小さな革命 それはとっても小さな出来事だったけれど 未来から見ればとても大きな一歩だったのです 音井さんちは現在6人家族である。大学の工学部で教鞭をとる父親に、8歳年下の母親、それに男の子二人と女の子二人の4人兄弟。いちばん上の長女ラヴェンダーは中学3年生、年子の弟オラトリオは中2、少しはなれて次男パルスが小学校2年生、そして末っ子の次女シグナルが幼稚園の年中さん(さくら組)である。 その日の朝、お母さんである詩織はなかなか起きてこない末っ子のシグナルを起こしに2階へ上がっていった。上の子3人と父親はとっくに出かけたというのに彼女だけがいつまでたっても起きてこないのだ。いつもならみんなと一緒に起きてご飯を食べ、みんなを見送ってから幼稚園に行く彼女が、だ。 夜遅くまで起きていた様子はないし、具合が悪いのなら病院へ連れて行かねばならない。 「シグナルちゃん、起きなさい」 詩織はシグナルを揺すってみたが、目覚めない。病気でもなさそうなのでとりあえず揺すりつづけてみる。 「起きなさい、シグナルちゃん」 布団を剥ごうとするけれど、シグナルは抵抗する。布団をしっかり引っ張っているのだ。 「幼稚園遅れるわよ!!」 「いいもん、しぐ、今日幼稚園お休みする!!」 「いいわけないでしょ、病気じゃないんだから!!」 母と末娘の朝のバトルはこんな感じだった。 カシオペアさんちは現在5人家族である。出張しがちな両親に代わって祖母が子供達の面倒をみている。祖母といっても彼女自身も早くに結婚したし、子どももまた若くして結婚し子供ができたのでとても孫がいるようには見えない。要するに若いおばあちゃんなのである。子どもたちは4人。長男のコードが小学3年生、3つ年下の妹達は3ツ子でシグナルと同じ幼稚園の年長さん(うめ組)である。 コードは先に学校へ行き、残る3人が幼稚園に向かうべく、いつもの停留所でバスを待っている。 「<A-S>、遅いですわね」 「ほんと、どうなさったのでしょう」 長女の名前はエモーション。本当の名前はものすごく長いのでとりあえずエモーションか、エレクトラと呼んでいただきたい。ネオングリーンの長い髪が自慢で、ことシグナルを可愛がっている。次女はエララ。亜麻色の髪が可愛い少女で彼女とシグナルは仲がいい。三女はユーロパ。彼女は上の二人と違って藍色の髪をショートにしている。3人姉妹とはいえ同じ年の3人にとってひとつ年下のシグナルは妹同然に可愛がっている存在である。そのシグナルが今日は遅れている。あと5分ほどでお迎えのバスがくるというのにいっこうに姿を見せない。 「寝坊したんじゃないの」 「風邪でも引かれたんでしょうか」 と、それぞれに思いをめぐらせていると程なく、母親にひきずられながらシグナルがやってきた。紫色に光る長い髪を三つ編みにしているのですぐわかる。 「おはよう、エモーションちゃん、エララちゃん、ユーロパちゃん」 「おはようございます、おば様」 三人は園児とは思われぬほど礼儀正しくご挨拶をした。シグナルも挨拶をする。 「おはようございます」 「おはようございます、<A-S>」 エモーションはなぜかシグナルを<A-S>と呼んでいる。どこをどうすれば<A-S>になるのか、その由来は未だもって謎である。顔を上げたエモーションはシグナルの目がはれぼったいのに気がついた。 「あら、<A-S>、お顔どうしたんですの?」 エモーションがそういうとシグナルは顔を隠すように帽子を深くかぶってしまう。かわりに詩織が答えた。 「ごめんなさいね、エモーションちゃん。この子ったら幼稚園に行きたくないって朝っぱらから駄々こねちゃって。無理矢理連れてきたところなの」 そう言われて三人は驚いてしまう。毎朝楽しそうにここにやってきて、一日幼稚園で楽しく過ごして、楽しそうに帰っていくシグナルに一体何があったというのか。 「何にも話してくれないのよ」 と詩織は言う。エモーションたちとて気がかりだが、なんせ年長さんと年中さんではクラスが違うためにわからないこともあるのだ。 やがてバスがやってきて、4人は先生に迎えられてバスに乗った。 「行ってきますわ」 「いってらっしゃい」 手を振る詩織に、シグナルも何気なく手を振って返した。