非情に連続した不幸とそのあとの幸福 まあ時としてこういうことはよくある 誰のせいでもなく不幸が連続するということが、だ しかし禍福は糾える縄の如しとはよく言ったもので 不幸の連続の後には必ず幸せが待っている 2月の半ばと言えば女の子たちは妙に浮き足立ち、その女の子たちに連動するかのように男の子たちもなんとなく落ち着かない日を過ごしている。 そして音井さんちの次女シグナルもその例に漏れなかった。 現在高校1年生、16歳のシグナルは青春真っ盛りの恋する乙女だった。お相手は4歳年上の幼馴染で近所に住んでいるお兄さんである。彼女はその恋人のために昨夜は遅くまでチョコレートの作り方をインターネットで探し、学校の帰りにスーパーに寄って材料を買ってきた。 明日は2月14日、そう、バレンタインの当日である。 シグナルは三つ編みにした紫色の長い髪を揺らしながら大事そうに買い物包みを抱えて歩いていた。恋人は甘いものが苦手なのでバレンタインには甘さ控えめのチョコレートケーキを作るのが毎年の慣わしになっていた。 「コード、喜んでくれるといいな…」 彼女は立ち止まって買い物包みに顔を埋め、どことなく幸せそうに恋人の名を呟いた。 このとき、不幸はまだ始まっていなかった。 シグナルが自宅に帰り着くと時計の針はもう5時を回っていた。 「やだ、遅くなっちゃった。ただいまー」 「あー、シグナルちゃんおかえりでっす」 とてとてと走ってきた弟を抱きとめてシグナルはそっくりなその髪を撫でた。きらきらと紫色に光を弾くところがお揃いな姉弟は互いに顔を見合わせてにっこりと笑った。 「ただいま、ちびちゃん。おなかすいたでしょ。すぐご飯にするからね」 「はいでっす!」 ちびと呼ばれた弟はシャキーンと敬礼をした。本当の名前はミラなのだがみんなが『シグナルが小さいころにそっくりだ』というのでちびシグナルからだんだんと省略されてちびになった。彼が自分のことをミラと認識しているのかが気になる昨今である。 「今日はカレーでいいかな?」 「うわーい。ぼくシグナルちゃんのカレー大好きです」 ちびはシグナルの腕の中で大喜びだ。 「オラトリオは?」 「大きいお兄さんはぼくを幼稚園に迎えにきたあとお部屋にこもっちゃってます。引きこもりですかねぇ」 ちびが困ったもんですと言いながら顔をしかめるのをシグナルはおかしそうに見ていた。一番上の兄、オラトリオはこの家の主夫であると同時に小説家でもある。普段は家事をまかなってくれている彼だが締め切りが近づくと部屋に缶詰になって誰も近づけない。自分でおなかがすいたと気がつくまで食事もとらない有様だ。長女ラヴェンダーは弁護士をやっていて帰宅はいつも不定時、兄のパルスも寝てばっかりで宛てにならないのでオラトリオが忙しい時だけシグナルが家事を代わっている。幼稚園は3時までだがシグナルはまだ授業中であるためにそれだけはどんなに忙しくてもオラトリオがいく、と決めてある。 「オラトリオ忙しいんだねー。明日締め切りだっけ?」 そう呟いてカレンダーを見る。14日の欄にはバレンタインとともに『締め切り!』と大きな文字で書いてあった。 鮮やかな手つきで野菜の下ごしらえをするシグナルがいるキッチンから少し離れたリビングでちびはお気に入りの子供番組を見ながら踊っている。 ことこととカレーが煮える音がしても甘口ながらもスパイシーなカレーの香りがしてもオラトリオは一向に部屋から出てこない。 パルスも寝ているところを起こすのは面倒なので夕食はちびと二人で食べることにした。 「はい、ちびちゃん。お手伝いだよー」 「はーい」 「テーブルの上を拭いてください」 シグナルはちびの目線まで屈むときつく絞った台拭きを渡した。 「りょーかいでっす!」 ちびは子供用の椅子をよじ登ると小さな手でテーブルを一生懸命拭きはじめた。その間にシグナルはカレーとサラダをよそう。 「できた?」 「できましたです!」 「じゃあご飯にしよっか」 「はーい」 ちびは嬉しそうに返事をすると椅子の上にちょこんと鎮座した。