運命の花〜春霞む君のかくも美しきこと 咲き誇れ乙女たち 心はいつも恋のもの 幾千年の時を経ようとも そは普遍の真理なり その日、音井信彦は大叔父である音井信之助の待つ小さな町にやってきた。さる大藩のはずれにあるこの宿場町で待っていれば迎えに来てくれるというのでずっと待っていた。約4時間はざっと待っていたに違いない。茶店のおばあさんに勧められて何度もお茶やお団子を食べたのだが大叔父、あるいは使いの者は一向に現れない。おばあさんもこの少年が気の毒になってきたのか、行く先があるなら番屋で聞いてみるといいと勧めてくれたのでそこに行ってみることにした。 大叔父の家はすぐに知れた。 宿場町から歩いて一時、現在の時間の感覚に直せば2時間のところにある大きな屋敷だった。 「ほわー…」 大きく口を開けて門前に立っていると中から慌てて信之助が姿を見せた。 「あ、じいちゃん」 「おお、信彦。すまんかったのう。仲間と相撲を見物に行っておってな。すっかり忘れておったわい」 「ずーっと待ってたんだぜー?」 「すまんすまん」 信之助は信彦を拝むようにして謝った。信彦は信之助の兄の孫であるが、その兄がまだ生まれて間もない信彦の成長を待たずに死んでしまったために祖父の代わりもしてきた。 「とりあえず今日からお世話になります」 「父上と母上は達者かい?」 信之助は自分で足をすすぐ水の入った桶を運びながら問うた。当然、信彦の父は自分の甥で、その嫁は義理の姪になる。 信彦の両親は江戸表に出向していて、信彦だけが国許に残ることになった。江戸表と国許を何度も往復する仕事なのでそれでは信彦が落ち着けないだろうという両親の心遣いだった。 「そういえばじいちゃん、シグナルたちは?」 「オラトリオもパルスも勤めに出とるよ。ラヴェンダーはお前さんが生まれたころに嫁に行ったしのう。シグナルならもうすぐ使いから戻ってこようて」 「早く会いたいなぁ。俺が小さいころに会ったきりだもん」 「ほう、覚えておるかね」 信之助に言葉に信彦は元気よく頷いた。 「うん! シグナルは元気?」 「ああ、元気過ぎて困っとるくらいじゃよ」 そういって信之助が明るくも頭を抱えたとき、玄関先で明るい声が聞こえてきた。 「お、帰ってきたようじゃのう」 「俺、迎えに行ってくるよ」 信彦は足袋の音もぱたぱたと玄関に向かって急ぎ足で歩いた。 「ただいま戻りました」 「お帰り! シグナル!!」 紫の髪も鮮やかなシグナルはふと顔を上げる。一瞬誰だかよくわからなかったが、その顔立ちからすぐに彼という人物を理解できた。 「信彦! 信彦じゃない! 大きくなったんだね!」 「シグナルはすっかりお嬢様らしくなったねぇ」 「もう、うまいこというんだから」 そういって二人は笑いあった。シグナルは使いの報告の為に父の前に座し、一通りの言上を述べた。それからは先ほどの歓談の続きとなった。 「あれ、父様はお菓子も出してくれなかったの?」 「ううん、待ってる間にお団子たくさん食べちゃって」 「…じゃあ迎えに行かなかったのね。今日来るんだって知ってたら私が迎えに行こうと思ってたのに」 「いいんだ、ここまでちゃんと来れたし」 その話が出るたびに信之助は肩身の狭い思いをすることとなるが致し方ない。 「シグナルちゃん?」 ふいに廊下からか細い声が聞こえてきて、シグナルはそっと席を立った。 障子を開けると小さな人影が見えた。 「あら、起きちゃった? ちょうどいいからちびちゃんもご挨拶してね」 「は〜い」 寝ぼけたままその子供はシグナルに抱かれて部屋に入ってきた。見ればシグナルと同じ紫色の髪と目をしている。信彦は軽い驚嘆を持ってその子を見つめた。 そんな信彦にシグナルはにっこり笑いかけた。 「末っ子で妹のミラっていうの。みんなはちびちゃんって呼んでるんだよ」 「信彦ぉ?」 ミラはまだ眠いのか目をこすりながらそれでもシグナルの膝の上に鎮座した。 「ちっさいシグナルだね」 シグナルは幼いころの自分に似ていると、長兄が言ったのがきっかけで彼女のあだ名が決まったのだと笑った。 「だからちびちゃんって言うのよ」 ご挨拶をと促されて、ちびはようやくそのパッチリした瞳を開いた。 「…こんにちわぁ、信彦ぉ」 「こんにちわ、ちび」 3歳になったばかりのちびに11歳の信彦はより近い兄として映ったらしい、二人はすぐに仲良くなった。 