きっといつかの願いでも 〜日本の古典『落窪物語』より 昔々あるところにそれはそれはきれいなお姫様がいたんだ。 お姫様の名前はシグナル。今年16歳になった。けれど宮家出身だったお母様がはやくに亡くなってシグナルは意地悪な継母に引き取られたんだ。 かわいそうにシグナルは当時身分の低い女性がやるって言われていた縫い物をやらされて、落ち窪んだ部屋に住まわされていたんだ。 お母様の形見の品も持っていかれて残ったのは琴だけ。 いつかシグナルを幸せにして、継母たちをぎゃふんと言わせてやらなきゃ。 あ、申し遅れたね、ボクはハーモニー。シグナルにお仕えしている唯一の女童なんだ。 「いいかい、シグナル。明日までにこの着物を縫っておくんだよ、わかったね?!」 「はい、お義母さま」 ふんと鼻を鳴らしてのしのしと去っていくのがここの北の方でシグナルの継母なんだ。シグナル以外に4人の娘がいるけれど母親の身分から考えればシグナルが一番高貴ということになるんだけどそのことも気に入らないらしい。ボクは北の方が去ってからこっそりシグナルの部屋に行った。 「シグナル」 部屋に近づくと中でシグナルがなにやらぼそぼそと呟いていた。泣いているのかと思ってそっと入ってみると… 「くそばばぁ、今に目にもの見せてやるぅ」 と、密かに息巻いていた。この元気なら大丈夫だね。ボクに気がついたシグナルはくるっと振り返るとにっこり笑ってくれた。 「ハーモニー」 「…また縫い物言いつけられたの?」 「うん、三の君の旦那様のぶんだって」 言いながらシグナルはちくちく針を動かしてた。ボクもなんとなく布を手にとって縫い始めてた。本当はこんなことをしなくてもいいのに。でもシグナルは決まってこういうんだ。 「いいんだ。こうやって縫い物してればご飯も食べさせてもらえるし、こんなところでも雨露は凌げるしね」 一段下がったこの部屋は姫君の住まいには相応しくない。何とかしてあげたいけど、ボクは北の方の命令で三の君のおつきにされてしまってシグナルのところに行きにくくなってたんだ。しばらくしてほかの女房がボクを呼びに来てくれた。この屋敷にはシグナルに同情的な人もいて、ボクがここにいたことも黙ってくれている。 「じゃあ、また来るね、シグナル」 「うん、ありがとう、ハーモニー」 ボロボロに破れた袿しか着ていないシグナルがものすごく惨めに見えた。それなのになんで笑っていられるんだろう。 「ねぇ、ハーモニーさん。失礼だけど私のお古でよかったら、シグナル様お召しにならないかしら」 「わぁ、ありがとう。シグナル喜ぶよ」 本当なら新品を着せてあげたいけど、それでもそんな心遣いをしてくれる人がいるのは嬉しかった。 でもいつまでもこんな暮らしをさせていいはずがない。 ボクは知り合いのカルマ君に相談を持ちかけてみた。 「いい加減にしてください、コード。エモーションたちも心配しています」 「だ〜か〜ら。結婚など面倒だといっているだろう。お前にくれてやる」 「そういう問題じゃないでしょう」 私の名前はカルマ。カシオペア家の長男で右近少将の位を賜っているコードにお仕えしています。彼の妹エモーションは入内して女御となり、帝の寵愛を得ているのでコードもその権勢を誇っています。しかしながら降るほどの縁談には耳も貸しません。それが悩みといえば悩みでした。 「一体どういう女性ならいいんです?」 「別にこれといってない」 「…そうですか」 そこで私はハーモニーから聞いた姫君の話を思い出しました。 「わかりました、コード。じゃあこの話もだめだったらもう何も言いません」 「なんだ」 「音井家の姫君です」 「…あそこの姫はもう片付いただろうが」 「そっちじゃなくて分家のほうです。前の北の方との間に一人娘がいらっしゃるんですよ」 「初耳だぞ」 私だってハーモニーに聞くまで知らなかったんですけどね。コードは興味を持ったようでした。 「相当な継母で、ずっと隠しておられたそうですよ。知人の話だと相当可愛い姫君だとか」 「ふーん…」 「どうです? 会ってみますか?」 「…会うだけならな」 私は良い日を選んで中納言邸を訪れるように取り計らいました。 カルマ君から連絡を受けたボクはシグナルにも話をしてみたけれど笑って請け合ってくれなかった。 「私に? まさかぁ」 「本当なんだってば、シグナル」 「からかわれてるんだよ、ハーモニー。私みたいなみすぼらしい女のところにきてくれるはずないじゃない」 うーん、確かにみすぼらしいんだけど磨けば綺麗だよ? 「からかってないって」 話しながらでも手が動くシグナルはボクが持ってきた縁談も冗談でしょうとばかりに笑ってた。何通も手紙をもらったのにシグナルは全然返事を返さなかった。冗談と思っていたこともあったんだけど、それ以上に縫い物が多くて返事を書く暇もなかったんだ。 そんなある夜のこと。ボクはいつものように部屋にさがってカルマ君と話をしてたんだ。だから知らなかったんだ、いつまでも返事がないことにいらだったコードがシグナルの部屋に忍び込んでただなんて。コードは馬鹿にされたと思って乗り込んできたらしい。カルマ君に聞かされたボクはびっくりして止めようかと思ったけど、もしかしたらいい機会かもしれないと思ってそのままシグナルの部屋には行かなかった。 コードがシグナルを気に入ってくれて、シグナルもコードに好意を持ってくれればいいと祈りながら――。 「…誰?」 暗闇の中ひっそりと佇むシグナルにコードは立ち尽くしてた。艶やかな紫の髪は淡い光を放ち、同じ色の瞳はぱっちりと大きく高貴ささえ漂わせていたから。シグナルはボクの自慢の姫君なんだ。それでもコードは何とか気を取り直してシグナルに話し掛けた。 