それを見届けてシグナルはメラミンの食器によそったカレーをちびの前に置いた。 「いただきまーす」 ちびは小さな手でしっかりスプーンを握ってカレーを食べている。シグナルも甘いカレーは平気なのでそのまま食べている。 「そういえばシグナルちゃん、明日はバレンタインとかいう日じゃないですか?」 「うん、そうだよ。よく知ってるね」 「幼稚園で聞いたです。女の子たちが言ってました」 ちびのために牛乳を注いであげながらシグナルはちらっと買い物袋を見た。買い物袋の中には明日のための材料が入っている。 「シグナルちゃんはコードお兄さんにあげるんですよね?」 「う、うん…ちびちゃんにもちゃんと作ってあげるよ」 「うっわーい」 口元をカレーで汚しながらちびは両手を上げた。そんな弟ににっこり笑いかけながらシグナルはこのあとの段取りを考えていた。 この時点で少しずつ不幸は忍び寄っていた。 晩御飯の片づけを終えてシグナルはちびと遊んであげた。 「チョコレート作らなくていいんですかぁ?」 「大丈夫だよ。ちびちゃんが寝てからやるから」 シグナルは小さな弟をぎゅっと抱きしめた。柔らかな頬がぷにっと触れ合う。 「ぼく邪魔しないですよ?」 「そうじゃないの。台所ってちびちゃんには危ないものが多いから。それにちびちゃんにあげる分も作るんだよ? 内緒のほうがいいでしょ」 「んー、それもそうですね」 ちびはシグナルの腕の中でほえーんと顔を緩めた。チョコレートが世界で一番おいしいお菓子だと信じてやまないちびは無条件でチョコがもらえるバレンタインという日が大好きなのだ。 それからちびはちゃんとお風呂に入って、それからすぐに寝た。普段からあまり駄々をこねる子ではないのですぐにベッドに入ってくれた。 「おやすみなさいです」 「おやすみなさい、ちびちゃん」 「おいしいチョコを期待してるでっす!」 そういうとちびはお気に入りのくまのぬいぐるみとともにもぞもぞと布団の中に入り、しばらくしてからすやすやと寝息を立てた。 「ちびちゃんってほんと、手がかからない…」 25歳の姉を筆頭に24歳の長兄、19歳の次兄、そして16歳の自分と兄弟なんだけど大人に囲まれて育っているちびは小賢しいでもなくでも子供っぽくもない、不思議な幼児だった。 「さて、と」 ちびの部屋の電気を消してそっとドアを閉めると、シグナルは静かに階段を下りた。ちびの部屋の向かいはオラトリオの部屋で、現在仕事中だからだ。 シグナルはふたたびエプロンをしてキッチンに立った。長い髪をヘアゴムでぎゅっと縛り、背中に流した。 今年は蜂蜜の甘さがほんのりと優しいチョコフィナンシェを作るのだ。 まず袋からアーモンドパウダーと無糖タイプのココアパウダー、さらに粉砂糖を出す。他には薄力粉、無塩バター、卵白、塩、グラニュー糖、はちみつを使うのだがこれらはすべて家にあると確認しているので買わなかった。ハート型の型はチョコの手作りをはじめた数年前に購入したものだ、今でも事あるごとに使っている。 材料を確認してからシグナルはプリントアウトした紙を覗き込んだ。 「えっと、まずは型を準備して…」 型にバターを塗り、薄力粉をはいてから冷蔵庫に入れる、という指示どおりにシグナルは作業工程をひとつひとつ丁寧にこなしていった。オーブンを温めている間にバターを溶かしたり粉をふるったりとケーキ作りは忙しい。なんとか焼くところまでこぎつけた時は10時半を回っていた。9時に作業を始めてから1時間半が経っている。型に生地を流しいれるとシグナルは温まったオーブンレンジにそれをそっと入れた。 「ちゃんと焼けますように…」 願いを込めて、愛情を込めてシグナルはオーブンのスイッチを入れた。 「…よし」 寒いはずの冬の台所でシグナルは腕で額の汗を拭った。 スイッチを押してから数分後に電話のベルが鳴った。電話の主はオラクルで、オラトリオがどうしているのかと言ってきたのだ。オラトリオの小説にオラクルがイラストをつけている。