月の夜に会いましょう 漆黒の闇を広げる夜を遮るかのように浮かぶのは満月。 不夜城の明かりはただ一人だけを追っている。 「今日という今日は逃がさねぇぞ!」 「何をぐずぐずしている! 早く追うんだ!」 ばたばたと駆けだしていく警官たちの前を走っている犯人はどう見たって10代後半だった。黒のレザーコートに身を包み、ロングブーツを履いている。カンカンと高い音で大理石の廊下を走り去る影を追いかけて鮮やかな桜色が走り出た。 「さっさと追いつかんか、オラトリオ」 「師匠が追いつきゃいいでしょう」 と言いつつもオラトリオはばっと群を抜いた。長身の彼がずんずんと犯人との距離を詰めていく。背が高いぶん足の長さも半端じゃない。 このまままっすぐ行けば突き当たりになる。もう袋のねずみだ。 案の定犯人は廊下の端に突き当たってしまった。そこには窓がはめられているが強化ガラスなので割って出ることは出来ない。犯人はくるりとこちらに向き直った。オラトリオもふと足を止める。 「さぁ、観念しな。もう後はないぜ?」 オラトリオは手錠を手に一歩一歩近づく。すると犯人はふっと微笑んだ。 「驚いた…。まだ数回しか盗みに入ってないのにここまでぼくを追い詰めるなんて…」 「警察を甘く見るなよ」 「…そっちこそ、ぼくを甘く見ないことだね」 言うなり犯人はショルダーベルトのポケットからなにかを取り出して投げつけてきた。 「うわっ…」 「な、なんだ?」 ぶわーと広がる煙幕! そしてガンという音。煙を払うと割れないはずの強化ガラスが割られないかわりにきれいに外されていた。 「惜しかったね。じゃあぼくはこれで帰るよ」 犯人はするりと窓の外に身を乗り出す。ここは10階だ、飛び降りれるはずがない。オラトリオは慌てて犯人を追い、身を乗り出した。そしてちっと舌打ちする。 落下していく、小さな人影。 「ちくそー、また逃げられたか…」 「下にも配備しとるだろうが、連絡をとらんかい!!」 コードの蹴りが容赦なく背中に決まったがオラトリオは顔色すら変えずにため息をつく。 「無駄っすよー、いつものようにほら、グライダーですから」 オラトリオが指差すほうにコードの視線が向けられた。満月の夜空を優雅に飛んでいるグライダーの人影はにっこり笑って手を振っている。 そして翌日の朝。 「これで3度目だぞ!」 コードは朝っぱらから機嫌が悪い。新聞をデスクに叩きつけている。デスクの前のオラトリオはびくつくでもなく平然としていた。 「快盗エースにはまた逃げられましたからねぇ…」 「おまえも根性で飛び降りろ」 「無茶言わんといてくださいよ〜、あんな高さから落ちたら死にまっせ?」 「その時は特別に3階級特進させてやる」 これ以上の問答は無駄なのでオラトリオは黙って退室した。 最近世間を騒がしている泥棒がいる。泥棒というにはあまりにも手口が華麗なのでいつのまにか快盗と呼ばれていた。予告状には必ずハートのエースを使うのでマスコミは『快盗エース』とそのまんまのあだ名をつけた。わかっていることは10代後半で髪が紫色であるということだけだ。性別はよくわからない。紫というとかなり特殊だが今は染色技術も進んでいて髪の色なんかアニメから抜け出たような色彩も珍しくない。そしてエースに狙われるのはいつも貴金属や美術品ばかり。 「あー…でもなぁ」 オラトリオは歩きながら考える。予告状を出して盗みに入るものの、盗んでいかないのである。今のところ問われる罪状といえば不法侵入、器物破損、公務執行妨害くらいだ。快盗エースの目的が見えないまま追い続けている。 そのままオラトリオは科学捜査研究所に入った。 「オラクルー、いるかぁ?」 「まぁ、オラトリオ様。オラクル様ならただいま足跡の分析中ですのよ」 出迎えてくれたのはネオングリーンの髪が鮮やかなエモーションだ。彼女はコードの妹である。オラトリオは恭しく礼を取るとその手を取ってそっと口付けた。 「これはこれはエモーション嬢。ご尊顔を拝し恐悦至極」 世慣れたオラトリオは女性が誰であろうともその礼を欠かしたことはない。しかしエモーションも慣れたものでにっこり笑うだけだ。 「またエースを逃したってお兄様がご機嫌悪いでしょう」 「ええ。エースを追って飛び降りろなんて言うんですよ」 「やぁ、オラトリオ。来てたのか」 「よう、照合終わったか?」 出てきたオラクルはオラトリオと瓜二つだ。違うのは髪と目の色くらいで姿はよく似ている。彼はこの研究所の主任でもある。オラトリオが椅子に腰掛けると二人も資料を持って席に着いた。 「で、どうだった?」 「別に前回と変わりなし。エースの足跡だっていうのが判断できるくらいだよ。標準的な10代後半から20代前半の女性の足跡だね。まぁ、足跡だけじゃ性別は断定できないけど。身体的特徴なんかはもっとデータがあればいいんだけどね」 「髪の毛とか?」 「そう。指紋なんかあればもっといいけど」 オラクルが笑って見せるとオラトリオは渋い顔をする。 「ばかやろう、指紋が取れたらとっくに逮捕できらぁ」 「違いありませんわね」 エモーションがくすくす笑う。それほどまでにエースは物的証拠を残さないで現場を立ち去っているのだ。 「でも、ショーケースにも触れていないんですの? いくら手袋をしていても触った痕跡くらいは残るのでは? 微量な繊維とか革のあととか…」 エモーションの言葉にオラトリオははっとする。 確かにエースはこれまでなにも盗んでいない。しかしそれは盗みに失敗したからではなく、目的の物と違うからではないのだろうか。 「予告状はメールだからね。発信元には戻れないんだろう?」 考えこんでいたオラトリオをオラクルがさっと現実に引き戻した。 「ああ。何度も試したけどたどりつけねぇし、パソコンの特定も出来ねぇよ」 手がかりが何一つないまま、さらに3日後、エースからの予告状が届いた。 "月の夜に会いましょう" 最後の一文は決まってこう書かれていた。警察も躍起になって警備を敷くがあっさりとエースに突破されてしまう。今日のねらいは博物館所有の『王妃の心』と呼ばれる100カラットのルビーだ。時価にしておよそ1億円はくだらない。 いつものように侵入を許してしまったコードは噴火寸前だ。 「おのれぇ、エースめ」 「まあまあ師匠、警備の突破はいつものことでしょ。それにこれは事前の打ち合わせでも決まってたじゃないすか。今日は盗む瞬間を逮捕しましょうや」 「わかっとる。全員再配備に着け。今日こそエースを逮捕するっ!!」 そのころエースは王妃の心が保管してあるエリアに到着していた。赤外線が張り巡らされていたがこれも簡単に解除してしまう。エースはルビーに近づくと首から下げていた一枚の金属片を手にした。それをそっとルビーに翳す。しかしなんの反応もしなかった。 「これも違う…」 サングラスの下で、エースは悲しそうに瞳を伏せた。 「一体、"SIRIUS"はどこにあるんだろう…」 しかし感傷に浸っている暇はなかった。目的のものがここにない以上、長居は無用である。もたもたして逮捕されるのだけは絶対にいやだ。 早く逃げよう。 多分、ここから出るだけなら出来る。問題はその後どうやって外に出るか、だ。このエリアの周囲はとっくに囲まれているだろう。とりあえずエースはルビーが保管してある金庫室を出た。用心深く周囲を窺いながら少しずつ廊下を歩いた。 不思議と静かな夜だ。 いつも怒涛のように自分を追いかけてくる警察の姿が見えない。気味の悪い静けさをエースは罠だと感じた。でも戸惑ってもいられない。やがてエースは非常階段へとたどり着いた。そこからいつものように飛ぼうとした瞬間。 「ちょーっと待ってもらおうかなぁ〜〜」 「…やっぱり罠だった」 エースの背後に長身の男が立っている。オラトリオだ。2階下から多数の警官を連れたコードも上がってくる。 「観念しなって。今ならまだ罪は軽くて済むからさ」 「…それでも、捕まるわけにはいかないんだっ!」 そういうとエースは階段の柵に足をかけ飛び降りる。そのときオラトリオがエースを掴んで一緒に落ちてしまった。 「うわぁっ!!」 「だああっ!!」 「オラトリオ!」 一部始終を見ていたコードは慌てて下に待機していた警官と連絡を取る。そうしているあいだにエースは用意していたパラシュートを開いたのだがオラトリオという予定外の体重を支えきれずにどんどん降下してゆくばかり。慌てたのはエースで、オラトリオは悠々と落下を楽しんでいた。 「離せって言ってるだろ?!」 「離したら落ちて死んじゃうだろーがっ」 「このままだと二人とも死ぬんだよ!!」 「ああ、この速さなら怪我で済むんじゃねぇ?」 「ぼくはまだ捕まるわけにはいかないんだって」 パラシュートをしているのはエースなのにそのエースはオラトリオの小脇に抱えられていた。じたじたと暴れるから危なっかしいのだが気絶させようにも出来ないでいる。 