発車前に先生と詩織が何か話していたが、シグナルには聞こえなかった。 その日の昼休み、エモーションとエララはさくら組の教室を覗いてみた。いつもお外で遊んでいるはずのシグナルが今日は室内でお絵かきをしている。しょんぼりして、どこか元気がない。 「<A-S>、どうしちゃったんでしょうか」 「心配ですね」 そうこうしているうちにシグナルの前に3人の男の子が現れた。シグナルを取り囲んで何か言っている。 「お姉さま…」 「少し様子を見ましょう」 二人が窓に張り付いているのを、周囲は少し不思議そうにみていた。 取り囲まれたシグナルはお絵かきをやめて立ち上がっていた。 「お前、幼稚園きたのかよ」 「へんな髪の色してる」 そういうと男の子1がシグナルの三つ編みを引っ張ったのだ。シグナルは痛みで顔をしかめる。シグナルは自分の髪を取り戻すと3人をきっと睨みつけた。 男の子達は怯まない。 「だって変じゃんかよ。紫なんて。おまえのとーちゃんもかーちゃんも黒いのになんでお前は紫なんだよ」 「そんなこと、しぐのせいじゃないもん、はなしてよ、痛いよ〜〜」 男の子は3人がかりでシグナルの髪を引っ張った。 「おまえ、もらわれてきたんじゃねーの」 「そーだそーだ、変な色」 男の子2と3もくちぐちにシグナルをなじる。シグナルは目にいっぱいの涙をためて言い返した。 「ちがうもん、しぐはお父さんとお母さんの子どもだもん!!」 そして言い合いが高じて男の子三人は寄って集ってシグナルをいじめ始めた。もう見ていられなくなってエモーションとエララが飛び出す。 「なにしてるんですのっ!!」 「やめなさいっ!!」 騒ぎを聞きつけた先生達も慌てて教室にやってきた。エモーションとエララがシグナルをかばい、男の子達は先生が抑えた。 「何で喧嘩してたの?!」 「だってこいつの髪の色、変なんだもん」 えぐえぐとすすり泣くシグナルを抱きしめながら、エモーションがその言葉にキレた。 「もう一度言ってごらんなさい…」 「え…」 「もう一度言ってごらんなさい、私と<A-S>の髪がなんですって?」 エモーションの髪の色も普通とはかなり違う色彩なのだ。でも彼女はこの髪に自信を持っていたし、両親を疑ったこともないし、いじめられたこともない。なにより可愛い<A-S>がいじめられていることにそうとう立腹しているのだ。あまりの迫力に男の子達は自分がいじめておきながら泣き出した。 お帰りの時間になって、シグナルはバスに乗らなかった。幼稚園から連絡を受けた詩織が自転車で迎えにきたのだ。詩織は先生と少しお話をしているから待っているようにと、彼女を教室に残した。エモーションたちは心配しながらバスで帰ってしまっている。シグナルは一人ぼっちで、自分の髪を見つめていた。 光の具合で色を変える偏光紫の髪。 みんな最初は不思議そうに見るけれど、そのうち慣れると綺麗だとか、かわいい色ねと言ってくれる。同じように不思議な色をしたエモーションもそう。 家族の中でお父さんは黒い髪、お母さんは明るい栗色の髪。お姉ちゃんも黒い髪で、大きいお兄ちゃんはお母さんに似て、鈍い金色。小さいお兄ちゃんは真っ黒。それなのにどうして自分だけ紫の髪なんだろう。 「やっぱりしぐ、もらわれてきたのかな…」 きっと青い髪のお父さんと赤い髪のお母さんの間に生まれてきたのが自分なんだ。それで、きっと何か事情があってしぐはもらわれてきたんだ。 自分は、お父さんとお母さんの本当の子どもじゃないんだ…。 哀しくなって、寂しくなって。シグナルの大きな瞳から大きな涙が零れた。 それからシグナルは自転車の後ろに取り付けられた子ども用の椅子に乗せられて自宅に戻った。反対側からオラトリオも戻ってくる。 「オラトリオおにーちゃん」 「およ、シグナルは今帰りか? 今日はバスじゃなかったんだな」 そう言ってオラトリオはシグナルをわしゃわしゃとなでて抱き上げた。中学2年生だというのに180センチという長身のオラトリオに抱っこされるのがシグナルは好きだった。でも今日は違う、シグナルが喜ばないのだ。 「あらぁ、オラトリオ早かったのねぇ」 詩織がオラトリオを見上げる。せっかくの長身なのにどの部活にも所属していないオラトリオは助っ人として運動部から借り出されている。 