やがて外出していた詩織や出仕していたオラトリオやパルスも戻ってきて、その夜は信彦を迎えて賑やかな夕餉となった。 シグナルから自分の部屋へと案内されてようやく落ち着いた信彦は布団の上に行儀悪く寝そべった。 「はーあ。ここは大人数で楽しいなぁ」 一人っ子の信彦にとって一気に兄姉が増えたようでなかなか楽しい。オラトリオに学問を見てもらい、パルスに剣術を習う。そしてシグナルの作ってくれるご飯を食べる。そして小さな妹も出来た。 両親との暮らしがいやというわけではなかったけれど、仕事で忙しい父・正信や、その父を支える母の姿を見てどうしてもわがままは言えなかった。 だから離れて暮らすことになっても特に寂しさなんて感じなかった。 枕を抱えてころんと仰向けになる。目の前には何故か鮮やかな紫が広がっていた。 「うわっ」 「信彦、起きたですか?」 いつの間に入ってきたのか、傍らにはちびがにっこり笑って立っていた。 「ちび、いつの間に。いったいどうしたの?」 「今日は信彦と一緒に寝たいんです。ダメですか?」 「俺はかまわないけど…」 「やった」 嬉しそうに抱きついてきたちびをよしよしと撫でていると廊下からぱたぱたと足音が聞こえた。 シグナルだ、彼女は信彦に断ってから障子を開け、それからため息をついた。 「やっぱりここにいた。ちびちゃん、今日は信彦お兄ちゃん疲れてるから明日の夜から一緒に寝ようって言ったじゃない」 引き剥がそうとするシグナルに、ちびは渾身の力で信彦にしがみついた。 「離れなさいっ、ちびちゃん!」 「いーやーでーすー」 「強情なんだから」 「シグナルちゃんに似たんですー」 姉妹の喧嘩に信彦は困惑しつつもちびをそっと抱きしめた。 「俺なら大丈夫だよ、シグナル」 「でも信彦…」 「一緒に寝ような、ちび」 「うわーいですぅ」 ちびは信彦の胸に頭をぐりぐりと押し付けた。 「痛いよ、ちび」 「信彦、大好きですよ」 「くすぐったいったら、ちび」 そんなふたりを見つめながら、シグナルは仕方ないとばかりため息をついた。 「しょうがないなー、もー。ちびちゃん、信彦に迷惑かけちゃダメだよ」 「わかってますよー、布団を剥いだり蹴っ飛ばしたりおねしょしたりしません!」 ちびはハイっと元気よく手を上げて宣誓した。信彦の膝の上でちびは幸せそうに笑う。 「じゃあ信彦、迷惑だろうけどお願いね」 「うん。じゃあちび、寝よっか」 「はーい」 信彦がちびと一緒に布団にもぐるとシグナルはふっと灯りを消した。 「おやすみなさい」 「はい、おやすみなさい」 二人の目には廊下にいるシグナルの燭台の灯りしか見えなかった。 翌朝、オラトリオとパルスはいつものように出仕し、シグナルは母・詩織とともに家のことを片付けた。 信彦はその間ちびと遊んでいる。 「信彦、今日はシグナルちゃんが町を案内してあげるって言ってましたね」 「うん。うんと小さい時に来ただけだから町のことまではあんまり覚えてないんだ」 ちびは空色の着物の裾を引きずるようにして信彦に膝にたどり着いた。 「お待たせ。さ、ちびちゃんはお着替えして、髪も結ってあげようね」 「早くしてください、信彦とお出かけしたいですぅ」 「分かったから動かないでね」 「あい!」 そういうとシグナルはちびの着ていた空色の着物をきちんと着付け、鶸色の帯を締めてやった。後ろは可愛く蝶々に仕立てる。 それから紫色の髪も耳元に伸びた部分を今度は鮮やかな山吹色の組みひもで結わえた。それから手櫛で前髪をちょいちょいと整えてやる。 「はい、出来たよ」 「うわーい、ありがとです、シグナルちゃん」 ちびはくるんと回って、それからきゃっきゃと声を上げて喜んだ。 「早く行きましょう、シグナルちゃん」 「そうね。みんな仕事に出たし。母様も用意できたみたいだし」 そんなわけで留守を女中頭にまかせて、シグナルと詩織、ちびと信彦の4人は町に出た。 武家屋敷が並ぶとおりを少しいくとすぐに町に出る。様々なものを商う人の群れで町は活気に溢れていた。 「うちの藩は街道の要所だからね。物資の交流が盛んなんだよ」 「へぇ」 江戸で生まれ育った信彦にとっては少し物足りなくも感じたが、それでもどこか懐かしいようなこの町並みに感歎を隠せないでいる。 「どう? お江戸ほどじゃないとは思うけど」 「どこも同じだよ。江戸では見ないものだってあるね」 「気に入ってもらえたなら嬉しいよ」 人ごみにまぎれないようにちびを抱き上げたシグナルはにっこり笑った。 信彦もにっこり笑い返した。