「お前がシグナルか」 えらそうなコードにシグナルはむっとして言い返しちゃった。 「人に名前を聞くならそっちが先に名乗りなさいよ」 ぁあ〜、そんなことしてぇ〜〜。コードはちょっとむっとしたけどシグナルの言うことに一理あるかと思い直して怒らなかった。 「…俺様はコードだ」 「…泥棒?」 「誰がだ、誰が!」 流石にこれには怒ったらしい。ボクは遠くからカルマ君と一緒に見ながらはらはらしてる。 「まぁ、誰でもいいけどさ。ここに入ったって盗むものなんかないよ。他の姫君のお部屋ならこっちじゃなくてあっちだよ」 「だから人の話を聞け!!」 また怒らせてるよ〜〜、シグナルって意外と天然だから。それにこんなところにひとりでいるから男女のことってよくわかってないんだよねぇ。 「なに?」 「だから、お前はシグナルだな?」 「そうだよ」 「そうか…」 「なにしにきたの?」 小首をかしげているシグナルの横にコードが座った! おお、いい感じ? 「お前のところに通ってやろうかと思ってな」 「嘘…」 「嘘ではない。なんというかその…気に入った」 あとでコードに聞いたんだけど、コードはシグナルの姫らしくないところが気に入ったんだって。それからコードはシグナルをぎゅっと抱きしめたんだ。なんだかんだいってもコードは一目でシグナルを気に入ってくれたらしい。 「ちょっと、冗談でしょ? 私何にもしてあげられない!!」 「…構わん、お前の面倒は全部俺様がみてやる」 「いっ…嫌っ…」 「気に入ったと言っただろう、離さんからな」 この時代はお婿さんの面倒を見るのが当たり前。シグナルの母親は死んでいるし、父親は北の方の言いなりでいないも同然。だからシグナルは自分のところに通ってくれる男なんていないって言ってたんだ。 やがてシグナルの部屋の明かりが消えて、静かになった。さやさやと衣擦れの音がして、それからすすり泣くような声が聞こえてきた。 「嫌っ…あっ…」 中で起きていることは大体想像がついた。でもシグナルはきっと泣いてるんだと思った。普段は強がっていて、それでもお人好しだと思うくらい北の方の言いなりになっている。でも本当は年頃の女の子なんだ。並みの暮らしはしたいし、着飾ってもみたいんだよね。 今シグナルが着ている袿はボクの着古したもので、それを縫い物のときに余った布で繕ってるっていうものなんだ。きっと肌に触れられるよりもそのほうが恥ずかしかったに違いない。だから泣いてるんだ。 「…これまでの女とは違うな。随分可愛いではないか」 「やめてっ……離してよっ」 シグナルはコードを振り払おうと一生懸命だったけど、コードは離さなかった。 「冗談じゃないわ、遊ばれるほど堕ちちゃいないもん!」 「誇りだけは一人前か、ますます気に入った。そこらへんのお嬢様とは違って通い甲斐がありそうだ」 「甲斐なんかないよ、私は本当に貧乏なんだからぁ〜」 「だからそこは俺様が何とかしてやる」 そういうとコードは着ていた縹藍の単をシグナルにかけてやった。これはまた来るよっていう気持ちを現した行為なんだけどシグナルはそう受け取らなかった。 「施しはいらないよっ」 だからそうじゃないんだってば。ボクの教育が悪かったのかな? ちょっと反省…。 でもコードは怒らずに小さく笑うとシグナルをまた抱きしめた。 「施しではない、俺様の気持ちだ。また会うときまで預かっていてくれ」 「…取りに来るの?」 「…まあな」 そうして夜が明けきる前にコードは帰っていき、カルマもそのお供で戻っていった。ボクはシグナルの部屋をそっと覗いてみた。 シグナルは嬉しそうにコードがくれた単に包まっていた。 それから何日か経ったんですけどシグナルさんからの返事がないとコードがいきりたっています。 「なんで返事を寄越さんのだ。カルマ、俺様の手紙は届けたんだろうな」 「ええ、届けましたよ」 「なら何で返事が来んのだ?!」 「恥ずかしいんじゃないですか? ずいぶんひどい身形をさせられているようですし」 私がそういうとコードは溜め息をつきました。これまで縁談に全く興味を示さなかったコードがシグナルさんに好意を持ったのです。そこで私はコードが『押し付けられた縁談』を嫌ったのだとわかりました。コードはカシオペア家の長男ですから将来有望なのです。もちろん婿の行き先だって引く手数多なのですがどれもこれも同じように見えるのでしょう。そのてんシグナルさんはちょっと不幸な境遇で、それでもコードに媚びずにはっきりと自分というものを持っています。そこが気に入ったのでしょう。だからこそ返事がないことにいらいらしているのです。 「カルマ、今日の方角は?」 この時代は方違えといって方角を選んで進むという陰陽道の決まりがあるのです。私は今日良い方角は北東だと答えました。この屋敷からシグナルさんの屋敷は北東に当たります。 「なら今から行く」 「わかりました。準備をします」 そういって支度を整えさせようと立ち上がって部屋を出て行こうとするとコードが私を呼び止めました。 「カルマ」 「なんですか、コード」 「あー、その…なんだ。シグナルに…な、届け物を…」 「わかりました。それも用意します」 慌しく準備をし、夕方になって私たちはひっそりとシグナルの屋敷を訪れました。ハーモニーに取次ぎを頼み、コードはシグナルさんの部屋に向かいました。その間私はハーモニーと一緒に待っています。 「コード、だいぶいらいらしてましたよ」 「本当はね、ボクも返事を書くようにってせっついたんだけどイヤなんだって」 「どうしてでしょうね」 「やっぱり気になってるんだよ。自分がコードに何もしてあげられないって知ってるから」 「…そうですか」 そのころコードはシグナルさんの部屋にいて、シグナルさんの話し相手をしていました。 