「いつもいつも寄り道してるわけじゃねぇよ。ところでシグナルどったの? 元気ないけど」 オラトリオが訊ねると詩織もちょっとしゅんとして答える。 「髪のことでね、いじめられてるみたいなの…」 「…そっか」 玄関先で立ち話をしているところへ長女ラヴェンダーも帰宅し、みんなで中に入った。 夕飯はシグナルが大好きなクリームシチューだ。食事の支度をしているあいだはオラトリオが下の二人の面倒をみている。シグナルはオラトリオの膝に抱えられてもしょんぼりしていた。 「ねぇ、おにーちゃん」 「なんだぁ、シグナル」 「しぐは、本当にこのうちの子?」 小さい子ならみんな考えてしまうだろう質問をされ、オラトリオは正直面食らった。そういうことは親に聞けよ、と思いながらも妹が髪の色のことでいじめられていると聞いているから優しく答えた。 「そーだよ。シグナルが生まれたとき、みんなで見に行ったんだからな」 というのは5年前シグナルが生まれるときに父親の信之介が学会で出張しており、産気づいた詩織を病院へ運んだのがラヴェンダーとオラトリオだったのだ。オラトリオはいったん家に戻り、まだ小さかったパルスを従兄弟の家に預け、父親に連絡をとり、必要なものをもって病院に戻った。そのとき詩織がちょうど分娩室に運ばれていたのだ。だからオラトリオとラヴェンダーはその出産に立ち会っていることになる。 「よく覚えてるぜ。可愛かったもんな」 「そのころからこんな色?」 シグナルは三つ編みを左右に引いた。 「そー。きらきらするすごく可愛い色。生まれつきなんだよ、お兄ちゃんだってこの色だぜ?」 そう言ってオラトリオは鈍い色の金髪を指した。オラトリオの髪も染めているわけではない、生まれつきの色だ。 「それにな、シグナルちゃん。俺達はみーんな目の色が一緒だ。だから同じお父さんとお母さんの間に生まれた兄弟なんだぞ」 「ほえ」 シグナルはオラトリオの膝から降りると、まずラヴェンダーのそばによってじーっとみつめた。向かいに座っていた彼女は話は聞こえていたらしく、シグナルをじっと見つめ返す。その瞳の色は少し赤身が強いけど、紫だった。それからパルスのそばに言って顔を覗く。パルスはもっと赤身が強い。ほとんど赤だけれど紫に見えなくはない。髪の色は違うけど、目の色は一緒。 「安心したか?」 「…うん」 ちょっと元気が出たシグナルは大好きなシチューをおかわりして食べた。 そのころのカシオペアさんち。 本日のメニューは焼き鮭とほうれん草のおひたし、味噌汁にかぼちゃの煮付けという和風メニューだ。子どもには少々難しい味かもしれないが、カシオペアさんちではこれが当たり前なのだ。 「というわけで、私腹がたってしまいましたの」 と箸を振り回しそうな勢いでまだ怒っているエモーションが一部始終を兄に報告している。 「まあ、俺様たちからみればシグナルの髪も普通に見えるがな」 というカシオペアさんちのお子さん達は実にカラフルだ。長男のコードは明るい桜色の髪で、これまた生まれつきなのである。 「それで、シグナルは泣き寝入りか?」 「とんでもない、やり返してましたわ。でも多勢に無勢なので結局泣かされてしまって…」 「ふむ」 自分や妹達は髪のことでいじめられたことがないのに、どうしてシグナルはいじめられるんだろう。 「せっかく綺麗な色なのにね…」 藍色のユーロパがそっと呟いた。藍色は遠目からは黒く見える。 「ま、シグナルが自分で自信をもたんとどうしようもないのだろうがな」 「そうですね…」 シグナルのことが心配でたまらないエモーションは我がことのように溜め息をついた。 次の日、シグナルはちゃんと幼稚園にやってきた。エモーションとエララは昨日と同じようにシグナルを観察している。今日は元気にお外で遊んでいるのだ。よく見てみるとシグナルの周囲には女の子が多い。シグナルの不思議な髪に興味があるようで、触っては驚嘆の声を上げている。 「すごーい、きれー」 「いいなぁ、私真っ黒だもん」 するとシグナルはちょっと変な顔をする。 「変じゃない? 紫の髪なんて」 すると女の子達は口々に言う。 「えーっ、変じゃないよ、綺麗だよぉ。