そんあとき、ふと周囲を見るとあちこちの商家から人が出てきては詩織とシグナルに挨拶をしている。 中にはちびにお菓子をくれる人もある。 信彦が不審がっているとシグナルがそっと教えてくれた。 「なんだか知らないけど歩いてるだけでこうなんだよ。父様が城代家老だったせいかもしれないんだけど」 「え…」 信彦は大叔父が城代家老を勤めていたことなど全く知らなかった。それも無理もないことではある。信彦が生まれて間もないころ、信之助は周囲が引き止めるのを難なく制して引退を決め込んだのだ。理由は趣味の相撲観戦をしたいから、というものである。その手腕を手放すことを惜しんだ藩主がだったら気が向いた時だけ登城して執務を取ってほしいということで新たによろず相談所という役職を設けて、その長官に信之助を任命したのである。 さらにシグナルは城下でも屈指の美人として名高い。彼女が歩いているというだけで騒ぎになるし、中には見惚れて堀にはまる者までいるという。 そんな彼女も16歳、そろそろ確たる身分の武家へと嫁がなければならない。 ところがシグナル自身は実にのんびりと構えていた。どうせ親が持ってくる縁談を素直に聞かなければならないのがこの時代の風習だ。そう思って微妙な諦めも見せていたのだが、両親は何も言ってこないので少し不安には感じているのだと言った。 「あら、シグナルさん?」 「エララさん!」 角からふっと姿を見せた亜麻色の髪の女性を、信彦はほうと見つめていた。シグナルとはまた違った雰囲気の美しい女性である。 エララと呼ばれたその人は信彦ににこりと笑いかけた。 「こんにちわ、音井の奥様、シグナルさん。ミラさんも」 「こんにちわ、エララさん。あ、紹介しますね。こちらは親戚の音井信彦。私たちのいとこの子なんです」 互いに紹介され、ふたりは丁寧に会釈した。 「はじめまして、信彦さん。柏尾家の次女、エララと申します」 「音井信彦です」 「エララさん、今日はどちらに?」 「今日はおじい様の祥月命日ですのでお寺へ」 ふとエララの顔色が翳ったのを、信彦は見逃さなかった。しかしシグナルも詩織も何も言わなかったので黙っていた。 「では、失礼いたします」 「こちらこそ」 エララが門前のほうへ行くのを見届けて、詩織がふうと息をついた。 「もう11年になるのね」 「そうだね」 詩織の言葉に同調したシグナルがちびをぎゅっと抱きしめた。 あとで聞かされた話だが、柏尾家は当時江戸に居を構える家で、エララは4人兄妹の3番目だという。兄のコードは柏尾家の嫡男として父とともに江戸に出向している。姉のエモーションは同じく江戸でオラクルという藩内きっての学者のもとに嫁いだ。 そして11年前、まだ5歳だった妹のユーロパが神隠しに会い、行方不明になっているのだという。 一家は必死で探したのだがユーロパは見つからなかった。エララはひとつ年下の妹はまだどこかで生きていると信じ、毎月彼女が行方不明になった日には神社仏閣への参詣を欠かさないでいる。 「かわいそうだね」 「生きているって証でもあればいいんだけど…」 当時5歳ということは今はシグナルと同じ16歳になっているはずだ。 一行は通りかかった神社に参詣して、ユーロパの無事とエララのことを祈った。 それから半年ほど過ぎたある日、エララがいつものように琴の稽古から戻る道すがら、一組の夫婦に声をかけられた。 「すみません」 「はい? なんで…しょう」 エララは一瞬驚いたが、呆けているのも失礼なのでそのまま続けた。 「道をお伺いしたいのです。城代家老だった音井信之助様の邸宅はどちらでしょう?」 「それでしたら私の家の近くです。ご案内いたしましょうか?」 「そうしていただけると助かります」 見れば旅装束のまだ年若い侍のようだったがどちらかというと学者風でもあった。 「みのるさん、こちらのお嬢さんが案内してくださるそうですよ」 「まあ、それはよかったわ」 夫婦揃ってエララのあとを着いてきた。音井家の門前にはシグナルと信彦がいて、買い物から戻るまさにその瞬間だったようだ。 エララはほっとして彼女らに声をかけた。 「シグナルさん、信彦さん!」 その優しい声に二人は同時に顔を上げる。そして一瞬声を失ったかのように固まっていた。 「あの…」 「親父!? 母さんまで!?」 「うそっ、若先生ですか!?」 「あはは。僕が君たちの勉強を見てたのは随分前のことじゃないか。