「何をしとるんだ?」 「縫い物。急ぐんだ、これ」 「…大変だな」 「慣れれば平気だよ」 コードはきょろきょろとあたりを見回しました。以前来たときには屏風も几帳もなかったのに今日はきちんと整えられていました。 「…どうしたんだ、これは」 「ああ、それ? ハーモニーが叔母様からもらってくださったんだって。…ハーモニーって優しいんだ。こんな私に良くしてくれるの」 シグナルさんは手を止めずに話していました。もうすぐ仕上がるからというのでコードはずっと待っていたようです。 「ハーモニーはすっごくいい子なんだ。だから早く幸せになってほしいの…」 「それならお前が早く幸せになればいい。そうしたらハーモニーも落ち着くところに落ち着くだろう」 シグナルさんは黙って糸を切りました。それから針をしまい、縫いあがった着物を片付けました。そこでコードは気がついたのです。シグナルさんの肩が小さく震えていることに。コードがシグナルさんのそばによると彼女はコードに縋って泣き始めたのです。 「私だけなら、ここでどうだって生きていける。でもハーモニーまで巻き込みたくないの!」 「シグナル…」 そう言って泣きじゃくるシグナルさんをコードはずっと抱きしめていました。このとき彼の胸に何が去来したのかはわかりません。けれどシグナルさんを守ってやろうと決心したのは確かなようでした。北の方の横暴振りを知っているコードはシグナルさんを盗み出す算段を計っていました。 その話を聞いていたハーモニーはあわてて自分の部屋に戻ってきて、それからさめざめと泣き始めました。 「どうしたんです、ハーモニー」 「シグナルがね、ボクのこと…心配してくれてるんだ…」 思いあう主従の姿に私はにっこり微笑んで彼女の背中を摩っていました。 ところが事態が一変。北の方がシグナルに身分の低い男がいる、恥さらしだというめちゃくちゃな理由で、シグナルを北の雑舎に閉じ込めてしまったんだ。とりあえずコードに知らせなくちゃと思ってカルマ君を通じて話したらコードは怒り狂ってた。 「おのれ、北の方め!」 コードは脇息を蹴倒して立ち上がった。ひぃ〜。いつも恐いけど、この怒り方は尋常じゃないよ〜〜。 「で、シグナルはどうしている?」 「あいかわらず縫い物ばっかり押し付けられて、ろくにご飯ももらってないみたいで。何とか差し入れてあげてるんだけど…」 火に油を注ぐようであんまり報告したくないんだけど、シグナルに危険が迫っている以上仕方がない。ボクにためらっている暇はなかった。 「それだけならまだいいんだ、いつもと変わらないから」 「まだ何かあるのか」 あんまりボクに怒らないで〜。 「北の方はシグナルに婿を押し付けようとしてるんだ」 「なんだとっ!?」 これにはカルマ君も驚いて声が出ないらしい。コードは怒りのあまりに檜扇を真っ二つに折っていた。ボクがこうしている間は別の人に頼んであるから大丈夫。この人は少納言さんといってシグナルに同情して縫い物を手伝ってくれたり着物をくれたりした人だから信頼できる。 「それで、シグナルとは?」 「大丈夫だよ。ボクがついてるから変なことはさせないよ」 「ならいい。シグナルは俺様の妻だからな、誰であろうと勝手なことはさせんさ」 その言葉を聞いてボクは安心した。もうあんなところにシグナルを置いてはおけない。シグナルもコードと知り合ってからずっとあの屋敷を出たがっていた。シグナルを幸せにしてあげる好機なんだ。ボクはコードにそのことを話した。 「それでね、コード。明日北の方は賀茂祭に行くんだ」 「ということは…」 「屋敷はもぬけの殻か」 ボクたちは顔を見合わせた。 「よし、なら明日シグナルを奪いに行く。ハーモニー、すまんがもう一晩だけシグナルを守ってやってくれ」 「任せてよ」 「カルマ、二条邸の掃除だ。そこにシグナルを住まわす」 「わかりました」 それからボクは慌てて屋敷に戻った。少納言さんは何事もないといってくれたし、シグナルも大丈夫だといった。 「シグナル、もう一晩の辛抱だからね」 「うん、頑張る!」 おなかが空いてるだろうに、シグナルは元気な返事を返してくれた。 その夜も相手の男がやってきたけどボクとシグナルで気分が悪いだの物忌みだの、悪霊に取り憑かれただのと言い募って結局シグナルには触らせないまま朝を迎えさせた。そのうち俄かに屋敷が騒がしくなり、北の方たちは出かけていった。そのころあいを見計らってコードとカルマ君が来てくれた。 「ハーモニー、シグナルは」 「こっちだよ」 ボクは北の雑舎にふたりを案内した。北の雑舎は食料庫みたいなところでとてもじゃないけど人が住むようなところじゃない。 「シグナル…さぞ恐かっただろうな」 「早く助けてあげて」 「わかっとる。シグナル!」 コードは窓からそっと中を覗くと、シグナルが甕に顔を突っ込んで何かしているという。 「おーい、シグナル…」 声に気がついたシグナルが顔を上げる。ぱっと花咲く笑顔で近づいてきた。 「あ、コード。来てくれたの?」 「…何をしとるんだ、お前は」 「おなかが空いたから何かないかと思って。それはそれとして早く出してぇ」 「わかった…」 こんなところでもたくましく生きていたシグナル。ボクは涙が零れそうになったけど、今は泣いている場合じゃない。 「シグナル、今出してやるからな。ちょっと退いてろ」 「うん」 そういうとシグナルはすすすっと後ろに下がった。コードは刀を抜いている。 「今から鍵をぶった切る。ハーモニーも退いてろ」 コードはすうと呼吸を置く。そして一閃。きんと冷たい音がして同じ金属である鍵を壊してしまったのだ。 「俺様の細雪に斬れぬものはない」 からからと戸が開いて、ずかずかとコードが入っていく。