幸せになるための翼 〜シグナル18歳



民法の第何条だったかは忘れた。だがその条文だけは覚えている。
男性は満18歳に、女性は満16歳になれば婚姻を結ぶことができる。但し未成年者は保護者の許可を必要とする。



16歳で結婚できるということは知っている。
だけど16歳になったときはまだ交際のこの字もなかったので彼女は諦めざるを得なかった。だけどいつかは結婚できればいいなあと、ぼんやりとした希望は持っていた。
そしてその決意は2年後に持ち越されることとなる。


つまり、18歳になった今だ!




音井さんちの次女シグナルは18歳になったばかり。ここ2年の間にまた綺麗になったなと、長兄オラトリオはたまねぎを剥きながら目を潤ませている。
「あれ、シグナルちゃん、どこか行くですか?」
5歳になった末の弟のミラもより一層芸達者になり、音井家には笑いが絶えない日々が続いている。
シグナルはまっすぐな紫苑色の髪を翻し、しゃがみ込んで弟の髪を撫でた。
「うん、今日はコードとデートなの」
「ひゅーひゅーですね!」
「もう、ちびちゃんたら」
ミラのほっぺをつんと押し、シグナルは弟を抱き上げた。
「行って来るからね」
「あい! 頑張ってくださいね!」
「うん!」
まだ小さな弟からの声援を受け、シグナルはお気に入りの靴を履く。
今日は(個人的に)決戦の日。結果はどうあれ言うだけのことは言わなくちゃと、シグナルはぎゅっと拳を握り締めた。
ところで、シグナルの恋人であるコードとは、音井家の裏に住んでいるカシオペアさんちの御長男である。年齢はシグナルより4つ上の22歳、現在は大学の4年生である。
彼もちょうど、家を出ようとしていたところだった。
「じゃあな、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、お兄様。お戻りは?」
すぐ下の妹たちは三つ子、長女のエモーションがコードの見送りに出ていた。
帰宅時間を聞かれたコードは少し考えて言った。
「シグナルが門限付きだからな。まああまりおそくならんうちのに帰ってくるつもりだが」
「なんだ、お戻りになりますの」
背後でエモーションがつまらなそうにため息をつくのを、コードは険しい顔で振り返る。
「どういう意味だ?」
まさか自分がいない間にと心配しているコードだが、エモーションの思惑は別にある。
彼女はほほほと品良く声だけは笑いながら、その顔はといえば邪悪なくらい歪んでいた。
「エースももうお年頃、いわば今が旬、絶頂期とでも申しましょうか。花を愛でるのは勝手ですけれど、あまり大事に取っておいても枯れるだけですわよ、お兄様」
「だからエレクトラ、お前は何が言いたいのだ」
「もう、察しが悪いですわね」
出掛けのコードを捕まえてエモーションの笑顔はなおも邪悪に染まっていく。
「エースを連れて逃げる気はないのかと、そう言っているのです」
「エレクトラー!!」
「ほほほ、ご健闘をお祈りいたしますわ!」
それだけ言ってエモーションはぱっと身を翻してリビングに逃げ込む。コードはまだ少し文句を言ってやりたかったのだが、時計を見直してやめた。シグナルを待たせるのもまた面倒と思い直したからだ。
口の中でぶつぶつ言いながら玄関を出ると、門の前には既にシグナルが立っていた。デートの時には必ずシグナルがお迎えに来るのだ。
「もう来ていたのか」
「う、うん……」
シグナルがどこか怯えた様子で自分を見つめているのに気がついたコードは思い当たってああと呟いた。
「いや、エレクトラとちょっとな。いつものことだ」
行こうとコードはシグナルの腕を取って歩き始めた。
なんでもないと分かると彼女も嬉しそうにコードの腕に縋る。
「えへへ、コードとデートするの久しぶりだね」
「ああ、卒論とかなんやかんやで忙しかったからな……寂しかったか?」
コードに問われたシグナルはううんと首を振った。デートできなかったのは退屈だったけれどそれでも毎朝ちゃんとコードに会えていたから寂しくはなかった。
「寂しくないよ。それよりさ、コードぉ」
「ん?」
コードの腕にぶら下がっていたシグナルが立ち止まった。つられるようにしてコードも立ち止まる。引き止められたといったほうが正しいかもしれないが。
「あのね、コード」
「なんだ?」
「私ね、18歳になったんだよ」
彼女が生まれたときから知っているコードはああと頷いた。先日誕生日を祝ってやったので彼女が18歳になったことはちゃんと知っている。その証拠にシグナルの胸元には彼が送った紫水晶のペンダントが煌いていた。
「で、それがどうした?」
コードがそう問うと、シグナルは少し俯いて、それでも懸命に唇を開こうとしていた。
「や……」
「や?」
「約束どおり、結婚してもらいます!!」
ひゅ〜と吹き抜けた一陣の風、そして落ちた沈黙。
コードはシグナルの額にそっと手を当ててみた。それをシグナルは乱暴に払いのける。
「もうっ! 熱なんかないったら!!」
「いや、ちょっとな。今年の風邪は性質が悪いというし」
「私は真剣なのっ!!」
だが長い付き合いのコードはうろたえることなく淡々としている。
(おかしいな、これで落ちるって母さん言ってたのに……)
逆にうろたえているのはシグナルのほうだった。母・詩織の教えに従って実践しているのにコードは実にクールに自分を見つめているのだ。
「あの、えっと……」
「いくつか聞くが、構わんか?」
「え、あ、うん」
二人は道端に立ち止まって問答を始めてしまった。
「まず、女性は16歳から結婚できるというのは知っているな?」
「もちろんよ! でも16歳っていったら私ちょうどコードと付き合い始めたときだし……」
シグナルはもじもじしながら上目遣いにコードを見つめた。とりあえず彼女は一般常識だと思われることは理解しているようなので落ち着いて次の質問に入る。
「で、結婚の約束はいつしたかな?」
「私が小学校の二年生のときに……大きくなったらコードのお嫁さんになるって言ったらコードは『大人になったらなー』って」
ということはシグナル8歳、コードは12歳である。たった2年だけ同じ小学校に通ったという貴重な時間の中で交わした約束をシグナルは10年経った今でもしっかりと覚えていたわけだ。
そんな子どもの頃の約束を持ち出されてもとコードは思ったわけだが、シグナルがちょっと怒っているようなので黙っていた。
「け、結婚するのか?」
「それはもう少し先でもいいんだけど……」
コードもまだ大学生、シグナルにいたっては高校生だ。例がないわけではないがいくらなんでも早すぎる。
ふたりはしばらく佇んでいたのだが、とりあえず黙って歩き出した。
この話はまた今度だ。