若先生はやめてくれよ」 その男はけらけら笑いながら手を上下に振った。そこに出仕していたパルスも帰ってきた。その顔は引きつっている。 「あら、パルス。お帰りなさい」 「あ、ああ、今戻った…」 「おーや、パルス、久しぶりだねぇ」 若先生と呼ばれた男は信彦の父親の正信だ。となりにいるのは妻のみのるである。みのるは信彦をぎゅっと抱きしめた。 「信彦、元気だった? ちゃんと食べてる?」 「か、母さん…」 信彦は突然現れた母親に困惑しつつも久しぶりに会えたことが嬉しいようだ。離れて暮らしても平気だなんていってもやはり11歳の少年なのだ。 そこへ門前の騒ぎを聞きつけた信之助が詩織とともにやってきた。 「こりゃ! 正信!!」 「あー、伯父さん」 「来るなら来るで手紙なり飛脚なり寄越さんかい!」 信之助が詰め寄ると正信はあははと笑って手を後ろにやった。 「いやー、出したつもりですっかり忘れてましたぁ」 正信のあっけらかんとした態度に信之助は呆れて声も出なかった。長旅の疲れを労ったのは妻の詩織であった。 「シグナルさんの従兄弟なんですよね。びっくりしました。そっくりなんですね」 「似ているのは私とパルスだけなんですよ。ラヴェンダーもオラトリオもぜんぜん似てないんですけどね」 そう言って笑うシグナルの横でパルスだけがまだ渋い顔。 「あれ、どうしたの?」 「いや、私は昔から若先生が苦手でな」 「へー、そうだったの」 突然、パルスがびくっと背中を反らした。いつの間にか正信がパルスの後ろに立っていたのだ。正信は彼の首筋を掴むとずるずると引きずって邸内に連れて行った。その姿をシグナルとエララは呆然と見送っていた。 「いやね、仕事で帰ってきたんですよ。今度藩内に新しい役所を作ろうって企画があるでしょう? 僕が担当するんですよ」 「ほう、そうかね」 相談役である信之助の耳にもそれは届いている。関所を抱えるこの藩において物資や人員の流通をもっと良くしようとして設けられる役所を新設しようとする話がある。それを誰が担当するのかまでは決まっていなかった。 「カルマが先頭を切っているんですよ」 「なんと、カルマがかい」 正信はゆっくりと頷いた。21歳になるカルマは次代の藩主と目されている人物である。正信はほんの僅かではあったが幼少のカルマに仕えていたことがあった。そのせいもあるのか、カルマは正信に今度の件を一緒にやりたいと言ってきたのだという。 「まあ、御下命だからしっかりやりなさい」 「はい。つきましてはしばらくこちらにご厄介になりたいな、と」 正信の言葉に信之助は頷きかけてはたと止まった。 「正信、お前さんはちゃんと家があるじゃないか」 「いえ、こっちのほうが近いんで。信彦もいますし」 からからと無邪気な笑顔を見せる正信に、信之助はやれやれとため息をついた。 翌日から音井家に二人の住人が増えた。信彦はいつになく嬉しそうに暮らしている。 かわってパルスがびくびくしながら暮らし始めた。 「ねぇ、オラトリオ。パルスどうしちゃったのかな?」 「なんだ、お前覚えてないのか?」 誰よりも大柄な長兄オラトリオが笑いながら教えてくれたのは小さいころの話だった。パルスがまだ5歳だったというからシグナルはまだよちよち歩きである。そのころ正信は実家の都合で叔父である信之助の屋敷にいたのだが、そのときパルスは手習いを始めたばかりだったのである。 秀才の誉れ高かった正信がパルスやシグナルの面倒を見てくれた。シグナルは何もわからずにただお兄ちゃんが増えたかのようになついていたのだがパルスはそうではなかったらしい。学問を教わるようになってからはそれがだんだん重圧になってきたようだ。 その甲斐あってかパルスは優秀な成績を収めて、今は奉行所で働いている。 「よくわかんない…」 「まあ男にはいろいろあるのさ」 そういってオラトリオはけたけたと笑った。 「オラトリオもいろいろあって奥さんもらわないの?」 「そういうこと。俺の理想はシグナルちゃんみたいな子だもん。そういうシグナルちゃんもそろそろお嫁に行く話があるころだよな」 「私もいいの。剣一本で生きていくんだもん」 これをきいたオラトリオはたははと苦笑する。庭で素振りをしていたオラトリオのそばにいた5歳のシグナルが剣に興味を持ち、それを面白がって教えたのがいけなかった。今でこそきちんと髪を結っているが13歳になるまで若武者ふうに結い、着物も男の子の物をつけていた。