運命の花〜春霞む君のかくも美しきこと・後編



咲き誇れ乙女たち
心はいつも恋のもの

今こそ決着の時


あなただけのための…



こっそりと雷電の後をつけているシグナルとエララはカルマが急襲された現場へとたどり着いていた。
「シグナルさん…」
「大丈夫です。どうせここからアトランダムの足取りを追うんです。それをまた着ければいいんですよ」
「それでこんなところまで来ちゃったってわけね?」
背後から聞こえてきた低い声に二人揃って背筋がピンと伸びた。くうるりと振り返るとそこには引きつりながらにっこりと笑う長兄の姿があった。シグナルの笑顔がなんとなく引きつっているがそれはお互い様だ。
「あら、オラトリオ…」
「あら、シグナルちゃん。こんなところで何をしてるのかなぁ〜〜」
そう言いながらオラトリオはシグナルの襟首を掴んで猫のようにつるし上げた。シグナルはじたばたと暴れる。
「ちょっと、何するのよ!」
「おーい、子猫2匹拾ったぞー」
そこにいた一同がぱっとオラトリオを振り返る。そしてエララとシグナルを見て声を上げた。
現場にはカルマと一緒にいたパルスと正信、それに雷電とコードがいた。シグナルは彼の姿を見止めるとすぐに大人しくなった。
オラトリオはそっとシグナルを下ろして一同に近寄る。
「雷電、お前シグナルたちにつけられてたぞ」
「えっ!?」
雷電が驚いたのも無理はない。彼女らは家に帰ったとばかり思っていたのだ。
「何でわかるのよ」
「そうじゃなきゃここにはいないだろ。それに雷電のあとをつけるお前たちを、俺がつけてたの。気づけよ」
妹のやりそうなことは一目瞭然とばかりにオラトリオはふんぞり返った。
そこに割って入ったのは正信だ。
「まあまあ、何かあったからここまで来たんじゃないのかい?」
正信の言葉に本来の目的を思い出したシグナルははっとしてエララを見た。自分の口から話していいことではないと思った。シグナルが無言で語りかける内容がわかったのか、エララはしっかりと頷いた。
「お兄様、アトランダムさまの行方は、ユーロパが知っています」
「なんだと!?」
エララの言ったことが信じられないとばかりにコードは目を見張る。11年前に行方不明になった妹が突然現れただけでなく、まさかアトランダムと行動をともにしていようとは思いもしなかった。
「私たちはユーロパを追っていたんだけど見失っちゃって…それで雷電の後をつけたの。アトランダムの足取りを追うならここだと思って」
「そうか…」
コードはしょんぼりと頭を垂れるふたりを交互に見た。
末の妹を思って必死なエララと、その友を助けようと頑張るシグナルと。
諦めない姿勢に彼女らの強さを見たような気がした。
しかし感慨にふけっている時間はない。コードはふたりから詳しい事情を聞いて、アトランダムの居場所を探そうとした。
アトランダムは黒衣とはいえ大柄で目立つ。カルマを連れているから見つけやすいかもしれない。
オラトリオは下士たちに命じてさらに迅速かつ丁寧に二人の行方を捜させた。
コードは、エララとシグナルに帰れとは言わなかった。二人も帰るつもりはなかった。
『アトランダムを止めなくちゃ』
そういったユーロパの言葉が気になっていたからだ。
もしかしたら彼女は何かを掴んだもかもしれない。そしてアトランダムも。
「…シグナル」
コードの呼びかけにシグナルははっとして顔を上げた。事態が緊迫しているのを誰もが感じているのだ。
「エララを頼む。どうせ帰れといっても帰らんのだろうからな」
「わかったわ」
シグナルはしっかりと頷いた。そんな彼女の肩を、オラトリオが抱き寄せる。
「俺もパルスもいるから。危ないところに突っ込んでいくんじゃないぞ」
「うん!」
ぎゅっと握られた拳に、意志の強さを感じて。
「さて、アトランダムとカルマを探すか」