翌日、シグナルが学校に行っている間にコードが音井家に乗り込んできた。
「オラトリオ!! いるなら出て来い!!」
インターフォン越しに怒鳴られたオラトリオは今更居留守も使えずにしぶしぶと玄関のドアを開けた。
しかも名指しなので仕方がない。
出迎えるとコードは不機嫌を満面に浮かべていた。
「オラトリオ! 貴様シグナルに要らんこと吹き込みおって!!」
「話が見えないんすけど、師匠……」
ぎりぎりと首を締め上げられるオラトリオ。コードの怒声に目を覚ましたパルスは触らぬ神に崇りなしとばかりに自室に戻って寝直している。
話が見えないといわれたコードは事情を説明しようと思ったのだが、呵呵大笑されるのが目に見えたのか、とりあえずオラトリオを乱暴に突き放した。
「昨日シグナルが結婚を申し込んできよったわ!! お前の入れ知恵だろう!?」
「球根……すか?」
「誰がチューリップの話をしとるか!! 殺すぞ!!」
何故か愛用の竹刀、通称細雪持参で乗り込んできたコードを宥めようととりあえず下手(したて)に出てみる。
「落ち着いてください、中でゆっくり話をしましょう!?」
「あら、コード君じゃないの?」
オラトリオの喉元に竹刀を突きつけていたコードは詩織の登場に、まるで何事もなかったかのように竹刀を引いた。
「お邪魔しております。ちょっとオラトリオに用があったものですから」
礼儀正しいコードは目上の人間に対して丁寧な言葉遣いになる。それはシグナルの母である詩織に対しても同じだった。
詩織はにっこりと笑って彼をリビングに促した。
コードは彼女こそがシグナルをたきつけた本人だとはまだ知らない。それを知るのはほんの数分後の出来事なのである。
「玄関先で聞いちゃったんだけど、コード君、シグナルちゃんにプロポーズされちゃったんだって?」
「はぁ……」
リビングに通され、茶を出されたコードは詩織の問いには丁寧に答えた。
詩織はただ笑っている。オラトリオがにやにや笑っているのが癪に障るが、彼の母親がそばにいる以上手出しが出来ない。それを察した母親が締め切りを盾にしてオラトリオを追い出してくれたので、コードはやっと息をつくことができた。
「ごめんなさいねぇ」
「いいえ」
「実はね、シグナルちゃんをたきつけた……っていうか、んー、まあ、私なのよね」
「……は?」
コードはその事実を知って呆然とするだけ。要するにオラトリオはとんだとばっちりだったわけだが、それは普段の行いが故のことなので、まあ自業自得といえようか。とにかくコードは詩織の言葉を待った。
「私がね、18歳にときに同じことしたもんだから……」
「と、言うと」
詩織はうふふと笑いながら、両手で頬を覆った。少女のような振る舞いが似合う彼女は五人の子供を持つ母親には見えなかった。ちなみに夫の信之助はシンガポールの大学で客員教授をやっている。単身赴任だ。
その信之助と詩織の出会いは40年近く前になる。ふたりは幼馴染だった。
18になった詩織は誕生日のその日に26歳の信之助にいきなりプロポーズ、そのまま引きずって両親の元に連れて行った。さらにいきなり結婚すると言い出した娘を前に、両親は呆れながらもいたって冷静に反応する。
両親も信之助という青年のことは知っていたし、娘には幸せになってもらいたい気持ちは充分にある。
だが、現実は冷静に見つめなければならない。
「18歳ではまだ早い」「音井君も働き始めたばかりで結婚するのは大変」と両親は結婚の延期を提案してみた。
ここで本当に冷静にならなくてはならなかったのは詩織だけだっただろう。
両親は結婚自体には反対ではなかったのだ。
せめてあと2、3年待ってはどうかと言っただけなのだ。しかし詩織は反対されたものと思い込み、シンガポールでロボット工学の研究員として赴任する信之助に着いて勝手に旅立ってしまったのだ。
「……」
詩織が話している間、コードはただ相槌を打つだけで一言も口を挟めなかった。
おそらく誰も挟む言葉を持ち合わせてはいなかっただろう。
彼女はなおも続ける。
というわけで両親も信之助も詩織の説得をあきらめた。
信之助の運命は彼女が生まれたときにすでに握られていたといっても過言ではなかっただろう。
二人の結婚から2年後に長女ラヴェンダーが、翌年には長男オラトリオが誕生した。ふたりはシンガポール生まれである。さらに次男のパルスと、次女シグナルが生まれ、5年前には三男のミラを設けた。
そのシグナルは性格的には母親のそれを色濃く受け継いでいるらしい。
「シグナルちゃんはね、小さい頃から『パパとママはどうやって結婚したの?』って言うからずーっと聞かせてあげたのよ。でもまさか実行するなんて思わなくて……」
「は、はあ……」
コードはようやく出された茶を口にする余裕ができた。
「で、コード君はどうなの?」
「はい?」
詩織はシグナルそっくりの無邪気な笑顔を浮かべた。いや、シグナルが本当に詩織にそっくりなだけだ。
「コード君はシグナルのこと、どう思ってるの?」
「は、いや、その……」
「正直に言ってくれていいわ。私だってコード君のことは小さいときから知ってるつもりだし」
長女ラヴェンダーとはちょうど6つ違いだ。
だが恋人の母親を前にして評価をしろと言われてもなかなかできないものだ。
コードが困っていると詩織はくすくす笑い出した。
「ごめんね、困るわよね」
「は……しかし」
「え?」
「……大切には、思っています。好かれることに対して、いやな思いはしません」
コードが呟くように言うのを、詩織は幸せそうに見つめていた。
娘が愛し、娘を愛しているこの青年がとても好ましく思えたからだ。
シグナルが弱冠5歳で掴んだ初恋、13年経った今、どんな花を咲かせるのだろう。
「シグナルにはよく言っておくからね。大学を出るまで我慢しなさいって」
「は……??」
要するにあと4年したら娘をよろしく、と言われたのだと気がついたのは、コードが音井家の裏側に当たる自宅にたどり着いてからのことだった。



