月の夜に会いましょう 〜後編 翌朝になってオラトリオはご丁寧に最上階にあるシグナルの自宅フロアを訪れていた。シグナルはまだ身支度を整えている途中で、豊かな紫苑色の髪を二つに分けて結わえていた。紺色のリボンをなれた手つきで結んでいる。 「…どしたの、オラトリオ」 「いや、昨日のお詫びに学校まで送っていこうかと思って。車回すけど」 「そこまでしなくてもいいのに…」 本当は、送ってもらう必要などなかった。自分はもう二度と学校へ行くこともないだろう。 制服を着ているのはオラトリオを欺くため。昨日のことがあるからきっとこうすると思った。そのまま学校へ行くふりをしていれば安心するだろう。 「でもオラトリオ、仕事遅れちゃうよ?」 「いいの、シグナルちゃんの警護してるんだから」 ――そんなに優しくしてくれなくていいのに。 「大丈夫だよ、このマンションも、学校も駅から近いんだし」 「そういう慣れたところほど危ないんだよ。見なれてるからちょっとの違和感に気がつかないこともある」 ――今のオラトリオがそうだよ シグナルは少しだけ俯いた。どんなに言ってもオラトリオは聞かないだろう。ましてやこれから自分がしようとしていることを告げればきっと止められる。 ――邪魔はさせない いくらオラトリオでも、私の邪魔はさせない。そんなことはおくびにも出さず、シグナルはにっこり笑って見せた。 「じゃあ、駅まで送ってもらおうかな。学校までだとオラトリオが本当に遅刻しちゃうし」 「大丈夫だよ、学校まで送らせてくれよ」 「…オラトリオ…嬉しいけど、本当に遅刻しちゃうからっ。この時間は渋滞するんだって」 なんのかんのと言い訳して、シグナルはようやく駅に辿り着いた。オラトリオは運転席から名残惜しそうにシグナルを見送る。 「今日も一日つめてるから、なんかあったら連絡くれな」 「うん、ありがとう。オラトリオ」 「じゃ」 そういってオラトリオは車を出した。遠ざかっていく銀の光を見送って、シグナルは終点までの切符を買った。 最初に異変に気がついたのはエモーションだった。 世の中には変な連中が多いからな、とは兄の口癖である。 兄であるコードから必ず複数で行動し、所在をきちんと知らせるように言われていたので、ならば今日もシグナルと一緒に警察に行こうと考えていた。別に喫茶店代わりにしたことはないし、いつもなんとなく足を向けていた場所だ。今はシグナルという可愛い妹のような存在を得て俄然通い甲斐も出てきた。 どうせも目的地は一緒なのだ。自分だって今度の件に関しては一枚噛んでいるわけだし。 そんな気持ちでシグナルのクラスの前に差し掛かったときのことだ。通りすがりの女性との口からシグナルという単語が聞こえてきた。 「今日シグナル休みだったけどどうしたのかな」 「なんか、彼氏できたみたいで楽しそうだったのにね、風邪かな」 通りすがりの言葉にエモーションはぴくりと反応した。今日、シグナルが学校に来ていないらしい。 「あ、あの」 「はい?」 エモーションは無作法だと思いながらも慌てて二人を呼び止めた。彼女らにとってエモーションは先輩であると同時に憧れの存在でもある。呼びとめられたことに驚いて少し困っているようにも見えた。そんな様子を感じ取ったのか、エモーションは優しく微笑んで二人に尋ねた。 「今日、エースは…いえ、音井さんはお休みですの?」 「え、ええ。無断欠席だって聞いてますけど…」 「無断欠席…」 二人が互いに確認しあうのを聞きながらエモーションは鸚鵡返しに呟いた。彼女は一人で暮らしているのだからもしかしたら何かあったのかもしれない。そんな予感が彼女の中にあった。 「あの、なにか?」 「いいえ、ありがとう」 後輩の言葉にはっと我に返ったがエモーションは深深と頭をたれると一目散に昇降口に向かって走った。長い髪がふわりと浮く。 「エース…あなたまさか…」 もうひとつのいやな予感が彼女を締めつける。 オラトリオが知っていてくれているといい、もう既に動いていてほしいと淡い期待を胸に彼女はタクシーに飛び乗った。 「オラトリオ様、お兄様」 「なんだ、エレクトラ」 血相を変えて飛びこんできたエモーションに一同ぎょっと目をむく。