ほら、『魔法少女みらくる☆るるか』だって紫じゃん」 「あー、ほんとうだー、るるかちゃんみたーい」 『魔法少女みらくる☆るるか』は女の子の間で人気のアニメだ。もちろんシグナルも例に漏れず、るるかちゃんは毎回欠かさず見ている。 「やってやってー、るるかちゃんのまねー」 やってやってと言い寄られて、シグナルはさっとポーズをとる。そして一生懸命覚えたるるかちゃん登場の決め台詞を言う。 「あいとせーぎのまほーしょーじょ、みらくるるるか、けんざん!」 女の子達はやんややんやと拍手喝采。シグナルはにっこり笑った。 「か・かわいい…」 見ていたエモーションはあまりの可愛らしさに眩暈を覚えた。 そこに昨日の男の子達がやってきた。事態は一変、緊迫したムードになる。眩暈からすぐに立ち直ったエモーションはエララと共にはらはらと事態を見守った。 「また幼稚園きたのかよ、紫の髪なんて変だろーが」 すると女の子達がシグナルの周りを囲み、言い返す。 「変じゃないよ、きれーだもん!」 昨日の意地悪を知っている女の子達の団結は固い。結局その日はお友達に助けられたけれど、男の子に変といわれてシグナルはまた落ち込んだ。 「おかーさん…」 「なぁに、シグナルちゃん」 「しぐ、髪切りたい…」 幼稚園バスの停留所から歩いて戻る途中、シグナルはこう切り出した。手を引いていた詩織は歩きながら続けた。 「どうして? みんなにるるかちゃんみたいでいいなって言われたんでしょう?」 「でも、意地悪いう子もいるもん…」 きっと髪を切って目立たなくなれば、いじめられなくなるかもしれない。シグナルは単純にそう思った。 それならそれでいいか、この子の気のすむようにしてやろう。そう思った詩織はシグナルの決心をもう一度確認する。 「本当に切っちゃうのね」 「うん、しぐ、髪短くする!」 「じゃあ、おうちに帰ったら美容院に電話して予約とろうね」 「うん」 力いっぱい頷くシグナルの視線に、明るい色が飛び込んできた。反対側からやってくる人がいる。 「コードお兄ちゃんだ」 「お、シグナルか。元気か」 そういってコードはシグナルをわしゃっと撫でた。詩織とも挨拶を交わす。 「今から剣道のお稽古?」 「はい、昇段試験が近いので」 コードはエモーションたちの兄だし、シグナルのすぐ上の兄とも年が近いので、シグナルはもうひとりのお兄ちゃんとしてコードを捉えている。 彼女はコードを眩しそうにみていた。 「綺麗に三つ編みしているな、お母さんにやってもらうのか」 「うん、しぐまだできないもん」 シグナルは小さな手を広げる。最近ようやくお箸が使えるようになったシグナルである。 「そうか」 コードは小さく微笑んだ。 「でももうできなくなっちゃうわね」 詩織の言葉に、コードは不思議そうに視線を移す。詩織はちょっと困ったように微笑んだ。 「髪、短くしちゃうって言うのよ。それで明日ばっさり切っちゃうの。ね?」 「うん、しぐ、髪切るの…」 コードの顔が一瞬だけ険しくなり、またいつもの表情に戻る。 「そうか、切るのか」 「うん…」 「もったいないな、せっかく綺麗な髪なのにな」 そういい残すと、コードは軽く会釈して去っていった。袋に包んだ竹刀と防具を担いで近所の体育館に向かう。シグナルはその後ろ姿をずっと追っていた。 そして、何かを決心したかのように詩織の手をぎゅっと握る。 「おかーさん」 「なぁに?」 「しぐ、やっぱり髪切らない。このままがいい」 そう言ってシグナルは母を見あげる。詩織はにっこり笑っていた。 「あら、さっきまで切るっていってたのに、どうして?」 「だってもったいないもん」 「あらあら」 シグナルの悩みを断ち切ったのは親でも兄弟でもなく、あかの他人のお兄ちゃん。ちょうどこれくらいの年に、詩織も同じ思いをしたことがある。やっぱり親子だと思いながら詩織はにこにこ微笑んでいる。 「ねぇ、おかーさん」 「なぁに?」 「しぐ、けんどーやりたい」 「…もう少し大きくなったらね」 「うん♪」 シグナルは嬉しそうに笑いながら家路を辿った。 「お姉さま、わかりましたわ」 「なにがですの、エララさん」 夜も更けて寝ようというころ、廊下でエララがエモーションを呼び止めた。3人色違いだけどおそろいのパジャマを着ている。エララはにこにこしながら答えた。 