「だから暴れるなって」 「うるさいっ!!」 そうこうしているうちにパラシュートは木に引っかかってしまった。ざざざざっと小枝を折りながら落ちていく。 「きゃあっ…」 「あだだだだ」 二人は何とか太い枝で止まった。 「いってー…」 「う…うん…」 オラトリオはエースをゆっくり抱き起こす。小さな傷があるもののエースはうまいこと気絶していた。そのまま連れて行けばいいのに、何を思ったのかオラトリオはエースを隠したまま一人で木を降りた。落下ポイントを正確に判断していた警官たちが集まってくる。 「オラトリオ警部!」 「悪い、エースは見失った。うまいこと木に引っかかったんだが…俺が気絶してるあいだに逃げたらしい…」 オラトリオはそう言うと警官を遠ざけた。警官たちはエースを逮捕しようとその場を離れていく。その後ろ姿を見送ってオラトリオはちらっと上を見た。エースはまだ木の上で気絶している。 「…女の子だったのか」 小脇に抱えていたときの感触、落ちたとき思わず出した声。完全に警官たちの姿がなくなったのを見届けてオラトリオはエースを木から下ろした。サングラスを外してやると白い顔が静かにそこにある。柔らかな曲線を描く頬は薄紅に染まっていた。 「こりゃあ…」 随分と可愛い女の子が巷を騒がせている快盗エースの正体だったのだ。年の頃はやはり10代後半――16、7だろう。こんな子がどうして…。オラトリオはそっと頬に触れた。温かい…きっと、本当は普通の女の子なのだろう、何が彼女をここまで駆り立てるのだろうか。 「オラトリオ」 背後からかかった声にオラトリオは振り向いた。コードが一人、そこにいる。 「師匠…」 「…それがエースか」 現れたコードは淡々と言い放ってエースを見た。琥珀色の瞳はわずかな驚きをたたえている。きっとオラトリオと同じことを思ったに違いない。オラトリオが抱きなおすとエースの髪から留め金が落ちた。さらりと流れたのは絹のように滑る紫色の髪だ。あまりの美しさにオラトリオはおろかコードさえも目を見張る。この子はこの世のものではないのではないかとさえ思えた。 「とりあえず運んでおけ。エースはいつものように逃げた。それでいい」 それだけ言うとコードは車のキーを投げてよこした。オラトリオは片手でそれを受け取る。 「すいやせん、師匠。恩に着ます」 「要らん。とっとと行け」 ぺこりと一礼してその場を立ち去るオラトリオを見送ってコードは煙草に火をつけた。 「全く、世話の焼ける…」 吐き出した紫煙がゆらゆらと虚空に消えた。 「う…ん…」 「ようv お目覚めかい?」 「え…オラトリオ? え?? ここ…ぼく…???」 見なれない部屋の様子に明らかに混乱しているエースの前に、オラトリオはすっとグラスを差し出した。 「まぁ、落ち着けや。ここは俺のマンションだ。一人暮しだから遠慮は要らないよv」 オラトリオがにっこり笑って見せるとエースは少し安心したのか、出されたグラスを素直に受けとって口に含んだ。その様子をじっと見守っているオラトリオの視線に気がついたエースはきょろと視線を泳がせ、そしてオラトリオを見た。その視線には不審の色がありありと浮かんでいる。 「どうして、ぼくをここに運んだのさ。…逮捕すればよかったのに」 「…捕まりたくないっていったじゃんか」 「だからって…よかったの?」 「まぁ、よくはないがな。事情をきかせてもらおうか」 凛ととおる声にエースははっとして身を硬くする。入ってきたのはコードと妹のエモーションだ。オラトリオははぁ、と諦めに似たため息をついた。 「師匠…勝手にひとんちに入り込まんでくださいよ〜」 「だったらちゃんと鍵をかけておけ」 相変わらずの問答にエモーションはにっこり笑っただけで一向に取り合わない。さっと二人の脇を抜け、エースに近づいた。ニコニコと笑みを絶やさないエモーションにエースは拍子抜けしてしまう。 「こんにちわ、エース」 「こ、こんにちわ…」 「私はエモーションと申しますの。あなたにいろいろお伺いしたいことがございますのよ。お答えしていただけるかしら」 エモーションの優しい問いかけにエースは厳しい顔つきをして俯いた。エモーションは一瞬困ったように口もとに手を当てた。しかしエースは意を決したように拳を握るときっと顔をあげた。 「…信用して、いいんですか?」 エースの瞳はアメジストのように硬質な輝きを添えて3人を射抜いた。はっとするほど力強く、そして美しい。 これにはオラトリオが頷いた。 「ああ、俺たちはおまえの目的が知りたい。それだけだ。話を聞いたら返してやるよ」 「…本当だね」 「ああ」 念を押したエースに、オラトリオがまじめに答えた。そしてエースを囲んで話が始まった。 「ぼく…ううん、私の本当の名前はシグナルっていうんだ…」 普通に話をする声は明らかに少女のものだった。特殊なボディスーツを着ているので体のラインもわかりにくい。警察は快盗エースは男であると踏んでいたくらいなのだ。 「シグナル……ということはお前、あの事件の遺族か? 5年前の…」 コードがそういうと、エース、もといシグナルはこっくりと頷いた。3人とも5年前の事件は記憶にある。もっともそのころコードとオラトリオ、オラクルは警察勤務ではなかったし、エモーションに至っては未だに現役の女子高生である。が凄惨な事件としてマスコミもだいぶ騒いだし、なによりまだ犯人が捕まっていないのだ。 「5年前っていうと、あれっすか? どっかの研究所が爆発したっていう…」 「ああ。事故か事件かはまだわかっとらんが、死者30名を出したあの爆発のことだ。シグナル…お前は確かそこの研究員の一人娘だったな」 コードの言葉にシグナルはまたしても悲しそうに顔を伏せた。きっと両親のことを思い出したのだろう。それに気がついたコードはもうなにも言わなかった。 「で、お前はなんで快盗なんかやってるわけ?」 単刀直入に切り出したオラトリオを、シグナルはきっと見つめていた。 「…"SIRIUS"を探してるんだ」 「シリウス?」 はじめて耳にする単語に3人はきょとんとする。これには説明が必要だ、シグナルは先を続けた。 「父さんと母さんは太陽エネルギーの研究をしてたんだ。だけど太陽光って限られてるよね。天候が悪かったり、夜になったりすると得られない」 「まあ、そうですわね」 「埃なんかにも弱いからちょくちょくメンテも必要になるし…。そこで考えられたのがどんなに微量の光でもエネルギーとして得られる新素材だったんだ」 「それがシリウスか」 なんとなく飲みこめたコードは先を促す。 「父さんの話だとどんな明かりでもいいんだ、それこそ蛍光灯なんかの光でも」 「ちょっと待てよ、それって他の発電システムは要らなくなるじゃねえか」 現在は水力、火力、原子力のほかに風力や太陽光発電もあるが、自然エネルギーの利用効率はまだ低い。しかしこのシリウスを使うと。 「そうだよ。シリウスを使えば、シリウスが自分で作った光でどんどんエネルギーを作れるってことなんだ」 「で、そのシリウスを探しているというのはどういうことなんだ」 「シリウスは父さんと母さんの長年の夢だったんだ。でも…」 「でも?」 シグナルは再び悲しげに顔を伏せた。話が亡き両親に至るとこみ上げる何かがあるのだろう。それでも彼女は泣かなかった。この華奢な体のどこにそんな強さがあるのだろう、オラトリオは不思議そうに彼女を見つめていた。 「最近、遺品を整理してたら父さんの日記が出てきて…父さんはいつか自分がシリウスのために殺されるんじゃないかって…そう書き残してたんだ」 「殺される?」 「…研究成果の横取りというやつか」 シグナルはこっくり頷いた。 「父さんも母さんもこれまでいろんな物を発明してきた。これが世界のために役立つなら…名誉なんて要らないんだっていつも言ってた……その父さんと母さんが……殺されたかもしれないって知って……」 「シリウスを探して、取り戻そうというのか。ついでに犯人に復讐でもするつもりか?」 コードの言葉にシグナルははっと顔をあげる。コードの琥珀色の瞳は復讐などつまらんとばかりに冷ややかに彼女を捕らえた。けれど彼女も負けてはいなかった。 「違う。そんなことどうでもいいんだ。ただ、父さんの日記だとシリウスはまだ未完成なんだ。だからただ保管してあるだけならいいんだけど下手なことをすると…」 「すると?」 「…東京が吹っ飛ぶって」 「なに?!」 シグナルの言葉は重かった。日本は法律的に言うと東京と京都が首都ということになるが実際の機能はすべて東京にある。東京が吹っ飛ぶということは日本がほぼ壊滅したといってもいい。 「だから探し出して止めなくちゃならないんだ」 にわかに信じがたい話ではあるが事実なら重大だ。ここは彼女に協力してシリウスを止めなくてはならない。この話の真贋も気になるところだが彼女が嘘をついているようには見えなかった。