そのころカルマを誘拐したアトランダムは海沿いにある古いお堂の中にいた。
(こんなはずではなかった…)
アトランダムは気を失って倒れている異母の弟を見下ろした。
長く清んだ金色の髪は比類なきほどに美しい。彼はこの弟を守ろうとしただけだった。
もう来るはずもなかった領内に現れてカルマを襲ったのはそのため。それだけだったというのに。
(唆された…)
気がついてみたときにはもう遅い。自分は手のひらの上で踊らされている一匹の猿だったのだ。
アトランダムはぎりっと奥歯をかみ締めた。
「う…ん…」
床の上に転がしていたカルマが小さく声を上げた。鮮緑の瞳がゆるりと開かれる。その目にアトランダムの姿が映った。
カルマはゆっくりと辺りを見回し、自分が置かれている状況を正確に把握しようとした。
「アトランダム…」
そうだ、自分は登城する途中に彼に襲撃を受けたのだ。カルマは継嗣でありながら城には住んでいなかった。母親とともに城下に住んでいたときに突然継嗣に据えられたのだ。与えられていた屋敷にそのまま住み続けることを彼は先代から許されている。それほどまでに先代藩主であった父は自分も、アトランダムも愛してくれていた。
そして現藩主に代わってからもそれは変わらなかったはずなのに。
「アトランダム」
カルマは再び彼に呼びかけた。アトランダムは彼のそばに片膝をついた。
「再び手荒な真似をしてすまない。しかし登城すればお前は殺されていた」
「な…」
アトランダムの言葉にカルマは声を失った。
「ど、どういうことなんです?」
困惑するカルマに、彼はぐっと拳を握り締めた。
「私にお前を襲わせて…私はお前を殺す。そして私はその下手人として処刑される。それが本当の目的だったのだ…」
「話が見えません、アトランダム…」
「…すべては前江戸家老であるクエーサーの企みだ」
自分を継嗣に据えておきながら廃嫡にし、後に据えたカルマさえも邪魔になった彼は二人を抹殺することを思い立った。
「では、自分の息のかかったものを藩主に?」
「いや、そうではない。どうやらこの藩そのものを潰すことに本来の目的があるようだ」
「何故です? クエーサー殿は藩主の一族とも縁続きで特に怨恨があるとは思えません」
「それは私にもわからない。ただこれだけは言える。私もお前も、やつの手のひらで踊らされていただけのことだ」
最初にカルマの前に姿を見せた時、実はアトランダムは彼を襲うつもりではなかった。クエーサーはただ国許へ行き、弟に会って来るといいとだけ言ってくれた。その言葉を信じて国許に帰ってきたのだ。普通に近づこうとしたのを、近習の者が曲者と一方的に断じたので斬り合いになったのだ。誰も殺めるつもりはなかった彼は軽い手傷を負わせただけで逃げている。
「お前の暗殺というように仕向けたかったんだろうな。だが私はお前を殺さなかった。やつは最終手段に出たのさ」
城内に手のものを忍ばせておき、カルマの暗殺を企んでいる。
アトランダムはそれをユーロパから聞いた。ユーロパはそれを立ち聞いてしまっていたのだ。
ただ、彼女が聞いたときは手の者の話だった。クエーサー本人のものではない。
彼女はクエーサーによる藩の乗っ取りだと思ったのだが真実はそうではなかった。
「だから私はお前を守るために…またお前を急襲せざるをえなかったのだ」
「そうだったんですか…」
不器用なこの兄の手を、カルマはそっと握った。
「カルマ…」
「ありがとうございます、アトランダム」
カルマの穏やかな笑顔にアトランダムは微苦笑して見せた。
そこに突然の来訪者がやってくる。そこにいたのは息を切らして走ってきたユーロパだった。青みがかった淡い灰色をした着物に瑠璃紺の帯を締めている。
「よかった、アトランダムもカルマ様も無事だったのね…」
「ユーロパ…」
彼女の姿を見止めて、アトランダムはカルマに対するものとはまた違った笑みを浮かべた。彼女のことだけは心底大切に思っていることだけはひしひしと感じられた。
「アトランダム、その女性は?」
