運命の花〜春霞む君のかくも美しきこと・中編 咲き誇れ乙女たち 心はいつも恋のもの 今こそ戦う時 そはすべて愛しき人のため 廃嫡となっていたアトランダムが現れたという知らせはあっという間に藩内に広がった。 「しかし今になって何でまた…」 「それもそうだけど、親父殿。アトランダムは江戸の上屋敷にいたんだろう? ということはだ」 オラトリオの言葉にパルスもこっくり頷いた。信之助の目が苦悩に満たされる。 「…手引きをしたものがおるということだな」 信之助は頭を抱えてふうとため息をついた。城代家老を退いても今なお問題が山積しているこの現状を憂いているのだ。今でも国家老を務めているハンプティなども事態を心配して信之助と談義を進めている。しかしカルマを襲撃して以来、アトランダムが一向に姿を現さないために対策も立てにくい。 「お父様」 音井家の男性陣が一同に信之助に会している席に、さやさやと衣擦れの音がした。その音の主は障子の前でとまり、すっと座る。 「シグナルかい。なんだね」 信之助は娘には優しい父親の声で接した。なにも娘にまで心配をさせることはないという親心だった。シグナルはそっと障子を開くと深々と低頭した。 「お父様、柏尾家のコード様がお父様にお会いしたいと。いかがいたしましょう」 普段は聞いたことにないような丁寧な言葉遣いに信之助はにこりと笑い返す。 「おお、コードかね。そういえば国許に戻ってきていたのだったね。お通ししなさい」 「はい」 そういうとシグナルはすっと立ち上がってまたさやさやと去っていった。入れ変わるように今度はコードがやってくる。 彼は袴の膝裏に手を当てて中央に座した。 「ご尊顔を拝し、恐悦至極。コード、江戸より戻りましてございます」 「いやいや、元気そうで何より。あちらの皆様は達者かね?」 「は、恙無く」 コードにとって信之助はやがて義理の父となるし、信之助にとっては息子がまた一人増えるのである。 一通り挨拶を終えると、話はすぐにアトランダムの件に戻った。 「アトランダムが御領内に現れたとか」 「私が応戦しました」 と、パルス。コードは赤い瞳のパルスを横目でちらりと見た。剣こそあわせたことはないが互いの気配がそれをふつふつと感じさせる。 (できるな) コードは瞬時にそれを察していた。 「で、どうだった?」 「やつは…いえ、かなりできます」 狼藉者とはいえ、相手はかつて次期藩主と称された男だ、パルスは言葉遣いを改めた。コードがふむと頷いた。 カルマを守りながらだったのでうまく戦えなかったのかもしれないが、それにしても厄介な問題が持ち上がったものだ。 「目的が見えんな」 「廃嫡にされた恨みを晴らすためですかね」 オラトリオは言いつつ、父を見つめた。 ところが父の口から聞かされたのは意外な一言だった。 「実はわしは当時城代家老だったのだが、廃嫡の決定は江戸でなされたんじゃよ。わしら国許におった重臣たちは早飛脚でそのことを知らされてのう。事の真偽を糺そうと使いを出したときにはもう次の嫡子をカルマとして御公儀にお届けしておったあとじゃったんじゃよ」 「それじゃ父上」 オラトリオがすっと膝を進めた。 「廃嫡も、今回の件も、誰かが藩内を乱そうとして?」 「可能性はあるな」 とコード。黒幕の存在を視野に入れはしたものの、話はそれきりになった。 コードは退室するための挨拶をし、オラトリオとともに部屋を出た。 「師匠は誰だと思います?」 「推測の域は出らんが、思い当たる人物ならおる」 羽織の腕を組み、コードは琥珀の瞳でオラトリオを睨み上げた。睨むつもりではないのだが鋭い気迫がどうしてもそうさせてしまう。慣れているオラトリオは特に不愉快に感じることもなくコードの言葉を察した。 「江戸家老のクエーサー殿ですかね」 「ああ。もう隠居しているがな」 山吹の花がひらりと舞った。 「クエーサー殿はアトランダムの跡目相続に乗り気だったのだが、今度は廃嫡の方向へ動き出した。変わり身は早い男だ」 「そりゃアトランダムよりかは人に従順なカルマのほうが臣下としては御しやすいですけどね」 オラトリオの言葉にコードはふんと鼻で笑った。 