梅花誇れる春の君へ 時劫は万象を拉し去るもの 悠久にわたる時間は変ぜしむ 名称も 形象も 本性も して 運命も 希望に満ちた明日のために 漆黒の空に浮かぶ月は間もなく満たされようというもの、さやかなる月影が太陽の光を映して地上に注いだ。紫苑に輝く髪を軽やかに揺らしながら、シグナルはオラトリオの一歩先を歩いていた。この道の先に梅の木ばかりが植えられている場所がある。小さいけれどちゃんとした梅林風情で、季節がら多くの人が足を運んでいた。 今年は例年よりも少し早く咲いている。 ふたりがこっそり研究所を抜け出して真夜中の散歩に出たのは明朝早くオラトリオが仕事で海外に発ってしまうためだった。今度は長くて、ちょっと戻ってこれそうにはない。現実空間でこうしていられるのも、今回は、今夜が最後になる。 シグナルは後ろ手に手を組んで少し俯き加減に歩いた。 「オラトリオ…」 シグナルがくるっと振り向いた。遅れて揺れる長い髪がふわっと少女を包む。緩やかな流れを簡単に裁いて、シグナルは少し寂しそうに笑った。 「…寂しくなっちゃうね」 「…そうだな」 オラトリオも菫紫の瞳を細めて微笑んだ。せっかく恋人同士になったというのに仕事は残酷にも恋人達を引き裂く。 「悪いな、仕事ばっかで」 「それは言わない約束だよ」 蝶のようにひらりと、シグナルはオラトリオの腕に抱きついた。少女らしいあどけない顔がほんのりと笑う。 ちょっとだけ、わがまま。ちょっとだけ、寂しいって言ってみただけ。 本当はわかっている、オラトリオは仕事をしに行くのだということ。そしてそれはいつも高い機密性を帯びていること。 どんなに駄々をこねてついて行きたいといっても、それはオラトリオを困らせるだけだということも、ちゃんとわかっているから何も言わない。そっと見送る。 「本当はもっとお前のそばにいてやりてえけどなぁ」 「なに言ってるの、仕事してるオラトリオもかっこいいんだから、がんばってよ」 「お、嬉しいこといってくれるねぇ、おにーさん、やる気でたよ」 腕を絡ませたまま握った手はとても温かくて優しい。 そのまま二人は歩きだした。 「もうすぐだぞ」 「うん」 細い枝に紅梅、白梅。 色を違えず、咲き誇る。小さい花弁にもかかわらず、甘い香りがふんわりと漂った。紅梅の中にも、濃い紅と薄い紅とが互いに妍を競っている。負けじと白梅は白さで勝負。月の光を浴びて清楚に輝いた。ここに植えてある梅はすべて一重咲きだった。 「うわ…」 シンプルながらも簡単の言葉を漏らすシグナルに苦笑しながら、オラトリオはシグナルを促す。シグナルは木に近づいてみると、指先でそっと花を包んでから顔を近づけた。独特の香りが鼻をくすぐる。 「綺麗だね」 梅はバラ科の落葉喬木だから、花はとても小さなバラ、木はそんなに高くない。変種が多いから、一見しただけでは何の梅かはわからない。シグナルが梅の花をちょっと見下ろすようにして立っていた。シグナルと木がちょうど同じ高さだ。その横にオラトリオが立つと、梅の木はますます縮んだかのようにみえてしまう。濃い紅の花弁にそっと触れてオラトリオも香りを堪能した。 「梅は断然紅梅だな」 「なんで? 白いのだって綺麗なのに」 「俺が言ったんじゃねえよ、昔のおねーさんがそう言ったの」 オラトリオが言った昔のおねーさんとは、清少納言のことである。彼女は随筆『枕草子』の中で「木の花は濃いのも薄いのも断然紅梅!!」と言っているのだ。こういうところでさらりと古文が出てくるあたり、さすがは超AIコンピューター<OR ACLE>のスペアである。二重経験蓄積システムは伊達ではないということか。 