「柏尾家の三女でユーロパという。11年前にクエーサーの手の者に誘拐されたんだ」
ユーロパがその事実を知ったのはこれも立ち聞いた会話によるものである。黙って養女に出されたものと思っていたのが誘拐されてアトランダムとともに手駒になっていたのだ。身内から犯罪者を出すことで柏尾の家を貶めようとしたらしい。
「さっき姉さまにお別れを言ってきました。アトランダム、私はどうなってもあなたを…」
ユーロパはアトランダムの胸に飛び込んだ。彼が何をしようとも一緒にいると覚悟はできているが、犬死にだけはさせたくなかった。
だから『アトランダムを止めなくちゃ』と、そういったのだ。
ようやく自分たちにも日の光が当っているのだと理解できた時、道が開けた。
黒衣に顔を埋める彼女の顔は翳っているはずなのに明るかった。
「とりあえずこれからどうしますか? このままここにいてもどうしようもありません。戦うなら正々堂々と行きましょう。こんなこと許していいはずがありません」
カルマが外の様子を伺おうと格子の隙間から外を見た。するとぱっちりと大きな瞳と出会った。
「うわっ」
「きゃあ!!」
廃堂の中と外でほぼ同時に声を上げる。お互いに刀を構える音がした。
「お前を探しに来たのかもしれんな」
「だったら私が出ます。私から説明すればいいでしょう」
「迂闊に出るな。お前は嫡子なんだから何かあっては困る。私がいく」
アトランダムは柄に手をかけながら格子戸を開いた。
「誰だ!!」
「きゃ」
出てきたアトランダムの目に映ったのはユーロパと同じ年頃の女性だった。きらきら光る紫色の髪が美しい。彼は一瞬言葉を失ったがそれでも気を取り直して抜刀の形に構えた。
ところがその少女はひるむこともなくただこちらを警戒しながら立っていた。
「あなたが、アトランダム?」
「だったらどうだと言うのだ」
二人の声を聞いたユーロパがふっと顔を覗かせた。
「あなた…シグナルじゃない!?」
「ユーロパ! よかった、ここにいたのね」
その少女はユーロパの顔を見てすっかり笑顔になった。カルマも彼女のことを知っているようで、安心したような表情を浮かべている。
「なんだ、そいつは」
二人の様子から安全だと察したアトランダムはシグナルを中に入れ、格子戸をきっちりと閉めた。
「音井様の次女でシグナルって言うの。エララ姉さまのお友達」
「前の城代家老の娘か」
シグナルはこっくり頷いた。強い輝きを秘めたような瞳が印象的だった。
「あのね…あなたたちの話、実はお堂の外で聞いちゃったの」
彼女はみんなでアトランダムたちを探しに来たのだと言った。同じように前の江戸家老であるクエーサーに疑念を持っているのだという。
「私も一緒に行くわ。ちゃんと話せば助けてくれるよ。だから行こう?」
そういってシグナルはユーロパの手をとった。温かな手をユーロパはぎゅっと握り返す。
「…ありがとう。ありがとう、シグナル」
「いいんだよ、ユーロパ」
悪いことは許してちゃいけないんだと、シグナルは力強く言ってくれた。
その言葉が救いだった。
進んで暗闇を歩こうとしていたのを、すんでのところで引き返した。でもどうしたらいいのかわからなくて迷っていたところに彼女が現れてくれた。
そしてなんでもない言葉で導いてくれる。
「さ、行こう」
そう言って立ち上がったシグナルを、アトランダムが制した。
「待て」
「なによ、信じられないっていうの?」
「そうじゃない。迂闊に外に出るのは危険だといっているんだ。お前一人でここに来たのか?」
「ううん、コードと、エララさんと、パルスと雷電と…この5人で来たの」
コードの名が出て、ユーロパの顔が明るくなった。しかしそれとは対照的にアトランダムの顔が険しくなる。
「なに、どうしたの?」
「お前がここにいるから外にいるのは4人のはずだ。なのに5つ以上の足音がする」
アトランダムは神経を集中しているのか、目を閉じたまま動かない。そしてシグナルにもその緊張が伝わっていた。
「来る…」
シグナルも懐剣を握った。
「ユーロパ」
「なに?」