確かに彼の言うとおり、英邁な君主よりも昼行灯な君主のほうが扱いやすいには違いない。こと改革などと言い出す藩侯などは目ざわりこの上ないのが藩という組織における暗黙の了解といえた。 「アトランダムはもう廃嫡です。そのアトランダムがカルマを殺す、そうすればこの藩には継嗣がいなくなる。そうすると…」 「誰か自分の息のかかったものを祭り上げる気なのかもな」 「しかしクエーサー殿に嫡子がいましたかね?」 そう言って、オラトリオは口を閉ざした。 クエーサーにも実子がいた。コードと幼馴染だったバンドルという子供がそうだ。しかしバンドルは今から15年前にたった5歳でこの世を去った。生まれたときから病弱だったバンドルは冬の終わりに風邪をこじらせてそれが元で亡くなったのだ。 同じ5歳だったコードはそれを見送っていた。 「…すみません、師匠」 「いや、いい。他にいるという話は聞いたことがない。バンドルが亡くなった後、奥方もそれが堪えたのか体を壊して後を追うように亡くなられている。後妻を取られたという話は聞かないからな」 「外にいるということは考えられませんか?」 「お前じゃあるまいし。まあその線も洗ってみるとするか」 玄関への道を歩きながらコードはすました笑いを浮かべていた。 「ちょっと師匠、それじゃ俺に隠し子がいるみたいじゃないですか!?」 「おらんのか」 「いませんよ、失礼だなぁ」 そう言うオラトリオに見送られてコードが帰ろうとした時、彼は信之助の奥方である詩織に呼び止められた。 「あら、お帰りですか、コード様」 コードは詩織に対してぺこりと頭を下げた。 「はい、今日は音井様にご挨拶にあがっただけですので」 「今シグナルが茶など点てていますの。お時間がおありならどうぞ」 詩織がさあと勧めてくるのを、コードは素直に受けた。なんのことはない、断る理由が見当たらなかっただけである。 詩織に案内されて茶室に入ると、シグナルが釜の前に座っていた。 今日は桜色の布に紅の花を染めた着物に藍色の帯を締めている。詩織が連れてきたコードを見止めてその瞳に小さな怒りが灯った。が、続いて入ってきたオラトリオには優しい笑顔さえ向けていた。 コードはこっそりと口元を歪めた。 (随分と嫌われたものだな) さてシグナルはといえばなんでもないように茶壷から抹茶を掬い取り、椀に入れた。そして釜の中に柄杓を突っ込んで湯を汲む。シャカシャカと軽やかな音を立てるが、決して乱暴にしているわけではなく、必要最低限の音だ。手つきは悪くない。 茶を点て終わるとシグナルはその椀をコードの前に差し出し、すっと手を突いた。 「どうぞ」 「いただきます」 コードは作法どおりに椀を持ち上げ、柄を避けるために椀の上で回した。そしてゆっくりと口にした。 優雅な手つきに詩織はほうっとため息をついた。が、シグナルにはそれが苦々しく映る。 コードは茶碗を置くと、持っていた懐紙で丁寧に口を拭った。 「結構なお手前で」 「恐れ入ります」 ここで按配よく鹿脅しが鳴った。さらにとてとてと小さな足音が聞こえてきた。その小さな影がすっと障子を開け、その後ろから少年が追いかけてきた。 「こら、ちび」 「あーん、みんなでお菓子食べてズルイです〜〜」 現れたのは末妹のミラ・通称ちびと、信彦である。ちびはみんながお菓子を食べていると聞きつけてやってきた。信彦はそれを止めようとしたのだがなんせちびはあの小さな足ですばしっこい。捕まえることも出来ずにここまで来てしまったのだ。 「ごめんなさい、捕まえようと思ったんだけど」 「だめじゃないの、ミラちゃん」 「あたしもお菓子欲しいですぅ」 詩織はめっとちびを叱ったがお菓子に目のないちびはぎゃーぎゃーと駄々をこねた。 「末の妹…オラトリオ、お前の子じゃないのか?」 「残念ながら俺の子じゃありません」 二人のやり取りにシグナルはふっと噴出しそうになった。24歳になったオラトリオにミラくらいの子供はちょうどいい。中にはどんなに妹だと言い張っても信じてくれない人もいる。むしろ、そのほうが多い。 ちびをたしなめていた詩織はいよいよ聞き分けのないミラを連れて行こうとしたがそれはシグナルが制した。 「お母様、待って」 「シグナルちゃん」 そういうとシグナルはちびを招きよせた。