桜刻 〜はなどき



桜の花が咲くころ
遠く旅立つあなたの背中を見送るの
ひらりひらりと舞う花びらに
涙を乗せたりしないわ



春まだ浅い今日という日に、信彦はのんびりと買い物に出た。幼いころを過ごしたこのトッカリタウンに滞在していられるのもあとわずか。
18歳になった信彦は日本の高校も先日無事に卒業し、シンガポールにあるシンクタンクアトランダムの所有する大学へと進学が決まっていた。祖父と両親がロボット工学者だったことと、周囲、こと兄弟姉妹にロボットを持つ信彦にとってそれは当然といえば当然といえた。しかしこの進路については誰も何も言わなかった。周囲は彼にロボット工学者になれとは強制しなかったし、信彦自身その必要を感じなかった。成長するにつれ、やはり自分がロボット工学を志したいと気がついたときにはみんなが彼の決断を賛成してくれた。
姉も妹も、それを喜んでくれた。
「ただいまー」
「おかえり、信彦」
買い物袋を提げた信彦を出迎えてくれたのは華やかな色彩と笑顔の少女だった。紫水晶を思わせる大きな瞳に、超極細の光ファイバーで構成された紫苑色の髪を持つ彼女こそ、信彦の祖父である音井信之助の最高傑作、シグナルなのだ。彼女が起動したとき、信彦は11歳だったからかれこれ7年の付き合いになる。そのときシグナルと信彦は姉と弟になった。そして彼女が抱えているバグによって生まれた『ちび』は妹だ。
「探していたものはあった?」
「うん。あ、これお土産。ちびが折り紙欲しがってたでしょ」
そういうと信彦は買い物袋の中から徳用折り紙を出してシグナルに渡した。シグナルはうれしそうに微笑んだ。
「ありがとう、信彦。あとで買いに行こうと思ってたの」
「ついでだったからね」
信彦はシグナルの髪をそっとなでた。出会ったときは見上げていたシグナルも今ではすっかり見下ろすようになっていた。
「信彦は大きくなりすぎだよ。180センチはあるんでしょう?」
ちびの道具箱に折り紙をしまっていたシグナルは横目でちらりと弟を見た。顔立ちは母のみのるにそっくりだがどこか父親のそれも見え始め、すっかり男らしくなった。身長も182センチとなり、160センチのシグナルなどあっさりと越えてしまっている。
「正確に言うと182センチだよ。もうパルスとそんなに変わらないかな」
信彦はさっと自分の前髪っを指でつまんだ。少し長い前髪もこの際切ってしまおうかと考えている。
「あっという間だったね、この7年って」
「…いろんなことがいっぱいあったけどね」
「でもシグナルが生まれてすぐに頃が一番大変だったよねぇ」
あの事件を思い出に出来るだけの年月にはまだ程遠い。けれどあのことを風化させはいけないのだ。
人間とロボットが共存できる未来のために。
そのために信彦はシンガポールへ立つ。シグナルは彼を見送る。
シグナルは信彦の横に腰掛けた。
「少し、寂しくなるね」
「そうだね。でもシンガポールはそんなに遠くじゃないし。ちゃんと連絡だってするよ」
「でもね、私たち長く離れたことなかったもん」
紫苑色の長い髪を帳代わりに、シグナルは俯いた。もしかしたらわずかに泣いているかもしれない。
信彦はそんな彼女の肩をそっと抱き寄せた。不意に感じた温かさにシグナルはふと顔を上げる、信彦の肩にことんと頭を乗せるように。
「信彦?」
「あの事件のあと、シグナルがもう直らないかもって聞かされたときにね」
あのときはまだ11歳だった。幼い自分に出来ることが何もなかった。
でも今はこの手で、この腕で。彼女を守ることが出来る。そしてそのための技術をもっともっと身につけるのだ。
「あの時が一番辛くて不安で…寂しかったよ…」
もう会えないかもしれないと覚悟した2週間。
「それでも、あれよりはマシなんだ。期間はものすごく長いけど俺もシグナルもで元気でやっていける。そうだろ?」
「信彦…」
シグナルはふわりと笑った。
修理されている間の記憶はないけれど、目覚めてすぐに見た信彦の顔は今でも忘れない。
我慢していた痛みと辛さと寂しさと。そして再び彼女に会えた喜びをいっぱいにして、収まりきらなくて涙になっていた。
「俺がいなくても大丈夫でしょ」
そういって信彦は窓の外を見た。一羽のメタルバードがこの家を目指して戻ってくる。