彼はとっくに原稿を出しているのだがオラトリオがまだだというので心配してかけてきたのだ。 「オラトリオに代わろうか?」 『んにゃ、いいよ。怒鳴られそうだからね。それよりシグナルはまだ起きてるのかい?』 「うん、ちょっとね、やることがあったから」 オラクルはぴんときたらしく、軽やかな、でも穏やかな笑い声を聞かせてくれた。 『そうだよね。じゃあ寒くないようにしてね。おやすみ』 「おやすみなさい、オラクル」 そういって電話を置いた時、今度はドアベルが鳴った。用心のために鍵をかけておいたのだ。 「どちらさま?」 『私だ、ラヴェンダーだ。開けてくれないか』 姉の名を聞いてシグナルは玄関のドアを開けた。 「おかえりなさい、お姉ちゃん」 「うむ、今帰った。なんだ、まだ起きていたのか。待っていなくていいと言ってあるだろう」 「待ってたわけじゃないの。ほら、明日バレンタインだから…」 妹の言葉にラヴェンダーはふと立ち止まった。 「そうか、明日はバレンタインとかいう浮かれトンチキな日か」 「浮かれトンチキってそんな…」 シグナルは苦笑しながら姉とともに台所に入った。 「晩御飯は?」 「ああ、もらおう。今日は食べる暇がなくてな。この時間だと居酒屋かファミレスしか開いていないからな」 「カレーだけど、いい?」 いいと聞きながらもシグナルは問答無用でカレーの鍋を火にかけて温めなおした。 「で、チョコのほうは大丈夫か?」 「うん、あと5分くらいだから」 サラダとカレーをラヴェンダーの前において、シグナルは再びオーブンを覗き込んだ。型から生地が少しずつではあるが盛り上がっているのがわかる。 「がんばれー、もうちょっとー」 「なにをがんばれというのか」 ラヴェンダーは半ばあきれながらもそんな妹を見守っている。この家で一番に結婚するであろう彼女が必死になってチョコを作る姿はどこか微笑ましいのだ。 そしてオーブンのカウンターの数字が徐々に減ってくるとシグナルは一緒にカウントダウンを始めた。 「3、2、1」 ゼロ、というシグナルの声とオーブンのチンという電子音が重なった。 「できたー」 シグナルはゆっくりオーブンを開けると丁寧に型を取り出した。生地はほくほくに焼き上げられていておいしそうだ。 「ちゃんと確認しないとね」 そういってシグナルは一個だけ竹串をさした。これで生っぽい生地がくっついてこなければ成功である。シグナルはおそるおそる串を引き上げた。串には多少生地の粒が付きはしたものの、生っぽいものは何も付いていなかった。 「やったー、ちゃんとできたよ〜〜」 「それはよかったな。水をくれ」 「はーい」 シグナルは型を置いてから冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスとともにテーブルに置いた。いつもは注いでくれるのだが今日はもうそれどころではない。ラヴェンダーは水をゆっくり飲み干すと自分で食器を下げた。しかし洗うことはない。 「先に風呂に入るぞ。お前もほどほどにしてさっさと寝るんだぞ」 ラヴェンダーは時計を指差した。もう11時をだいぶすぎている。 「もうこんな時間…」 シグナルは焼きあがったフィナンシェを型から丁寧にはずすとひとつずつ丁寧にケーキクーラーにのせ、粗熱を取った。 そして冷ましている間に洗い物をし、冷めてからは綺麗に出来たものをコードの分としてより分けた。 「コード、喜んでくれるといいな…」 ココアブラウンの小さな菓子を見つめて、シグナルは恋人の顔を思い浮かべた。 このときはまだ幸せいっぱいだった。 不幸はこの後起こった。 翌朝、シグナルは真っ先に冷蔵庫の中に入れておいたフィナンシェを確認した。夜中に寝ぼけた誰かが食べていないかと気が気ではなかったのだ。 幸いなことに昨夜作った分は全部あった。 「よかったー」 「おはようです、シグナルちゃん」 「あ、ちびちゃんおはよう」 ちびはシグナルの顔をじっと見つめてそれからにっこり笑った。 