シグナルはコードの顔を見た途端、笑おうとしていたのにわっと泣き崩れてしまったんだ。 「シグナル…恐かったな」 シグナルはずっとずっと泣いていた。さっきまで我慢していた涙が一気に出てきたんだと思う。ボクも嬉しくて泣いてた。 「さぁ、話はあとだ。北の方に見つかる前にさっさとここを出るぞ」 「ハーモニーも、行きましょう」 「うん」 と、そのまえに。ボクはシグナルが以前使っていた部屋に行って小さな唐櫃を持ってきた。この中にはとても大事なものが入っていて、北の方がシグナルの道具類を持っていったとき、シグナルにわざとぼろっちいのに変えさせたくらい大事なものなんだ。 コードとシグナル、ボクとカルマ君が牛車に乗って二条邸に向かった。 シグナルはコードに抱きしめられて、一言も口を利かなかった。言いたいこと、聞いてほしいことはいっぱいあったはずなのに。でもそれでいいんだと思った。これからたくさんそんな時間ができるんだもんね、シグナル。 「…几帳の数が足りんのじゃないか? 簾ももっといいのがあっただろう」 「仕方ありませんよ、急でしたからね。でもシグナルさんは喜んでいるようですけど」 シグナルさんは二条に着いてから言葉もなく室内を見ていました。廊下と部屋の床の高さが同じことに感動すらしていたようで、今は部屋に置いてある魔よけの狛犬を撫でていました。 「すごーい、新品の狛犬さんだよ」 「よかったね、シグナル」 「うん。コード、ありがとう」 するとコードは何も言わずにそっぽ向きました。どうも礼を言われるのが苦手らしい上にシグナルさんにかかると調子が狂うようです。 「怒っちゃったのかな」 「照れているだけですよ」 私がそういうとシグナルさんはにっこりと微笑みました。 「そういえばカルマ君にもお世話になっちゃって。ありがとう」 「そんな、いいんですよ」 私はコードが彼女を気に入った理由を追加しました。彼女はとても素直で可愛らしい方なのです。16歳ということでしたがどこか世間ずれしているところも可愛く映ったのでしょう。それからコードはすっとシグナルさんのそばに寄りました。私とハーモニーはそっとそばを離れます。 「シグナル。今日からここがお前の住まいだ。俺様と結婚して、俺様の屋敷に移ったつもりでいろ、いいな」 「でも私…」 「俺様に何もしてやれんというのだろう? だがそんなことはないぞ」 「何かしてあげられる?」 「俺様のそばにいて、子を成し育てろ。それが俺様のためにお前ができることだ」 「コード…」 ふたりはそっと抱き合っていました。 「夢じゃないよね」 「ああ、夢じゃない」 「…よかった」 二条邸は美しく整えられ、多くの女房にかしずかれ、コードの愛情を一心に、シグナルさんには夢のような日々が訪れていました。 その年の春の除目でコードは右近中将に昇進しました。 コードの復讐が始まったのはそれからだった。 まず始めたのが北の方への嫌がらせだ。コードは勧められていた四の君との結婚を承知したふりをして他人に譲ってしまったのだ。 これにはシグナルも非難の色を隠せない。 「ひどいよ、コード」 「なぜだ、北の方だとてお前にひどい婿を押し付けようとしたではないか」 「でも四の君は悪くないよ。あの人は私のことなんて知らなかったんだから。四の君がかわいそうだよ…」 そう言ってシグナルはしくしく泣き出しちゃった。コードは慌てた。 「大丈夫だ、シグナル、別に変な男を紹介したわけじゃない。俺様の従兄弟でちゃんとした身分の男だ」 但し、ものすごく不細工だとコードは言わなかった。 「ほんと? じゃあ、四の君は大丈夫なんだね?」 「ああ、心配せんでいい」 「良かった…」 そう言って袖で涙を拭いたシグナルにコードは少し呆れたように笑った。 「お前はどこまでお人よしなんだ。北の方に今に目にもの見せてやると言っていたではないか」 「言ってただけだもん。本当に何かしようって思ったわけじゃないし…」 「まあ、俺様は気の済むようにやるぞ」 「そんな、コード」 「俺様の妻を虚仮にされたんだ。黙っていられるか。この礼はキッチリ返さんとな」 これからコードはシグナルを抱きしめて帳台に入っていった。シグナルは何も言わずに黙っていた。こういうことにはまだ慣れないらしくて、ほんのりと頬を染めて俯いてる。そういうところが可愛いんだよね、シグナルは。 「…シグナル、清水寺に行ってみるか?」 「清水に?」 「ずっと屋敷に篭っていたのだろう? たまには外に出たら気分転換になるだろう」 そういえばシグナルは賀茂祭はおろか七夕とか十五夜だとか重陽の節句もしたことがない。ずっとずっと縫い物ばかり。それを聞いたコードが呆れて、ならばとシグナルにいろいろしてくれる。今度の清水寺への参詣もそうしたことからだった。シグナルは嬉しそうにコードに抱きついた。 「ありがとう、コード♪」 素直ににぱっと笑うシグナルが本当に可愛いみたいで、コードはシグナルにそっと口づけた。 だから今度のことは本当に偶然だった。コードとシグナル、それにボクとカルマ君といういつもの顔ぶれで清水に参詣に行ったんだよね。これまで外に出たことがなかったシグナルはものすごくはしゃいで手がつけられないくらいだったけどコードにたしなめられると流石に大人しくなった。 「あんなに喜んでもらえると連れ出し甲斐がありますね」 「それだけ北の方にひどい目に遭わされたということだ」 ボクはシグナルのそばで世話を焼いていた。牛車には乗り慣れてないから気分でも悪くしちゃったらと思って。そしたら急に車が止まったんだ。 「えっ? なに?」 「見て来ます」 そういうとカルマ君はさっと車を降りた。しばらくして戻ってきたカルマ君はコードに何か耳打ちをしていた。