もうすぐ、桜も咲くのだろう


それから数日後、すっかり準備を終えた信彦がシンガポールに旅立つ前日となった。
「あれ、信彦どこにいくの?」
玄関先の音を聞きつけたシグナルがぱたぱたと走り寄ってきた。
「床屋さんだよ。髪切ってもらわないと鬱陶しくなってさ」
信彦は前髪をつまんだ。前髪だけでなく全体的に長くなっている。本当はもう少し早く切ろうと思ったのだがどうせなら旅立つ前にしようと思っていたのだ。
「なんだ、私がやってあげるのに」
「遠慮するよ。また前髪を一直線にされちゃたまらないもんな」
けらけら笑う信彦にシグナルはむうと頬を膨らませた。
信彦が6年生になったとき、シグナルが床屋さんを買って出て切ってくれたのは良かったのだが前髪にたいしてまっすぐはさみを入れてしまったのだ。じゃっきりと音を立てて落ちていく前髪を信彦は黙ってみているしか出来なかった。
『ちょっと、シグナル!?』
『だ、大丈夫よ。クリスぅ、助けてぇ〜〜』
『ちょっとちょっと、そんなにヤバイの!?』
はい、とハーモニーが見せてくれた鏡の中に映る自分を見て信彦は愕然とした。
「そうむくれないの。行ってきます」
「行ってらっしゃい…」
シグナルはふとリビングに戻った。ソファに腰掛け、手近なクッションをぎゅっと抱く。
明日、信彦は旅立ってしまう。まだシンガポールに行ったわけではないのにどんどん寂しくなってくる。
「やだ…泣きそう…」
遠く離れていてもいつまでも姉と弟だと信じている。信じているけどずっと一緒にいただけにその時間が止まってしまう、そんな不安がある。
「シグナル…」
「コード…」
いつの間にか、彼女のそばにメタルバードが止まっていた。彼こそシグナルの師匠であり恋人でもある<A−C COD E>だ。コードはシグナルの膝の上に乗り上げた。
「なんだ、もう泣いとるのか」
「まだ泣いてないもん。でも…でもなんか寂しくて」
そういってシグナルは顔を伏せた。
「それじゃ信彦が安心して留学できんではないか」
「わかってる。わかってるよ」
コードはふうとため息をついた。今は何を言っても何をしても彼女を慰めることはないだろう。明日になればそれはもっとひどくなるに違いない。
「シグナル、妹や弟はいつか自分のそばを離れていくものだぞ」
「コード…」
「俺様もそうだった。みのるは結婚して信彦を生んだ。エララとユーロパも家を出て、今は立派にやっとる。エレクトラもオラクルとうまくやっておるようだし…そんなものだぞ」
「コードは、寂しいって思わなかった?」
「それは感じたな。でもそんなふうに思ってもどうしようもないこともあるんだ。信彦は自分で選んだ道を歩いているんだ。ちゃんと歩かせてやれ」
「うん…」
わかっている。わかっているけど明日から信彦がいない暮らしを出来るだろうか。シグナルの胸は不安と寂しさでいっぱいだった。