それはともかく、シグナルの顔がちょっとだけ険しくなった。「おねーさん」というフレーズに反応したらしい。どうも、オラトリオは女好きでいまいち信用がならない。けれど、真剣な眼差しで見つめられて、ついでにファーストキスまで奪われてしまったシグナルはつい、オラトリオを受け入れてしまっていた。どうしてそんな気になったのか、今となってはよくわからない。でも、オラトリオが『好き』だった。かけがえのない兄であり、大切な恋人だ。だから、気になる。とにかく、「おねーさん」が誰であるか、聞いてみた。 「誰? 昔のおねーさんって」 「清少納言」 何処かで聞いたな、と思いながらシグナルが首を傾げた。顎に指を当ててぶつぶつ考え込んでいる。オラトリオはにやっと笑って答えを待った。 「…『枕草子』書いた人?」 「おっ、よく知ってんじゃん」 「勉強してるもん」 ぶい!と元気よく指を突き出したシグナルが何となく、可愛い。誉め言葉とともに頭をなでるとシグナルがえへへと喜んだ。 「N○Kでやってたんだ」 生まれて間もないシグナルは経験値不足のためか、馬鹿だ、間抜けだと罵られることが多い。それでなくても、シグナルは人一倍プライドが高い。ちょっと前ならからかわれると悔しくてシクシク泣き出していた彼女だが、最近は大人しく勉強している。テレビを見たり、本を読んだり、特訓をしたり…、どんな小さなことでもMIRAは情報を蓄積する。持ち前の好奇心と向上心がシグナルを成長させていった。最近のお気に入りはN○K教育だそうだ。オラトリオは単純な情報源に苦笑を禁じえない。 「なにがおかしいんだよ」 「いや、別に」 何とか笑いを納めて、オラトリオは姿勢を正した。シグナルがみているN○K教育は、午前はほとんどが小学生向けだ。設定年齢16歳のシグナルがそれらを真剣にみているのをオラトリオは想像して笑ってしまったのだ。むーとむくれるシグナルを宥めながらシグナルの傍らに立つ。月光に照らし出される紫苑の髪の流れが花のように輝いた。その流れをひとすじすくってふわりと口づける。途端、シグナルの表情が緩んだ。なんだかんだ言ったって、結局は、首ったけってこと。 オラトリオはシグナルのご機嫌がなおったことを確かめてから抱きしめた。求めに逆らわず、シグナルも恋人の大きな背中に腕を伸ばす。 こうしている時間が、いちばん幸せ。 でも、しばらく出来なくなる。 今はただ、あなたのぬくもり それだけでいい。 「オラトリオ」 「なんだ?」 シグナルは上目遣いに恋人を見つめた。紫の瞳が月の光を取り込んでさらに清涼に光る。 「気をつけてね」 「ああ」 「無事に帰ってきてね」 「もちろん、おまえが待ってるからな」 「絶対だよ?」 「わかってるって」 その笑顔が自信たっぷりで、シグナルは思わず苦笑する。 「浮気もだめだよ」 「おめえみたいな可愛い恋人がいるのに浮気なんかするかよ」 当てられるのはごめんとばかりに梅の花が僅かに方向をそらした。月は変わらず淡い姿を夜空に映し出していた。 何となく顔をあわせ、何となく口づける。 目を閉じると感じる――あなたの声、匂い、微かな甘さ、温かく柔らかい肌 そして あなたという存在。 「ん…」 離れていく唇が寂しい。 菫の花咲く早春の朝。研究所の玄関先はにわかに騒がしかった。 「じゃ、行ってきますわ」 「気をつけて行くんじゃよ」 「はいな」 「私、送ってきます」 にへらと笑って研究所を後にしたオラトリオの横をシグナルがとてとて歩いている。日が昇ってまだ1時間くらい、あたりは少しずつ明るくなっていた。 「汽車って何時?」 