「エースにプロポーズされたあっ!?」
サラダボウルを抱えたまま素っ頓狂な声を上げる妹を無言で嗜めながら、コードは不機嫌そうに茶を飲んだ。
エモーションはいけないと口を噤んだが、どうしても頬が緩むのを隠せないでいる。
キッチンにいたエララはおっとりと微笑み、ユーロパはとうとうやったかと呆れ顔で味噌汁の加減を見ている。
「で、兄様はなんて返事したの?」
ねぎも豆腐もよい具合なのでユーロパはそれをよそい、テーブルの上に並べる。
コードはぐっと詰まったが、いちいち詮索されるのも面倒と奥歯を噛み締めながら言った。
「……落ち着け、と。言っておいた」
「でしょうねぇ……」
三姉妹のなかでいちばん現実的で冷静な末妹はコードにとって唯一の救いだったはずだが、彼女にも8歳年上の彼氏がいる。
「でもお兄様、エースに対して責任はおとりになるのでしょう?」
エモーションの何気ない一言にコードは味噌汁を噴き出した。そしてそれは容赦なく気管に潜入したらしく彼は無残にもむせていた。その背中をそっと撫でるのは隣にいたエララだ。
三姉妹のなかでいちばんおっとりしている中妹はコードにとって唯一の安らぎだっただろう。あんまりおっとりしすぎている、という点は不安要素ではあったが。
「大丈夫ですか、コード兄様」
「だっ、大丈夫じゃないっ……! エレクトラ! 何の責任だ!? 何の!!」
いつもどおりに声を荒げるコード。沈着冷静なのは外面だけで、実はものすごく細かくてうるさい。
が、伊達に彼の妹をやっているわけではない三姉妹はふふふと、音だけはいい笑みを浮かべながらコードに迫った。
「なんのって……いやだわ、お兄様ったら!」
「もうとっくにシグナルと……」
「………………ねぇ」
「………………」
静かに降ってきた沈黙。コードは右手に持っていた箸を落とした。
その音だけが、答えだった。
「まさか」
「まだなにも」
「嘘でしょう!?」
あれだけべったりいちゃいちゃしておきながらまだ何もしていなかったなんてっ!!
三姉妹はとうとう黙った。黙って黙々と夕飯を食べた。コードだけがまだ固まったままだったが、それには敢えて誰も触れなかった。
触らぬコードに崇りなし。