その日の夜は信彦を送る会と称してささやかな食事会を設けた。
シグナルは精一杯の笑顔で信彦の横にいた。姉弟として、そして兄妹として過ごしてきた7年という年月がまた新しい形で始まろうとしている。
「シグナル」
「なあに? 信彦」
「…なんでもないよ。呼んでみただけさ」
そしてとっぷり夜も更けてシグナルは一人で部屋に戻っていた。
まだ薄寒い春の空を見ていた。柔らかい月の光が部屋をぼんやりと染めている。彼女はゆっくりと窓辺に立った。
(信彦…)
明日旅立つ弟を笑顔で見送らなくちゃいけない。
ロボット工学という道を見つけて進んでいく信彦を。
悲しいことなんてないはずなのに。ただほんの僅かだった寂しさがここ数日でだんだん大きくなっていくのを感じていたのだ。
永久の別れじゃない、そう知っているのに、でもでも。
矛盾する想いがあふれ出して、シグナルはぽとりと涙をこぼした。
「やだっ…」
泣いてはいけないのだと思うともう止められなかった。手の甲で目を擦る。でも擦れば擦るほど目の周りは赤くなり、涙もひどくなってきた。
そして止められない涙を加速するように嗚咽まで漏れ始めた。
「うっく…うえっ…ええっ…えっ…」
聞かれてはいけない、見られてはいけない。
シグナルは顔を隠すようにして部屋の戸口に行こうとした。ドアを開けっ放しだったのを思い出したのだ。
けれど間に合わなかった。戸口には信彦が黙って立っていた。
「あっ…」
「やっぱり泣いてた」
信彦は寂しそうな笑みを浮かべた。そして後ろ手にドアを閉めるとシグナルの肩を抱いてベッドの上に座らせた。
「信彦、私…」
「無理しなくていいって。俺だってさ、本当は少し不安もあるんだから」
新天地へ向かう若者につきものの不安が信彦にもある。そして姉と慕い、妹と可愛がってきたシグナルと離れて暮らすのは寂しいには違いない。
「でもね、シグナル。俺は行くよ、ロボット工学を勉強しにね」
シグナルは信彦の腕の中でまた涙をこぼした。
「シグナルが壊れて帰ってきたとき、俺は子供だったから何も出来なかった。あの時俺が11歳の子供じゃなくて18歳くらいで、ロボット工学をかじってたら、シグナルの修理を手伝えたのかなって…悔しかった。もうあんな思いをしたくないんだ」
「信彦…」
「あの悔しさをもう一度味わうくらいなら、寂しいくらいなんでもないよ」
信彦はシグナルをぎゅっと抱きしめた。彼女はもう泣くのをやめていた。
小さかった弟が体も心も大きくなってロボットのために彼女のそばを離れていこうとしている。
「ごめんね、信彦。もう少し…」
シグナルは信彦に抱き寄せられたまま泣くのをやめようと必死になっていた。信彦はそんな彼女の背中をゆっくりと撫でてやる。
優しい夜の下で、明るい明日に夢を馳せるのだ。


泣きつかれて眠ってしまったシグナルをそっとベッドに入れて、信彦はそっと部屋を出た。出たところで彼は母であるみのると、その兄であるコードを見つけた。
「信彦」
「母さん、とコード」
「シグナルちゃんは?」
母の言葉に信彦は微苦笑した。43歳に見えないこの母親はロボット心理学者なのだ。彼女が一番不安にしていたのは信彦のことではなくシグナルのことだったのだから息子としては複雑なものがある。
「落ち着いて寝たよ。やっぱり泣くのを我慢してたみたい」
「そう…やっぱり」
みのるもわずかに安心できたのかほうっとため息をついた。
「母さんは俺の心配はしないね」
「信彦は小さい頃から何でも自分で出来たから」
そういって笑う母の肩から、コードが飛び移ってきた。このメタルバードはシグナルの師匠であり、恋人でもある。自分がこの家を去ったあと、シグナルを託すことが出来るのは彼しかいない。
「あのさ、コード」
「ん?」
「シグナルをよろしく頼むよ。俺がいなくなったらまた泣くだろうからね」
「言われんでもわかっとる」
コードはゆっくり羽を開いた。この季節の花を思わせる眩しいほどの桜色の羽を。
信彦はシグナルの部屋のドアを開けた。コードがすっと飛び、シグナルのベッドの上に着地した。
そして彼女を包むように羽を広げて眠りにつく。
信彦はそっとドアを閉めた。
「…俺じゃないんだ。シグナルの恋人は…」
ドアを背にそう呟いてみた。あのとき、11歳の子供じゃなくて18歳の青年だったら。自分はシグナルの恋人になりえたのだろうか。
ありえない事象を想像して信彦はその思考を笑い捨てた。
たとえどうであろうとも自分はいつかシグナルを置いて逝ってしまうのだ。
そのときやはり彼女を守ってやれるのは同じロボットであるコードなのだろう。でも今は――彼女を守りたいと思う今は自分に出来ることをしたいと思う。
信彦は背伸びをした。
彼女のために、そしてすべてのロボットのためにできることを、その技術を身につける明日のために。