コードは何か思いついたらしくカルマを通じて従者に言いつけていた。 「コード、どうしたの?」 シグナルは心配そうに訊ねるとコードはなんでもないように答えてくれた。 「なに、俺様たちの前にやたら遅い車があってな、早く行くか、だめなら退けと言ってこいとな」 その相手の車は音井中納言の北の方の車だったんだ。通常牛車には四人が乗り込むのに6人も乗っていたからなかなか動かないらしい。 そのうち従者が騒ぐ声が聞こえてきて、シグナルが怯えていた。そんなシグナルの肩をコードはさっと抱いてくれた。 「大丈夫だ、すぐに収まる」 「うん…」 そんなふたりを見ながらボクはほっとしてた。あのときカルマ君に相談していて良かったなって思った。 それからカルマ君が戻ってきて車に乗り込み、一行は再び出発した。 「首尾はどうだ?」 「車輪が折れてしまって動けなくなったようですよ。まぁ、6人も乗っていましたからね」 「誰の車だったの?」 「音井中納言様の北の方でしたよ」 シグナルはびっくりしてコードを見つめた。 「俺様は何もしとらんぞ。ただ急ぐか道を開けるかどっちかにしろといっただけだ」 「車輪が折れたのはあちらが牛車を動かしている最中に溝にはまってしまったからですよ」 「お気の毒…」 コードとカルマ君が言ったとおり事故だったんだけどシグナルは本当に気の毒そうな顔をした。それから清水についたボクたちは表門で車を降りた。その日は吉日で参詣の人はたくさんいた。ボクはシグナルに袿をかぶせてあげた。顔を見られないようにするのは当たり前だからね。それでなくともシグナルの髪は紫色で目立っちゃうし。 「カルマ」 コードがカルマ君を呼びつけて何か話している。カルマ君はすぐに寺の中に入っていった。それを見届けてシグナルがコードの着物の袖をくいっと引っ張った。コードがふと振り返る。 「コードぉ…」 「疲れたか、では部屋に入ろうか」 「ううん、大丈夫。すごく綺麗なところだからもうちょっといいかなと思って」 「中から見るぶんにもいいぞ、さ」 そういうとコードはシグナルの手を取って歩いた。ボクはその後ろを歩きながら嬉しくなった。 入った部屋はずいぶん広くて、でも二条の屋敷よりは狭いのにシグナルはここでもほーと呆けていた。 「すごいすごい。うわー」 「…こいつのすごいの基準ってなんだ?」 「さぁ?」 そのころの北の方は裏門から入っていったのが仇になっていた。その間にコードが北の方の部屋を占拠してしまっていたのだ。部屋をとられた北の方は車で夜明かしするしかなく、ぶつぶつ言っていた。もちろんシグナルは知らない。ここのどこかにいるんだとばかり思っている。 それからシグナルには嬉しいことがあった。 まずボクが女房に昇進、シグナルつきの筆頭女房になった。それから、カルマ君と結婚した。シグナルはすごく喜んでくれた。 それからシグナルに同情してくれていた女房の少納言さんが来てくれた事だ。 そして一番嬉しかったのはコードに着物を誉めてもらったことでしょう。 「…これは?」 「私が縫ったの。コードに新しい着物をって思って。直衣でしょ、袴でしょ、小袖に帯。袍も縫っちゃった」 「縫っちゃったって…お前…」 「コードに着てほしいの。もう縫い物しなくてもいいけど、コードにはいいものを着てほしいから。私、針仕事は自信があるんだ」 「なら、大事に着させてもらうとするか」 そしてコードは久しぶりに実家の左大将邸に戻るとすぐに母親と妹に会いました。コードの妹のうちひとりは宮中にいると以前お話したとおり。あとの二人――エララとユーロパも婿をとって幸せに暮らしています。 「お兄様、お久しぶりです」 「二人とも達者か」 「はい。お兄様も」 「母上はどちらに」 「お部屋でお待ちです」 するとコードは妹たちと共に母君でいらっしゃる左大将夫人のお部屋に入られました。夫人はコードを見るなり嬉しそうに微笑まれました。 「まぁ、コード。久しぶりね、二条はいかが?」 「は。恙無く暮らしております」 「それは上々ね。可愛い方もいらっしゃるようだし」 「母上?」 どこから漏れたかと――まぁ、隠し立てする必要もないのですがコードはぎょっとしていました。そんなコードに夫人は笑いかけます。 「カルマから聞いていますよ。一度こちらにも連れていらっしゃい。お目にかかってみたいわ」 「私もお会いしてみたいですわ、お兄様」 「エララまで。見せ物ではないぞ」 「まぁ、ずいぶんご熱心なのね、お兄様」 「ユーロパ!」 それからコードを囲んで笑いあっていたのですが、やがてエララさんがふとコードの着物に目を止められました。 「素敵。綺麗な縫い目ですわね」 「ほんとう、綺麗な仕立てねぇ。染めもいいし。いいなぁ、私もこの柄で袿がほしい〜」 「とても上手な方がいらっしゃるのね」 コードは自分が誉められているようで嬉しくなりました。この着物すべてがシグナルさんの手になるものです。このことをコードはシグナルさんに話して聞かせました。するとシグナルさんは喜んでまだ布はあるからとまた縫い物を始めようとしました。コードは慌てて止めます。 「おい、急がんでいいんだぞ」 「あ、そうか」 シグナルさんはえへへと笑っていました。まだあの屋敷にいたころの癖が抜けないようです。 「でも嬉しいんだ」 「何がだ?」 「前は縫っても全然誉めてもらえなかったの。でも今はみんな喜んでくれる。私も縫い甲斐があるよ」 「そうか…だが、縫い物もいいが早く俺様の子も成せよ」 「そ、それは…」 シグナルさんは真っ赤になって俯きました。わかっていてコードはからかっているのです。 「それは?」 「…神仏にお願いしなきゃ。そしたらきっと可愛い子どもを授けてくれるよ」 シグナルさんは上目遣いコードを見つめ、コードはたまらず笑い出しました。 