「私が合図したらカルマと一緒に走れ。シグナル、お前も」
シグナルはこっくりと頷いた。そして何故か常備している襷をかけた。なんだかんだ言っても袖が邪魔になるのだ。
アトランダムは勢いよく戸をあけて飛び出した。
「行け!!」
3人は言われたとおりに走り出した。
ユーロパがちらりと振り返ると、アトランダムが黒頭巾の男たちと戦っていた。アトランダムの腕は知っているが、多勢に無勢なのが厄介だ。
「ユーロパ…」
走りながらアトランダムを心配するユーロパの気持ちが、シグナルには痛いほど分かった。
ところがそんな気持ちもつかの間、シグナルたちの前にも怪しい頭巾の男たちが現れた。男たちは何も言わずに刀を抜き、3人に向かって切りかかってきたのだ。カルマは長剣を抜いたが脇差のほうが得意だった。逆にシグナルは懐剣よりも長剣のほうが楽なので途中で得物を入れ替えて敵を撃退した。
刀と刀のぶつかる音があたりに響いていた。
シグナルも必死で戦っていたのだが、真剣を持つのは初めてだ、その重さにだんだん腕が上がらなくなってきた。
(重いっ…)
そして自分の剣術がいかにちゃんばらごっこだったのかを思い知った。皮肉にもコードの言葉がそのまま的中したのだ。
シグナルは一生懸命剣を握っていたが、それが敵の一人によって弾かれた。
舞い上がった剣はそのままシグナルから遠くへと飛ばされて地面に突き刺さった。懐剣はカルマが持っている。彼もシグナルの窮地に気がついていたが遠くてどうすることも出来なかった。
(もうだめ…!!)
覚悟を決めたそのとき。自分に向かっていた男がぬれ雑巾のような音を立てて倒れるのが聞こえた。
何事かとおそるおそる目を開けると鮮やかな桜色が飛び込んできた。
「コー…ド?」
「真剣は重いだろう?」
コードは敵を前にしながらシグナルを振り向く余裕さえ見せた。いきなり何を言うのかと困惑していたシグナルだが、コードがあっさりと敵を弾いていくのを、感歎の思いで見つめていた。
「だがここでじっとしてもらっては困る」
コードは上段で振り下ろされた片手で受け止め、開いた手で脇差を抜き投げた。それをシグナルが前のめりになりながら両手で受けた。
「それでユーロパを守れ、いいな」
「エララさんは?」
シグナルは脇差を抜いた。長剣よりははるかに軽い。見ればコードだけでなくパルスや雷電も戦闘に加わっていた。
「エララはこのことを知らせに走らせた。もうすぐ手勢を連れてここに来るだろう」
コードの言葉に頭巾の男はチッと舌を鳴らした。これ以上ここで手を拱いていると不利になる。敵はコードにかなわないと見るとそのままばっと走り去った。そしてアトランダムのほうに向かう。ここで仕留めておきたいのはあくまで嫡子二人なのである。
アトランダムが危ないと悟ったユーロパがシグナルのそばを離れて走り出した。
シグナルも追う。
アトランダムが最後の一人を斬ったとき、近づいてくるユーロパが見えた。
「アトランダム!」
「ユーロパ! 来るな!!」
彼女の前に、白刃がきらめいた。
「え…?」
その切っ先が彼女にかかる前に男は背後に迫っていたアトランダムの手にかかって息絶えた。が、ユーロパはそのときふらついたせいでそのまま崖下に真っ逆さまに落ちていこうとしていた。下は海だ、落ちればまず助からない。
「ユーロパ!!」
手を伸ばしても、届かない。
落ちていくユーロパは笑っているように見えた。
そんなシグナルの横で、黒い影が眼下の海に飛び込んでいく。驚いて顔を上げるとアトランダムが自分の刀を捨てて飛び込んでいたのだ。
「アトランダム!!」
落ちていくユーロパに、飛び込んだアトランダムはすぐに追いついた。空中で彼女の腕を握る。驚いたユーロパは自分を抱きしめるアトランダムに叫ぶように言った。
「どうして…どうして来たの!? あなたせっかく助かったのに!!」
「いつも一緒だといったのは君だ、ユーロパ」
「アトランダム…」
このまま。このままでいいのだ。二人で一緒なら。
自分たちを呼ぶ声が遠く、波の音が近くに聞こえる。


