THE BEST TREASURE 世界でたった一人のあなたへ 丘陵を渡る風は冷気を含んで常緑樹の木々を乱暴に揺る。それでも細い体は屈することなく、ざわざわと葉を揺らすだけ。ここで折れるわけにはいかない。この体の中には新しい命が宿っているのだから。いつか来る――命を支え育む春のために。そのためにはこんな風などに負けてはいられない。見上げた空はどこまでも青く澄んでいて、その胸に黄金の絶対君主を抱く。たなびく雲は薄衣、常に形を変えながらどこへ流れていくのだろう。 コードはお気に入りになっている庭木の枝に止まって来るべき春を――今ここのある冬を感じていた。メタル・ボディにこの風は心地よい。現実には珍しい桜色の羽を繕ってから折りたたむ。MIRAで作られたこの体にも慣れた。見えざる未来を思いながらコードは琥珀色の瞳をゆっくりと閉じる。このまましばし、眠ろうか。 そんな穏やかな昼下がり。 「オラトリオの馬鹿!!」 耳を劈くような怒声がリビングから響いた。突然の出来事にコードはバランスを崩したが、流石はAナンバーズ、しっかりと爪を立て枝にとどまった。せっかくの時間もいつものように破られてしまった。声の主と科白から察して大方いつもの痴話喧嘩だろう。嘆息してからコードは思う。ここに来てからため息が増えた…と。すいいっと滑空して開いている窓から室内へ。鳥型だからそこ、こういう入り方もできる。リビングについてからコードはぎょっとした。シグナルがオラトリオをたこ殴りにしているではないか。といっても、使っているのは拳ではない。まあるいクッションが今回の凶器である。しかも、オラトリオはそれを簡単に腕で受けているだけでひたすらに謝り続けている。これはいったいどうしたことか。いや、だからこれが痴話喧嘩なのだろうが…。殴っているシグナルの目は本気で、殴られているオラトリオは困り顔で。 シグナルの表情を的確に表現するなら「般若」であろうか。オラトリオは弱冠16歳の美少女が怒りに燃える姿は不謹慎ながら美しいと殴られながらも思ってしまう。 閑話休題。 「だから、誤解だってば」 「うるさい! 今日という今日は絶対に許さないからね」 「事故だってば〜」 「どうやって信じろって!?」 クッションというものは凶器としてはまったく向かない。まあ、使いようにもよるだろうが。相手を撲殺したい場合には鈍器のほうが確実である。とはいえ、細かい埃が舞い、オラトリオを襲う。ロボットにとって高温多湿、埃は大敵だ。 「おい、こら、やめろって」 「うるさい!」 シグナルの手から離れたクッションが宙を舞う。戦闘型が投げ飛ばしたそれはものすごい速さで飛び、オラトリオの顔面を直撃した。 「ぶっ」 「ほう」 コードが何気なく感心する。コードにとってシグナルは長年待ち望んだパートナーでもあり、かわいい(?)弟子でもある。最新型ということもあっていまだに自分の機能をうまく使いこなせないでいるひよっこだ。しかし、彼女は多くのロボットに希望をもたらした。強くなりたいという瞳がコードを捉えて離さない。そして、コードも離れられない。言葉で毒づきながらも生まれたてのひよっこを温かい目で見守っている。そのシグナルはことあるごとに兄に喧嘩を売る。負けるとわかっていても食って掛かる。そして予想通りに負ける。シグナルの攻撃パターンは単純すぎてすぐに読めてしまうからだ――パルスいわく、戦略がない。それが今日は見事に決まった。明らかにオラトリオが手を抜いていたとはいえ、(シグナルにしては)上出来である。 「オラトリオの馬鹿!!」 最後にこういい残してシグナルは走り去った。乱暴に閉じられたリビングのドアはたわむ。大きな音に一瞬身をすくめながらもオラトリオはクッションをつかんでともにソファに身を沈めた。落ち着いたころを見計らってコードも背もたれにつかまる。 「おまえ、シグナルにいったい何をしたんだ」 単刀直入なコードの言葉に、オラトリオはちらと横目を向けただけでそのまま髪をかき回した。きっちり撫で付けられたダーティ・ブロンドがみだれ、思ったよりも長い前髪がはらりと落ちた。 「俺は何もしてないんですけどねえ」 「ならばなぜあのひよっこはあんなに怒っている?」 「はぁぁ」 オラトリオが今回の喧嘩の経緯を話した。 ―――ことの起こりは空港だった。 オラトリオが仕事を終えて本日マレーシアから日本に到着した。