翌朝は快晴だった。進むことを許されたように真っ青な空だった。
信彦はみんなに見送られてトッカリタウンにある音井家を出た。
必要な荷物はあらかた宅配便でシンガポールに送ってしまったので手荷物程度しか残っていない。
「いいよ、シグナル。自分で持つから」
「いいから持たせてよ。お姉ちゃんなんだから」
「俺よりちっこいのに」
そういうと信彦はシグナルの頭に無理やり肘を乗せた。ぎゅむと押しつぶされるシグナルは抗議の声。
「もー、重たい〜〜〜」
「あはは」
こうやってふざけあっていられるのもあとわずか。トッカリタウンの小さな駅が見えてきた。
一本だけの桜の木にはもう花が咲いている。
「向こうも咲いてるかな」
「どうかな。シンガポールは暖かいから早く咲いてもう散ったかもしれないね」
信彦とシグナルは並んで桜を見ていた。
「シグナル…」
「なに?」
「…夏になったら帰ってくるよ。それまでじいちゃんや父さんや母さん…みんなのこと、頼んだからね」
「…任せて。私は信彦のお姉ちゃんだもん」
そういうとシグナルは信彦の手をしっかり握った。
「もう泣かない」
「…そっか」
「うん」
信彦はシグナルの手を握り返した。
ふと、桜の花びらが一枚、二人の前に舞い降りた。それは風にさらわれてシグナルの髪に乗った。
「あー」
「取ってあげるよ」
信彦は開いた手でシグナルの髪に触れた。花びらをとり、そのまま次の風に乗せた。
そしてシグナルの顔を覗き込んだ。
「な、なに?」
「いや。かわいいなって思ってさ」
信彦はシグナルの前髪をそっとあげると、そこにふわっと唇を寄せた。シグナルは驚いて手を離し、一生懸命額を押さえた。
「い、いきなり何するの!?」
「頬のほうが良かった? それとも唇?」
信彦の言葉にシグナルは真っ赤になってぽかぽかと体を叩いた。
「もー、そんなところだけオラトリオにそっくりなんだから!!」
「いたた、痛いってば」
信彦は笑いながらシグナルの柔らかな攻撃を受けた。
「シグナル、そろそろ汽車が来るから」
「あ…」
シグナルは信彦の腕をそっと撫でた。
「…行っちゃうんだね」
「ああ。行ってくるよ」
信彦はシグナルから荷物を受け取るとそのままホームに向かった。シグナルはついていかなかった。ついていけば別れがまた惜しくなるような気がした。
「ここで見送るよ。元気でね」
「シグナルもね」
やがて到着した汽車に信彦が乗り込んだ。そして彼を遠いシンガポールへと運んでいく。
シグナルは汽車が見えなくなるまでいつまでも見送っていた。
「…行っちゃった」
夏までまだ、だいぶある――今はまだ桜の季節、桜刻。
駅に背を向けて帰ろうとしたそのとき、桜の木に大きな鳥を見つけた。
「コード、何してるの?」
「迎えに来た」
「私を?」
コードは無言で彼女の肩にとまった。
「お前以外に誰かいるのか?」
シグナルはううんと首を振った。信彦は旅立ったけど自分の周りにはいろんな人がいてくれる。ひとりぼっちになるわけじゃないんだと思えたら楽になれた。信彦の決意を知ってから、寂しさは消えた。
「もう少し桜を見てから帰るわ。だめ?」
「…俺様も付きあってやる」
コードの思いがけない言葉に、シグナルは驚きつつもにっこりと笑った。
なんでもない門出をなんでもないように見送れなかったけれど、成長して帰ってくる信彦を楽しみにしてるわ。
シグナルの胸に柔らかな温かさが溢れてきた。





小さな街で暮らした思い出の君は
今もきっと笑っている




≪終≫




≪処刑の時間≫
という名のあとがきですが、処刑されても悔い改める気はないようですww。
信彦(18歳)×シグナルがメインですが、ベースにはコード×シグナルをおいてます。タイトルは緒方恵美さんの『桜刻〜はなどき』より。




≪おまけ≫
オラトリオ:たっだいまー
シグナル:おかえりなさ…なんだ、オラトリオか
オラトリオ:ちょっと、いつもより沈んでない?
みのる:信彦がシンガポールに行ったばっかりだから
オラトリオ:なんだ、だったらお兄さんが慰めて…いや、ごめんなさい、しません、しませんから!!
コード:問答無用!!
オラトリオ:ぎゃー・・・・・‥…
シグナル:オラトリオうるさいよ!
オラトリオ:うううう…注: 文字用の領域がありません!

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