信之助はさんざんたしなめたのだが母である詩織がそのうち飽きるだろうからとそのままにさせてもいた。 そんなこんなでシグナルの剣の腕前は藩内の剣術道場で師範代を勤めるほどになっている。 「女の子なんだから小太刀か薙刀を覚えればよかったな」 「薙刀も出来るよ。やる?」 「嫁入り前の妹に何するんだって叱られそうだよ」 オラトリオはシグナルの頭をぽんぽんと軽くはたきながら門の外に出た。 「行ってらっしゃい」 「いってきまーす」 オラトリオの姿が角の路地へ消えたのを見届けてシグナルは門の中に消えた。 このときはまだ誰もあんなことが起ころうとは思いもしなかったのである。 ここで舞台は江戸へ移る。 藩の上屋敷に出仕していた柏尾家の長男、コードが一時的に帰国することになった。 表向きは国許に裁決を仰ぐべき事柄があるためだが、本当は婚儀のためである。 今年20歳になったコードには国許に許婚がいる。しかし江戸で生まれて江戸で育ったコードはその許婚という女性の顔を見たことがなかった。4歳年下だということは今16歳、適齢期というやつだ。本当はもう少しはやく祝言を挙げても良かったのだが相手がまだ幼いことを考えてよい時期が来るのを待っていたのである。 荷物をまとめているコードのところに妹のエモーションとその夫であるオラクルがやってきた。 「お兄様、お手伝いに参りました」 「エレクトラ。わざわざ出てこんでもよかったのに。オラクルもすまんな」 「いいんだよ、暇だから」 コードに挨拶されて、オラクルはにっこり笑った。彼もまたシグナルたちのいとこになる。母・詩織の甥に当るのだ。 その風貌はと言えばオラトリオと酷似しているか性格は全く別、オラクルは至って穏やかで日長一日縁側で書物さえ読んでいられれば幸せだという。エモーションもその横でお茶でも飲みながらのんびりしている、そんな夫婦なのだ。結婚してまだ2年ほどだが子供はまだいない。 「荷物をまとめるといっても向こうでも揃えておるだろうからこちらでは大した物もなくてな」 「…エララさんは、お元気でいるでしょうか」 ふと、エモーションが呟いた。コードもオラクルも押し黙ってしまう。 末の妹ユーロパが神隠しにあった後、毎日自分のせいだと泣きじゃくっていたエララ。 ユーロパはエララと一緒に町に出ていて行方不明になっているのだ。 誰も彼女のせいではないのだと慰めもしたのだが、彼女はずっとずっと自分を責め続けた。そんなエララを気遣った両親が江戸では辛かろうと、彼女だけを国許に帰した。時より便りが来て元気そうにしているのがわかるのだが、会うのは久しぶりである。 「エララもそろそろ嫁入りさせねばならんしな。とにかく国許に帰ってみよう」 「お兄様の許婚という方も可愛い方だといいですね」 エモーションの言葉に、今度はコードがぐっと押し黙る。 嫁取りなどめんどくさいと言っていたのだがそろそろ年貢を納めなければならなくなった。 「知らなかったよ。コードに許婚がいたの」 「ええ。国許で一二を争う可愛いお嬢様だとか」 「ふん、可愛いだけで俺様の奥が務まるかな」 エモーションとオラクルが忍び笑う中、コードは数名の中間とともに江戸を発った。 その後を追うようにして一組の男女もまた、江戸を離れていた。 「正信さん、よく来てくれました」 「元気そうだね、カルマ」 周囲に気の置ける人間ばかりになるとカルマも正信も砕けた話し方になった。身分に隔たりが出来てもふたりの友情は変わらないでいる。 「藩が抱えている関所を利用して物資や人員の流通をよくして利益を上げる、いい案だと思うよ」 「そこに正信さんの江戸での手腕を買ったんですよ。蔵屋敷で米をきちんと管理してかつ我が藩の赤字までなくしたのはあなたなんですから、期待していますよ」 「とりあえず何からはじめようか」 「まずは宿場町の様子を見たいと思います。それと街道も。流通の基本はやはり道ですよ」 「そうだね、じゃあ護衛にパルスを連れて行こう。君の権限で奉行所から呼べるよね?」 「ええ」 カルマと正信は顔を見合わせてくすくす笑った。 その頃シグナルは週に一度通っている剣術道場から自宅へと戻る最中だった。防具は道場へ置いておき、竹刀だけをしっかりと抱いて町屋から武家屋敷へと抜ける道を歩いていた。 家に戻ったら一度着物を着替えて、それから夕飯の支度を手伝わなくてはならない。 「あ、そうだ。