「チョコできたんですね」 「うん、ちゃんとできたよ。おやつにおいておくからね」 「うわーい」 ちびは今にも踊りだしそうにはしゃいでいる。 「朝御飯用意するから、その間に幼稚園に行く用意をしようね」 こうして音井家ではいつものように朝を迎えていた――そう、オラトリオ一人を除いて。 思えばこれが不幸の始まりだったのだ。 「あ、そうだ。ちびちゃんのおやつ冷蔵庫に入れておくから。パルス兄は今日暇なんでしょ? ちびちゃんの面倒よろしくね」 「…お前は?」 「今日はバレンタインだもん。一度家に戻ってくるけどそのあとデートなの」 るんとはしゃぐシグナルとは対照的にパルスは食パンにかぶりついたまま未だに寝ぼけている。 「んー、わかった。オラトリオが今日締め切りだから何とかなるだろう…」 「あれ? パルス兄もデートなの?」 「いや。もう少し寝るから」 兄の不毛な日常生活に呆れる姉弟の後ろで居丈高な姉がのっそりと顔を出した。 「シグナル、そろそろ出ないと遅れるんじゃないか? ちびは私が幼稚園のバスに乗せておくから」 姉に指摘されてシグナルは慌てて席を立った。もう一度冷蔵庫を確認してから家を出た。 「ちびちゃんにはちゃんと言ってあるし、帰ってきてからラッピングしても大丈夫だよね」 学校に向かう電車の中でシグナルはずっと笑顔だった。彼女の笑顔に見惚れた会社員が降りるべき駅で電車を降りることが出来ずに何駅も通り過ぎて会社に遅刻するほどに見事な笑顔で。 しかし不幸とはいきなり顔を見せて人々をどん底へと叩き落すのだ。 時刻は午後の4時。ようやく原稿を締め切りに間に合わせたオラトリオが乾きと飢えに体を脅かされながらようやく降りてきた。 「うう〜〜、腹減った…」 このときの彼を支配していたのは食欲と睡眠欲、そしてちびを迎えにいかなければならないという僅かな理性だけだった。今日は3時にオラクルがバスを待って、ちびを預かってくれているはずだ。今からオラクルのところに迎えに行かなくては。そんな彼の手が冷蔵庫の取っ手にかかる。 「んあ…」 冷蔵庫の中は漬物と昨日の残りだと思われるカレーがタッパーに入っていた。オラトリオの体は空腹を訴えてはいたが脳は糖分を欲しがっていた。 「んあー…ん?」 オラトリオの目が冷蔵庫の一番上に向けられた。銀のトレイが目に入る。 「なんだ、これ?」 オラトリオは多少呆けたまま、それが何なのか分からずに、と言うかどういうものなのか分からずに食べてしまった。もちろん、一個くらいなら問題はないのである。が、この時点で彼の理性はほとんどなくなっていた。彼の手はまた一個、また一個とトレイの中身を食べてしまい、気がついたときには空だった。 「あ、全部食っちまった…まあいいかぁ」 すっかり満足したオラトリオはようやく理性を取り戻し、時計が4時をすぎたのを確認してちびを迎えにオラクルの家に向かった。 「うわーい、お兄さんただいまでっす」 「よーお、ちび」 オラトリオはオラクルからちびを受け取るとそのまま夕食の買出しのためにスーパーに向かおうとした。 「お仕事終わったですか?」 「おうよっ、今日はお前が食べたいもんを作ってやるからなー」 自分の子供と間違えられそうなくらい小さな弟を抱き上げてオラトリオは晴れ晴れと笑った。 「昨日シグナルちゃんがカレーを作ってくれたです。とってもおいしかったですー」 「そりゃよかったね…ちび、お前カバンに何入ってるんだ? なんか硬いけど…」 いつもと違う手触りを不審に思ったオラトリオはちびに聞いてみた。するとちびはふっと軽く口元を上げた。 「いやですよ、お兄さん。今日はバレンタインじゃないですかー。幼稚園でチョコをみんなもらったんですよ」 「ほー、最近の幼稚園はそんなことするんだねー…」 うんうんと納得しかけたオラトリオはふと足を止める。 (ん? 今日はバレンタイン…?) オラトリオはいろんなことを思い出して背中と額にうっすらと汗をかき始めた。 「どうしたんですかぁ?」 