「そうか、神仏にお願いするか。なら祈ってみるかな」 そういうとコードはすっとシグナルさんを抱き上げました。 「きゃっ、コードっ…」 「いつまで照れとるんだ、いい加減に慣れんか」 「だって…」 それから何も言えなくなったシグナルさんは朝までゆっくりコードに愛されていました。 幸せそうですね、ハーモニー。 って言ってたのに、カルマ君のうそつき。 それから数日ほど経った春のある日、ボクはとんでもない話を聞いたからと、少納言さんと話し合っていたんだ。 「私も聞きましたわ。右大臣家の姫様だとか」 「あそこは一人娘だもんね、コードを欲しがるのも無理はないか…」 「でももうお式の日取りも決まっているそうよ」 「それ…ほんと?」 ボクと少納言さんははっとして顔を上げた。そこにシグナルがいたなんて気がつかなかったんだ。どうしよう…。ボクたちは顔を見合わせた。 「そう…仕方ないよね」 「確かめてみるよ、シグナル」 シグナルは無言で俯いていたけど、思いつめて何をするかわからない。ボクはシグナルのことを少納言さんに任せてカルマ君のところに走っていた。 「カルマ君!」 「なんですか、ハーモニー」 そこにはコードもいて、ボクはちょうどいいからと話を始めた。 「コード、単刀直入に聞くけど右大臣家の婿になるって本当?」 すると今度はコードとカルマが顔を見合わせた。 「もしかしてあのお話ですかね」 「かもな。だがあれはちゃんと断りを入れたはずだぞ」 「じゃあなんで式の日取りまで決まってるのさ!?」 ボクが食ってかかるとコードがちょっとひいたけどちゃんと否定した。 「俺様は知らんぞ」 「私も知りませんよ。確かに縁談はありましたけどコードにはもういらないかと思ってその筋の方にお伝えしましたけど」 そう言ってカルマ君はふと考え込んだ。この縁談を持ってきたのはコードの乳母だった人だっていうんだよ。 「もしかしたら違う返事をしたのかもしれませんね」 この時代、奥さんは何人もいるのが当たり前だけど、コードにとって北の方はただひとり。それ以外はありえないと思っている。 コードが乳母を問い詰めたところ、その乳母は二人の予想通り勝手に結婚を承諾したと返事をしていたのだ。妻の家で夫の面倒を一切みるのが当たり前、だけどシグナルはそうしていない。できるはずなんだけど、今はできない。そんなコードをかわいそうだと思った乳母が地位も権力も財産もある娘をと持ってきた縁談だったのだ。 「それはわかったけど、シグナルすっかり落ち込んじゃって…」 めそめそ泣いて食事もしないし、コードにって新しい着物を縫っている。自分にはこれしかできないからって。ボク、そんなシグナル見てるのがつらいんだ。 その夜コードは二条に来てくれた。シグナルはコードをみて嬉しそうだったけど、もうすぐ自分から離れていく夫をみて素直には喜べなかったみたい。いつもなら嬉しそうにはしゃいでコードに抱きついているのに今日はそんな声も聞こえない。 「縫い物をしているのか」 「うん…」 「誰のものだ?」 「…コードのだよ」 「…ふーん」 シグナルはコードに背を向けて座り、また針を持とうとして、その手をコードに止められた。 「コード?」 「縫い物はもう止めろ」 そういうとコードは明かりを消し、シグナルを帳台の中へ連れて行った。 「コードっ…嫌っ…」 「何が嫌だ、お前は俺様の妻だろう?」 「でもコード、右大臣家の婿になるんでしょう?」 「その話なら断わった。何の心配もせんでいい」 コードはシグナルの肌に触れようと着物の合わせ目から手を入れようとするけれどシグナルが抵抗した。いやいやと首を振っている。 「シグナル!」 混乱しているシグナルにコードは優しく言い諭してくれた。 「俺様の妻は生涯お前だけだ」 「コード…でも私…」 「お前をあの屋敷から連れ出したのは誰だ?」 シグナルは黙ってコードをみていた。琥珀色の瞳が強くシグナルを見つめている、とても真剣に。 「お前の鬢そぎをしてやったのは? お前が一番好きなのは誰だ?」 するとシグナルの瞳がじわっと潤んだ。屋敷から出してくれたのも、結婚した証に髪を即頭部前部の髪を顎のあたりで切り揃える鬢そぎをしたのも、そしてシグナルが一番好きなのも、コードなんだ。コードが一番好きだから、シグナルは黙って身を引こうとしてたんだよ。 「コード…私…っ…」 「愛してる、シグナル…」 どれほど深い愛、どれほどの慈しみ、それはコードの変わらない愛情なんだね。 そしてその春の終わり近く、シグナルはめでたく初めての子どもを身ごもった。 そしてやがて賀茂祭の季節となり、シグナルには左大将夫人の招きを受けて一条大路に出かけていきました。今年はコードが妹婿のオラトリオと共に舞いを舞うことになっていました。 「カルマ、今年はコードが一緒じゃないんだね」 シグナルさんはコードと結婚してからはずっと一緒に見物していたのです。だからちょっとしょんぼりしていました。 「でも舞を舞われるのですよ。ちゃんと見ていてあげてくださいね」 「うん」 シグナルさんは素直に頷くとハーモニーと一緒に牛車に乗りました。私はコードの手伝いをしに屋敷の中に戻ります。 「シグナルは行ったか」 「ええ。あなたが一緒じゃないので寂しがっておられましたよ」 「いつまでも子どもだな、もうすぐ母親になろうかというのに」 そう言ってコードが袖を通した着物も、シグナルさんが縫ってくれたものです。そうしてオラトリオもやってきました。彼はエララさんの婿です。 「いやー師匠、よくお似合いで。毎年出たらどうです?」 「面倒だ。俺様は見物しているほうでいい」 「そう言うと思いましたよ。ところで師匠。