――さよなら、みんな


「ユーロパああああああああ!!!!!」
エララが、叫んだ。髪を振り乱し、腹の底から声を上げた。現場についたエララが最初に見たのは斬られて落ちていく妹の姿だった。11年の時を経てようやく再会できた妹をまたしても目前で失おうとは。シグナルもほその場に膝をついて必死に叫んでいる。
「エララさん…ごめんなさい、私が…」
守ってほしいと、言われていたのに。守りきれなかったという思いが、シグナルの瞳に涙を溜めていた。
「いいえ、シグナルさんのせいではありませんよ」
「とりあえずカルマは無事だ。捜索隊を組んでアトランダムとユーロパを探そう」
そういうとコードはエララとシグナルを立たせて、オラトリオに預けた。コードはシグナルを責めなかった。
その場にいた誰もがアトランダムの腕を過信していたのだ、ユーロパが飛び出したのは想定外である。
「家まで連れて行ってやれ」
「はい。そのあと俺も捜索に加わります」
コードは頷いて、去っていく3人を見送った。そして駆けつけてきた下士たちを指揮して海の捜索をはじめた。
「ユーロパ…」
せっかく出会えたのに、失いたくない。
コードは先頭を切って小船に乗り込んだ。



飛び込んでからすぐに捜索を開始したにもかかわらず、アトランダムとユーロパは発見されなかった。潮の流れが速いから流されたのかもしれないという意見がぽつぽつと出始め、一同が諦めかけたころのことだ。
シグナルはふさいでいるエララとともに独自にユーロパを探していた。
死んだだなんて、諦めたくなかった。
「あの子はきっと生きています」
エララとシグナル、それに信彦とちびも一緒になって二人を探した。もしかしたらアトランダムが彼女を抱えてどこかに流れ着いているかもしれないと思ったからだ。
「絶対見つけましょう、エララさん」
エララとシグナルはお互いに顔を見合わせて頷きあった。
そのときだ。
「ん?」
信彦の腕の中にいたちびが突然飛び出して、小さな足でてけてけと走り出した。
「ちび?」
「ちびちゃん!?」
「今茂みが動きました! 何かいるですよ、シグナルちゃん!」
3人は動物ではないかと思ったがそれでもちびを追いかけた。小さなちびはどんどん茂みの中に入り込んだ。そして奥のほうであっと声を上げた。
「シグナルちゃん、信彦!! 急いできてください!!」
「ちびちゃん、どうしたの?」
「いましたぁ!! 黒くて大きな人と、女の子がいますぅ!!」
「何ですって!?」
エララとシグナルは慌ててちびのいる場所まで駆け上がった。
そこにはずぶぬれになったアトランダムとユーロパがいた。ユーロパは傷ひとつ負っていないように見えたが、アトランダムは満身創痍だった。ユーロパを助けて負傷したのだろう。張り付いた着物が水で濡れているのか血で染まっているのかわからなかった。
「信彦、下の浜に捜索隊がいたでしょ、急いで連れて来て!」
「わかった!」
信彦はずざざっと音を立てて上ってきたところを下り、浜へと急いだ。エララはユーロパを見つめていた。何故か、アトランダムと引き離す気にはならなかった。ちびはひくひくと嗚咽を漏らしている。怪我人を見たのが怖かったのかもしれない。
「大丈夫よ、ちびちゃん。怖くないからね」
シグナルはそういってちびの頭を撫でたが、ちびは違うと首を振った。
「違います、シグナルちゃん」
「ちびちゃん?」
「アトランダム君と、ユーロパちゃんが可哀想ですぅ…」
ちびは小さな手で、自分の目を擦った。袖が涙で濡れている。
「ちびちゃん…」
シグナルはちびをぎゅっと抱きしめた。まだ小さなこの妹の優しい言葉が誰の胸にも響いていた。