そうでなければ若干16歳のこの少女が警察を振り切ってまで一人でシリウスを探している理由がつかない。 「それでわかった。で、シリウスとはどんなものだ」 「それは…私も見たことなくて…」 「ならどうやって真贋を判断するんじゃいっ!」 「それはこれを使って…」 そう言うとシグナルは首から下げていたボールチェーンを引っ張り出した。先端にはIDプレートのようなものがついている。なにか書かれているようだったが見えなかった。 「これは?」 「"MIRA"といって、シリウスと連動した物質なんだ。シリウスで作られたエネルギーはそのままじゃ使えないからこのミラを使って変換するんだって」 「ということは…微量の光でもエネルギーを発するシリウスにそのミラを連動させると反応があるというわけですわね」 「そうなんです」 「なるほど、それで合点が行ったぜ。これまで宝石ばかり狙ってたのも、ぜんぜん盗んでいかなかったわけも」 オラトリオの言葉にシグナルが頷く――ここは"快盗エース"として。 「わかっているのはシリウスが宝石に似ているということだけなんだ。どんな宝石かもわからなくて…それでめぼしい物を調べていたわけで…」 「じゃあなんで快盗なんかに?」 「はじめはただ調べるだけのつもりだったんだけど、いつのまにかそう書き立てられちゃって、なんか引っ込みつかなくなって…」 「…マスコミのせい、ってわけね」 えへへー、と笑うシグナルはやっと16歳という少女らしさを見せた。 「まぁ…話はこれくらいにしておこう。エース…じゃなかった、シグナル。お前も家まで送ってやろう。こんなところには置いておけんからな」 やおら立ちあがるコードにオラトリオが不満そうな顔を向ける。 「こんなとこってどーゆー意味っすか、師匠?」 「そのまんまだろうが。望むというなら婦女暴行容疑で逮捕してもいいんだぞ?」 「暴行じゃないっすよ。ひどいなぁ、ししょー」 話を終えてすっきりしたシグナルはきょとんと二人のやり取りを見ていた。そこにエモーションが微苦笑しながら説明してくれたのだ。 「オラトリオ様は女性に人気がありますのよ。オラトリオ様自身も女性がお好きなんです。ここにいらしたらエースもオラトリオ様に食べられてしまいましてよ」 流石に話の意味がわかったのか、シグナルはぼっと顔を赤らめた。愛くるしい反応にオラトリオは相好を崩す。 「可愛いなぁ…」 「本当に。これが世間を賑わせているエースだなんて信じられませんわね♪」 「…エモーションさん」 シグナルは静かに口を開いた。 「私…みなさんを信じられそうです…いえ、信じます」 「エース…」 力強いアメジストの瞳に煌く未来を信じて――。 「で、エースのお家はどこですの? その格好で帰られるのはちょっとまずいのでは?」 エモーションの言葉にシグナルがはっとして、でも大丈夫だといった。 「オラトリオ、ここ何階だっけ?」 「ここ? 20階だけど?」 「じゃあ、この格好でも大丈夫ですよ。多分人はいませんから」 「いないって、そんなに郊外なのか?」 「いえ、私のうちはここの最上階だから」 「……へ?」 にこっと笑ったシグナルに一同がまた可愛い、と思ったことは伏せておこう。 シグナルの話を総合するとこういうことである。 事故のあと一人ぼっちとなったシグナルを誰が引き取るのか、ということで揉め事があった。というのはシグナルの両親の発明は多岐にわたっていて大きなものから小さなものまで特許が認められていたのである。その数およそ500。うち企業によって使用料が支払われているものが400件あり、シグナルはその特許使用料の相続人になっているのである。両親の残したものはこのほかに郊外の一軒家と生命保険がある。大人たちは彼女が持っている財産を狙ってシグナルの養育に名乗りをあげてきたのだ。たった11歳の少女は大人たちの醜い争いの中にいてすっかり人間不信になった。結局彼女が一番懐いていた伯母夫婦――シグナルの母の妹――に引き取られ、中学を卒業するまでそこにいたのである。伯母夫婦には子供がいなかったのでシグナルは実の娘として可愛がってもらった。それでもやはり財産目当てなのだろうという親戚からの中傷もあって、シグナルは高校進学と同時に伯母の家を出た。これ以上迷惑をかけられないと感じたからだった。その際両親とともに暮らした一軒家を処分し、某高級マンションの最上階を買ったのである。特許料はシグナル名義だったので生活にはなんの不自由もない。 「で、ワンフロア丸々ご購入ってわけね」 「だってワンフロアでしか売ってなかったんだもん」 購入当時には警察関係者の存在など気にもしなかったとシグナルは言う。 天気のいい日曜日。オラトリオはシグナルを連れ出してドライブとしゃれこんでいた。シグナルも断る理由がないのでついてきた。今日は普通の女の子の格好をしている。それがオラトリオにはなぜか新鮮に映った。 「で、その伯母さんっていう人とは連絡とってんのか?」 「うん。時々様子を見に来てくれるんだ。本当にいい人…でも、辛い思いもいっぱいしたんだ…私のせいで」 「…なんでだよ」 「…私を引き取ったせいで、親戚から結構嫌がらせとかあってさ。伯母さん、ノイローゼになっちゃって…」 「そっか…」 オラトリオは車を左へ寄せた。助手席のシグナルは俯いている。 「でもまだ11歳だったから、どうしようもなくて…伯父さんも伯母さんも気にしなくていいとは言ってくれたんだけど」 「それで家を出たんだな」 「うん…」 両親の残してくれたもののおかげで路頭には迷わなかったが、その死は彼女に大きな傷を残してしまった。オラトリオは咥え煙草のまま車を走らせた。きらきらとこぼれる陽光がどれだけ彼女を癒せるだろう――いや、そんなことは誰かがとっくにやっているに違いない。自分たちは快盗エースを追いかける途中に引っかかった少女の傷をこじ開け、さらに塩を塗りこんでいるのではないかとさえ思えた。だからその言葉は自然と口をついた。 「ごめんな、シグナル」 「え…?」 「いろいろ、言いたくないこととか、思い出したくないこととかあったろ…」 「オラトリオ…」 シグナルは泣きそうな顔でオラトリオを見つめた。赤信号で止まっている車の中にオラトリオとシグナル、二人だけ。オラトリオは正面を向いたまま、新しい煙草に火をつけた。その仕草も独特の香りも彼女には懐かしい。シグナルの父も、煙草を吸っていた。ヘビースモーカーというわけではなかったが、気が向いたときに嗜む程度だった。それでもシグナルにしてみれば大切な思い出には違いない。ほのかな煙草の香りが切ない。 「…俺はお前を守りたい」 不意の言葉にシグナルはそっと顔を上げた。オラトリオは前を向いたまま、でもとても真剣な表情。 「どうして? 可哀想だから?」 「…好きだから」 「好きって…え? え?」 「ひとめぼれ。可愛いなって思ってたんだ」 「それだけ?」 「それに俺ぁ、強くて優しい女の子が好きなんだ」 オラトリオはウインク一つして正面に向き直った。これまでそんな経験のないシグナルは真っ赤になっている。 「そ、そんなこと言われても…私…」 「今はそんな気になれない、か」 「…うん、ごめん」 「いいって、謝るなよ。この件が片付くまではやっぱ…な」 オラトリオはそう言って微苦笑したが、内心はものすご〜くがっかりしていた。が、気を取りなおしてハンドルをしっかり握っている。 「でも、私を追っかけてるのがオラトリオみたいな人たちでよかった…」 「シグナル…」 「他の人だったら、今ごろこんなふうにドライブできなかっただろうからね」 「まあな。けど、シリウスを止めなくちゃなんねえだろ? たった一人の女の子を逮捕するよりももっと大事なことがあるさ。だから俺たちはお前と話がしたかった。お前の目的が何なのか知りたかった」 「すごい無茶だったけどね」 そう言ってシグナルはくすくす笑った。オラトリオは自分を捕まえるためにあんな高さから一緒に飛び降りたのだ。 「あーあ、その顔」 「え?」 「笑うとすごくいい。すごくかわいい」 「…ばか」 シグナルは真っ赤になって俯いた。なんだかほんわか温かい気持ちが育って気持ちよかった。 さらに驚いたことに、というか忘れそうになるのだがシグナルはまだ現役女子高生だ。オラトリオの夢と希望であるセーラー服ではなかったが身丈の短いブレザーに胸元の大きなリボンが愛らしい。スカートはタータンチェック、オラトリオに言わせるともう少し短いほうがいいそうだ。細くて白い脚を黒のソックスで包み、ローファーをはいてしゃんと立つ姿は本当にどこにでもいる女子高生だ。思わぬ変貌ぶりにオラトリオも流石に呆然と立ち尽くした。 「…シグナル、だよな?」 「そうだよ」 「…まじ?」 「本気と書いてマジって読むくらい」 「…本物の女子高生か」 「じゃあ、学校終わったらそっちにいくから」 「あ、ああ。