいる。気がついてしまうと楽だった。むしろ自分がエモーションをプロジェクト名の『エモーション』で呼び、彼女がシグナルを<A−S>と呼ぶほうが特別なんだと思われた。
シグナルはなにも言わなかった。コードが振り向いてくれない、顔を見せてくれないから、なんと言ったらいいのかわからなかった。
でも素直になったほうがいいと思った。
「うん…私…エモーションさんにやきもちやいてた…」
コードはやっと振り返った。そして大声で笑った。シグナルはびっくりして顔を上げる。
「な、なんで笑うの?」
「おかしいからだ。笑わんでおれるか」
コードは腹を抱え、体を曲げるようにして笑い続けた。流石のシグナルもむっとして言い返す。
「そんなに笑わなくてもいいじゃない。私は真剣に悩んだんだから…」
「馬鹿だな、おまえは」
ようやく笑いを収めたコードがシグナルのそばによる。彼女の髪にかかる桜の花びらをそっと払いのけ、抱きしめた。
「こ、コード…」
「おまえのような馬鹿には、もう一度教えてやらねばなるまい」
そう言うとコードはそっとシグナルの頬に手をかけ、上を向かせた。そのままシグナルの唇を奪う。
突然のキスに、シグナルは驚いたものの抵抗はしなかった。ゆっくり目を閉じ、コードの温かさを感じる。コードの背中に腕を回して抱きついた。

きっと、私だけこんなふうに特別なんだ。



コードはエモーションさんたちみんなを愛してる。
でも、私にはきっと違う愛をくれてる。
それだけ、信じていればいいんだよね…。

桜の花はもともと白かったのかもしれない。
それが、たくさんの燃えるような想いを抱いて、ごく薄い紅に染まったのかもしれない。
そしてそれを『桜色』と呼んだんだ――



「コード…」
「ん?」
「もっと、そばによって」
「こうか」
「うん」
灼熱に近い想いで互いを焼きあった二人は静かに寄り添いあっていた。薄い肌掛け一つ、ほかに纏うものもない。
コードはふと、シグナルの肌に視線を泳がせた。首筋に赤い痕がある。自分がつけた所有の印だ。
――彼女の肌の上に一枚だけの桜のよう
「…ごめんね、コード」
「なにがだ?」
「…心配させちゃって」
「気にするな、いつものことだ」
紫水晶の瞳はコードを見つめていた――穏やかに、鮮やかに。
求められるまま口付ける。


目を閉じ強く感じよう、この心がそばにあること
なにも言わないで――春の影が過ぎようとしているから。


桜さえ風の中で新しい花を咲かせる
きっとふたりも、ここから新しい想いを育んでいくんだ――。



「やっほー☆ 遊びにきたよー」
「やぁ、シグナル。大変だったんだって? もう大丈夫なのかい?」
「うん、もう大丈夫だよ」
オラクルにもシグナルのトラブルが伝わっているらしい。が、詳細は知らないらしく、それ以上はたずねてこなかった。そばにいたオラトリオもぽんぽんと彼女の頭を撫でる。普段は急に抱きついてきたり体に触ったり、なにかと痴漢行為の多いオラトリオだが優しくされると、くすぐったいけど嬉しい。
「やっぱシグナルちゃんはこうじゃないとなぁ」
「そうだね」
オラクルはにっこり笑ってくれた。
「あら、<A−S>、もうよろしいんですの?」
銀の玉振る鈴の声がして3人は声の主を見た。ネオングリーンの軽やかなうねりが美しい。
「ご挨拶が遅れて失礼いたしましたわ、<A−E EMOTION:Elemental Electro−Elektra>にございます」
「やぁ、エモーション」
エモーションはにっこり笑う。シグナルはちょっと考えて、いつものようにご挨拶した。
「こんにちわ、エモーションさんv」
シグナルはちょこんと頭を下げ、そして何を思ったのか、そのままエモーションに抱きついた。
「まぁ、どうしたのですか、<A−S>」
「何でもないです。私、エモーションさん好きですよ」
エモーションはシグナルに深い慈愛の微笑を見せた。そしてこれがシグナルなりの謝罪なのだと理解した。
「嬉しいこと。私も<A−S>が大好きですわ」
二人はしばらくぎゅっと抱きしめあっていた。
「いいなぁ、俺もエモーションになりてぇ…」
「コードになったほうがいいんじゃないか」
「あ、そっちか!」
くだらないことをまじめに言い合う二人に、どこからか現れたコードの声が降りかかる。
「何を馬鹿なことをいっとるんじゃい!!」
「ああっ、ししょー」
「冗談だよ、冗談」
「シグナルちゃーん、師匠がお見えだぜ〜〜」
助け舟を求めるオラトリオの声にシグナルは振り向いた。エモーションの快諾を得て今度はコードは抱きつく。
「コードっv」
「こら、いちいち抱きつくんじゃないっ」
「よろしいではありませんか、お兄様。本当にお羨ましいこと」
「まったくですぜ」
コードがひどく怒る前にシグナルは恋人から離れた。そしてオラクルは思う。やっぱり、あの明るい笑顔がいいなぁ、と。