ちびちゃんの着物の裾も下ろしてあげなくちゃ」 あまった布でお人形の着物やお手玉や髪飾りをつくってあげるとちびはひどく喜んでくれた。その笑顔を思い出してシグナルは小さく笑った。 そこへふと、悲鳴が聞こえた。 シグナルが足早に現場に向かうと野菜売りの女の子が数人の男に囲まれていた。なにか因縁をつけられているらしい。 女の子はひどく怯えて泣きそうになっていた。シグナルはしゅるしゅると竹刀を包んでいた袋の紐を解く。 「ちょっと、あなたたち」 シグナルが声をかけると男たちはばっと振り向いた。そして野菜売りの女の子よりもいい獲物が転がり込んできたとばかりにシグナルを舐めまわすかのように見た。 「なんだ、お嬢さんが俺たちの相手してくれるっていうのかい?」 いやらしい笑いを浮かべて近寄ってくる男の一人を、シグナルは持っていた竹刀で打ち据えた。 男は脳天を押さえて転がった。すると他の男が匕首を抜いてきた。 「やろう!」 「やっちまえ!」 竹刀を構えるシグナルに、男たちが迫る。しかしその切っ先がシグナルに迫るより早く、男たちは硬直した。 彼女と男たちの間に一人の若い侍が入り込んでいた。白刃がきらりと光を放つ。その刀をそっと振って鞘に戻す。 チン、と金属の触れ合う音がしたとたん、男たちの着物がぱらりと肌蹴た。 帯を切っていたのだ、しかも瞬時に二人分も。男たちは突然の出来事に何も出来ずに着物の前をあわせてほうほうの態で去っていった。 シグナルはその侍を呆然と眺めていた。 「怪我はないか?」 凛としたその声に、シグナルははっとしてはいと返事をした。青年はくるりと振り向いてそれから小さく笑った。 よく映える桜色の髪に深い琥珀の瞳をしていた。 「正義漢も結構だが気をつけないといつか怪我をするぞ」 「こう見えても、師範代なんですけど」 シグナルがそういうとその青年はほうと声を上げた。 「しかし真剣に向かったことはおろか、握ったこともないな」 「そ、それは…」 確かにシグナルがやっているのは竹刀剣術で、真剣は握らせてもらったことはない。しかし一大事ともなれば握る覚悟は出来ている。シグナルはぎゅっと拳を握った。 「まあいい。それより柏尾の家を知らないか。このあたりだと聞いたんだが」 「それなら、ご案内します。近くですから」 「すまんな」 シグナルは桜色の青年より少し後ろを歩いた。前に出るでもなく、並ぶでもなく。 真っ白な海鼠塀の角を曲がるとそこが柏尾家だった。 「こちらです」 「すまないな。どうも国許はよくわからん」 「ということは江戸から?」 「ああ、昨日な」 青年は礼を言うとそのまま門内に姿を消した。それを見届けてシグナルは門を見上げた。 (じゃああれがエララさんのお兄さん…なのかな) シグナルはそっと門を離れ、そこから数分歩いたところにある自宅へと戻った。 「お帰りなさいませ、お兄様。御領内はいかがでしたか?」 「ああ、随分景色のいいところだな。気候も良いようだ」 あの日のことを忘れてはいまいが、エララも随分と元気そうで安心した。コードは腰の大小を抜くとそのままエララに渡した。彼女には多少重いのか、それでもしっかりと抱いていた。 「そうだ、面白い女に会ったぞ」 「面白い女性、ですか?」 床の間を背にどっかと腰を下ろしたコードは出てきた茶を飲んだ。 「ああ、ついそこでな。ならず者に竹刀で立ち向かっていてな。髪が藤色だったのだが…」 そう言われたエララはまあと声を上げた。コードが顔を上げて反応する。 「なんだ、知っているのか」 「知っているも何もその方は私の友人で…先代の城代家老でいらした音井様の…」 言われてコードは無作法にも飲んでいたお茶を吹いた。そして激しくむせた。エララは慌てて懐紙を取り出し、コードに近寄る。 「大丈夫ですか、お兄様」 背中をさすってくれるエララをそっと制し、コードはゆっくりと起き上がった。 「音井の…ということはあれが」 「お兄様の許婚の、シグナルさんです」 むせていたコードがようやく落ち着きを取り戻して座りなおした。エララは茶を入れ直してくると席を立つ。 一人になったコードは脇息に肘をついて先ほどの出来事を思い出していた。 「あれが俺様の…」 かなりのおてんばのようだが、器量はまあ悪くない。あとはどんな女性なのかを知りたいと、コードはそれだけを考えていた。 一方のシグナルはといえばそれがコードであると聞かされてもよもや自分の許婚だとは知らなかった。 誰も何も言わなかったからである。 