待ってる…」 シリウスについて詳しい資料をそろえるべく警察に来てもらおうということになり、出勤前にシグナルに電話をかけた。降りてくるというので待っていたらこれだ。 「けどまぁ、女子高生にしか見えんわなぁ…」 「何がだい?」 オラクルはのんびりした声でカップを置いた。科学捜査研究所、別名署内カフェと一部のみに称されるほどここには紅茶が多い。ダージリンやアールグレイなどの定番はおろかきいたこともないようなマニアックなものまで揃えてある。これらはみなオラクルの趣味である。オラトリオは片手を挙げて礼を言うと突っ伏していた机から起きあがった。 「いや〜、シグナルちゃんだよ。すっげー可愛いってのなんの。女子高生っていいねぇ」 「…その発言、気をつけたほうがいいぞ、オラトリオ」 聞きようによってはただの危ない人である。 「まぁ、それはそれとして快盗エースの正体はわかったわけだから、そっちの資料はもういいよね。で、言われたとおりシリウスについて調べてみたんだ」 オラクルの言葉にオラトリオの表情が変わる。普段はどんなにおどけていても仕事となればまるで別人だ。 「で、どーよ?」 「シグナルの言葉に嘘はないね。5年前の科学雑誌だけどね、シグナルの父親がインタビューを受けていてそれが記事として残っていたんだよ。でも研究途中だったから詳細なデータは無し」 「まぁ、未完成品をおいそれとは公表しねえやな」 「そういうこと。で、記事にはこうあるんだ、シリウスっていうのは”斉調化陽光群の集束による珪素質性動力再生晶体”ってことなんだけど…わかるかい?」 「…シリウスが水晶だってことはなんとなく」 オラクルは人のいい笑みを浮かべた。水晶と呼ばれるもののほとんどがその主成分を珪素としている。 「シグナルから聞いてると思うけど音井博士は…ああ、シグナルのお父さんね、彼はこれを本当にソーラーパネルの新素材として開発したんだよ」 「けど音井博士は夫婦揃って死んじまったしなぁ…」 「そこから先が問題なんだ」 ちぇすと、と小さな声とともにきれいな手刀が一直線にオラトリオの後頭部に刺さる。振り返るとそこには不機嫌そうな桜が咲いていた。コードだ。 「まじめに仕事しろ、オラトリオ」 「やってますって」 「で、オラクル。シリウスの概観は掴めたか?」 「ひでー、無視した」 コードは完全にオラトリオを無視した形でオラクルの前に書類を滑らせた。オラクルはそれを手にとって目を通す。オラトリオも横から覗きこんだ。 「これは?」 「音井夫妻の遺体検案書だ。5年前というと俺様たちは誰も警察勤務ではなかったからな」 そう言うとコードは椅子にふんぞり返った。 「書類にも書いてあるが音井夫妻の遺体は損傷が激しくてな。DNA鑑定でようやく本人と確認できたくらいだ。損傷具合から見ておそらく逃げ遅れたんだろう。煙に巻かれてそのまま…ということらしい」 「そのようだね」 コードの言葉にオラクルも頷く。 「で、火事の原因は何なんです?」 「それはこっちの資料、現場検証報告書だ。研究所は郊外の一軒家だったので延焼は無し。出火原因の特定はできんかったらしいな」 「というと?」 「研究所ではエネルギー関連の実験を主に行っていたんだろう。そういうところでは不慮の火災も起きる。火の手が上がったのが建物の内部ということだが放火にしても、だ。一体誰がなんのためにわざわざ内部に放火するんだ」 「身内同士かもしれませんぜ? まぁ、そいつも死んじまってるかもしれませんけどね」 オラトリオはすっかり冷めた紅茶を口に運んだ。 「なんにせよそれがはっきりせんとなんとも言えんな。犯人が誰を狙っていたのかさえも。まあシグナルの言うように研究成果がねらいだと考えるほうが自然だが」 「…30人も死んでますからね」 その事実の重さに3人が口を閉ざした時、廊下から華やかな声が聞こえてきた。ほのかに甘い香りもする。 「…どうやらご到着のようだ」 コードの呟きと同時にドアがノックされる。入ってきたのは同じ制服のエモーションとシグナルだ。3人はぎょっとして思わず腰を浮かしそうになった。そんなことにも構わずエモーションはにこやかな挨拶をする。 「ごきげんよう、皆々様。エースを連れてまいりましたわ」 にこやかにそう言うエモーションの後ろにシグナルが立っている。そこはかとなく疲れが見えるのは気のせいだろうか。 「遅くなってしまいましたかしら、オラトリオ様」 「いいえぇ。お早いお越しで」 本当は少し遅いなとは思っていたのだがコードが横で睨んでいるのでそう言わざるをえない。コードはまだ20歳だが学年を5つもスキップしている上に階級はオラトリオよりも上、つまりは年下の上司に当たるのだ。そういった経歴と風貌に寄らず彼は極度のシスコンだったりする。何が面白いのか警察の、しかも科学捜査研究所に出入りする妹に悪い虫がつかないように見張っている今日この頃。 「シグナル…だね、そっちの子は」 「オラクル様は初対面でしたわね」 オラクルはすっと立ちあがってシグナルの前に進み出た。シグナルはきょとんと彼を見つめてから、オラトリオと見比べた。 「そっくり…」 シグナルの言葉にオラクルは苦笑する。オラトリオも横に並んで見せた。 「…みんなそう言うけど兄弟とかましてや双子じゃないんだ。私はオラクル、この科学捜査研究所の主任だよ。君をずっと科学的に追いかけてたけどこんなに可愛い女の子だなんて驚いたな」 「え…」 オラクルがにっこり笑うとシグナルは真っ赤になって俯いた。しどろもどろに自己紹介をし、オラクルが差し出す手を握ってぶんぶん振っていた。軽いパニックになってるらしい。 「エレクトラ、お前と同じ制服だという事は同じ学校か?」 「ええ。でも生徒数の多い学校でしょう。ほとんど接することがなかったので。はじめてお会いしたときにどこかで見たことある子だとは思ったのですが…」 「ふーん…」 コードの視線がシグナルに注がれているのに気がついたエモーションはそっと耳打ちする。 「可愛いでしょ、お兄様」 「なにがだ?」 「なにがだって、エースに決まっているではありませんか。お気に召したんじゃありませんの?」 「な、なにを言う。さ、仕事だ仕事。無駄話ばっかりしとらんで仕事するぞ」 そう言ってふいっと背を向けたコードだったが明らかに図星だった。知り合ってまだ間もないがエースの容姿と芯の強さは実はコードの好みのタイプなのである。 コードの声にオラクルがさっとパソコンを立ち上げた。 「シグナルから貸してもらった資料から大体のことはわかったよ。シグナルのご両親が開発していたシリウスっていうのは”斉調化陽光群の集束による珪素質性動力再生晶体”を英語にして、その頭文字を取ったものでね。簡単に言うとある特殊な波長の光を吸収してエネルギーにかえる人工水晶のことなんだ」 「水晶だったの…」 「まぁ、珪素質晶体って言われるとわかるんだよね。宝石のひとつには間違いなんだけど」 主なものとしてはアメシストやトパーズ、めのうなどが挙げられる。 「水晶って作れますの? たしか水晶は石英脈などから成長する鉱物では?」 「流石エモーション嬢、博識ですねぇ」 「当然だ、俺様の妹だぞ」 「私わかんなかった…」 オラトリオは単にエモーションを誉めただけだったのだが今度はシグナルが拗ねてしまった。水晶が石英脈から成長するという知識は地学を専門に勉強する人か、宝飾関係者くらいが持っていればいい。要するにムダ知識である。しかしこれでは先に進めない。困ったオラクルが恐る恐る口を挟む。 「えーっと、話を進めていいかな?」 「どうぞ」 はっとした周囲はオラクルに先を促した。苦笑しつつキーボードを操作すると次の画面が現れる。水晶の化学構造式と分子配列、CGによるイメージがそれぞれ別のウィンドウで現れた。 「まずエモーションの疑問だけど水晶は作れるよ。石英は珪素の酸化鉱物だから珪素を酸化させればいいんだよ。でもものすごく時間がかかるけどね。で、本題に戻るけどこのシリウスって言うのはすごい物質だとわかった。これが実現すればあらゆる発電システムはおろか石油やガスも要らなくなるね。ついでに水素燃料も」 「そんなにすげえのか?」 「私は科学者としての立場から言ってるんだよ。ノーベル賞ものだね。簡単な例でいうと電気自動車が開発されてるのは知ってるだろう? あれも天井にでもシリウスを搭載しておけば車が壊れない限り走り続けるんだ。ただしすごいエネルギーだから発動中のシリウスに直に触れたりすると大変だけどね。シグナルの持っているミラはそのために開発されたものだ。これはもう実用されていて主に情報関連企業で使われてる」 「うん。ミラは固体状ならどんな形状にも生成できるからって。強度もわりと自由に変えられるし」 シグナルはペンダントにしていたプレート状のミラを握り締めた。