コードはシグナルに性的な意味で指一本触れていないし、シグナルもそれを望んではいなかった。
幼い頃からなまじ一緒にいたせいなのか、彼にとってシグナルは幼い子どものままなのだ。
けれど。
18歳になった彼女は藤の花のように美しくなった。身体のラインも女性らしいなだらかな曲線を持ち、紫苑色の髪も雲のように豊か、白磁の頬に紫水晶もかくやの瞳を湛えている。
気の強いところも優しいところも相変わらず。
ちょっとおっちょこちょいで感情的だがそれはご愛嬌というところ。
コードはそんな彼女を思い浮かべてくすっと笑ったが、明るい妄想に浸っている場合ではない。
自分の未来はシグナルの婿、というレールが着々と引かれているというこの現実を打破しなくてはならない。
いや、誤解のないように言っておくと、とコードは自己弁明を始めた。
シグナルのことは嫌いじゃない。むしろ好ましく思っている。
コードとて強度のシスコンではあるがそれ以外は普通の男性、告白だってされたことはある。だがそのたびにコードの脳裏には常にシグナルの存在があって、すべて断ってきたのだ――裏切れない相手がいる、と。
彼女を裏切れないと思ったのは、何故だったのか。
(ああ、あのときか……)
記憶の糸を手繰り寄せながら、コードは天を仰ぎ、深くため息をついた。
自分の腕を目に乗せると、その圧迫感が記憶を鮮明にさせた。