「ちび…今日は2月14日で間違いないな?」 「そうですよ」 「昨日の夜、もしかしてシグナルはチョコレートを作ってたか?」 「ぼくを寝かせてから作ってましたよ」 それだけ聞くとオラトリオは猛ダッシュして家に戻った。慌ててキッチンに駆け込むと冷蔵庫の前でドアを開けたままケーキクーラーを持って愕然としているシグナルに出会った。 「し、しぐなるちゃん…」 「…食べちゃったの?」 シグナルの顔からあらゆる表情が消えていた。そんな彼女の横にちびがとたとたと駆け寄る。 「あー、シグナルちゃんのチョコが一個もないですー!! ひどいですー、ぼくも楽しみにしてたのに〜〜」 「ちびちゃんは食べてないのよね?」 ちびはしっかり頷いた。 「あい、今日ぼくはオラトリオお兄さんが忙しいのでオラクルお兄さんのおうちにいました。ぼくは食べてないです。それにパルスお兄さんもシグナルちゃんが作ったチョコを見ているわけですからパルスお兄さんじゃないです」 「そう…」 シグナルはケーキクーラーをそっとテーブルの上に置くと今度は大声を上げて泣き出した。 「うわ〜〜〜〜〜ん」 「ああん、シグナルちゃん、泣かないでください」 「だって、だってぇ…」 ちびがひょいと背伸びしてシグナルの頬を撫でる。こぼれた涙がちびの小さな手を湿らせた。 「シグナルちゃんが泣くとぼくも悲しいです…」 そういうとちびもえぐえぐと泣き出した。シグナルはちびにとって一番近い兄姉で、よく遊んでくれるしおやつも作ってくれるし、抱っこもしてくれる。そんな彼女が悲しいと自分も悲しいのだ。それにおやつだからと言われていたチョコがなくなって悲しさは倍増だ。 「うえ〜〜〜〜〜〜ん」 「うわ〜〜〜〜〜〜ん」 姉弟揃って泣き出したところでオラトリオがおろおろとシグナルの髪を撫でようとした。 「シグナルちゃん…」 「触らないでよ、バカっ!!」 シグナルはオラトリオの手をものすごい力で跳ね除けた。オラトリオはびっくりして手を引っ込めた。 「オラトリオが全部食べちゃったのね!?」 「悪かったよ、兄ちゃんが手伝ってやるから作り直そう、な?」 「もう間に合わないもん、デートは5時からなのに…」 時計の針はもう4時半を過ぎていた。今から作っていたのでは到底間に合わない。 「じゃ、じゃあお金あげるからどこかで買っていったら?」 「毎年手作りだもん…うわあああああああ」 シグナルは勢いよく立ち上がるとそのまま猛ダッシュで家を出た。 「シグナルちゃん!?」 「オラトリオなんか大っ嫌い!!」 コートを引っつかんでシグナルは飛び出していった。残されたオラトリオは為すすべなくシグナルの背中を見送っていた。 「オラトリオお兄さん」 「ん?」 「ぼくも恨んでます。シグナルちゃんのケーキ、ぼくも食べたかったです…」 そう言い残すとちびはケッと口元を歪めて立ち去った。ひとり残されたオラトリオはそのまま玄関にへたり込んでしまった。 駅前5時20分。 コードはいつもの場所でシグナルを待っていた。彼女が数分遅れてくるのはご愛嬌、しかし今日は遅れすぎた。何か突発的なトラブルで遅れるときは必ず連絡を入れてくるのに今日に限って携帯電話も通じない。 画面を覗き込んでみると時刻表示がまた1分動いた。 「何をしているんだ?」 自宅にかけてみても誰も出ない。 そうこうしているうちにようやくコードの電話が鳴った。相手はエララだ。 「どうした、エララ。今日はみな家を開けるからお前は音井でちびと一緒に遊ぶんじゃなかったのか?」 『それが、シグナルさんがいなくなってしまわれて…』 「シグナルがいなくなっただと?」 『はい、家を飛び出してしまわれて。お兄様のところにいらっしゃっていないかと思って電話したんですけれど…』 コードはきょろきょろと周囲を見渡した。が、あんなに目立つはずのシグナルはどこにも見当たらなかった。 「いや、おらんが…一体何があったんだ?」 『それが…オラトリオさんがシグナルさんが作られたチョコを食べてしまわれたとかで…』 それから電話の向こうでごそごそと音がした。