セレストブルー〜至上の天空〜 空はどこまで言っても空 見紛うことなき空 一瞬として同じ光景は描かないけれど 空はいつでも『空』として存在している。 「ん〜、いい天気」 トッカリタウン×丁目×番地。ここにかの有名なロボット工学者音井信之介の研究所がある。 その名も『音井ロボット研究所』そのまんまである。 薄緑の壁に濃緑の屋根。2階建ての洋館風の建物は一見すると木造だが、一応鉄筋造りなのだ。そうでなくて何が研究所か、ロボットを作るのだからそれなりの設備を要する。ゆえに鉄筋でなければならない。まぁ、ここにいる数体のHFRたちが派手にぶち壊してくれるからあんまり意味はないが。 そしてここはだだっ広い。住居も兼ねているのでキッチン、リビング、ダイニング、研究室は1、2、3。とにかく部屋数が多い。建床面積が広いと屋根が広い。ある意味では至極当然である。 そんな屋根の隅っこになにやら2本の棒。はしごのようだ。庭先から屋根の先にことんと乗っけてちょっと揺すってみる。うん、大丈夫だ。 とんとん、一段一段ゆっくり上がっていくのは我らが愛すべきAナンバーズ最新型<A-S SIGNAL>その人である。踝まである長い髪は排熱用で決して製作者の趣味ではない。プリズムパープルに輝くそれを踏んづけないように気をつけながら足をかけ、手を伸ばす。戦闘型だから飛び上がってもよかったのだが、別に無理をすることもないし、ご近所の方々を驚かすこともない。 昇りきってしまうと今度は猫のように屋根を這う。頂上まできてしまうと、シグナルは先のほうに立って両腕を広げた。安定したバランス感覚が製作者の腕のよさとシグナルという機体の高性能さを物語った。 このポーズは最近<ORACLE>で見た映画のワンシーンだ。なんでもかなり好評だった映画で観客動員数も多かったという。船首にたってヘッドフィギュア気取りで両腕を広げる女性とそれを支える青年の温かく切ないこのシーンには数多くのパロディが存在した。 シグナルも何となく真似てしまう。今ここに支えてくれるべき恋人はいないけれど。 見渡せば常緑樹の森は少し茶色ががって、かわりに針葉樹が冬の空に凛として立っている。その向こうにきらきら光るのがいつも信彦と遊びに行く湖だ。生まれ育ったこの田舎町は今日ものんびりと昼下がりを満喫している。 反対側に目を向ける。まっすぐに伸びた黒い線路の上を汽車が走っている。見かけはレトロなSLだが、あれもコンピューターで制御されており、音もいたって静かだ。吐き出される煙は雰囲気を出すためのフェイクスモークである。ちらりと駅のほうを見やったが、すぐそばの木が邪魔をしてよく解らない。 う〜ん、と、シグナルが背伸びをする。ふと、視界に何かが入った。のんびりと歩いているあの人――ここでは珍しいダーティ・ブロンド、アイボリーのコートに真っ赤なトルコ帽をちょこんと乗せた大きな人。 待ち人来たりて。彼こそ<A-O ORATORIO>。シグナルにとってはいちばん上の兄であり、現在は恋人である。一部、『現在の恋人』といってほしい御仁もおありだろうがこのふたりを引き離すのは容易ではあるまい。それはまた、別のお話。 「オラトリオだっ♪」 シグナルは屋根の上に座ってオラトリオの観察を始めた。まだ遠いが、戦闘型の視力を持ってしても見えないという距離ではない。210センチの彼を見下ろす機会なんてめったにないから、シグナルはわくわくする。しかしそれも、脳裏をよぎるひとつの疑問にかき消される。 「あれ? 戻ってくるのって今日だっけ?」 たくさんの?マークを頭に乗っけてシグナルは記憶を導く。ロボットだから忘れるはずはないのに…と思いながらも不安になって携帯電話の画面を覗く。アクアマリンのこれはオラトリオからもらったふたりだけの秘密の通信手段、誰も知らない回線である。画面には新着メールはおろか、着信さえなかった。