そのまま空港から繋がっている地下鉄へ行こうと慣れた廊下を歩いているときだった。角から突然何かが現れた。 「きゃっ」 「おっと」 オラトリオはぶつかってきた柔らかいものをそっと受け止めた。それは紺色のワンピースがよく似合う、年の頃20歳前後、黒いロングヘアの女性だった。 「すみません、ぼうっとしていて」 「いいえ、こちらこそ」 女性が深々と頭を下げ、ぐいいっと上げた。謝るべき人の顔ははるか頭上にあった。こんなに背の高い、しかもダーティ・ブロンドの人物など見たことなかったのだろう、唖然として声が出ない。もしかしたら彼の顔に見とれていたのかもしれない。左右対称の整った男くさい顔は十分に女性を魅了する。しかし、彼女も彼がロボットだということには気が付かなかった。それほどまでにAナンバーズのHFRは人間に酷似している。 「どうしやしたか?」 「あ、いえ、なんでも…あ」 彼女の視線がマフラーに注がれる。オラトリオもそこを見た。 「すみません、口紅…」 女性らしい、細く長い指がゆっくりと持ち上げて見せてくれた。そこにはこれまた女性らしい丸みを持った唇がタンジャリンオレンジのルージュでしっかりとスタンプされていた。時々きらっと光るのはグロスのせいだろう。彼女は申し訳ないといった感じでハンドバッグから何か拭くものを探している。こんなことでうろたえたりしないのが女性に関して百戦錬磨のオラトリオお兄さん、何事のなかったかのように笑ってみせる。 「美しいお嬢さんと出会った記念ですよ」 「お上手ですね」 さらりとかわしたところをみるとこちらのお嬢さんも負けてはいない。バッグの中からウェットティッシュを差し出した。 「そのままにしておけませんから、これをどうぞ」 「用意がいいですね」 「母がしつけてくれましたので」 オラトリオは差し出されたティッシュを一枚拝借して口紅を拭った。ふき取るのではなくつまむようにしないと広がって落としにくくなってしまうとのお嬢さんの助言に忠実に従った。 「取れたみたいですね、よかった」 彼女はもう一度頭を下げると、にこやかな顔で立ち去った。その後ろ姿を見送ってオラトリオも地下鉄に向かう。歩きながらマフラーを裏返しにした。さすがに口紅とつけて帰るのはみっともない。何より恋人がどんな顔をするのかわからない。このままそっと帰って、事情を話し、みのるに頼んで洗ってもらおうと思ったのである。 それがいけなかった。なまじ隠そうとしたのがいけなかったのだ。 列車に揺られること数時間。車掌の声がトッカリタウンへの到着を告げる。 のんびり開くドアをこじ開け、ホームを疾走する彼の姿は有名になった。小さな駅舎を抜けるとそこにはプリズム・パープルの豊かな髪をさらりと風になびかせる恋人の姿があった。初夏を彩る藤の花にも似た姿にオラトリオは思わず言葉を失う。どうも、この恋人の仕草にだけはいちいちはっとさせられる。気を取り直し、オラトリオは声をかけた。 「よ、シグナル、きてくれたんか」 「呼んでおいてそれはないよ」 「ごもっとも」 柔和な笑顔で抱きつき、抱きしめる。半月ぶりの恋人はこんなに柔らかく温かだったかと懐かしくなってくる。オラトリオの胸に頭を擦り付けて甘えていたシグナルがはたと気がついた。なにかがちがう。どこかがちがう。なんだろう、この違和感…。シグナルはきょろきょろと目だけを動かした。 あ、と小さく声を上げて、細い指先でマフラーをめくる。シグナルの目に赤い名残が飛び込んできた。 「なにこれ、口紅?!」 シグナルが声とともにぱっとはなれた。 「ああ、それは空港で…」 「浮気?」 にへらと笑ったオラトリオの顔が凍りつく。かと思ったら冷静に事態の説明に取り掛かる。それもシグナルの疑惑の前に簡単に打ち消された。 「んなわけないだろう」 「ほんと?」 「ほんとだって、天地神明に誓ってもいいぜ」 「ふ〜〜〜ん」 嵐になった。シグナルの突き刺さるようで冷ややかな視線が誰かに似ている…と思う―――そうだ、カルマだ。いや、そんなことはどうでもいい。何とかしてシグナルの誤解を解かなければ今日の寝床を確保できそうにない。できるなら今日は恋人と同じベッドがいい。しかしそれ以前に研究所に入れてもらえるだろうか。悪いことをした子供のようにドアを叩きながら許しを請うのだけは避けたい。とりあえず、事態の説明からはじめよう。 