ちびは泣き止んでするするとシグナルのそばまで寄った。 「ちびちゃん、ここはお茶の席よ。お菓子をあげないこともないけどお行儀よくいただける?」 「はいです」 そういうとちびは茶室の入り口まで下がると小さな体を折り曲げてお辞儀をした。 「みなさまこんにちわ」 それからぱっと顔を上げてすすすっとシグナルの前に座った。シグナルはそんな妹のために薄茶を点てた。 「いただきます」 ちびは小さな手でしっかりとお椀を抱き上げ、見よう見まねで茶をすすった。その顔がおもいっきりゆがんでいる。 「にがいです〜〜」 「お茶ってそんなものよ。さ、お菓子をどうぞ」 「わーい…じゃなかった。いただきます」 ちびは深々と頭を下げてお菓子をぱくっと口にした。あどけない姿にその場にいたみんなの顔がほころんだ。 その何気ない笑顔にコードは苦笑した。 小さい子を叱るでもなく甘やかすでもなく対応したその手綱さばきは見事である。 お菓子を食べて満足したシグナルは母詩織の膝の上に座った。そこで初めてコードの存在を知る。 「あれ、あのお兄ちゃんはだれですか?」 ちびはちっとも母親のそばにじっとしておらず、怖いもの知らずにもコードの膝の上に乗り上げた。 「こらっ、ちび」 「かまわん。俺様はコードだ。よろしくな」 コードがそういうのをシグナルは不思議そうに見ていた。あんな鋭い剣捌きをするのにその笑顔は妙に優しいのだ。 「あたしはミラって言います。よろしくね」 ちびは新しいお兄ちゃんが出来たと大喜び。 その夜詩織は信之助の居間にいて今日のことを話していた。 「ほう、シグナルがねぇ」 「ええ、コード様とうまくやっていけると思うわ」 「しかしシグナルには彼が許婚だと教えていないんだろう?」 彼が、どころか許婚がいるということさえ教えていない。剣一本で暮らしていくなどとわけのわからないことを本気で言い出す前に嫁に行く覚悟をさせておいたほうがいいのではないかと信之助は心配している。 しかし詩織はのんびりと構えていた。 「許婚がいるからってはいそうですかとお嫁に行くシグナルちゃんじゃないと思うの。それに今はそれどころじゃないでしょう?」 詩織の言葉に信之助はずずっと茶をすすった。 確かに今はアトランダムの問題が持ち上がっていてシグナルの婚儀にかまけてやれないのが現実だ。コードもそれを承知している。 「婚儀のために帰ってきてくれたのにのう…」 「本当にね」 部屋の明かりがゆらっと揺れた。 同じようにシグナルの気持ちも揺れていた。 ちびと信彦を寝かしつけたシグナルは自室に戻って鏡を見ていた。髪飾りと簪をはずし、夜着に着替える。 そして灯りを消して布団にもぐった。 そっと目を閉じると思い出すのはコードの顔。 シグナルはぱっと起き上がった。 「やだ、なんで…」 なんで、コードの顔を思い出すのだろう。頭をぶんぶん振って消そうとするけれどやればやるほど彼の顔が鮮明に思い出され、しまいにはくらくらしてきた。 「ダメだぁ〜〜」 シグナルはばふっと布団の上に突っ伏した。 「う〜〜」 どうやらシグナルはコードに惹かれつつあるらしい。彼女は認めたくなかったが、周囲にしてみればそれは良い傾向だったと言える。 寝付けなくなったシグナルはもう一枚着物を羽織って明るい廊下に出た。 月明りが煌々と下界を照らしている。その月は琥珀色の満月だった。 「ふわぁ…綺麗…」 そう呟く彼女の姿を、オラトリオが見止めた。 「何やってるんだ、シグナル」 「あ、オラトリオ。なんだか寝付けなくって」 そういってシグナルはぽりぽりと頭をかいた。オラトリオは小さく笑って手にしていた盆を渡した。 「なにこれ」 「酒だよ、冷えるなあと思ってさ。お前の分も杯持ってきてやるから待ってな」 シグナルは庭に面した廊下に盆を置き、部屋に戻って座布団を二つ並べておいた。 オラトリオはすぐに戻ってきてその座布団の上に座した。 「はい、オラトリオ」 「お、妹からのお酌か。いいねぇ」 白い銚子から注がれる清酒にオラトリオは目を細めた。なんにでも興味を示すように見えて実はそうでもないのがオラトリオという人物である。そんな兄をシグナルは不思議そうに見ていた。 