「シグナルさんだけがいじめられている理由、です」 「なんですって、それはどういうことですの」 「姉さま、気がつかなかった?」 洗い立て、乾かしたての髪をかきあげながらユーロパが口をはさむ。自分はとっくに気がついていたと言わんばかりに冷めた表情だ。 「シグナルさんがいじめられる…というよりもなぜいじめているのか、ということですわ、お姉さま」 要するに視点を変えて男の子の立場にたってみればいい。多分それは自分達がシグナルに接触するときにすることと同じ原理なのである。ただ、やり方がちょっとダメダメなだけで。結論に達したエモーションはほう、と溜め息をつく。 「<A-S>ったら、もてもてですわね」 「でもあれじゃあ、嫌われる一方よねぇ…」 「それどころかもう手遅れですわ」 エモーションはぽんと両手を叩く。はじけそうな笑顔がエララにも移る。 「エララさんもやっぱりそう思います?」 「姉様たちもそう思ってた?」 「まぁ、ユーロパも?」 エララがユーロパに向かって小首を傾げる。3人が一致した結論、それは 「<A-S>の恋のお相手は、お兄様以外にありえませんわ!」 と、いうことである。素敵な結論に達したところで3人はそれぞれ部屋に戻った。 そのあとでドアがゆっくりと開いた。3人はすっかり忘れて…いや、気がつかずに話し込んでいたわけだが、そこはコードの部屋の真ん前なのである。部屋を出ようとしたコードは妹達の話をドア越しに聞いてしまい、出るに出られなくなったのだ。随分ませた会話だったが…。 「あいつら…」 4つ年下の、妹のような子に思いを寄せられても、どうしたらいいのかわからない。そんなことより今は剣の道に勤しみたい、それが小学生の正しい心中であろう。 ともあれコードは、これから先の自分の運命を、このときはまだ知る由もなかったのである。 それから11年後の春――。 「じゃーん」 ブレザーにタータンチェックのスカート、胸元に揺れる大きなリボン。ぱっちりした大きな瞳にかわらぬ紫の髪は踝まで伸びた。 「シグナルは今日、高校生になりました!」 時の流れとは早いもので。この11年の間に音井家に起こったことを簡単に述べておこう。5年前、父信之介はシンガポールにある大学に客員教授として赴いた。単身赴任である。詩織はどうしてもついて行きたかったが一番下のシグナルがまだ小学生だったので諦めたのだ。それでも年に何回かは様子を見にひとりでシンガポールへ旅立つことがあった。長女のラヴェンダーは20歳で司法試験に合格し、現在は弁護士をしている。長男オラトリオは大学卒業後フリーライターとなり、従兄弟のオラクルと組んで仕事をしている。母親がいない間の家事担当も彼だ。次男パルスは今年の春大学生となった。 そして――。 「うわぁ、シグナルちゃん、かわいいですぅ」 「ありがとう、ちびちゃん」 そう言ってシグナルが抱き上げたのは3年前に生まれた末っ子三男のミラだ。あまりにも年が離れすぎているためか、よくオラトリオの子どもと間違われるが、れっきとした5人目なのである。ミラの髪もシグナルと同じ紫色だったが、ミラはあまりコンプレックスにはしていないようだ。なぜならミラにはシグナルという、同じ色をした姉がいるからだ。シグナルは一人ぼっちだと思っていたからつらい思いもしたけれど、ミラはそう思わない。 「じゃあそろそろ行きましょうか」 今日は高校の入学式なのだ。 「いってきまーす」 柔かい紫の髪をなびかせて、シグナルは玄関を出た。 「おはようございます、<A−S>、今日から同じ学校ですわね」 ネオングリーンの髪も軽やかに、エモーションが走り寄ってくる。シグナルはエモーションの後輩になったのだ。 カシオペアさんちの変化もちょっとだけ。長女エモーションはこのころすでにモデルとして活躍しており、学校に通いながらでも仕事が出来るような高校を選んで進学していた。次女エララと三女ユーロパは看護士になりたいといい、看護学校に進学しやすい高校を選んだ。みなそれぞれの道を歩み始めたのである。 そして長男コードは…。 「シグナル、来ていたのか」 「あ、コード。今日お出かけ?」 「ああ、大学のな、新入生の勧誘をせにゃならんのでな」 来春成人式を迎えるコードは大学2年生で、ずっと剣道をやっている。 