コードが小学校に上がってすぐの頃。
親友が死んだ。
完治の見込みが無い、今の医学ではどうしようもない病で友はこの世を去った。
一度も学校に行けないまま。彼の存在はただ名簿の上だけに残された。
その友の名を、コードは一度だって忘れたことは無い。
「……バンドル」
小さな棺の中の小さな友。青白い顔をして、横たわっていた。
幼いコードには死の意味がよく分からなかった。ただ、彼はもういないのだということだけが理解できた。
だから、コードは泣いた。
クラス中が一度も顔を見たことのない級友に別れの花を手向けている時も、彼は泣いていた。
「……くっ……うっ」
もう会えない。彼は7年という短い生の中に何を得たのだろう。
もう聞けない。彼の優しい、声はもう。
ただそれだけが哀しいだけなのかもしれない――そして、死を悼むということはそういうことなのかもしれない。
そんなコードの頬に、ふと触れた温かい手。
「こーどにーに?」
顔をあげると、そこにはシグナルがいた。まだ3歳だった彼女は黒のワンピースを着て、コードの横にちょこんと座っていたのだ。母親同士は軽く会釈しながらもその顔に笑みを浮かべなかった。
子を持つ母親の身として、例えそれが他所の子でも、幼い子どもの死は悲哀に他ならない。
「こーどにーに、泣いてるの?」
ふっと顔を近づけてきたシグナルを詩織がそっと膝の上に抱き上げた。
「バンドル君は、コード君のお友達だったでしょう。だから、泣いてるのよ。シグちゃんも遊んでもらったことあるでしょう?」
「うん。バンドルにーに優しかった」
バンドルは心臓を患っていた。今の医学では、薬学では、機材では、技術では――。
どれひとつとして、バンドルを救うには、あるいは延命させるには至らなかった。
シグナルにとっての彼との思い出といえば、綺麗な紫色の折り紙でお花を折ってもらったことだけだ。
「にーに、もう遊んでくれないの?」
「そうよ……」
詩織が寂しそうにそういうと、シグナルは大きな瞳をじわりと潤ませた。
「バンドルにーに、かわいそう……こーどにーにも、かわいそう……」
シグナルはバンドルの眠る棺に近づいて、ひょこっと顔を覗き込んだ。幼い彼女にはただバンドルが眠っているだけにしか見えなかっただろう。そう、彼は眠っている。二度と目覚めることはないのだけれど。
「バンドルにーにぃ……おっきしてぇ。あそぼーよぉ……」
シグナルの瞳からぽろぽろ涙がこぼれた。
「コードにーにも待ってるよぉ……」
どんなに懇願しても、彼はもう彼女の声に笑ってはくれない。それが『死』なのだ。
「にーにぃ……」
幼い子どもの哀願が葬儀会場をより一層の悲しみで包んだ。
えぐえぐとしゃくりあげたシグナルを引き取って、詩織はバンドルの両親に頭を下げる。
彼の両親は涙ぐみながらも詩織に会釈してくれた。病を得てからほとんど外に出られなかったバンドル、我が子の死を悲しんでくれる友達がいることがこの最期の日に嬉しかった。
「ほら、お外出てような」
シグナルは長兄オラトリオに連れられて外に出て行った。コードは潤んだ瞳でその後ろ姿を見送る。
彼女の言った言葉は、全部自分が言いたかったことだ。
だが、言葉にならないほど彼の死に動揺していた自分がいたのだ。
そして彼が自分に言った最後の言葉を思い出す。
『シグナルちゃんと仲良くね……』