「ん? どうかしたか?」 「…なんで結婚しないの? お父様も心配してるよ」 「シグナルちゃんが結婚したら俺も考えるよ。言っただろ? 俺の理想の嫁さんはシグナルだって」 オラトリオはぐいっと酒を呷った。 「冗談ばっかり。それに私…」 「師匠がお前のこと誉めてたよ」 ふいに話題を変えたオラトリオに、シグナルはふっと顔を上げた。 「コードが?」 「ああ、お茶の席でちびを叱るでもなく甘やかすでもなく大人しくさせたのは見事だったって」 「そう…コードがそんなこと…」 オラトリオが彼のことを持ち出したのは当然といえば当然なのだが、シグナルはふと視線をそむけた。そうでもしなければなにかわけのわからないことを口走りそうだった。 「なんだ、師匠に惚れた?」 オラトリオはそういって笑う。こういえばいつもは反撃してくる妹も今日は俯いたまま何も言わなかった。 「シグナルちゃん?」 「…そうかもしれない。私コードのこと……」 シグナルはじっと膝の上に手を組んでいた。自覚した想いが月に照らされて炙り出されたとしか思えなかった。 (こいつは重症だね) こんなに苦しむ妹の姿はあまり見たくないが時間がたてば。オラトリオはシグナルの前にすっと杯を差し出した。 「飲めよ。飲んだら楽になるかもしれないぞ」 「オラトリオ…」 繊手の指先で杯を受け、清んだ酒を注がれる。それに月をそっと乗せる。 シグナルはゆっくりとその酒を流し入れた。 「大丈夫だよ、シグナル。きっとうまく行くさ。そのためにも」 「…アトランダムの事ね」 オラトリオは小さく頷いた。 御家の大事の前に自分の悩みが小さく見えて、シグナルは静かに部屋に戻った。 翌朝、シグナルはお勝手で豆を煮ていた。町を歩いていたときにおいしそうな豆を見つけて買い求めたものである。一晩水につけていたのがいい塩梅になっていた。 「あれ、シグナル。おいしそうだね」 と、お勝手に現れたのは信彦とちびだ。信彦は豆をひょいと掴むと行儀悪く口に放り込んだ。ちびもその腕の中で鳥の子の様に口を開けている。信彦はそこにも一粒投げ込んだ。 「こら、信彦、ちびちゃんも!」 「おいしいね」 「シグナルちゃんはお料理上手です〜」 ほくほくの笑顔にはシグナルもなす術なく苦笑するしか出来ない。それでも朝餉の分がなくなるからとふたりをさっさとお勝手から追い出した。入れ替わるようにやってきたオラトリオまでもつまみ食いをする始末。シグナルは菜ばしでオラトリオの手を打った。 「もう、減っちゃうじゃないの」 「いいじゃないかよ、まだこんなにあるじゃん!」 叩かれた手をさすりながらオラトリオは鍋を見つめた。ほくほくと湯気を上げる豆は本当においしそうだ。 「ちゃんと朝餉に出しますーぅ。勝手に食べないで」 「ちぇー」 シグナルの言葉どおり、その煮豆はちゃんと朝餉に出てきた。 そして男たちが出仕してしまうと彼女は再び勝手に戻り、煮豆を器に盛って布をかけた。 「お母様、エララさんのところへ行ってきます」 「そう。柏尾さまのお宅は近くだけれど気をつけるのよ」 「はい」 外出は禁止になっていたがアトランダムが現れないのでオラトリオたちも近くならということで僅かに許してくれている。 シグナルは表門ではなく勝手口からそっと屋敷を出た。 勝手口から出たほうが、実は柏尾家に近いのである。シグナルは器をしっかりと抱いて柏尾家へ向かった。 エララに会いたいのもあったが、コードに食べてもらいたいと思ったのが本音である。煮豆を作る予定は前からあった。そして思いのほか上出来だったのだ。 「…喜んでくれるかな」 シグナルは勝手知ったるなんとやらで柏尾家の勝手口をくぐった。下女の一人がシグナルを見かけて近寄ってきてくれる。 尋ねるとコードは既に外出をした後であったがエララは在宅であった。 ぺこりと会釈したシグナルは庭を抜けてエララの部屋の前に来ると、異様な違和感を感じた。 物音がする。 一人ではない、誰かがいる? シグナルはそこに器をそっと置くと手近なほうきを掴んでエララのもとに急いだ。 果たして、エララの部屋にお高祖頭巾をかぶった女が小太刀を構えて立っていた。エララはなす術もなく女の出方を待っている。 「エララさん!」 