電話の主が変わったようだ。 『コードお兄さん、シグナルちゃんを探してあげてくださいです』 「ん、まあそういうことなら探すが…」 それからコードはエララと二言三言話をすると電話を切ってポケットに仕舞いこんだ。そしてつっとその場を離れる。 「あのバカ…」 コードは少し早足でシグナルを探しに出た。いや、探すというよりも彼女がいる場所に向かっていると言ったほうが正しい。 きっとあの場所にいる。 コードは確信を持って駅前のとおりを直進し、小さな林を抱える敷地の中へと姿を消した。 そこは神社の裏で、コードは本殿の横を通り過ぎてまっすぐ参道に出た。 冬の空は寒々とした蒼で、それでも綺麗に晴れていた。しかし彼女の心は晴れていないだろう。 コードはまた少し歩調を速めて一つ目の鳥居を抜けた。そしてもうひとつの鳥居を抜ける前で小道に折れた。 その小道の途中に小さな公園がある。公園と呼ぶにはお粗末なつくりだがそれでもベンチとブランコがあった。 そのブランコがキコキコと揺れていた。シグナルだ。 彼女は遠目でも泣きはらしたと分かるほどに真っ赤な顔をしてうつむいていた。 「やっぱりここにいたのか」 シグナルはふっと顔を上げた。目の前が滲んでよく分からないのだろう、シグナルは袖で目元を拭った。 「コード…」 シグナルはゆっくり立ち上がるとコードに抱きついてまたわんわん泣き始めた。 「コードぉ…ごめんなさい、コード…」 「事情は聞いた。もう泣くな」 「でも…」 「いいから落ち着け」 コードはシグナルの背中をゆっくりと撫でて向こうのベンチに座らせた。そしてハンカチを差し出した。 シグナルは一瞬躊躇したが促されて素直に受け取った。ぐすぐすとぐずるシグナルはコードのほうを向かなかった。 「…チョコをオラトリオに食べられてしまったそうだな」 「…帰ってきたらラッピングして、持って行くつもりだったの。でも締め切り明けでわけわかんなくなったオラトリオが間違えて食べちゃったの…」 「そうか」 コードはふうと息を吐いた。 「なあ、シグナル」 「なに?」 「俺様たちの間に、今更チョコは要らんとは思わんか?」 そこでシグナルは初めてコードのほうを向き直った。コードは穏やかに微笑んでいる。 「…チョコ嫌い?」 「そうではない。いちいちチョコなんぞもらわんでもお前の気持ちはわかっとるつもりだがな」 「でも、バレンタインは女の子にとっては大事だもん」 シグナルはコードが好きで、コードもシグナルを思っている。分かりきっているのにどうしても、何度でも確認したくてたまらないという気持ちも分からないではない。 「付き合い始めて何年になる?」 「まだ半年ちょっとだよ」 シグナルの言葉にコードは顔をしかめた。確かに恋人として付き合い始めたのは半年と少し前、ちょうど夏の盛りだった。 「ん…そりゃそうだが…俺様が言いたいのはそういうことじゃなくてだな」 「分かってる。私が生まれたときからの付き合いだって言いたいんでしょう」 「わかっとるなら」 「でも不安になるんだもん。私は高校生で、コードは大学生で…離れてると怖いんだもん」 シグナルの瞳から小さな涙がまたひとつこぼれた。 「シグナル…」 「だから…だから私…」 そういってまた泣き出したシグナルを、コードは優しく抱きしめた。 「コードっ…」 「女というものは面倒だな。特にお前は」 コードはシグナルの目尻にそっと口づけた。目尻に溜まった涙を吸いあげているのが分かる。 「こうやっていちいち示してやらんと納得せんのだからな」 そのままコードの唇はシグナルのそれに触れた。 「んっ…」 彼女の体を抱きしめているコードの腕にシグナルの手が添えられている。温かな手だった。 そのコードの手がするりとシグナルの背中をなぞり、胸元までやってきた。そしてふっくらとした乳房に幾重にも重ねられた布の上から触れた。 「んっ…いやっ…」 シグナルは唇を離してコードから逃げようとした。しかしコードの腕はそれを許さなかった。