もしかしたら、亡き友はこうなる事を知っていたのかもしれない。
墓前に菊花を供えながら、コードは手を合わせていた。今日はバンドルの祥月命日だった。
彼が死んでから、もう15年という月日が流れている。
「バンドル……」
ずっとそばに居るはずだった友。道を違えても、互いに支えあうはずだったバンドル。
彼はもう、この世界に歩むべき道を持たない。ただ立ち止まってすべてを眺めているだけになって。
そのかわり、コードには守るべきものがたくさんできた。いや、それは既に存在していたのだが、守らなくてはと自覚したのはバンドルを亡くしてからだろう。
「妹たちはいつか巣立っていく……俺様の手に、何が残るだろう」
それはいつか自分の手で掴まなければならないもの。
ざあっと一陣の風がコードの髪を薙いだ。
強い風に瞬間目を閉じる。次に目を開けたときには彼の視界にシグナルがいた。
手には白い百合を持っていた。
「シグナル……」
彼女はほんの少しだけ、微笑を浮かべた。
「確か今日だと思って……バンドルにーにの命日」
今でもシグナルは彼をにーにと呼ぶ。7歳で死んだ彼は彼女の中ににーにとして生き続けていた。
白い花は魂の安寧を祈って捧げられる。
シグナルは白百合を墓前に供えると静かに手を合わせた。
「……私ね、バントルにーにと約束したの」
「ん?」
シグナルはふっと顔をあげて墓石を見上げた。
「私はまだ小さかったけどね、それだけは覚えてるの……コードと仲良くしてあげてねって。そう言われた……」
まだ3歳だったシグナルに、その言葉だけは深く残ったのだという。
「だから私、コードを……」
「俺様も、バンドルにそう言われた」
墓前だったから、ふたりはきゅっと手を握る。
バンドルは、知っていたのだ。
もう自分が長くは無いことを――たった7歳だったのに。
残される両親のこと、数少ない友達のこと、いろいろ考えて。
コードは泣いてくれるだろう。そして、シグナルも。
ぼくはもう、君のとなりを歩けないから。