闖入者の声に女ははっとシグナルのほうを向いた。シグナルは相手の得物が小太刀と知るやほうきを捨てて懐剣を取り出した。陽光に白刃がきらりと煌く。 どのくらいそうしていただろう。自分の背にエララをかばい、お高祖頭巾の女と対峙していたが家人が誰もやってこない。しかしそれは幸いといえただろう。もし家人が騒ぎ立てればその隙に乗じてエララを狙うかもしれない。彼女の目的が見えない以上、こうしてエララをかばうよりほかないのだ。 「シグナルさん…」 エララの不安そうな呟きが、二人の小太刀を叩き合わせた。 キンッと冷たい刃のぶつかる音がして、シグナルは相手の目を見た。鮮やかな緑の瞳が殺意に燃えている。 (何者なの…) シグナルはエララを突き飛ばすようにして部屋の隅にやり、自身は女とともに庭先に出た。女の小太刀を払い、再び構えた瞬間。 頭巾が外れた。 現れた顔に、エララが驚愕する。 女は慌てて頭巾を拾い上げるとそのまま逃げ出した。シグナルが慌てて後を追おうとしたが、それもエララの呼ぶ声に阻まれてしまう。 「待って、シグナルさん!」 「エララさん、どこか怪我でも?」 シグナルは懐剣を納めながらエララに近寄った。エララは襲われた衝撃以上の何かを感じている、そんな顔をしていた。 「あれは…あの子は…」 「エララさん? もしかしてさっきの女を知っているんですか!?」 シグナルの言葉に彼女は深く頷いた。 「教えてください、エララさん。早く捕まえて奉行所に突き出さないと」 そういったシグナルに、彼女は深く強くしがみついた。シグナルは困惑しつつも彼女をしっかりと抱きとめた。 「どうしたんです?」 「あの子は…11年前に行方不明になった、妹のユーロパです」 「何ですって!?」 エララの言葉に、シグナルは言葉を失ったまま立ち尽くした。 腕の中の彼女はただ、はらはらと涙をこぼすだけ。 その夜、カルマは邸宅の自室で書簡を読んでいた。江戸屋敷からの早飛脚が先ほど運んできたものだった。 そこには前嫡子であるアトランダムが出奔したこと、そのアトランダムを預かっていたはずのクエーサーの姿も見えなくなっていることが書いてあり、最後に一筆、御身を大事にと記されていた。 「御身大事に、ですか…」 カルマは手紙をたたむとふうと息を吐いて膝の上に乗せた。天井を仰ぎ、庭先を見つめる。 美しく整えられた庭にあるのは静寂だけ。しかし何者かがこの静寂を破ろうとしている。 継嗣に指名され、正式に承認されて早3年。自分はもうまもなくこの藩を背負って立つのだ。そのために得るものもあれば捨てなければならないものがある。 カルマは座を立ち、廊下に立ち尽くした。 藩主になるということは華やかな反面、自由のない暮らしを迫られるのだ。 自ら望んだことではないといえ、それが藩主の家に生まれた宿命だと、カルマは半ば諦めてもいた。 次男であった自分が思いがけず継嗣の地位に着いたのはアトランダムが廃嫡されたためであった。まだ幼かったカルマには、突然兄がいなくなってしまったことがわからなかった。ただ、残されたのが自分だけだったことは理解できた。 「アトランダム…どうしてこんなことを…」 「わからないか、カルマ」 重く低い声にカルマははっとして振り向いた。廊下の先に蝋燭の灯りはない。ただ薄い銀の光がちらちらと見え隠れする。 現れた黒衣の侍に、カルマはあっと声を上げた。 「アトランダム…あなた…」 「久しいな、カルマ」 大小をきちんと挿していたその姿は正しく継嗣のそれにふさわしかった。病弱でも、精神障害でもなかったこの兄が廃嫡された理由を、カルマはうすうす感づいていた。が、それは誰にも言わなかった。 「アトランダム、一体なんのために国許に? あなたを陥れた重臣への復讐ですか!?」 彼の薄い青の瞳がきらりと揺らめいた。カルマの鮮やかな瞳に、黒い彼だけが映る。 「ちがう。私はこの国を見たかっただけだ。お前を襲って、私はここにいるのだと、それだけを言いたかった。お前を傷つけるつもりはなかった」 「アトランダム…」 江戸で生まれて江戸で育ったアトランダム。カルマの母親は御国御前、つまり国許の側室でふたりは異母の兄弟であった。 「じゃあ、もう何もしないんですね」 「そのつもりだ。