シグナルはほっとする。 じゃあ何で、オラトリオはここにいるのか。いつもなら『迎えに来い』って言ってるも同然のメールをくれるのに…。 「あー、もしかして……」 シグナルは思い当たる。オラトリオは黙っていきなり抱きついて、びっくりする私の反応を見て、からかって遊ぶ気なんだ。そうは布団屋が下ろさないぞ……あれ? なんか違ったっけ? まぁ、いいや。 正しくは『問屋が卸さない』である。格言は正しく覚えようね、シグナルちゃん。 今日はこっちがびっくりさせてやるぞ、シグナルはいたずらっぽく微笑んだ。 屋根の上から距離を測る、100…50…10、9、8、…4、3、2…門の前。今だ! 「オラトリオ♪」 オラトリオの足がぴたっと止まる。今確かに呼ばれたような…。彼がこの声を聞き違えるだろうか、もしそうならそれは聴覚システムの異常だと彼は思うだろう。仕事疲れと深い愛ゆえの幻聴だとは決して思わないのである。オラトリオはきょろきょろとあたりを見回す。当然背後も。それでも、姿が見えない。さっきから自分を呼ぶ声は聞こえているというのに。 「オラトリオ、ここだよ、上」 「上だぁ?」 オラトリオが手をかざして見上げた先にきらきらと紫苑の光が待っていた。流石に上までは確認しなかった。苦笑交じりにオラトリオは声をかける。 「なにやってんだよ、そんなところで」 「ひなたぼっこだよ、天気もいいから。オラトリオもおいでよ、あっちにはしごあるからさ」 細い指が示した方向には白くて長いはしごがあった。オラトリオはそのはしごがしっかりしていることを確認してから足を乗せ、手をかけた。コートやマフラーの裾を踏まないように慎重に足を運ぶ姿は先ほどのシグナルのそれより洗練されて見えた。 ぬっと屋根の上に顔を出すと長く豊かな髪をなびかせながらシグナルが満面の笑顔で待っていた。 「久しぶりだね、オラトリオ」 「びっくりさせてやろうと思ったのにこっちがびっくりしちまったぜ」 「ふふっ、いつも驚いてばかりじゃ能がないもんね」 オラトリオがシグナルの横にゆっくりと腰を下ろした。小春日和でぽかぽかして、ここは本当に気持ちがいい。 「いいな、ここ」 「でしょ?」 シグナルがそっと顔を近づけ、目を閉じた。キスをねだられていると悟ったオラトリオがふんわりと口づけた。これがご帰還の挨拶の代わりとなる。 「ほんとにいいとこだな」 「いい天気だしね」 「邪魔がはいらねえだろ?」 「……そうだね」 再び交わした口付けは長くて深い。シグナルの頬を両手で包み、シグナルの手がオラトリオの手をさらに包んだ。暖かな風だけが気まずそうにふたりの横を通り過ぎた。 見つめ合う瞳は薄くて濃い紫色――アメジストはシグナルの、ヴァイオレットはオラトリオの――人口宝石とは思えぬ輝きが互いを映し出した。 シグナルがことんと体を預けるとオラトリオは片手でやんわりと抱いた。のんびりとした雰囲気をぶち壊さないのは流石、自称『恋愛の達人』オラトリオお兄様である。 見上げる空 果てしなく 永久に広がる 「綺麗だね、冬の空って」 「空気が澄んでるからな」 凛として、それでいて冷たくない青が目の前に広がっている。 「シグナル」 「何?」 「もうすぐ梅が咲くから、咲いたら見に行こうな」 「うん」 ここ数日の好天で気の早い梅の枝の先端は心なしか膨らんでいるかのように見えた。しかし、天気予報によると、明日は寒冷前線が通過するから、また寒い日が戻ってくるらしい、残念ながら梅花誇れる早春はまだ先のようだ。それでもデートの約束はいつだって嬉しいに決まっている、シグナルは空の向こうに潜む春をしっかりと見据えるかのように目を細めた。 春は曙――朝日が昇ってだんだん白くなる山際。細くたなびく紫の雲。 うららかな日差しに梅、桃、桜。 夏は夜――月は当然、闇もなお。 滴る雨、飛び交う蛍に花火が咲いて。 