毎度いい仕立ての着物をありがとうございます」 「ああ、恩に感じるなら何かの形で返せよ」 「またまた。とにかくこんないい仕立てはめったにお目にかかれませんからね」 「縫う者の心根が優しいのだろう。それを思えば…感無量だな」 「は?」 「いや、いい。気にするな」 そのころシグナルさんは一条大路に作られた桟敷の一室で左大将夫人とその娘さんたちに会っていました。 「初めまして、シグナルです」 「まあまあ、よく来てくださいましたね。こちらは私の娘たちよ。もうひとりいるのだけれど今は宮中にいるの」 「こんにちわ、シグナルさん」 「初めまして」 シグナルさんとエララさん、それとユーロパさんは年の頃が同じせいかすぐに仲良くなりました。 「シグナルさんはおなかにコードの子どもがいるそうね。いつお生まれになるのかしら」 「正月の予定です…」 「まぁ、おめでたいこと」 そうやって話し合っているうちに賀茂の行列がやって来、コードとオラトリオの舞が始まりました。コードは髪に菊花を挿し、肩袖を脱ぎ落として優雅に舞い、オラトリオは紅葉を挿し、同じように肩袖を出して華やかに舞いました。この世のものとも思われない美しさに皆は目を奪われています。 「お兄様、素敵…」 「オラトリオ様も素敵ね」 シグナルさんは感動で胸がいっぱいでした。自分が縫った着物でコードが誉められる、オラトリオも誉められる。誰も自分が縫ったものだと知らなくてもコードだけが知っているという事実が彼女に涙を落とさせました。 「シグナルさん、大丈夫ですか?」 「エララさん…すみません、コードがあんまり綺麗だから」 「やだ、惚気ちゃって」 4人は穏やかに微笑みあっていました。 そして翌年正月の中旬、シグナルさんは初めての出産を無事に終えました。長男のミラさんです。 さらにその年の春の除目でコードは中納言に、父君の大将様は右大臣に、蔵人少将だったオラトリオは中将に、そして宰相となりました。 新中納言となったコードは衛門督まで兼任、翌年秋にシグナルさんは次男シリウスさんを出産なさいました。 カシオペア家には喜びが重なったんです。 そして悪いことが続いた音井中納言家では厄払いに引越しをしようとしていた。 「三条邸? ああ、あの屋敷か」 「あれはシグナル名義の屋敷だよ」 「そうか…って、あそこは高級住宅地ではないか、そんなところに屋敷をもっとるのか、シグナルは」 「シグナルの母方のお祖母さんのお屋敷なんだって」 ほかにもシグナルの名義になっている荘園もあって、シグナルはそこからの収入でちゃんと暮らしていけたのに北の方がシグナルがまだ幼かったのをいいことにして全部横取りしてしまったんだ。ボクはその荘園まで横取りされないようにとシグナルにこの箱と中身は大事に持っているようにと何度も言い聞かせた。 シグナルは言われたことをちゃんと守って屋敷と荘園の権利書を今も大事に持っている。 そう、あの屋敷を抜け出すときにボクが持って出たあの箱の中身がそうなんだ。 「ふむ。で、荘園のほうはこの間片付けたな。今度はその屋敷を取り戻すのか」 「あれはシグナルのお屋敷だよ。勝手に改装しちゃうだなんて」 「改装費が省けてよかったではないか。ま、屋敷はちゃんと返してもらうこととしよう」 「さすがコード。そう来なくっちゃ」 「で、引越しの日取りもお前は掴んでいるんだろう?」 「もちろん。19日だって」 この日は陰陽道で決められた日付だ。するとコードは蝙蝠扇をぱちんと鳴らした。 「ならいい。権利書がこっちにある以上談じ込めるだろう。あの家の良い女房を雇え、一人一人別々にうまく引き抜けよ」 「北の方はさぞ悔しがるだろうねぇ」 ボクとコードはそう言ってくすくす笑った。 「ああ、シグナルに内緒事ができちゃったなぁ」 「シグナルには言うなよ、またあいつらがかわいそうだって言うからな」 「シグナルは優しいからねぇ」 それからボクは中納言家の女房や下働きの女の子を数人引き抜いた。彼女たちは快く応じてくれた。 そして19日。美しく整えられた三条邸に中納言家の荷物が運び込まれようとしていた。けれどそれより先にボクたちが運び込んでしまっていたからさあ大変。 そのころシグナルは子供たちと共にコードに連れられて牛車の中。 「ねぇ、コード。どこに行くの?」 「さぁ、それは着いてみてのお楽しみだ」 コードが教えてくれないのでシグナルには何のことやらさっぱりわからない。やがて車は二条からさほど離れていない場所で止まった。 「コード、ここは…」 「三条にあるおまえの屋敷だ」 「私の?」 「なんだ、聞かされていなかったのか。ここはお前名義の屋敷だそうだ」 「…知らなかった」 ボクは箱をしっかり持っていろとは言ったけど内容までは教えなかった。言ってしまえば人のいいシグナルのこと、きっと渡していたに違いないんだから。 コードとカルマが先に入っていく。ボクはシグナルを案内して中に入るともうコードと北の方が言い合いをしていた。 「誰です、ここは私の屋敷ですよ」 「じゃあ権利書を見せてもらおうか」 「権利書…それは…」 「あるはずはないな。こちらできちんと持っているわけだし」 「う、うう…」 北の方は唸り声を上げてコードを睨んでいたけどコードはどこ吹く風。 「コード、誰かいるの?」 「こっちに来い。俺様の妻に会わせてやろう」 後半は北の方に言った言葉だ。その声にシグナルはするすると単を引いて進んでいき、廊下を曲がったところで声も出ないほど驚いた。 「お義母さま…」 「シグナル…シグナルかい?!」 驚いたのは北の方も同じだね、コードはさっとシグナルの肩に手を乗せた。 「そうだ、お前の屋敷にいたシグナルが俺様の妻だ」 「な、なんですって?!」 