先代の城代家老も私の廃嫡を知らなかったそうだしな」 カルマはこっくりと頷いた。アトランダムはふっと笑う。 「私は自由の身になったのだが…今度は逆にお前を縛り付けてしまったな」 「…いいんです。それがこの家に生まれた者の宿命ですよ」 「…賢しさはいらぬ、ただ辛抱強くあれ。…か」 そういってアトランダムは目を閉じた。 彼はまだ、何も知らなかった。 彼だけではない、誰も、何も。 黒幕の意志を継ぐものが密かに国許に入っていた。 同じ頃、シグナルはエララの部屋にいた。一度家に戻っていたのだが、帰宅したコードに呼び出されたのだ。昼間の事件を詳しく聞きたいのだという。 シグナルはエララとともにコードが来るのを待っていた。 「エララさん、大丈夫ですか?」 「はい。ありがとうございます、シグナルさん」 そういうエララの笑顔が苦しげなのを、シグナルは心配そうに見つめていた。無理もない、生き別れになった妹が生きていてくれたのは嬉しいがその妹にまさか命を狙われようとは思いもしなかっただろう。 「もしかしたらユーロパは、私がわざと自分を捨てたんだと思い込んでいるのかもしれませんね…」 「エララさん…」 そんな二人の会話を聞いていたコードは部屋の外でひとつ、廊下を踏み鳴らした。そこで二人の会話がぴたりとやんだ頃を見計らってコードはゆっくりと障子を開けた。 「待たせたな」 床の間の前に据えられた座布団と脇息にコードが座ろうとしている間に、シグナルは三つ指を付いて伏していた。すっと座る音が聞こえるとともに顔を上げる。 「わざわざ呼びたててすまんかったが、他に聞かれたくないんでな」 そういったコードの顔も、ユーロパの出現に揺れているようだった。 「口外はしないよ」 「そうしてもらえれば助かるな」 コードが苦笑して見せたのを、シグナルも悲しそうに見つめた。なにか事態が変わるまで誰にも言ってはいけないのだと自分に強く言い聞かせた。 「で、昼間の件だが。エララが見たのは本当にユーロパだったのだな?」 兄の言葉にエララはしっかりと頷いた。 「はい、あの声、あの髪…間違いありません」 彼女の証言にコードはふむと頷いた。シグナルはユーロパとの面識がないために彼女がそうであるとは断定できない。コードもそれを察してか、エララとは違う質問をした。 「ではシグナルに問うが、エララを襲った女の特徴を言ってくれ」 「えっと、髪は綺麗な藍色で、目は若緑…今思うとエララさんと顔立ちは似ていたかも…」 小太刀の腕は自分が言うのもなんだがなかなかのものだとも付け加えた。 それだけ聞くと、コードはまた思案顔になった。やはりエララを襲い、シグナルが撃退した女性は末妹のユーロパに間違いないだろう。 ならば何故このような帰参の挨拶となるのか。 彼女の心に何かがあるのは確かだった。 コードはシグナルを労い、迎えにこさせたオラトリオに彼女を任せた。 「ご苦労だったな。これからもエララを頼む」 シグナルは恥らうように薄く笑みを浮かべた。そしてこれから昼間にはなるべくエララのそばにいるようにすると言った。 そして帰り際に、コードは再び彼女を呼び止めた。 「そうだ、シグナル」 「なに?」 「煮豆うまかったぞ。また頼む」 シグナルは3秒ほど呆けたあと、それから壊れた人形の様に何度も頷いた。そしてオラトリオの袖を引っ張って逃げるように帰っていった。 「ちょっ…シグナル? じゃあ師匠、失礼しまーす」 「あーあ、気をつけてな」 まるで脱兎のごときシグナルにコードは笑いを隠せなかった。つい先日まで自分を睨むように見ていたシグナルのあの変わりようと言ったら驚きを通り越してもはや滑稽である。 「お兄様…」 「エララ。お前、いい友達を持ったな」 やがては自分の妻となるシグナルはすぐそばにいてくれる。 コードにはそれだけで心強かった。 事態が動いたのはそれから数日後のことだった。 しばらくなんの動向をも見せなかったアトランダムが突如動いたのだ。彼は登城途中だったカルマの列を襲い、護衛についていたパルスにまたしても手傷を負わせた。そして籠の中にいたカルマを攫って逃げたのだ。 