秋は夕暮れ――カラスも帰るぞ 山向こう 風の音 虫の音 密やかに 冬は早朝――積もった白銀 霜も降り 暖かな部屋に笑いあう人々 ここには綺麗なものがたくさんある。太陽と地球が織り成す季節の変化によって色彩を変える空。 「私、いろいろ見たいな」 「見れるさ、その気になったらな」 生まれたての彼女はまだあまり物を知らない。基本データとしてそれなりのことはインプットしてあるだろうが、まだまだ使いこなせないでいる。天然だから、出来立てだからとだ庇われるのがいやでシグナルは勉強を始める。最近はN○K教育をよく見ているとみのるが言っていた。<ORACLE>でも、オラクルから本を借りて読んでいることが多くなった。シグナルが勉強に励む姿を誰も笑ったりしない。むしろわからないことは何でも聞いてくれと言いたくなるほど熱心だった。ときどきその質問が多岐にわたって時間がなくなってしまうこともしばしばだったが。なんだかオラクルといい勝負だ、と、コードが言っていたのを思い出して、オラトリオはひとりで笑った。 「何がおかしいの?」 「あ、いや、なんでもねえ」 かみ殺した笑いを含んだままの唇でシグナルの額に口づける。くすぐったそうに片目をつぶる。 「こういう色の空、なんていうか知ってるか?」 「なんていうの?」 色についての知識に乏しいシグナルはいつものように何気なく訊ねた。傍らに恋人のぬくもりを感じながら。 オラトリオは眩しそうに空を見つめている。 「セレストブルー、至上の天空って意味だ」 「へぇ、そうなんだ」 色にもいちいち名前がある。人間ってなんにでも名前を付けたがるんだなぁ、と変なところに感心しながらシグナルは瞼が重くなってきたのをこらえきれなかった。 「シグナル?」 反応がなくなった恋人の顔をそっと覗くと、オラトリオは思わず微笑んだ。 「寝てやがる…」 寝つきのよい妹をしっかりと抱き、オラトリオは遥かなる天空に思いを馳せた。そっと、シグナルを見やる。すやすやと眠る恋人の顔に一変の曇りもなかった。 「愛してるぜ、シグナル」 彼の囁きが聞こえたかどうかはわからない。 セレストブルー それは至上の天空 この空の向こうに何が待っていてもきっと大丈夫 その瞳に映る未来を信じているから しばらくして。 夕方になったのでそろそろ降りようとしたところにはしごがなくなっていた。誰か(おそらく洗濯物を取り込みに来たカルマあたりだろう)が気づかずに片付けてしまったらしい。仕方なくシグナルが屋根から飛び降りてはしごを持ってきたのでオラトリオは無事に降りることが出来たのだが、それはちょっとだけ未来のお話。 ≪終≫ ≪やれやれ反省文≫ 今回は第76話(コミックスでは12巻65ページ)の扉絵からヒントを得ました。だってなんだか気持ちよさそうなんだもん。如月の自宅は周囲ビルばっかりなんであんまり日があたらない挙句、木造、瓦屋根なので登れない…と。桜ばかりじゃなくて梅や桃も見てやれよ…ってことで(笑)。ひとりタイタニックごっこをするシグナルを書いたのは私くらいなもんか(世界は広いのでどなたかいらっしゃると思うんだが)。 ≪おまけっ!≫ シグナル:ねぇねぇオラトリオ オラトリオ:なんだぁ、シグナル シグナル:『やおい』って何? オラトリオ:ぶーーーーっ(紅茶を噴き出す) シグナル:うわっ、きったないなー オラトリオ:おまえ、突然何言い出すんだよ シグナル:だって、如月が『オラトリオに聞いてみろ』って言うんだもん オラトリオ:……(如月、あとでシメる) シグナル:ねぇ、『やおい』ってなに? オラトリオ:『やさいは・おいしいから・いっぱい食べよう』の略だ(やけくそ) シグナル:へぇ、そうなんだ……あれ? だったらなんで如月はすぐに教えてくれなかったんだろ、なんか笑ってたけど…??? オラトリオ:……(如月、今すぐシメる) 如月はもちろん、意味もわかった上で脱兎の如く逃走♪ |