「シグナルちゃ〜ん、聞いてよ〜」 「………」 「シグナルちゃんてば〜〜〜」 「………」 研究所に戻る間、ずっと口をきいてくれなかった。むすっとしたまま田舎道を歩く。 そして。 場所リビングにいたってとうとうシグナルが切れた。第×次痴話喧嘩の勃発である。 ―――コードはあきれてものが言えなかった。これ以上どうコメントしろというのだ、このバカップルは。 それでもコードは最年長者として、シグナルのお師匠様としていつものように冷静に毒づいた。 「まあ、普段が普段だからな」 「師匠、そりゃないですよ、俺ぁ、シグナル一筋なんですから」 「言ってろ、それでマフラーはどうした」 「あああ」 オラトリオの手が今度は髪をがしがし掻いた。先程よりも激しく乱れる髪に伊達男が台無しだ。背中には『情けなさ』をこれでもかというほど背負っている。 「シグナルが没収だって持っていっちまいましたよ」 「そうか」 コードはそっと目を閉じた。そして思う。今ごろシグナルはどうしているだろう。部屋で泣いているだろうか、それとも怒りのあまり暴れまわっていないだろうか。どちらにしてもプライドだけは人一倍高い子である。駅前からここまで暴れなかったのはシグナルなりの配慮であろう。 『だいたい俺様ははじめから反対だったのだ』 そう、コード兄様は二人の交際に反対だったのだ。シグナルは長年探し求めた自分のパートナーだ。できれば自分と一緒にいて欲しかった。しかし、シグナルも一個人である以上強制はできない。いつか誰かを愛し、愛されるだろう―――そう思うからこそ、コードはシグナルの恋愛に関して口をはさむつもりは毛頭なかった。たとえ誰かを愛しても自分はパートナーとしてこれからもずっとシグナルという未来を感じて生きていくだろう。 だが、それも相手によりけりである。よりによってAナンバーズ一すちゃらかで女好きのオラトリオがシグナルの恋人として収まってしまった。オラトリオは声高に『シグナル愛してる!』と叫ぶし、シグナルもシグナルで寄ると触ると『オラトリオ♪』で一向にはなれようとしない。 ―――オラトリオではシグナルを幸せにできない。 シグナルを愛して止まない青年HFRの一致した見解である。彼らは日夜(密かに)訓練に励んでいる。シグナルをいつか、『オラトリオ』という悪夢から解放するために。 「おまえのことはどうでもいいがな、シグナルを泣かせたら承知せんぞ」 コードの嘴がきらりと光った。使いようによっては最強の武器である。 「……わかってますよ」 オラトリオは立ち上がる。何処かへ逃げてしまった恋人を探すために。鬼ごっこは今始まった。 シグナルちゃ〜ん、どこかなぁ〜 おんやぁ、いないねぇ〜 いけないいけない、本気を出さないと。 研究所の周囲はおろか、浴槽の中まで探した。あとは個人の部屋である。一部屋一部屋丁寧に聞き込みにまわる。が、これといって芳しい結果は得られなかった。のこるはここ、みのるの部屋である。まさかここに逃げ込んだとは思えないが探していないのはここだけだ。オラトリオの手がすうっと挙がった。瞬間、中から声がした。そっと聞き耳を立てる。 『あとはアイロンがけね』 『あ、ぼくやります』 『そう? やってみる?』 『はい』 アイロン?何をしているのだろう。オラトリオはドアに張り付いた。盗み聞きをするなんてはしたないが、そんなこと今はどうでもいい。 『でもびっくりしました、あんなに簡単に落ちるなんて』 『意外な盲点でしょ、覚えとくと便利よ』 『もうしたくないですけどね』 あははと笑いあう声がする。ひとりはみのる、もうひとりは探し人。オラトリオはにやりと笑ったことに中のふたりは気がついていない。 「みぃつけた」 口元が歪む。オラトリオは壁に身を押し付けた。シグナルがでてきたところを見計らってナイスキャッチと、こういう計算である。 果たして…計算どおり。みのるの部屋から周囲を窺うように出てきたシグナルの背後に大きな人の影。 「探したよぉ、シグナルちゃ〜ん」 「えっ? あっ…」 あからさまにいやそうな顔をして一目散に逃げ出そうとするシグナルをオラトリオは簡単に捉えた。そのままお姫様抱っこで掻っ攫う。 「みのるさん、ちょっとばっかしシグナルをいただいていきます!!」 「夕飯までには帰るのよ〜」 「はいなぁ〜〜」 「ばっ、離してぇ――!」 ちょっとずれた会話もここでは当たり前。