これは両親が亡くなる少し前に母親が面白がって作ってくれたものだった。"SIGNAL"と流暢な筆記体で彫ってある。これが両親からの最後の贈り物になろうとは夢にも思わずに…。 「シリウスを制御できるのもミラだけ。だから私はシリウスを稼動させないようにしなきゃならないの。早く見つけてきちんと管理しないと…」 「東京が壊滅するほどの威力ですものね。でも未完成品なのでしょう?」 「未完成品だからこそ危ないんだよ。一瞬で東京の人口規模で人間の丸焼きの出来上がり。直下型地震より怖いよ」 まぁ、と小さく驚くエモーションにコードは困惑を隠しきれない。ここは科学捜査研究所――当然一般ではあまり目にしないような珍しいものもあるがそれと同時に凄惨且つ物騒なものもたくさんある。たしか昨日司法解剖したばかりの死体の細胞のサンプルがついさっきまで隣室にあったのではなかったか? さっきまた焼け焦げた何かが運ばれていたんじゃなかったか? その何かが何なのか確認したくもないが…。こんな環境の場所にエレクトラを出入りさせて果たしてよいのだろうか。兄としてコードの悩みは尽きない。 「だから…だから早く探さなくちゃ行けないんだ…」 思いつめたように俯くシグナルの肩をオラトリオはそっと抱いた。その温かさに励まされるようにシグナルは笑顔を取り戻す。 もう一人じゃないから。協力してくれる人がいるから、もう何も怖れなくていい。 「あんまり思い詰めんなって。疲れちまうぞ」 「うん、ありがとう…」 その笑みがあまりにも儚く感じられて誰もが言葉を無くしかける。 「シリウスの行方については今各研究機関に問い合わせてる。警察の権限でどこまで出来るかはわからないけど、とにかくあせらないで探そう。ね?」 「うん…」 話はそこでひと段落つき、エモーションが持ってきたマフィンでティータイムということになった。が、オラトリオとコードは時計を気にしている。 「お兄様とオラトリオ様はいただきませんの?」 「ああ、俺様たちは遠慮しておこう。16時から定例記者会見でな」 「そうそう」 どこか楽しそうな口ぶりのオラトリオにコードの視線が冷たい。 「…また女性記者のナンパに行くのかい?」 オラクルもどこか呆れたように問いかける。エモーションは品よく微笑み、シグナルは何故か釈然としないという顔だ。 「あったりまえじゃん。警察に勤めてるんだぞ? 出会いは自分から求めなくっちゃねぇ」 「お前、警察をなんだと思っとるんだ…」 「ちゃんと職場だと思ってますよ」 へらんと笑うオラトリオの視界の端に捉え、シグナルはエモーションにそっと耳打ちする。 「エモーションさん」 「なんですの、エース」 「オラトリオっていつもああなんですか?」 「ええ、いつもああですわよ。でもなかなか素敵な方が見つからないらしいですわ」 「誰彼かまわずってわけじゃないすよ、エモーション嬢。お二人のように美しくて優しくてそれでいてしなやかなお嬢さんなら大歓迎ですよ」 聞こえていたのかオラトリオはさっと話に加わってくる。 「お上手ですこと」 「本当のことを言ったまでですよ」 シグナルは言いたいことがあったのだが敢えて黙った。そして周囲の話から総合するに私も単純にナンパされただけのことだったのだと思うことにした。 「で、今日は何発表するんでしたっけ?」 「今日もいつもと大して変わらん」 民間人が二人もいるところで会見内容を確認しあうなど警察の機密とは一体どうなっているのか、実は誰も気に留めていなかった。ここではそれが日常茶飯事なのである。 「そういやこないだまた放火がありましたよね」 人間の丸焼きと聞いたオラトリオがなんでもないように話題を変える。つい最近まで歴とした一般市民だったシグナルは改めて警察はいろんな意味で怖いところだと思った。そしてその警察と対等に渡り合っていた自分をちょっとだけ誉めた。 「ああ、家一軒全焼して、その家の主人が焼死体で発見されたやつな。なんてったっけな、被害者は…」 「エリオット・C・クエーサーだろ。まだマスコミには発表しとらんがな」 コードの言葉にシグナルの動きが止まる。かたかたと震えだし、顔色が悪くなっていく。 「エース、どうしましたの?」 「……して…っ」 「エース?」 常ならぬエモーションの声に背を向けていたオラトリオが振り返る。 「シグナル、どうしたんだ?」 「オラトリオ…被害者の名前…なんて言った?」 シグナルは突然立ちあがるとオラトリオの両腕を掴んだ。見上げるシグナルの瞳が潤み始め、端からこぼれそうになっている。深刻な様子はいつもの彼女らしさを消していた。問われるまま、オラトリオはその名を告げる。 「誰って…エリオット・C・クエーサー。彼が被害者だ」 「焼死体って……亡くなったの?」 「残念ながら」 紫に光るシグナルの瞳が驚愕で大きく見開かれた。その拍子に涙が一筋こぼれ、銀の雫を頬に描く。 「シグナル…?」 「どうして…小父さんまで…」 「なんだと!?」 和やかだった空気が一瞬にして緊迫した。 「話は聞けたか?」 定例記者会見から戻ったコードが隣室をそっと覗いてから問うた。 「ああ、ひどく興奮していてね、大変だったけど。今はエモーションに任せてるよ」 「そうか」 コードはほうとため息をついた。テーブルの上に会見書類を投げ出す。 「会見のほうはどうでした?」 「別になんということはない。ただ最近快盗エースから予告状がないからな。その辺をマスコミ連中が気にしとるようだ。捜査中だと言っておいたがな」 「まさか別件に関わってるなんて言えませんやね」 おどけた口調のわりにオラトリオの表情は真剣だ。シグナルが先刻見せたあの顔が離れないのだ。この数年の間に彼女の周りから親しい人たちが次々にこの世を去っていく。まだ、たった16歳なのに。それを思うとひどく悲しい気持ちになる。 「で、どういう関係なんだ? シグナルはおじといっておったが」 「血縁関係ではないそうです。近所の目上の男性を呼ぶときに使う"おじ"ですよ」 「音井博士の研究仲間だそうだ。爆発があった研究所は彼に所有権があって共同で研究していたらしい」 コードは顎に手を当てて考えている。エリオット・C・クエーサーの死因は煙に巻かれたことによる窒息死だ。気がついたときには既に火の海になっていて逃げ遅れたのだろうと消防では見ている。そこに疑問があるわけではないが引っかかっているのはシグナルの言葉である。 ――どうして小父さんまで… あの言葉は素直に聞けば両親を失ったシグナルが知人の死に対してただそう言ったように聞こえるだろう。けれどあの深刻さはそうではない。きっと5年前の事件に関連していて、巻きこまれたのだろうと考えるほうがいくらか自然だ。 「シグナルの話だと家族ぐるみで仲良かったらしいですよ。小さいころはお菓子もらったりしてたって言ってましたよ」 「家族ぐるみ…か。ん? ということはクエーサーには身内がいるのか?」 「そこまでは聞いてないんですけど」 「わかった、それは調べよう」 「クエーサーの研究については私が調べておくよ」 「ああ、頼む」 コードとオラトリオは席をたち、隣室に向かった。静かにドアを開けるとそこは夕日に染まって真っ赤だった。エモーションが悲しげに二人を振り返る。シグナルは椅子に座ったまま俯いていた。 エモーションがそっとコードに囁く。 「先ほどまでずっと泣いていらして、ようやく落ちつかれましたの。オラトリオ様とお話していたときは気丈に振舞っていたんでしょうけど…お労しいこと」 エモーションは祈りの形に手を合わせる。オラトリオは静かに目を閉じ、やがて意を決したかのようにシグナルのそばに歩み寄った。 「シグナル…」 声をかけると彼女はなんでもないように顔をあげた。泣き腫らした目が赤く、頬に幾筋もの跡を残してた。 かける言葉はなかった。見つからなかった。それでも何か言わなければならない。 「シグナル…もう帰ろう。かえって休もう、な?」 「……」 シグナルは何も言わない。ただうつろにオラトリオを見上げていた。その姿が痛々しくて、快盗エースだったころの彼女の強さがどこにも感じられなかった。無理もないことだがこのままにしてもおけなかった。 「シグナル…」 「…帰るよ。私帰る。泣いたらすっきりしちゃった。泣いても小父さんは帰ってこないもんね。それより元気出して明日のこと考えなくっちゃね」 そう言ってシグナルは椅子から立ちあがった。くるりと振りむいてにっこり笑い、なんでもなかったかのように挨拶して去っていく。 オラトリオは慌てて彼女の後を追おうとして、コードに断りを入れた。 「俺、送ってきます」 「ああ、そのまま帰って構わんぞ」 コードは時計を見上げて言った。17時は一応公務員的勤務終了時間である。 「いいんですかい?」 珍しく融通してくれたコードに確認をいれてしまうのは悲しい性だ。コードは口の端でにやりと笑う。 