その知らせを聞いたシグナルは兄パルスのことも心配だったがなぜかエララのそばにいなければいけないと思った。 シグナルは母に断ってから家を出た。懐剣の袋の紐はあらかじめ緩めてある。 案内を乞うている時間も惜しくて不躾にも勝手口から入ろうとした。するとコードが手配していたのか、家人に止められてしまった。しかし彼らはシグナルの顔を見るやいやなすぐに通してくれた。そのままエララの部屋に向かう。 部屋は障子が閉まっており、女中頭が案内してくれた。 エララはちゃんと部屋にいて書を嗜んでいた。 「エララさん、こんにちわ」 「シグナルさん。今日もいらしてくださったんですか?」 彼女はシグナルの姿を見とめると筆をおいて向き直った。シグナルも彼女の前に座る。 「お兄様が私をひどく心配してくださって…」 エララは袂で口元を覆った。笑みを隠しているのか泣くのをこらえているのかわからなかった。それでもシグナルはなんとかエララを元気付けようと言葉を探す。 「優しいお兄さんですね、コードは」 「ええ。きっとシグナルさんにも優しいですわ」 「え? なんでですか?」 「だってお兄様は」 エララがそう言いかけたとき、にわかに庭先が騒がしくなった。エララは腰を浮かしそうになったが、それはシグナルが制した。手にはすでに懐剣を抜いている。背中だけが壁で、三方のうち正面が障子、左右が襖だ。逃げ道は多いが防御にはあまり向かないかもしれない。襖一枚など刀なら突き通してしまえる。 エララはシグナルの腕にすがるように触れた。 「シグナルさん…」 「エララさん、コードは?」 「カルマ様が襲われたと聞いて出て行かれました」 「じゃあこの家にいる柏尾家の人間はエララさんだけですね?」 シグナルは言いながら襷をかけた。振袖では戦いにくいのだ。 「エララさん、私のそばを離れないで」 「はいっ…」 そのとき、バンッと大きな音を立てて障子が開かれた。日の光を背に受けて、あの日の女性が立っていた。 「ユーロパ…」 彼女は冷たく薄い空色の着物を着て、黒の帯を締めていた。行方不明になった当時と変わらない藍色の髪に若緑の瞳をしている。 「11年ぶりね、エララ姉さま」 ユーロパはそういうとエララの前にいるシグナルに目を向けた。 「…あなたは?」 「私は音井家の次女、シグナルよ。エララさんに何かするなら私が許さない!」 シグナルはエララをかばいながらユーロパに懐剣を向けた。しかしユーロパは何の得物も持っていなかった。隠し持っているかもしれないので油断はできない。シグナルは警戒を解かなかった。 ユーロパはゆっくりと口元を上げた。 「今日は争いに来たわけじゃないの。エララ姉さまに話があってね」 ユーロパはゆっくりとその場に座った。シグナルと同じ歳の彼女の立ち居振る舞いは武家のそれにあっていた。 彼女はゆっくりと体ごと後ろを振り向き、庭を見た。穏やかな日差しが降り注いでいる。 あの日も、こんないい天気だった。 「姉さま、11年前のこと、覚えている?」 穏やかに話し始めたユーロパを見て、シグナルは懐剣を鞘に納めたがいつでも使えるように手元から離さなかった。 エララはしっかりと頷いた。 「忘れることなんでできなかったわ。あの人ごみの中で、私はあなたの手を離してしまったんだもの」 エララは自分の手を見つめた。 幼かったユーロパをつれて遊びに出ていたエララは帰る途中で藩の屋敷が並ぶ武家の屋敷町へ戻ろうとして間違えて商家の並ぶ町屋敷に出てしまった。道を尋ねようと優しそうなおばさんに声をかけたとき。 エララの手から、ユーロパは離れていた。 親切なおばさんが道を教えてくれ、それにしたがって歩こうとしたとき、もうユーロパはいなくなっていた。彼女は必死でユーロパを探した。夜遅くなっても戻ってこないエララたちを心配して兄であるコードや父、それに家人たちがエララを見つけた。 彼女がが半狂乱でユーロパがいなくなったと告げると、今度はユーロパを探して江戸中を歩き回り、親戚や友人も尋ねた。が、芳しい結果が得られないまま11年の歳月が流れていた。 「…エララさんはあなたがいなくなったっていう日には必ず神社やお寺にお参りしていたの。毎月よ」 シグナルはそっと口を挟んだ。 