だから。



「にーにの言ってること、私にはよく分からなかったの。ただコードと仲良くしてって言われたから」
「バンドルだって7歳だぞ、そんなに深い意味があったわけじゃないだろうに」
ぼくの変わりに、君が。
彼の、あるいは彼女の隣にいてあげて。
「……シグナル」
「なあに?」
約束したから。あまりにも幼すぎたけれど。
「あと、4年待て。いくらなんでも18でというのは……ちょっと。俺様も流石に自信が……」
そういう大事な話こそそっぽ向くコードだが、シグナルはそれでもいいと思えた。
だってそれがコードだから。
「うん。あと4年ね。私も大学には行きたいもん。コードと同じアトランダム工科大学に行ってね、医療機器の研究をするの」
「シグナル……お前……」
バンドルの没後に聞かされた事実――それは、当時彼の命を救えなかったのは医学そのものというよりではなく技術面に問題があったこと。
彼の心臓に緻密な手術を施せるだけの技術と機材が備わっていなかったのだ、最高峰といわれた病院にでさえ。
いや、技術は確かに確立していた。けれど数が少なすぎて、その術式が成熟するまでバンドルの心臓が耐えられなかったのだ。
「医者になる、薬剤師になる。それもにーにの供養にはなると思う。だけど、技術を向上させる道具、それを補佐する道具も大事だって……私はね、にーにはそれを教えてくれるために生まれてきてくれたんだと……そう思うの」
「シグナル……」
コードはシグナルの手を握ったまま、彼女をぎゅっと引き寄せた。
「コード……」
「俺様は先に行くからな。お前は後をついて来い」
4年という時間は埋められない。コードはいつもシグナルより先に行ってしまう。
「いやだっ、いっつもコードばっかり先に行くぅ」
「待っているわけにはいかんだろう」
「いいの。先に行っても絶対に追いつくんだから!」
隣を歩いてくれと素直に言わない恋人に、シグナルはもうと肩をすくめる。
むくれたシグナルの手をやっぱりきゅっと握りながら、コードはやれやれとため息をついた。
「むくれるな、バンドルの前だぞ」
「ならいっそのことコードの非道振りを聞いてもらうー」
「誰が非道だ、誰がっ!」
「やーん、にーにぃ、コードが怒るぅ〜〜」
墓前でいちゃつかない、暴れない。
バンドルの前だと自身に言い聞かせながら、ふたりは静かに墓所をあとにした。



彼女のプロポーズはバンドルの遺志だったのだろうか。
「なぁ、シグナル」
「なあに」
並んで歩く、その頭上には綺麗な青空が広がっていた。
「お前は、バンドルとの約束だから俺様と、その……」
「それは一割。残りの九割は私自身の意思だよ」
えへへと笑いながら、シグナルは照れくさそうに、でもコードのそばを離れない。
「そうか……」
「コードはどうなの?」
シグナルがそう問うとコードはいつものように口元をにっとあげて笑う。
「いちいち聞きたいのか?」
「聞かせて」
それは、願い。同じだと信じているけれど、それを示してほしいから。
そうしたら、信じる力は何倍にもなるから。
「ねぇ、コード……」
ねだられたコードはいやとも言えず、さりとて言わず。
彼は静かに唇を開いた。
「結婚しよう、4年後にな」
「うんっ!」
にっこり笑って頷いたシグナルと、照れながら苦笑したコードと。
シグナルは手を繋ごうとしたのだが、コードは腕を差し出してきた。
「ん」
「なにこれ」
「……抱きつかんのなら引っ込めるぞ」
そう言って引こうとしたコードの腕にシグナルは慌てて飛びついた。
「いやっ、抱きつくっ」
「うわっ」
がしっと抱きついてきた恋人はまだまだ子どものようにあどけなく、それでいてもう大人だと主張して。
「お前はぁ……」
「だってコードがいいって言ったんだよ?」
「ものには加減があるだろう……」
言いながらもコードはシグナルを引き離さない。
幼馴染から恋人になってもう2年。どんなにハチャメチャでも可愛い恋人には違いないから。