「ああ。そのかわりちゃんと送り届けるんだぞ」 「わかってますって」 オラトリオはちゃっとLサインをきってシグナルの後についた。その姿を見送ってコードとエモーション同時にため息をついた。 「エース、大丈夫でしょうか」 「…オラトリオの理性が保たれればな」 「…いえ、それもありますけど、エース、なんだか空元気のような気がして…」 エモーションの心配はコードも思っていたところだ。しかし今度の事件のすべての鍵を握っているのは彼女であることに違いはない。彼女の気持ちひとつで何万人という人間の命が左右される事態に陥りかねない。ここは空元気でもなんでも彼女に動いてもらうほかないのだ。 「あんなやつにでも任せるしかない…か」 「送ってくれなくてもいいのに」 「そんな顔のシグナルちゃん、歩いて帰らせるわけにはいかないでしょ?」 地下の駐車場でオラトリオはシグナルを車に乗せていた。彼女の手には濡れた男物のハンカチが握られている。車を出す前に身支度をさせてあげようというオラトリオの配慮だ。だがシグナルはハンカチを握ったまま動かない。 「ほら、顔ふいて。ああ、ハンカチは綺麗だって」 「いや、そーゆーの気にしてるんじゃないの」 「じゃあなんだよ」 「…オラトリオって優しいなぁって」 そう言ってシグナルは小さく微笑んだ。それから目元にハンカチを当てて顔を撫でるように拭いていく。涙のあとが消えていく。オラトリオはなんとなく照れくさくなってシグナルの手からハンカチを取り上げた。 「ほら、こっち向け」 らしくない、と自分でも思う。どうもシグナルにかかると調子が狂う。多分それは自分だけではないのかもしれないが。シグナルの柔らかい頬に触れているとなんとなくそう感じるのだ。 「さ、これで元通りの美人さんだ。行くぞ」 「うん…あ」 「何だ、忘れもんか?」 「ううん、ハンカチ貸して」 「何でだよ」 「洗って返すよ」 今度はシグナルがオラトリオの手からハンカチをひったくった。オラトリオはそれ以上は何もいわずハンドブレーキを落としてギアをドライヴに入れた。車はゆっくり滑り出す。 赤や黄色のテールランプが導く先など知らず、人々は家路を急ぐ。こんな風景を守りたくてオラトリオは警察官に、シグナルは怪盗になった。そして今は同じ道を進んでいる。行く手にはきっとさまざまな障害があるに違いない。オラクルも言ったが警察の権限がどこまで通用するものか、警察だとて万能ではないのだ。 そんなとき、シグナルがぽつりとつぶやいた。 「昔ね…」 「ん?」 「昔母さんが言ったの。泣きたいときは泣いたらいいって。泣いて泣いて泣いて泣き止んだら、何で泣いてたのか忘れちゃうんだって。涙といっしょに消えちゃうんだって。だから私そうしてるの。さっきは心配させちゃったけど空元気じゃないよ。もう大丈夫だから」 オラトリオは黙って聞いていた。そしてシグナルの母の言葉がどこか的を射ているような気がした。自分の力でどうしようもないことはそのときは潔く諦めるのもひとつの道なのだ。そのかわりそのために全力で進む努力を怠ってはならない。彼女にとってクエーサーの死は自力でどうこうできるものではなかった。だから彼女は泣いたのだ。"死"が誰にでも訪れるものだとわかっていても。 「…なぁ、シグナルちゃん」 「なに?」 「…泣いたらお腹空いたろ? ちっと早いけどどっかでご飯食べてこーか」 「え、でも…」 「帰ったってお互い一人なんだしさ。ね?」 「う、うん…」 よし、決まり。オラトリオはハンドルを右に切った。 それから夕食を終えてマンションにたどり着く。オートロックといっても安心はできないので一応シグナルの住んでいる最上階まで送り届けた。 「…ありがとう、オラトリオ」 「どういたしまして。明日、また警察にきてもらってもいいかな。クエーサーのこと、もっと詳しく聞きたいんだ」 「もちろんそのつもり。明日学校が終わってから行くね」 もうすでにいつものシグナルだ。オラトリオは安心して戸締りをきちんとするように言い置いてからエレベーターに戻ろうとした。戻ろうとしてやめた。 どうしても今言っておきたいことがあるから。 「…シグナル!」 「…なに?」 自分を見送ってくれていたシグナルを振り返る。 「あのさ…俺って優しいか?」 「うん…さっきだって、顔拭いてくれたし、ご飯食べさせてくれたし、送ってくれたし……優しい…と思うよ」 「そっか…あのな」 「うん」 「俺、シグナルちゃんだけに優しくしたい」 オラトリオはいたって真剣だったのだが、当のシグナルは意味がわからずにきょとんとしている。 「…どゆこと?」 「…好きなんだ、シグナルちゃんのこと。ああ、そういう気持ちになれないのはわかってる。けど、覚えといてほしいんだ。俺、本気だから」 「いいよ」 オラトリオの言葉を遮ってシグナルは笑った。 「…私って単純だよね。オラトリオにちょっと優しくしてもらっただけなのに、オラトリオのことなんだか好きになっちゃったもん…」 「シグナル…」 「…時々ね、わからなくなるんだ」 「なにが?」 「…自分が何やってるのか。本当なら全部警察に任せてればよかったのに、どうして自分一人でやろうなんて思ったのか」 シグナルは苦笑して顔を伏せた。 「警察なんてあてにできないって思ってた。だって父さんと母さんが死んで5年も経ったのにまだ犯人が捕まらないんだもん…」 「それはまだ…捜査してるけど」 「わかってる。でもね、私はオラトリオを…みんなを信頼してる。だから全部話したんだもん。もう一人じゃないんだって…オラトリオもそう言ってくれた。だからお願い、オラトリオ。私を…ちゃんと捕まえてて」 シグナルはふっと微笑むとそのまま倒れこむようにオラトリオに抱きついた。華奢な少女の体をオラトリオのたくましい腕がそっと包む。 「シグナル…」 「…一人じゃなくなるとね、一人なのが、ものすごく怖くなるの…」 本当は強がっていたのかもしれない。自分一人でやらなければならないような気がして、差し伸べられていた手を振り払っていたのかもしれない。そんなことは強さでも何でもなかったのに。シグナルは自分を抱きしめてくれる存在に胸が熱くなっていた。オラトリオの鼓動が不思議と愛しかった。 ――離れたくないと思った。 同じ紫の瞳に互いを映して、心重ねて。 驚いたのはオラトリオのほうだった。ほんの一瞬だったがシグナルの唇が自分のそれに触れていたのだ。 シグナルはすっとオラトリオから離れるとお休みっとつぶやいてすたたと走っていってしまったのだ。オラトリオは呆然と自分の唇に指で触れた。 「嘘みてぇ…」 嘘みたいに柔らかかった。キスなんて初めてでも何でもなかったのに妙にときめいている自分に気がついた。 「…俺の馬鹿」 一人残されたオラトリオはひとりごつ。 「ちゃんと覚えてろよなー」 もしかしたら彼女のほうは初めてだったかもしれないのに。 でも、まぁいいか。シグナルのほうから近づいてきてくれたことは彼にとって最良の出来事である。 「なんであんなこと…」 ワンフロアで購入したマンションの最上階のうちシグナルが使っているのはたった一戸である。シグナルは急いでドアをあけると靴もそろえずにリビングに走りこんでお気に入りのクッションをぎゅっと抱きしめた。 たぶんひょっとしておそらくことによるともしかして、自分はとんでもないことをしたんじゃなかろーか? いくら寂しかったからってオラトリオに抱き着いて、そ、そ、そのうえ、き、き、…キスまでしちゃうなんて…。 オラトリオはぼーっとしてたけど怒ってないかな? 大丈夫かな? シグナルは自分の一連の行動を思い出している。そしてまたじたばたし始めた。 「う〜〜〜〜」 しかもそれに付け足すならばあれはファーストキス…。 「うきゃ〜〜〜〜〜」 どーしよどーしよどーしよおおおおおおおお…。 そんなに深刻に考えなくてもいいのに。シグナルは一晩中じっとしてはころころし、じっとしてはころころの繰り返しだった。 なんとなく自分の気持ちに素直になりかけていたシグナルとその扉を開いたオラトリオ。 そんな二人に危険が迫っていることなど、今はまだ知る由もなかった。 ここ数日の間になぜかオラトリオとシグナルが急接近している。よく笑うようになったし、なによりシグナルがオラトリオの後ろをてくてくとついて歩いている姿が目撃されている。 「先を越されたみたいですわね、お兄様」 「なにがだ」 「何がだってお兄様、お兄様もエースはお気に召していたんでしょう?」 「別にどうということはない。それにオラトリオも静かだしな」 実際のところちょっと気になってはいたが仕事でそれどころではなかったし、オラトリオが他の課で女性とトラブルを起こさなくなっただけでもコードにとっては良いことなのである。 「で、今日は何しに来とるんじゃい。警察は喫茶店じゃないんだぞ」 「もちろんお仕事に協力してもらおうと思って来てもらってるんですよ? 