「私、あなたが無事でいますようにって、ずっとずっと祈っていたわ。そう、ずっとよ…」 「そう…姉さまは私を…」 ユーロパの頬を、銀の雫が流れた。彼女はそれを袖口で軽く抑えた。 「私はね、クエーサー殿のところで育ったの。養子としていただいたんだって言われたんだけど、本当は両親や兄姉に捨てられたんじゃないかって、ずっと…そう思って暮らしてたの。でも…でもそうじゃなかった」 「クエーサーって、江戸家老の?」 シグナルの言葉に、ユーロパは涙ながらに頷いた。 「私はクエーサーに攫われて、アトランダムに宛がわれていたの。と言っても身の回りのお世話をすることだったんだけど…アトランダムの廃嫡を決めたのはクエーサーよ。そしてそれに激昂した彼を使ってカルマを殺させて、アトランダムも処刑させる。そして自分の身内を藩主に据える計画だったのよ…」 「何ですって!?」 ユーロパの告白にシグナルもエララも驚愕を隠せない。 「それ、本当なの!?」 「冗談でこんなこと言わないわ! 私が姉さまを襲ったのは私が国許にいることを知ってもらうため、そしてシグナル、あなたの力量を確かめたかったの。ごめんなさい…」 「私の力量…?」 シグナルは胸元に手を当てた。コードにちゃんばらごっこと評された腕で何ができると言うのだろう。 「ユーロパ、私に何ができるの?」 「…姉さまを守ってほしいの。お願いね…」 そういうとユーロパはすっくと立ち上がってそのまま走り去った。庭から続いていた裏木戸へ出る道をたどる。 「ユーロパ!!」 「アトランダムを止めなくちゃ!」 彼女はそれだけ言い置いて姿を消した。アトランダムを止めると言ったユーロパは彼の居場所を知っているに違いない。でももう追えなくなった。 「どうしましょう、シグナルさん…」 一緒に裏木戸を出ていたエララはきょろきょろと周囲を見回した。そしてふと、角に消えた人影を見つけた。 「シグナルさん、あそこに雷電様が」 エララの呼びかけたほうを見ると確かに雷電がいた。大柄で、緑の衣を好んで着ている彼は見つけるのが簡単だ。 二人はそろって彼を呼び止めた。雷電は急いでいるようだった。 「エララさんとシグナルさん。なんですか? 私はカルマ様が攫われたとの連絡を受けて出向く途中なのです」 「だったらちょうどいいわ。私たちも連れて行って」 彼女らの力強い申し出に雷電はたじたじだ。もともとそんなに気が強いほうではない。気は優しくて力持ち、まるで金太郎のようだと表されるのが彼という人である。 だからといって女性を危険なところに連れていくのを良しとしない。ましてや二人は藩主とも縁戚関係にある良家の子女で、嫁入り前でもある。傷でもつけたら大変だ。 雷電はぐっとこらえた。 「ダメです! 危険なんです。連れていくわけには行きません」 「…わかった。連れてってなんて言わないわ」 「シグナルさん…」 エララは不安になってシグナルを見つめていたが、それとは対照的に雷電はほっと胸をなでおろしているようだった。が、それもつかの間である。 「わかってくださいましたか。大人しく自宅へお戻りいただけますね?」 「ご無礼をいたしまして」 シグナルはそうやって深々と頭を下げるとエララを促して帰ろうとした。そしてゆっくりと角に消えたところでにやっと笑った。 「シグナルさん、ユーロパが」 「大丈夫です、エララさん」 そういうとシグナルはひょこっと海鼠塀の切れ目から顔を出した。 見れば雷電はなんの疑いも見せずに少し足早に現場に向かっているようだった。 「連れていってくれないのなら着いていけばいいんです。さ、後を追いましょう」 ようやくシグナルの目論みを理解したエララはシグナルの少し後ろを、雷電に見つからないように注意しながら歩いた。 誰もがその終わりを知るとき 運命の花は咲き誇る ≪続く!≫ ≪中編・あとがき≫ やっぱり中編になってしまいました_| ̄|○ 長々とごめんなさいです。次回でいよいよ最終回…です。もう引っ張らないつもりでいますのでもう少々おつきあいいただければこれ幸いと存じます。そういう次第であります。ほんと、ごめんなさい。 爆発まであと5秒という爆弾を抱えて海に飛び込んで、生態反応がないくらい粉々になってきます。 |