「そして俺様が新中納言のコード・カシオペアだ」 そう聞いた途端、北の方の顔が怒りに彩られた。 「それでわかったよ、これまでの嫌がらせはみんなシグナルがやらせたんだ!!」 「そんなっ」 言いかけたシグナルを、コードがそっと手で制した。ボクは子供たちを守るようにそこに立っていた。 「それは違う。俺様が同情してやったことだ。こいつはお前らからの仕打ちもなんとも思っておらん。ずいぶんとお人よしだからな」 ボクは頷いた。シグナルは今にも涙を零しそうに俯いていた。あの頃のつらかったことを思い出しているのかもしれない。 「でももう気は済んだからな。シグナル、帰るぞ」 コードの言葉を聞いた従者と女房たちが手分けして道具類や几帳を片付け始めた。ボクは車に乗り込んだまま待っていた少納言さんに子供たちを預けてまたシグナルのところに戻った。 さっきの場所にはまだ北の方とコードにシグナルがいて、話をしていた。 「そういえばこの屋敷はシグナルの名義だな。権利書もこっちにあるし…シグナル、どうする?」 「…コード」 「お前の好きにしろ。だが権利書は渡すなよ。ここはお前の大事な持ち物だからな。お前の母親の形見だろう、渡していいのか?」 そういうとシグナルはふるふると首を横に振った。道具類はもう取り戻さない、あげたんだからとシグナルは言っていた。 「ならどうする?」 「…貸してあげる」 「だそうだ。心して住めよ」 そうしてボクたちは引き上げていった。牛車の中でシグナルはぽろぽろと涙を零していた。 「どうした、シグナル」 「いろいろあったなあって思って」 「そうか…」 コードは優しくシグナルの肩を抱いて慰めていた。これが最後の復讐。 そして二条にいくつかの春が巡って。 「ハーモニー」 「あ、カルマ君」 「シグナルさんが呼んでいましたよ」 「ありがとう、カルマ君」 物語の締め括りも、ボクに譲ってくれるんだね、カルマ君。 「母様〜」 「どうしたの、ミラ」 「父様がおもどりになりました」 「あれ、今日ははやいんだね」 あれから数年、カシオペア家は大いに繁栄した。コードはまもなく大納言に昇進大将を兼任、やがて太政大臣になるんだけどそれはもう少し先のこと。カルマ君も左衛門尉から左少弁になった。音井中納言はコードの口利きで大納言になったあとまもなくなくなられた。北の方はその後70歳まで生きてなくなった。 そしてボクのご主人であるシグナルは三男二女の母親になって、コードに愛されて幸せに暮らしている。 「シグナル、今戻ったぞ」 「お帰りなさい、コード」 「父様、お帰りなさーい」 子供たちが声をそろえて言うと、コードもシグナルも微笑んだ。 「そうだ、シグナル。ウララの袴着の儀の着物だがな」 ウララちゃんは一番下の姫で、今度3歳になる。袴着の儀っていうのは幼児のこれからの健康を祈る行事のことなんだ。ウララちゃんはシグナルにそっくりのかわいい姫君で、ボクにもよく懐いてくれている。シグナルの膝の上で嬉しそうに笑っていると、コードが横にいたミラ君の頭をなでた。 「もう少ししたらミラ、お前も童殿上に読書始めだ、忙しくなるな」 「はい」 ミラ君はしっかり返事した。そのふたつは成人前の男の子がやるものでどっちも大事なものなんだ。 「布は母上が贈って下さるとのことだから、シグナル、しっかり頼むぞ」 「かわいい子供たちのためだもん、頑張るよ」 それからすぐにコードの母君から絹、糸、綾と染料が送られてきた。 「ハーモニー、手伝って。ひとりじゃ折り目がつかないよぉ」 「ああ、待って、すぐに行くから」 どんなに高貴な身分になっても、シグナルは針を持つのをやめなかった。それはコードと、子供たちに捧げる優しい針跡だった。 ≪終≫ ≪叶うと信じればこそ≫ えーっと、C×S♀で、日本古典『落窪物語』のパロディです。日本版シンデレラっすね。 本文中でもだいぶ説明しましたが古典の詳しくない方のためにちょっと補足しておきます。 ▼『落ち窪んだ部屋』というのは廊下より一段低くなった部屋のことです。別に床板が腐って壊れかけているような部屋じゃありません。でも如月はずっとそう思ってました(-_-;)…。 ▼賀茂祭は賀茂神社の祭礼で、葵祭とも。伊勢の斎宮が勅使を伴って上京してくる行列を見物するのがこの時代の女性の楽しみだったのです。 ▼シグナルが閉じ込められていた『北の雑舎』ははっきりいうと物置小屋ですな。北なのでお酒や酢、干した魚など食料を置いていたようです。そんなところに閉じ込められるんだからちょっとどころじゃなく恐かったと思いますよ。そうだな、野菜室に閉じ込められるみたいなもん? よくわかんない…。 ▼これは古典と関係ないんですが、コードとシグナルの間にできた子どもは三男二女になってます。私が持っている『落窪物語』には実は次男の出産までしか書いてなくて、まさかそんなはずはないだろうと3人追加しました。長男ミラ、次男シリウス、長女ティアラ、三男トゥルース、次女ウララです。 こんな感じですかね。ではまた、こういうパロディをやりたいですね。 ≪おまけ≫ オラクル:やあ、女御役のエモーション エモーション:あら、帝役のオラクル様 オラクル:私たちは今回出番がなかったねぇ… エモーション:仕方ありませんわ。落窪物語はそういう話ですもの。でもお兄様と<A−S>が幸せになれてよかったですわ オラクル:あはは、そうだねぇ エモーション:でもお兄様ばかり<A−S>といちゃいちゃしてずるいですわ。私も<A−S>といちゃいちゃしたいですわぁ〜〜 オラクル:い、いちゃいちゃ? エモーション:次回は是非ちゃんとした役が欲しいですわね、オラクル様 オラクル:そうだね、私もシグナルとは仲良くしたいなぁ… 如月:…考えておきます(-_-;) |