カシオペア家と音井家から絶叫が響き渡ったのはほぼ同時だった。カシオペア家のお隣に住まう城戸さんがびっくりして全員フライパンやバットを握り締めて出て来、大丈夫ですかとなだれ込んできたことは想像に難くないだろう。
なんでもないと分かると城戸さんちの少年少女は大人しく帰ってくれた。
「そんなに叫ぶことはないだろう。4年して、シグナルが大学を出たら結婚するからな」
兄コードの宣言には三姉妹の誰も反対しなかった。今は不在の祖母や両親もこの報告に賛成してくれた。
母親はやっとなのねと呟いたという。もともと母親はシグナル以外の娘さんにあの気難しいコードの嫁が務まるはずはないと早くから思っていたようなのだ。
さらにシグナルの大学卒業を待つと言ったらなんだぁと落胆されたという事実も付記しておく。
一方の音井家では、驚きはしたもののまあ自然な成り行きかと落ち着いて茶を飲んでいた。
「師匠もとうとう年貢を納めるのか」
「お前も身を固めたらどうだ、オラトリオ」
久しぶりに仕事を早く終えて戻ってきたラヴェンダーがちらりと弟を一瞥する。
が、ひとつ違いの姉にそれを言われるのもどうかと思いつつ、オラトリオはちびに牛乳を注いでやった。
「ほら、ちび」
「ありがとうでっす、オラトリオお兄さん」
ちびは大好きな牛乳を飲みながらじっと姉を見つめた。
シグナルはいつも優しくて可愛くて、ちびにとっては自慢の姉だった。もちろん、両親も他の兄姉も大好きだ。
「シグナルちゃん、お嫁さんになるの?」
「もう少ししたらね」
「もう少しってどれくらい?」
5歳児の問いかけに分かりやすく答えると、お正月を4回、になるだろうか。それは正しい解説だ。
「お正月を4回ですか、そしたらシグナルちゃんはお嫁さんになるんですねぇ」
「そうだなぁ。けど、シグナルがこの家を出て行くなんてなんか考えられねーよなぁ」
場合にもよるが大抵は結婚すれば女の子は家を出て行く。
オラトリオの口からその言葉を聞いたちびはいきなり泣き出した。
「うわ〜〜ん」
「どっ、どうしたのちびちゃん!?」
「シグナルちゃん、いなくなっちゃいやだあああああ」
ちびはシグナルに抱きついてわんわん泣き始めた。今はまだ小さいからだろうが、あと4年もすればちびだって小学校の3年生、もう寂しいなんて言わなくなるだろう。
「大丈夫、大丈夫だから。今すぐいなくなったりしないから」
「……本当?」
「うん」
「……よかったぁ」
次姉の胸でひくひくしゃくりあげながらも、にっこり笑っていた。
シグナルは弟の髪を撫でながら、思い出していた。
バンドルのことだ。
彼はまだ幼かったシグナルを膝の上に抱き上げて優しく髪を撫でてくれたのだ。
(そうだ……私は、幸せにならなくちゃ)
どんなに短い命だって、意味を持って生まれてきたのだという事実を噛み締めながら。
ちびはシグナルの腕の中ですやすやと眠ってしまった。どうやら泣き疲れたらしい。
「結婚したって、私はずーっとちびちゃんのお姉さんなんだからね……」
この器と魂がある限り。




コードとシグナルが結婚したのはこれより4年後の春のこと。
シグナルは浪人も留年もせずにきっちり4年で大学を出て、コードと結婚したのである。
「コードぉ」
臙脂の袴に藤色の振袖を着たシグナルが走りよってくる。
コードは覚悟を決めていた。
「来たか」
「えへへ。約束だもん」
そういうとシグナルはブルーベルベットの学位記をコードの前に突きつけた。
「じゃーん、音井シグナル、無事に大学を卒業しました! 約束どおりっ」
「ああ、結婚しよう」
「もう、最後まで言わせてよう」
「どうせ同じことだろうが」
そう言って笑いながら、コードはシグナルに口づけた。
「さっ、このまま婚姻届出しに行こう!」
そういうとシグナルは早速コードをひっぱって区役所に向かった。
スーツ姿の男性と袴姿の女性の組み合わせは実に珍しかったと、担当者はのちに語る。
とりあえずシグナルはこの日からシグナル・カシオペアを名を変えることとなった。




厳寒たる冬の日
君を亡くした日
麗かな春の日
君と出会った日

束ねた白百合を羽根に見立てて、君と何処までもいけるなら



巡り逝くどの季節にも必ず君がいた
巡り来るどの場面にも絶対に君がいて




≪終≫




≪昔アメダスのゆきのんは≫
コーシグ、IFのプロポーズ編です。このあとは新婚編です、(*´3`)ニョホホ
バンドルのエピソードはいつか挟もうと思っていたので、今回はいい機会でした。
リクエストくださったR様、これでよろしいですかー? 注: 文字用の領域がありません!

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