俺とシグナルちゃんが仲良くなったからって妬かない妬かない」 ひらひらと手を振るオラトリオの喉元に銀の刃ならぬジュラルミンの警棒。電光石火の早業だ。琥珀の瞳が鋭く光る。 「し、師匠…」 「それ以上いうと殺すぞ」 「わ、わかりました…」 ホールドアップの体勢からオラトリオはようやく両手を下ろす。コードの行動は一瞬にして彼がシグナルに好意を持っていた、つまりは図星だったことを明らかにしたわけだがそれ以上は誰も突っ込まなかった。 「って、なんで特別階級職の師匠が警棒なんて持ってるんすか!?」 「何でって…便利だからだ」 「…へ?」 「…便利だから。だ」 「…さよですか」 実はオラトリオも特別階級職なのだが配属はコードよりも後だった。 「いったいここは何を騒いでいるんです?」 「何だ、カルマじゃないか」 フェアブロンドの髪にブリリアントグリーンの瞳。彼も特別階級職のひとりであり、コード、オラトリオとともに署内の人気を三分している存在だ。配属はコードよりも遅くオラトリオよりも早い。が、階級は一番上である。コードよりえらい。 「まったく、あなたたちはいつも自分のデスクにいませんからね。いっそのことこっちに移したらどうです?」 「あーあ、そのほうが便利かもなぁ」 カルマの皮肉も通じていない。 「デスクワークは苦手だからな。こう、捜査しとるほうが警察らしくて俺様は好きだな」 「そーそー。子供のころドラマで見た警察ってそんなんでしたよね」 カルマはあきれてため息をついた。くれぐれもいっておくがこのメンバーの中で階級が一番上なのはカルマである。 「どこでもいいですから自分の分くらいやってください。特にオラトリオ、あなたは最近経費がかさみすぎです。いったい何に使っているんですか。領収書が不受理ということでこんなに戻ってきていますよ」 そういうとカルマは持っていた封筒をひっくり返した。中から出るわ出るわ、領収書はたちまち山となった。 そのうちの一枚をエモーションが拝借する。 "領収書 ¥5,000 但し 食事代として" オラクルも一枚めくってみた。 "領収書 ¥10,000 但し 飲食代として" 「飲食費ばかりじゃないか」 オラクルの言葉で逃げようとしたオラトリオは首根っこをふんずと捕まえられる。 「おまえはまた自分の遊興費を税金で賄おうとしおってからに!!」 コードの怒声が耳を劈く。カルマも笑顔で怒っている。毎度のこととはいえ少々度が過ぎている。 「ん? この日付は…」 「どうしたんですか、エモーション」 日付の何かに気がついたエモーションが何かを探るべく必死だ。かわいらしく小首をかしげているとそこにシグナルがやってきた。その場の視線を一身に受ける彼女だが事態がうまく飲み込めずにきょとんとしている。 「…みんな何してるの?」 「思い出しましたわ!」 シグナルはびっくりして一歩引き、エモーションは爽快に微笑み、オラトリオはあちゃーと顔を伏せる。 「あら、いいところに。エース、あなたこの日にオラトリオ様とお食事をしまして?」 領収書を見せられたシグナルはこっくり頷いた。 「はい、この日は確かにここでオラトリオとご飯食べましたけど…何か?」 事情がわからないシグナルにはオラトリオが無言でとめているのにも気づかない。 「オラトリオ…貴様…」 「い、いや、ほかの領収書もちゃんとあったはずですよ〜〜」 「残念ながら9割5分が返却されてます。始末書書いてもらいますよ、オラトリオ」 「ちょほー」 コードとカルマの二人に引きずられているオラトリオがなんだかかわいそうだけど、シグナルは何もいわずに見送った。 「…何かあったんですか?」 「いいえぇ、ちょっとしたお仕事ですよ」 エモーションがにこにこ笑っているのでシグナルも笑った。 「ああ、そうだ、忘れるところでした」 そういうとカルマは掴んでいたオラトリオの襟首を無造作に離した。が、コードがしっかり握っていてくれたので後頭部打撲は免れた。 「エモーションさんとシグナルさん。最近管内で女子学生の誘拐未遂が多発しています。年齢に上下はありません。お二人は特に有名校の学生さんですから十分気をつけてくださいね。あまり一人にならないように、出かけるときは行き先を明確にするなど十分に対応してください」 「まぁ、物騒ですのね。わかりましたわ」 「うん、気をつけるね」 「シグナルちゃーん、仕事終わるまで待っててね〜、一緒に帰ろ〜〜」 紙一重。みんなの脳裏にその言葉が浮かんだのは言うに及ぶまい。 「…なんでそういうことするかな」 「いやー、面目ない」 後になって事の次第を聞かされたシグナルはオラトリオをぎゃんぎゃん叱り付けた。コードやカルマのそれよりも効果があるのか、オラトリオはもうしないからと誓約書まで書いた。 「恥かいちゃったじゃない…」 「だから悪かったって」 マンションのエレべーターを待っている間もシグナルはちくちくとオラトリオを叱っていた。気がつかない自分も馬鹿だったな、と思う。自分の分くらいは支払うといったのにオラトリオはいつもいいからと言っていた。支払っているときもずっと待っていたし、領収書をもらっているもの知っていた。まめだなー、なんて感心したのが間違いだったのだ。まさか全部警察の経理部へ回すための領収書だったなんて…なんかがっかり。 「というわけで今日は私がご馳走してあげる」 「とはいうけどもう自宅じゃん? ということはシグナルちゃんの手料理ってことかな?」 うきうきしているオラトリオを見て、シグナルはちょっとだけ微笑んだ。これくらいのことでこんなに喜んでくれるなんて、なんかちょっとうれしい。 ただ、手料理には違いないけど…と思いながら。 いつもならここで別れる二人だが今日はオラトリオをはじめて家に上げる。きれいにしておいてよかった、とシグナルは内心ほっと胸をなでおろす。 「その辺に座ってて。すぐ用意するから」 「ああ」 シグナルは夕食の用意をするためにキッチンに入った。オラトリオはその辺を軽く物色している。女の子らしいけど、物の少ない部屋だ。よく言えばシンプルだが両親から受け継いだ莫大な資産の割には地味だという印象を受けた。 ふと、チェストの上の写真立てに目が止まる。親子3人で仲良く写っている。眼鏡をかけている男性は父親だろう。研究者らしくない優しい顔つきをしている。隣の女性は母親だ、明るい栗色の髪にぱっちりした大きな瞳はシグナルに受け継がれた。中央は当然シグナルで、両親に囲まれて元気いっぱい幸せそうに笑っている。 「それね、久しぶりに家族旅行したときの写真なの」 オラトリオはゆっくり振り返った。テーブルに料理を並べながら背を向けて話している。 「父さんも母さんも忙しかったからね、参観日なんかは必ずどっちかが来てくれたんだけど、両方お休みってなかなか取れなくって。私が4年生の時だった。そろって休み取れそうだからって私の夏休みを利用して旅行に行ったの」 それが最後だったと、シグナルは寂しそうに付け加えた。 「さ、ご飯だよ、オラトリオ」 「あ、ああ」 オラトリオはそっと写真立てを戻した。自分の何でもない行動がいちいちシグナルの傷をつついている事に気がついた。でもそれ以上に彼女の事をもっと知りたいし、力になりたいとさえ思った。いつかすべて終わったときに彼女を抱きしめて微笑んでいられるように…。 「なんか早かったな」 「うん。昨日カレー作りすぎちゃって鍋いっぱい余ってるの」 ふと台所に目をやると一人暮しの女性宅、しかも高校生の自宅にはありえないような鍋がIHヒーターに乗っかっていた。 「なぁ、シグナルちゃん」 「…一人暮しなのに作り過ぎだっていうんでしょ」 「あ、ああ。ありゃーちょっとなぁ…」 「だってあれで作るほうがおいしいんだもん! カレーは少し多めに作るもんだし! 一晩寝かせたほうがおいしいし!」 「いや、カレーは美味いけどさ…」 シグナルがさっき用意したのはサラダだけ、か…。まぁ、手料理には違いないけど残り物…。 「オラトリオが食べてくれると思ってたくさん作ったのに…」 上目遣いに見つめられそう言われると弱い。カレーは決してまずくはないのでオラトリオはおかわりをし、さらにお土産と称してカレーのお持ち帰りまでさせられてしまった。数階下の自宅に戻ったオラトリオはかわいいランチボックスカバーに入ったカレーを見つめながらため息をつく。いや、くどいようだがカレーは本当においしかった。なんだかいい雰囲気だったのも否定しない。シグナルは可愛いなぁと思う。 でも。 「カレーはしばらく食いたくねえな…」 とりあえずカレーは冷蔵庫へ。 そしてそれから数日後のこと。ようやくシグナル作のカレーを律儀にも食べ終えたオラトリオは時計を見ながらふにゃふにゃとため息をついていた。 「おい、今日の昼飯はどうするんだ?」 