シグナルを再びその腕に捕え、唇を奪い続けた。 「んっ! んんっ!!」 コードを押し返そうとシグナルは一生懸命に力を込めた。けれど唇から与えられる刺激にシグナルが耐えられるはずもなく、また新しい涙をこぼし始めた。コードの手はするすると乳房から下に降りていく。 「んっ…だめっ、いやっ…」 「忘れるな、シグナル」 「何を…?」 ようやく解放されたシグナルは少し呆けながらコードを見つめていた。目の前のコードは少し意地悪そうに笑っている。 「お前は一生俺様のものだ、生まれたときからな。そして俺様も」 耳元で囁かれた言葉に、シグナルは口元を覆った。 「また泣いて。もういい加減に泣き止め」 「無理だよ…」 コードはシグナルを抱きしめて再びその背中を撫でた。 生まれたときからずっとあなたのもの 私も、そして俺様も オラトリオはコードから連絡を受けて自宅に戻ってはいたが気が気ではなくて外でずっと待っていた。 すべての原因は自分にある。ちびもコートを着込んでエララとともに姉の帰りを待っている。 「あ、あそこです、コードお兄さんと一緒です!」 ちびはエララの腕から飛び降りると小さな足でちょこまかと走り出した。 「シグナルちゃーん」 「ちびちゃん…」 ぴょんと抱きついてきた弟をしっかりと抱きとめてシグナルはその柔らかい髪を撫でた。 「心配かけてごめんね、ちびちゃん」 「もう大丈夫ですかぁ?」 「うん。またチョコレート作ってあげるね」 そういってにっこり微笑んだシグナルに、ちびもにっこり笑い返した。 そんな二人のそばを離れて、コードはつかつかとオラトリオに近づいた。 「妹は返しておくぞ」 「すんません、師匠…」 「よし、恩に着ろ。エララもいることだし、晩飯おごれ」 「わかりました」 大きなオラトリオはぺこりと頭を下げた。今度はシグナルがちびを抱いて近づいてくる。 「シグナル…本当にごめんな」 「…私も言い過ぎちゃった。ごめんね、オラトリオ」 ちびを腕に抱いたまま、シグナルはオラトリオの胸にこつんと額を当てた。オラトリオは妹をほんわりと抱きしめる。 「ごめんな」 もう一度謝るだけでいい、兄弟なんてそんなもんだ。 その日の夜はデートを中止したシグナルとコードも加わって夕飯を済ませた。 そして夕食後にシグナルはオラトリオに手伝わせて昨日作ったチョコフィナンシェを作り直した。 「材料、多めに買っておいてよかった」 「ほいほい、粉ふるいでも洗い物でもなんでも言いつけちゃってー」 「じゃあちょっと黙ってて」 「ほい」 「シグナルちゃんがんばってー」 ちびの無邪気な声にシグナルは小さくガッツポーズをしてみせた。 一時間後にチョコフィナンシェは無事に完成した。 「よかったー、ちゃんと出来たー」 「うんうん、俺もよかったよー」 そういうとシグナルはそれを皿に数個ずつ乗せ、とっておきのダージリンティーに添えて出した。 「はい、コード」 「いただこう」 コードがフィナンシェをひとつ、口に運ぶ。シグナルはドキドキしながらコードの反応を待った。 彼は数回もぐもぐと咀嚼してから飲み込んだ。 「腕を上げたな。うまいぞ」 「おいしーですぅ」 そういって両手で頬を包んだちびを抱き上げてシグナルは歓喜の声を上げ、さらにちびを振り回した。 「ちょ、シグナルちゃん、吐く…」 「きゃあ、ごめんなさい…」 笑い声に満たされながら、その日の夜は穏やかに過ぎていった。 そして翌日。 「おはようございます、エース」 「あ、エモーションさん。おはようございます」 若草色の豊かな髪をなびかせて歩くエモーションはコードの3つ子の妹のひとりで、長姉である。シグナルにとっては高校の一年先輩になる。 エモーションと並んでエララもユーロパも歩いていた。 「エララさんから聞きましたわ。バレンタイン、大変だったんですってね」 シグナルは少し照れながら頷いた。 「でもコードと一緒でしたから」 「まあ、惚気て」 「エモーションさんだってオラクルといい感じだったんでしょう?」 