アトランダムとユーロパは生きていた。どこにも体をぶつけることなくまっすぐ落ちたのが良かったのかもしれない。
「エララさんの願いが届いたんですよ」
診療所から出るエララとシグナルはようやく安堵の笑みを浮かべた。
「エララさん、ずっとユーロパの無事を祈ってたじゃありませんか。その願いがまとめて届いたんですよ。そしてアトランダムも助けてくれたんです。そう思うことにしませんか?」
「シグナルさん…」
シグナルの笑顔に、エララは穏やかに笑った。
「ふたりで幸せになるといいですね」
「そうですね。シグナルさんも」
シグナルはエララの言葉にきょとんとした。確かに16歳の自分はそろそろ縁談も来ていい頃だが、両親は何も言ってこない。しかしエララの口ぶりではまるで自分にも決められた相手がいるかのようだ。そんな彼女を不自然に思ったのか、エララは小首を傾げた。
「だってお兄様はシグナルさんとの祝言のためにこちらに」
「エララさん、今なんて…」
「え? ですからコード兄様とシグナルさんは許婚ですから。今回の事件でそれどころではなかったようですけど」
そして長い沈黙。
「シグナルさん? シグナルさん!?」
反応がない。どうやらシグナルは立ったまま気絶しているようだ。そこに運良くオラトリオが通りかかった。
「おんや、エララ嬢。うちのシグナルとユーロパのお見舞いですかぁ?」
「オラトリオ様、シグナルさんにお兄様との縁談をお話していなかったんですか? シグナルさんの縁談の話をしたら気を失われて…」
「は?」
彼はひどく驚いた。誰か話しているだろうとは思っていたのだが実は誰も話していなかったとは。
オラトリオはまさに硬直している状態の妹の頬をぺちぺちと叩いた。シグナルはそこでようやく正気を取り戻した。
「あれ? オラトリオ? ここはどこ? 私は何をしてるの?」
「大丈夫だよ、おうちに帰ろうな」
わけもわからぬままシグナルはオラトリオに連れられて家に戻った。