例によって科学捜査研究所で仕事をしているコードとオラトリオの二人はオラクルの声に顔を上げる。カルマが持ってきた書類をいいかげんに片付けなくてはならない。 「そうだな、外にいくか。オラトリオ、お前はどうする?」 「あー、俺も外行くっす。和食にしましょーや、和食」 決まったところで3人そろって外に出る。外はとてもいい天気だった。 「お前が和食なんて珍しいな、オラトリオ。つい最近までカレー食べたいとか言ってたのに」 「いやー、昨日はシグナルちゃんちのカレー食べ過ぎちゃって。カレーはもう当分いいわ」 とか言いつつもオラトリオは嬉しそうだ。その言葉に少し先を歩いていたコードはくると振り返る。 「何だ、お前。ようやくシグナルのカレーにありついたのか」 「すごく美味しいんだよねぇ、また食べたいなぁ」 「…へ?」 オラトリオはわけがわからず一瞬立ち止まった。コードは勝ち誇ったかのように微笑んで、オラクルはいつものように笑っていた。 「俺様は一月前に食ったぞ」 「私も相伴させてもらったんだ」 「一月前!?」 というとちょうどシグナルと知り合って間もないころで、確か自分は…。 「残業してたときか?」 「そう、お前の代わりに私とコードでシグナルを送ってあげたときだ」 「ちくそー、俺が初めてだと思ってたのに〜」 「残念だったな、オラトリオ」 オラクルの声はどこか明るい。それは少々癪に障るものの、シグナルの初めてのキスは絶対に自分だと確信して止まないオラトリオであった。 「そーいや女子高生ばかり狙ってた馬鹿野郎は逮捕されたそうですね」 オラトリオの言葉にコードがああと呟いた。オラトリオは基本的にシグナルのことばかり追いかけて…もとい、シグナルに関する事件ばかりに興味をもっているのでほかの事件に関しては少々行き届かないところがある。自分のデスクにほとんどいないので情報源はコードかオラクルだ。 「ああ、一昨日捕まったんだ。今鑑識さんから調査依頼がいっぱい来てるんだよ」 「別の管内だがな、下校中の女子中学生を無理矢理連行しようとしたところを巡回中の警察官が発見して、現行犯で取り押さえたそうだ。中学生は無事に保護されてしばらく学校は休むそうだ」 「まぁ、ショックでしょうからね」 着いた蕎麦屋はそれなりに込んでいたが三人分の席は確保できた。注文の品を受け取ると未成年者略取の容疑者の話はそれっきりになっていた。 「ところでよーオラクル」 「なんだい、オラトリオ」 「あれからシリウスはどうなったんだ? それと、クエーサーの身内の話も」 「なかなか芳しくないよ。シグナルの話だとほぼ完成状態にはあったんだろうけど大きさの見当もつかないし、聞いてみてもそんなのはじめて知ったっていう人が多くて逆に問い合わせられてるくらいなんだ。やっぱり音井博士はすごい人だったんだなーって実感するよ」 オラクルは割り箸をきれいに割った。 「で、師匠のほうは」 「…シグナルの尻ばかり追いかけとらんでちったぁ仕事せんか、ばかもんが」 海老天そばのほくほくと上がる湯気がコードを包む。妙に蕎麦が似合う人だ。 「クエーサーには一人息子がいるな。クオンタム・クオータ・クエーサー、25歳。現住所は一応都内になってはいるんだがほとんど住んでおらんらしい。職業は父親と同じ研究者だそうだ」 「じゃあどこにいるんです?」 「それはお前が調べんかい!!」 「へー」 オラトリオはごまかすようにずるずると蕎麦をすすった。変に蕎麦が似合わない人である。 「というわけで、思い出してほしいんだけど」 「と言われても、私も小さかったからなぁ…」 事故が5年前なのでクオータは当時20歳だ。しかし研究所にはいなかったとシグナルは言う。 「クエーサー小父さんは病気がちだったから父さんの研究データの管理を手伝ってくれてたくらいだったみたい。クオータとはあんまり会ったことがなくって。小父さんは留学してるって言ってたけどどこだか聞かなかったし、私も研究のことはあまりわからなくて…」 「あー、まぁ、そりゃそうよねぃ」 きらきらと木漏れ日の舞う日曜日。オラトリオは非番を利用してシグナルとデートしているのだ。コードに言われたとおりにちゃんとクオータの事を調べている。 「わかってれば今ごろシリウスゲットしてるよなー」 「…そういうこと」 シグナルは苦笑して見せたが、それがそんなに辛いことだとは思わなかった。当時まだ自分は小さかったし、両親がそろって亡くなったこともあって混乱の中にいたのだ。そんなことまで気が回らなかったというもの仕方がない。けれど今は違う。あのとき判らなかったからといってそのままにして置けるはずがないことは彼女自身が一番よくわかっている。 オラトリオはデートと銘打っていたが、半分くらいはコードにせっつかれて仕事してるんだろうな、というように推測済みでもある。 「オラトリオ、ちゃんと仕事してるの?」 「なんだよ、藪から棒に」 「だってコードが言ってたもん、オラトリオが仕事しないから困るって」 「ちゃんとしてるっつーの」 「…説得力ないよ?」 口にしたとたんにヘッドロックされて頭をぐりぐりされる。図星をつかれたオラトリオの先制攻撃だ。シグナルはじたばたと暴れるが体格差がありすぎてどうにも逃げられない。 「悪かったな、仕事してないように見えて」 「や〜〜ん、いたい〜〜〜(>_<)」 「ごめんなさいは?」 「ごめんなさいぃ〜〜」 よし、とオラトリオが腕を解いてくれたのでシグナルはようやく解放された。どこか釈然としないものを残しつつ。 「もー、髪の毛ぐしゃぐしゃだよぅ」 シグナルは少し潤んだ瞳でオラトリオを攻撃的に見つめた。身長差がありすぎるのでどうやっても上目遣いになるのにオラトリオはまだ慣れないらしい、密かにときめいてしまっている。 「悪かったよ、ほら、そこで直してこい、待っててやるから」 と、オラトリオが示す先に大きめの公衆トイレがあった。最近は物騒なので要注意だが昼間だし人通りもあるし、髪を直すだけだし、何より警察官がいるのだから大丈夫だろう。シグナルはオラトリオの勧めにしたがって中に入った。 一応、変質者が隠れていないことを確認して、シグナルは一番出入り口に近い鏡の前に立った。 髪はあまり乱れていなかった。手櫛でちょいちょいと直す。それからついでに軽く顔の油を取って薄いピンク色のリップを塗りなおす。それからもう一度鏡を見直してチェックする。特におかしいところもないので出ようとしたそのときだ。 このトイレは中央が出入り口になっていて男女は左右に分かれる。 入れ違うように入ってきた男性がいきなりシグナルを壁際に抑えつけたのだ。口を塞がれていて声を出せない。 「っ…!!」 「静かに。乱暴はしない」 顔は帽子とサングラスに隠れて見えない。口を塞がれているだけなのに全身が動かない気がした。オラトリオがこのことに気がついている様子はない。 「…これを」 「?」 「これを渡したかっただけです……」 「!?」 言葉の終わりは彼女だけに聞こえた。 男はシグナルのバッグに紙切れを押し込んだ。それとほぼ同時に待ちかねたように覗いたオラトリオが慌てて踏みこんでくる。 「何やってんだ、お前っ!!」 男はオラトリオの手が肩に触れる前に身を翻して逃げていった。シグナルは呆然と立ち尽くしている。 ――知っている オラトリオが男を追おうとしてやめた。携帯電話を手にし、手近な警察に連絡している。巡回してもらおうと思ったのだ。シグナルも放っておけなかった。 ――あの人は私を知っている 「おい、シグナル。大丈夫か、何かされたか?」 心配そうに覗きこんでくるオラトリオの瞳。シグナルは菫青の瞳をじっと見ていた。 「あっ…ううん、別に何も…」 違う、と何かが言う。これでいいんだと私が言う。 「そっか? ならいいんだけど…具体的に話してもらえるか?」 ――私はあの人を知っている 「ただ、ぶつかってきて、それでちょっと喧嘩みたいになっちゃって…本当に大丈夫だから」 「悪かったな、俺がついてたのに…」 「そんなことない、すぐ来てくれたじゃない。本当になんでもないんだから」 うそだ、と何かが言う。でもその声はもう小さくなっていた。シグナルの心はすでにある方向へ傾いていたのだから。 ―――私と、あの人と。 知っているのだ、この世のすべてを滅ぼしてしまいそうな光を――。 もう、躊躇っている時間はなかった。 ≪続く!≫ ≪前編後書き≫ 『月の夜に会いましょう』ということで、オラトリオが警察官、シグナルが怪盗ということで話を進めていたんですが、実はシグナルには事情があって、というふうに設定を作ったらべらぼうに長くなりそうで…。TSをはじめてから前後編っていうのは初めてです。メインはOt×S♀のほうです。最近までC×S♀をやっていたので気をつけていないとすぐそっちに入っちゃうのでいろんな意味で大変です。じゃあ、ここまで読んだ人は後編へGO! |