シグナルがそういうとエモーションは彼女の背中をバシバシ叩き始めた。 「いやですわ、エースったら」 「痛い、痛いです、エモーションさん」 シグナルの悲痛な声にエモーションははっと我に返った。 「あらあら、私としたことがごめんなさい…」 さすさすとシグナルの背中を撫でるエモーションを見つめ、エララはいつもの様に微笑み、ユーロパはそれなりの思い出に浸っていた。 学校の帰りに、シグナルは駅構内にあるショッピングモールに寄っていた。コードに借りたハンカチは洗って返すつもりだがそれとは別にやはり新しいものをと考えたのだ。 ハンカチは手頃な値段でいいものがたくさんある。 「これと似たようなものでいいかなぁ」 「何をしてるんだい?」 「にゃあああ!!」 いきなり声をかけられてシグナルはネコの様に叫んだ。声をかけたほうもまるで犯罪者のように周囲に見られていたたまれない。 「な、なんだ、オラクルか、びっくりした…」 「驚いたのはこっちだよ。こんなところで何してるんだい?」 男性向けのコーナーに女子高生がいるのは目立って仕方がない。 「あの、コードのを選んでるの…」 「バレンタインは昨日だったのに?」 「いろいろあって…」 ピンと来たのか、オラクルはそれ以上何も言わなかった。彼もシグナルの身に起こった小さな不幸を知っている。 「ハンカチを選んでるんだね。いいよ、見立ててあげるよ」 「わあ、助かっちゃう。ありがとう、オラクル」 シグナルの笑顔が花の様に開く。オラクルはにっこり笑って数枚のハンカチを見立てた。その中からシグナルは一枚選んで購入した。 「ありがとう、オラクル」 「コード、喜んでくれるといいね」 「うん!」 二人の上で電車が流れる音がした。廊下の先に改札がある。シグナルの目はその中の一人を捕えていた。 「あ、コードだ。ごめんなさい、オラクル、またね」 「うん、頑張ってね」 「うん!」 そういって手を振りながら走っていくシグナルを見送ってオラクルはふうと息をついた。 「これでいいのかい、エモーション」 「ええ。完璧ですわ、オラクル様」 オラクルの後ろからエモーションがひょいと顔を出した。 「エースのことですからお兄様に新しいハンカチを買うのは分かっておりましたもの」 「随分とシグナルにご執心だね」 「あら、オラクル様。妬いてらっしゃいますの?」 エモーションはそっとオラクルの手をとった。絡めた指先は互いに離すまいと握られている。 「まさか。エモーションにとってシグナルは可愛い妹なんだろう? 妹に妬いたりしないよ」 そういうとオラクルは周囲を確認して、そっとエモーションに口づけた。 「コードぉ!!」 「ん? シグナルじゃないか。何をしとるんだ、こんなところで」 「学校の帰りなの。よかった、コードに会えて」 シグナルはごそごそとカバンの中を漁った。 「昨日借りたハンカチ、すぐに洗ってアイロンかけたの。それと、これも」 シグナルは小さな包みとともにコードのハンカチを差し出した。 「なんだ、そこまでせんでもいいのに。まあ、ありがたくいただいておこう」 コードはちゃんとシグナルの気持ちを受け取ってくれた。それが嬉しくてシグナルは満面の笑みを見せた。 「時間があるならどうだ、その辺で茶でも飲むか」 「うん」 並んで歩く二人はまだ少し遠い春を先取りするかのように幸せそうだった。 きっと幸せがあるんだと信じているから 歩いていける きっとあなたといられるんだと信じているから 生きていける 連続した不幸の後には幸福が連鎖する ≪終≫ ≪くっはーむっはー≫ 書いている途中で何度も叫んだ言葉が今回のあとがきタイトルwww 『TS』のSSを長いことやってて(『TS』のSSは2001年から趣味でやってました)バレンタインネタは初めて書きましたよ、本当に。 えーっと。カスリエロ。ちょっとかすってみた。IFのほうではまだキスしかしてないwwww とりあえず頑張れ。がんばれコーシグ。そして俺もな! _| ̄|○ |