その日の夜。
「なんだ、シグナルは俺様が許婚だと知らなかったのか」
なるほどそれで、とコードは合点が言った。もし許婚と知っていたならあんな態度は取らなかったはずである。いや、知っていてもああしたかもしれないとコードは小さく笑った。
「お兄様?」
「いや、シグナルは面白い娘だな」
コードは杯を上げた。今日は酒がうまい。
「そうだ、アトランダムの処分が決まったぞ」
「どうなりましたの?」
アトランダムは回復次第、先々代の藩主の室であった柏真院のもとに預けられたあとしかるべき手続きをとってひとつの家を起こさせることになったという。柏真院は柏尾家の娘で、先々代の藩主が亡くなったあと出家した。もとの名はマーガレットという。コードたちにとっては大叔母に当る人物だ。
「まあ、柏真院様のところに」
「それで落ち着いてから…まぁ、俺様としては不本意だがユーロパを嫁がせる。近々診療所から戻ってくるだろうから面倒を見てやれ」
「もちろんです、お兄様」
それぞれに人生に転機が訪れた。エララには本当の笑顔が戻ってきた。
(さて、シグナルはどう出るかな)
一方の音井家では、帰るなり気分が悪いと寝込んだシグナルが布団の中で悶々としていた。
まさか自分に許婚がいて、しかもそれがエララのお兄さんだったなんて。
コードの事を好きになっていた。許婚だったと知っても何も安心できない。あんな大立ち回りを演じて…破談になりかねないことをやってしまった。相当失礼な態度もとってきた。
(コード…)
シグナルはぽろりと涙をこぼした。
「ところで俺も師匠とシグナルが縁組した経緯を聞かなかったけど一体いつどこで決めたんです?」
「あーあ、それはのぅ」
シグナルの部屋から遠く離れた信之助の居間でオラトリオとパルスは酒を酌み交わしながら尋ねた。
「正信とみのるさんの祝言の席でのう」
それは今から12年前のこと――シグナル4歳の秋。
正信と、柏尾家の養女みのるの祝言の席で信之助と柏尾は互いに酒を注ぎあいながらこの縁組を喜んでいた。
「いやめでたいですなぁ、音井殿。みのるを頼みましたぞ」
「いやいや、甥の正信なんぞで出来ますかどうか」
「とりあえずこれで柏尾の家と音井の家は親戚になりますな。今後とも懇意に願いますよ」
「いやいやいやこちらこそ」
とすっかり出来上がったふたりはさらに調子に乗って次の縁組を決め始めた。
「どこかによい娘御はおりませんかのう」
「はぁ、うちの上の娘も決まっておりますし…」
そこで柏尾がはたと気がついた。確かに音井家の長女ラヴェンダーは既に嫁ぎ先が決まっていて、あと2年ほどで正式に嫁ぐことになっている。しかし上の娘がいるということはその下にまた妹が控えているということだ。
「下の娘御は今お幾つかな?」
「まだ4つです。縁組には早うございますよ」


「なんの。某の息子がちょうど8つになりましてな。4つ年上ですがよろしいでしょう」
「いいですなー」
こんな具合でコードとシグナルの縁談が決められた。
「酔っ払いの戯言だったのですか」
「いい祝言でのう、つい決めてしまったんじゃよ。ところが柏尾殿が乗り気でのう、後日城内で誓書を取り交わしたんじゃ」
このときまだ在位してた先代の藩主が良縁だと言って面白がったという。
これにはオラトリオもパルスもあっけにとられた。宴席で縁談が持ち上がる例はあるが本決まりになったというのは珍しい。
「じゃあ、何で今まで誰も教えなかったんだ?」
「父上が話しているものとばかり」
「いや、いつ話そうかと思っていてな。そうしたら今回の事件じゃろう? まあシグナルにも伝わったのだしあとは祝言の用意を整えてあげるだけだのう」
父親として嬉しそうに微笑む信之助に、オラトリオもパルスも自然と笑みをこぼした。
「そのシグナルですけど、寝込んじゃいましたよ」
オラトリオは一気に杯の酒を煽った。
「知らなかったのでかなりおてんばしてましたしね。でも大丈夫でしょ。師匠もシグナルを気に入ってましたから」
それから数日後、シグナルの不安を断ち切るように柏尾家から立派な結納の品が届いた。