それでもシグナルはちびの着物を縫ってあげながら今日のことをぼおっと思い出していた。 華やかな桜色の髪に深い琥珀の瞳はまるで絵から抜け出してきたようだった。ただの優男ではなく、剣の腕も立つようだ。 瞬時に男二人の着物を裂いた太刀筋は見事としか言いようがない。やはり江戸で修業をするのは違うものだと、ぼんやり考えていた。 あんまりぼんやりしていたので、ちびに呼ばれるまで全く気がつかなかったのである。 「シグナルちゃん、シグナルちゃんたら!」 「あっ、ああ、ああ。なに? ちびちゃん」 「なにじゃないですよー、なにしてるんですか? もう糸はなくなってるのに針だけ刺して」 「へっ?」 見れば布の途中で糸が抜けてぶらーんとぶら下がっている。布には針の痕だけが残っていた。 「やだっ、私ったら一体何を…」 シグナルは急いで糸を止め、新たな糸を継いで縫い始めた。 糸と糸は確実に人々を結び付けていた。 翌日、カルマと正信は街道筋を歩いていた。背後にはパルスをはじめとした数人の護衛が着いている。 「いい天気でよかったですね」 「そうだねぇ。街道ってここだけだっけ?」 「正信さんは江戸が長いですからねぇ。街道はもう一本、海沿いにもあります」 「じゃあそっちも見ておこう。これからは海上交通も大事な政策点になるだろうからね」 正信がそういうとカルマはにこりと笑った。基本的に穏やかな性格なのである。カルマの指揮によって一団は山中から海のほうへと歩き始めた。 一団が去った後、一組の男女が街道を歩いていた。男のほうは黒い旅装束に身を包み、笠をかぶっていた。女のほうは白地に青い花を染めた着物を着、手足を脚袢に包んでいた。男は少し後ろを歩いていた女を気遣ってふと足を止めた。 「大丈夫かい、ユーロパ」 「ええ、大丈夫よ、アトランダム」 ユーロパと呼ばれた女性は俯きがちに歩いていたがアトランダムに声をかけられるとふっと菫の笑顔に戻った。 けれど少し辛そうにしている彼女を見て、アトランダムはそっと彼女の元へ歩み寄った。 「少し休もうか」 「いいの、大丈夫だから。それに私たちには…」 ユーロパがそういうとアトランダムはぐっと拳を握った。晴れ渡る澄み切った空を苦々しそうに見上げている。 「…そうだったな。しかし君の力が必要だ。ここで倒れられては困る」 「アトランダム…」 そういうと二人は草の上に腰を下ろし、竹筒に入れていた水を飲んだ。喉が潤ったせいか、ユーロパは歩きすぎて火照った体が冷えていくのを感じた。 「ありがとう、アトランダム」 ユーロパの笑顔に、アトランダムも僅かに頬を緩めた。 「私たちを救ってくださったクエーサー殿には感謝せねばなるまいな」 「ええ」 病弱でも精神障害でもなかったのに廃嫡にされ、江戸屋敷の奥深くに押し込まれたアトランダム。そんな彼に寄り添っていたのがユーロパだった。彼女もまた、親兄姉に捨てられて一人彷徨っていたところを拾われ、アトランダムのそばに仕えることとなった。 そんな二人と唯一理解してくれたのがクエーサーだった。藩の重臣だった彼は二人を哀れに思い、せめてもと藩への帰参に尽力してくれた。 そうしてふたり連れ立って国許へ戻る途中なのだ。 アトランダムの心には自分を貶めた者たちへの激しい憎悪で溢れていた。ユーロパはクエーサーから自分の出自を聞かされ、自分を捨てた家族へ復讐するつもりでいた。 「アトランダム…」 「私たちの目的は同じだ、ユーロパ」 ユーロパは懐の短剣をぎゅっと握り締めた。その決意を見届けてアトランダムもしっかりと頷いた。 「さぁ、行こうか」 「はい」 差し伸べられた手をとって、ユーロパはゆっくりと立ち上がった。 この手を血に染めてでも成し遂げなければならないこと、そのために二人は歩いているのだ。 道は明るい光に満たされていたのに。 「あ」 「ああ」 武家屋敷が居並ぶ道で、シグナルはコードとばったり出くわしていた。 今日のシグナルは琴のお稽古の帰りである。竹刀ではなく、濃紫の風呂敷を抱えていた。 「あの、先日はどうも」 「ふむ、今日は竹刀を抱えてはいないのだな」 そういってコードがにやりと笑ったのが、シグナルの癪に障ったらしい。シグナルは何も言わずにコードの横を通り過ぎた。 かなり無作法な態度だがそれでも街中で喧嘩を繰り広げるよりは随分ましなのだ。 そんな彼女の後姿を見送ってコードはくすっと笑った。 (これはまた随分と気が強い…というか誇り高いというか) シグナルという女性の新しいかけらを見つけて、コードはまた少し彼女を気に入ったようだ。 一方のシグナルはといえば。 家に戻るなり襷をかけ、庭に出て竹刀を振っていた。そこに帰宅したオラトリオが現れる。 「なんだ、今日は道場の日だっけ?」 「ちがうわ、今日は琴のお稽古だったの!」 ぶんぶんと竹刀を打ち下ろす妹を見ながら、オラトリオはなんとなく彼女の機嫌が悪いことを察していた。なにかいやなことや気に入らないことがあると暴れる代わりに竹刀をめったやたらに振り回すのが彼女の不満解消法だった。 「なにがあった? シグナル」 オラトリオは草鞋を履いて庭に下りた。その手には竹刀を持っていた。 「一人で打ち込んでもつまらないだろ。相手してやるよ」 その言葉に、シグナルはぎゅっと竹刀を握りなおした。そして構えているオラトリオに打ち込んでいった。背丈も体格も違うが、シグナルの打ち込みは悪くはなかった。 「で、何があったのかな?」 「柏尾さまのところのコードに会ったの」 「ああ、江戸から戻ってきてるんだよな。それが?」 「なんだか知らないけど、私を小ばかにするの。なんか許せないっ!」 「まあそう言うなって。あの人は」 言いかけたところに、音井家の側用人が慌てて駆け込んできた。 「大殿、一大事にございます!! 正信様と二の若様が!!」 側用人の声を聞きつけた信之助と詩織が慌てて飛び出してきた。シグナルとオラトリオも急いで廊下に戻った。 「何かな」 「さあな」 襷を懐に仕舞いながら廊下を小走りに進む。 「何があったんです?」 オラトリオの顔を見た側用人はやっと口を開いた。 「海沿いの街道筋で、カルマ様とご一緒だった正信様と二の若様が何者かに襲われたよしにございます」 「な…!!」 信之助は驚愕のあまり声を失っている。口を挟んだのはオラトリオだった。 「で、カルマは?」 「はい、ご無事です」 「若先生とパルスは!?」 「双方とも軽い手傷を追われただけでご無事だそうです。今ご一行はとりあえず奉行所にお戻りになり、手当てをされているとか」 「命に別状がなくてよかったわ」 そういって胸をなでおろしたのは詩織だった。シグナルもほおっと息をついた。 「本当に良かった」 「でも一体誰が」 オラトリオの言葉に、側用人が口を開いた。 「なんでも銀色の髪に鋭い青い目をした大柄な男だったとか」 「なんだって!?」 信之助とオラトリオがほとんど同時に声を上げた。シグナルはわけもわからずに二人を見比べた。 「なに、一体どうしたの?」 オラトリオの袖に縋るその手を、彼はそっと握った。 「シグナル、しばらく外出禁止だ。ちびと信彦、それに母上も」 信之助はこっくり頷いた。詩織は信之助の言うことだからと納得しているようだが、そうはいかないのがシグナルである。 「なんで? どうして?」 ふと見上げたオラトリオの顔がこわばっていたのを見たシグナルは、そっとその手を離した。 「お前にはちゃんと理由を言わないと納得しないな。いいだろう、聞かせてやる」 音井家に走る緊張を、シグナルはひしひしと感じた。 事態を説明してくれたのは信之助だった。 今から10年ほど前に廃嫡となった嫡子が居たこと、カルマ一行を襲撃した男と容姿が似ていること。そして剣術の手練と称されたパルスに手傷を負わせるほど腕が立つこと。 「そうだったの…でも」 「お前の腕じゃ太刀打ちできないよ。わかっただろ? 大人しくしていること! いいな」 「はい…」 信之助とオラトリオの双方から釘を刺されたシグナルはふうと息をついてその座を離れた。そしてちびと信彦にも同じ事を知らせ、外出禁止を伝えた。 「つまんないです〜」 「大丈夫よ、事件が解決すれば外出も出来るようになるから」 そういってシグナルはちびの髪を撫でた。 シグナルにも事の重大さがわかっている。廃嫡になった元嫡男が国許に戻って現嫡男を強襲したというだけでも大事なのに、もしカルマに何かあれば御家の一大事になるだろう。 自分に出来ることはなさそうだと、シグナルは顔を伏せた。 しかし、この事件がシグナルの手によって解決されることなど、今は誰も――そう、シグナル自身も知る由もなかったのである。 ≪続く≫ ≪次回予告≫ 国許に戻り、カルマを襲ったアトランダム。兄の登場に悩むカルマ。 シグナルはひょんなことから事件に巻き込まれる。果たして彼女の運命は!? コードとの恋の行方は? というわけで次回『運命の花・後編』へ。 |