オラトリオはお姫様をさらい、田舎道を疾走した。かくれんぼは終わり、これから行く当てもない逃避行が始まる。 とはいっても大して広くもない田舎町のこと、ふたりの行き着く先は大抵公園と決まっている。 「着いたぜ、シグナル」 「……いつものとこじゃない」 オラトリオがシグナルをゆっくりと下ろし、途端背後から抱きすくめる。じたじたと暴れるシグナルを簡単に押さえ込めるのはオラトリオのほうが大きいからである。 「離してってば、私はまだあなたを許したわけじゃないよ」 「だっておまえ話聞いてくんないじゃん」 「聞いてあげるから離してよ!」 オラトリオがそっと離した。やっと自由になったシグナルは一息ついてオラトリオを睨むように見据える。 「そう怖い顔すんなって、聞いてくれよ、本当に事故なんだよ」 やっと事情が説明できてオラトリオはほっとした。シグナルもこれが作り話ではないと納得してくれた。 「そういうことなら…許してあげる」 憮然とそう言い放つシグナルに苦笑しながらオラトリオはシグナルの胸元が妙に膨らんでいることを指摘した。ずっと気になってはいたのだが、余計なことを言って怒らせるのは得策ではないと黙っていたのだ。見れば白いものがちらりと覗いている。 「ああ、これ」 シグナルがデルフトブルーのジャケットから取り出したもの。白くて長い布。シグナルは片手にしっかり握ってオラトリオに屈むように指示した。 「こうか?」 「そのままだよ」 シグナルの手がオラトリオの首にかかる。シグナルは簡単に乗せてから形を整えた。それはふわりと所定の位置に戻る。新品のように綺麗なマフラーが戻ってきた。でもこれは没収されたのに…? あ、まさか…。オラトリオの瞳がシグナルをじっと見据えた。菫紫の視線に気がついてシグナルが僅かに笑った。 「洗ってあげたの。いつまでも口紅つけたまんまじゃみっともないでしょ?」 後ろ手を組んでにっこり。優しい笑顔。シグナルはつかつかと近づいてオラトリオの胸にこつんと額を当てた。 「みのる奥さんに叱られちゃった」 「え…」 みのるが? めったに怒らないあのみのるがシグナルを? 「もっとオラトリオを信じなさいって。でなきゃ、オラトリオが可哀想だって」 おもわず、シグナルを抱きしめる。そして心でみのるに礼を言う。 いつも自分を救ってくれる――昔はみのる、今はシグナル。この二人に出会わなかったら自分はきっと生きてはいけなかった。誰かを愛し、愛され生きていくことなどできなかったはずだ。 『自分はこんなにも愛されている』 オラトリオの中に熱いものがこみ上げた。 「だから…ごめんね。オラトリオが浮気するなんて思ってもなかったけど……やっぱり心配なんだもん」 好きだからさ、腕の中で迷いもなく微笑むシグナルに目頭が熱くなる。 こんなにも思われているのに自分はどうしてあんなに軽はずみなのだろう。すぐにでもきちんと話せば良かった。そうすればこんな遠回りをしなくてもすんだはずだ。 自分を思ってくれるからこそ……嫉妬する。そうさせてしまったのは自分自身。 「……おめえが謝んなよ、悪いのは俺なんだから」 「オラトリオ…泣いてるの?」 「馬鹿、泣くかよ、こんくらいで」 巨体を折り曲げるようにオラトリオはシグナル肩に顔をうずめた。 抱きしめたこの子は大切な宝物 無くしたくない だから――絶対に幸せにしてみせるから ―――覚悟しろよ 「帰ろっか、もうすぐ夕飯だよ」 日はもう傾き、激しさを忘れたかのような静寂を呼んだ。街を金色に染めていく。 促されてオラトリオは歩きだした。つないだ手はそのまま――どうか離さないで、愛しい人よ 「今度また事故ったらちゃんと言ってよ、私が洗ってあげるよ」 「……おう」 THE BEST TREASURE 世界でたった一人のあなたへ こんなに小さな自分だけど あなたへの思いは誰にも負けない だから――― 『そうだよ』 YOU′RE MY TREASURE I′M YORE TREASURE 失えないよ オラトリオの胸に新たな決意が去来する。 ≪終≫ ≪反省≫ なんじゃコリャオラシグ劇場。激情可です(笑)。定番『口紅…どこの女よ!』っていうのをやってみました。 シグナルちゃんがかわいいだけのお話も書いてみたかったのです…本当にそれだけなんです、信じてください。 と言いますか、いまどき服に口紅っていうシチュエーションはあるのか!? と思いつつ。 |