藩に近い街道筋に一組の男女がいた。エモーションとオラクルだ。彼らはコードの祝言に出席するために三日前に江戸を発っていた。
「お兄様ったら、早飛脚で『すぐに来い』だなんて。よほど可愛らしいお嬢様をお嫁さんにお迎えするんですのね」
「オラトリオの妹だろう? 想像がつかないよ」
二人は初めて江戸を出るのだ。関所を通るとオラトリオが迎えに出てくれた。
「よう、久しぶり!」
「オラトリオ!」
「オラトリオ様、お久しゅうございます」
「これはこれは、エモーション嬢。いや、もう奥方とお呼びしなければいけないのが寂しいですねぇ」
はははと笑いながら、オラクルはオラトリオの足を踏んだ。
「さ、行きましょうか」
今度はオラトリオがオラクルの足を踏み返した。
エモーションとオラクルはそのまま柏尾の屋敷に入り、兄、そして妹たちとの対面を果たした。そこにはすっかり元気になったユーロパの姿があった。
「エモーション姉さま。ユーロパです」
「ユーロパさん…よかった、無事で…」
エモーションははらはらと涙をこぼし、ユーロパもこみ上げてくる思いに涙を堪え切れなかった。
「お姉さま…」
「俺様の祝言が終わったら時を置いてユーロパもな」
「そうなのか。良かったね、コード」
「ああ…」
コードは再会を喜び合う妹たちを廊下からそっと眺めた。
「ところでオラトリオの妹ってどんな娘?」
どんな娘と聞かれて、コードは小首をかしげた。評判どおりの美しい娘でとんでもないおてんばだが、オラトリオの妹だと言うのが全くもって信じられない。
「んー…あれには絶対に似ておらんな。兄のパルスにはよう似とる」
つまりは父・信之助と母・詩織のいいとこ取りをしたということになろうか。
そんな藤紫の美しい花がまもなくこの家にやってくる。
「ただひどいおてんばでな」
「でもそこが気に入ったんだろう?」
オラクルがくすくす笑うのを、コードはさして気にもしなかった。実は図星だったのである。



それからさらに一月ほど経った大安吉日。
音井家から花嫁御寮の籠がきらびやかに出立し、すぐそこの柏尾家に入っていった。

それぞれが幸せになりたいと願い、結ばれる。
今日はその最初の一日だった。



祝言を終えたコードは花婿の衣装を脱いで新床に向かった。そこにはすでにシグナルが白い小袖姿で待っていた。
薄暗い灯りの中で不安げな顔をしている。部屋に入るとコードは後ろ手に襖を閉めた。
「シグナル」
「あのっ…私っ…」
「いいんだ。お前は何も知らなかったのだろう?」
シグナルはこくこくと頷いた。顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうである。
「ご無礼ばかり…この縁談もお断りされるんじゃないかと…私…コードのことを好きになっていたから辛くて…」
「そうか」
コードはシグナルのそばに腰を下ろすとそのまま彼女を抱き寄せた。細い肩が震えているのがわかる。
「あのっ…」
「最初は断るつもりだったんだ」
縁談や嫁とりなど面倒くさいと思っていた彼である。しかしシグナルに出会い、許婚だと知らずに振舞っていた彼女を見てコードは考えを変えた。というより、シグナルを気に入った。なんの先入観もなく人を見ることが出来るその純粋さを、可愛いと思った。
「何の心配もせんでいい。黙ってはおれんだろうが、まあそこそこ俺様についてくればいい」
「…うん」
シグナルはようやくにっこり笑って頷いた。
その唇に、コードが指で触れてきた。
シグナルはゆっくりと目を閉じた。そして初めてその唇に、コードのそれを触れさせた。
少し長く触れ合っていたのかもしれない。でもそんなことはもうどうでもよかった。
コードはゆっくり唇を離すとそのままシグナルをぎゅっと抱きしめてそっと横たえた。



運命の花が揃い、今宵咲き誇る



時が満ちればまた、新しい運命が花開く
結ばれる喜びに震える夜に…





≪終≫





≪運命の花・完結≫
終わりました。やっと終わりましたよ皆さん! 無駄に長くなってすいませんでした_| ̄|○ 
時代劇ということでなんか無駄に細かいところにこだわったような気がして、仕舞いにはなんじゃこりゃーですよね。
わかってます、わかってるんです。私のレベルじゃこの程度なんですよ!! 畜生!! 
もっと精進してきます。
とりあえず『運命の花』はこれで完結です。長々とお付き合いいただきましてありがとうございました!
注: 文字用の領域がありません!

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