「今日から高校生だな、シグナル」 「うん…」 真新しい制服に身を包んだシグナルは少しはにかみながら答えた。 「じゃあ、俺様は出かけるから。また夜にな、シグナル」 「うん、行ってらっしゃい、コード」 シグナルは元気よく手を振った。コードは少しくすぐったそうに微笑んで去っていく。今夜はシグナルとパルスの進学祝いが予定されていた。 「さ、行きましょう、<A-S>」 「はい、エモーションさん」 駅までの道を二人で歩きながら、エモーションはくるっとシグナルのほうをむいた。 「ところで<A-S>」 「なんですか、エモーションさん」 「お兄様とはどういったお付き合いをしてますの?」 「えっ……」 シグナルはただそれだけ呟いて真っ赤になった。 「それは…その…」 「? どうしたんですの?」 「その…まだ、なんです」 ぽつりぽつりと呟くシグナルに、エモーションは驚きを隠せない。あんなに仲良くしているのに、まだ『近所のお兄ちゃん』の領域を出ていなかったとはっ! 「まだって…」 「まだ告白してないんです…どーしましょう、エモーションさぁん〜〜」 「どうしましょーって…」 今更悩まなくても、さらっと言ってしまえばいいのでは。そう思うのだけれど肝心のシグナルはいたって大真面目。 ここはひとつ橋渡しでも。エモーションの目がきらりと光る。でもそれはまた、別のお話。 そしてこれは幼い日の二人。 「コードお兄ちゃん」 長い髪をゆらゆら揺らし、とてとてと走り寄ってくるシグナルを抱きとめる。シグナルはにへへと笑っていた。今日は三つ編みにしていない。 「何だ、シグナル。髪を切ったんじゃなかったのか?」 「えへへ。おにいちゃんがもったいないって言うからやめたの」 「…そうか、綺麗な髪だからな」 コードは優しくシグナルを撫でる。彼女はとても嬉しそうだ。 「オラトリオお兄ちゃんがね、お父さんとお母さんがくれた綺麗なものだから大事にしろって」 「そうだろう、良かったな、切らなくて」 「うん、しぐもう髪切らない」 にこにこ笑顔で、いつもの元気なシグナルに戻っている。 「コードお兄ちゃんの髪も綺麗だね、お花みたい…」 「おまえのもな」 その笑顔も、お花みたい。 「…ねぇ、コードお兄ちゃん」 「なんだ?」 「しぐね、大きくなったらけんどーならうの」 「ほう」 「んでね、もっともっと大きくなったら、コードお兄ちゃん、しぐをお嫁さんにしてくれる?」 「…もっともっと大きくなったらな」 「やったぁ♪」 シグナルは大はしゃぎで飛び上がっている。 「夢か…」 ぼんやりと目を開けると、窓から朝日が差し込んできた。規則正しい包丁の音と味噌汁の匂いがして、コードは台所に入った。 「あ、おはよう、コード。もうすぐだからね、朝ご飯」 「ああ、ゆっくりでいいぞ」 コードはテーブルの上に新聞を開いた。 あんなに小さかったシグナルも、柔らかな曲線と少し大人びた笑顔を備えた女性になった。 季節はめぐって、また春になる。 「シグナル、出かけるぞ」 「行ってらっしゃい、気をつけてね」 「うむ」 隣にいてくれる人は、あのときの小さな約束を果たしてくれた。 シグナルは若干5歳にしてつかんだ初恋を見事に貫いた。23歳になったシグナルは大学卒業後すぐにコードと結婚して今は幸せな専業主婦暮らし。 そしてコードにはまだ内緒だが、シグナルの中には新しい命が宿っている。 帰ってきたらびっくりさせよう。絶対喜んでくれる。 遠ざかる後ろ姿を見送って、シグナルはうきうきと家の中に戻っていた。 小さな小さな出来事がもたらした小さな革命 それは大きな渦を巻いて、大きな幸せになった。 小さな足で一歩一歩。 進んだ未来は恐くない。 ≪終≫ ≪またやっちゃった≫ C×S♀で、Ifです。シグナル5歳で話を進めてみました。シグナルが幼稚園なのか保育園なのか悩んだんですけど、コミックにはどこにも書いてないんですよ…。なので、悩んだ末に如月が幼稚園だったのでそっちにしました。お迎えもバスの形態もいろいろあるみたいですごく大変でした。如月は家が近かったので母におくってもらってましたけど。子どもって書くの大変…、近所にいないし…。C×S♀なのにコードの出番も少なかったし…(-_-;)。 |