「そう言えばね、正信さん」
「何です、みのるさん」
紙のファイルからデータベースを作っていた正信はキーボードを叩きながら顔だけ上げた。みのるは少し離れたところに紅茶を置く。
「信彦がね、ロボットみんなが来てから寂しくなくなったけど、シグナルちゃんを取られたみたいでなんだか複雑だって言ってたわ」
一人っ子だった信彦の前に現れた動かぬシグナルはたちまち彼を魅了し、そしてシグナルは信彦の姉として起動することになった。けれどパルスが増え、カルマにハーモニー、オラトリオにコードとロボットが増えるにつれ、シグナルは先輩Aナンバーズに振り回されてばかり。もちろん信彦のことにもかまってくれるけど、彼女がコードと恋人になってからはいよいよ複雑だ、と彼は言っていた。
「あはははは。信彦も男の子ですからねぇ」
「コードもうかうかしてられないわね。あの子が大きくなったらきっとライバルになるわよ」
「でしょうね」
正信は面白そうにカップを手に取った。大きくならなくても、今のままで充分ライバルになりえている、と思うが。
「シグナル、今から暇?」
「うん、暇だよー。おつかいとか頼まれなきゃ、だけど」
「じゃあさ、遊びに行こうよ」
「うん、いいよ」
シグナルはにっこり微笑むと信彦に手を取られるまま立ちあがった。そのときコードは庭に出てお気に入りの木にとまっていたのだが、信彦に連れられて出て行くシグナルを見ていた。
――また子供のお守か、相変わらず暇なことだ
しかしコードはこの後とんでもないことを目撃する。シグナルを手をつないで歩いていた信彦がふと自分を見つけ、そして…。

にやり、と。

笑ったのだ。コードはただならぬ戦慄を覚え、枝から落ちそうになった。
『な、なんじゃあ?!』
あの、笑いは。あの、勝ち誇ったような笑いは。いつもいつもコードと一緒じゃないんだよ、といわんばかり。
「どうしたの、信彦」
「なんでもないよ、それより急ごう、みんな待ってるから」
「うん」

桜並木はもうすぐ葉桜になろうとしていた。




ねぇ、さくらさん
結局ばれちゃいました――この気持ち

でもね、私、誰よりもあの人が一番好きです。
もちろん、みんな大好きです。


この気持ちでまた来年も、花を咲かせてくれますか?





≪終≫






≪反省の時間≫
…毎度毎度思うんですが、ぜんぜん反省になっていないのでこれからは懺悔の時間にしようと思います。
C×S♀で、『シグナルがエモーションにやきもちを焼く話』のつもりだったんですけど、しまいにゃ信彦とコードでシグナルの取り合いをしてしまいました。本当は別の話で『シグナルがコードとラブラブで自分のことにかまってくれないのでむくれる信彦の話』を書こうと思ってたんですが、なんかかぶっちゃいそうだったのでくっつけてしまいました。カルマ君がいないのは…なんでだっけ? ああ、時間軸がね、カルマが中間管理職になった後だから。だからいないんだ。うん。
今回は嫉妬している自分がわからなくて悩んでいるシグナルちゃんなんですけど、ちゃんと書けてるかなーって心配です。みのるさんにも出張ってもらいましたけどね。
ま、とにかく…コード、がんばって(笑)。



注: 文字用の領域がありません!

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