「まだ大丈夫だよ、8時半のやつだからな」 懐中時計を仕舞って、オラトリオは笑いかけた。そのまますっと手を伸ばす。シグナルも、何とはなしにそれをとった。 「そっか」 手をつないで歩く朝の田舎道の空気は少しひんやりと冷たかったが、ロボットであるシグナルたちには心地良かった。言葉もなく、とことこ歩く。 「シグナル」 「何?」 「次は…桜が咲く頃に戻ってくるからな、花見しような」 「…うん」 精一杯の笑顔でシグナルは答える。オラトリオが、心配しないように。 間もなく、汽車がやってくる。ホームで、駅員が旗を振って安全を確認していた。ベンチに座ってそれを眺めながらオラトリオはシグナルの肩を抱いていた。残りの一瞬までそうしていたいほどに、ふたりはゆるぎない思いで満たされている。ことんと頭を預けていたシグナルがうにゅうにゅと体の向きを変えて顔を上げた。 「……オラトリオ」 「あん?」 「…待ってるからね」 「おうともよ」 音がする。ゴトンゴトンとけたたましいまでの音を立てて汽車が入ってきた。黒塗りのSLはコンピューター制御で、吐き出される煙は環境に気を使ってフェイクスモークを使用している。 マイク越しに駅名が呼ばれても、降りる人間はいなかった。かわりにオラトリオが車上の人となる。 「行ってくるからな」 「いってらっしゃい」 最後にふわりと口づけて。それが離れた途端、ドアは無情にも閉まった。 『発車します、白線の内側までお下がりください』 警笛が鳴り、車輪が動き始める。窓越しにお互いに手を振って――汽車は地平の向こうに消えた。 見えなくなるまで、シグナルはずっと手を振っていた。乱れる髪は風に遊ばせるままにしている。紫苑の髪から、きらきらと光が舞った。 「…行っちゃった」 小さく溜め息をついてシグナルはホームを後にした。 次は桜が咲く頃、だいぶ先だった。駅前に植えてある桜の樹はまだ細い体をしており、蕾はついていない。まだ桃の花も咲いていないのだ。 「…電脳空間で会えるから、ま、いいよね」 シグナルはそっと、桜の樹に触れた。僅かに聞こえる鼓動は桜か、自分か。 見上げた空は柔らかな青だった。あの空の向こうに旅立った恋人の顔を思い浮かべる。感傷に浸るにはまだ早すぎたが、それでも、急に寂しくなって桜の樹にこつんと額を当てる。判っていても、本当はすごく寂しかった。でも、言えなかった。『私と仕事とどっちが大事?』なんて言えば、オラトリオは迷うことなく自分をとるだろう。しかし、それは同時にオラトリオという存在を否定する材料にもなる。 ――でも。休暇になったら、そのときは思いっきり甘えればいい。みつめあって、キスして、抱きしめあって…。 そう、花見の約束をしたんだ。手作りのお弁当を持ってふたりで桜咲くあの公園へ行くんだ。 これでもかというくらい愛しあえばいい。それまでにもっともっと素敵な自分になっていなくちゃね。 シグナルはふと顔を上げた。その顔は新たな未来へ向かう明るさに満ちていた。 「早く咲いてね」 ぽん、と願いを込めて叩く。それに応えるように梢が揺れた。 早春の風に背中を押されるように、シグナルは研究所へと戻っていった。 これから先の未来を あなたとともに見届けよう 『死』が我らを別つその日まで この思いを届けよう 梅花誇れる春の君へ ≪終≫ ≪ごめんなさーい≫ 花見の約束したってだめじゃーーーん、ん、ん、ん、ん…(エコー)。えーっと、桜ばっかり見てないで梅も見てやれってことで。 すみません、脱兎の如く逃走します!! ぴうーーーーーーー。 ただなんとなくいちゃいちゃしてる二人が見たかっただけです。それだけです。それだけ…なんです…。 |