普段の彼女からは創造できないほど鮮やかなネオングリーンの髪を乱し、息を弾ませている。 「エースは…」 呼吸を整えるエモーションの若緑の瞳がオラトリオを捉えた。 「エースって、シグナルですかい? そういやまだ来てねえけど」 「オラトリオ様はご一緒ではないのですね」 「というと?」 「放課後ご一緒しようと思ってエースのクラスにいったら、今日は無断欠席をしているとか」 エモーションの言葉にオラトリオただ一人が馬鹿なという顔をした。何故なら彼は今朝方シグナルを駅まで送り届けたのだ。ということはオラトリオと別れたあとに誘拐されたか。あるいは 「もしかしたら、犯人の目星がついたのかもしれんな」 コードの言葉に誰もが浅く顔を下げた。 最近のシグナルはただの女の子だった。だから忘れていた、彼女が快盗エースだということを。ちゃんと学校指定のバッグを持っていたから中身までは疑わなかった。 どちらにしろシグナルの居場所を確認しなくてはならない。 エモーションはコードとオラクルに促されて椅子に座り、飲み物をもらって落ち着いた。オラトリオは携帯電話で何度もシグナルを呼び出した。が、芳しい返事は返ってこない。アナウンスが聞かれないから電源が入っていないか、電波の届かないところにいる可能性は低い。ということは電話に出られない状況であるか、あるいは彼女自身が着信を無視していることも考えられる。 「ちくしょう、どこにいるんだよ!?」 「オラトリオ、一度マンションに戻ってみたら? もしかしたら手がかりがあるかもしれないし」 「けどなんにも言わなかったんだぞ、シグナルは。それに駅まではちゃんと送ったんだ」 「そのあとで引き返した可能性も充分に考えられるだろう、何かあってからでは遅い。後始末はしといてやるから早く行け」 オラトリオは乱暴に携帯電話を閉じる。コードがばんと広い背中を叩くとスーツの上着をむしるように掴んで走っていった。 「運転中に携帯電話を使うんじゃないぞ!!」 一応釘は刺しておくが、聞こえていないだろう、絶対。 「お兄様…」 エモーションの新緑の瞳が心配そうにコードを見つめた。コードはぽんと彼女の髪を撫でる。 「さ、俺様たちはそれなりに出来ることをしよう」 「はい…」 残された面々はシグナルが行きそうな場所を探すことにした。 渋滞には巻きこかれなかったが、それでもシグナルが急に姿を消したことが気になって信号を数回無視してしまった。バッグの中身は教科書やノートではなく、快盗エースとして必要な道具類なのかもしれない。そう思えば思うほど誘拐よりも覚悟の失踪なのだという考えが強くなってくる。 シグナルはいつもどおり制服に身を包んで元気よく笑っていたのだ。まったく気がつかなかった。 「くそっ」 車を飛び降り、念のためにマンションの管理人にも同行してもらってシグナルの部屋のドアを開けた。ちゃんと鍵がかかっていて室内に荒らされた様子はない。あらゆる可能性が頭を掠めては消えていく。が、とりあえず何か手がかりを捜そうと室内を物色し始めたとき、オラトリオの携帯電話がなった。 シグナルだ! オラトリオはあわてて通信ボタンを押す。 「シグナル!! 今お前どこにいるんだ!?」 電話口は無言だ、ただ周囲の音、特に風の音を拾っている。 「シグナル!!」 オラトリオの呼びかけにも応じない。 「シグナル!!」 「…ごめん」 聞こえたのは小さな呟きだけだった。 「ごめんって…なんだよ、どこにいるんだ、無事なのか?」 「…うん、無事」 電話口の声は信じられないほど弱々しかった。けれど彼女が無事なので安心したオラトリオが迎えに行くから場所を言えと言ってもシグナルは頑として口を割らない。それがオラトリオのいらつきを募らせた。自然と口調が荒くなる。 「何考えてんだ、今どこにいるのか言えって言ってんだよ!!」 「言えない…」 「言えないって…」 ――巻きこみたくないの…。 か細い呟きだけを残して突然通話が途切れた。そのあとはオラトリオが何度呼び出しても無駄だった。彼女は携帯電話の電源を落としてしまっているようだ。 「ばかっ…ひとりで何しようってんだ!!」 肝心なときに彼女の力になれないなんて!! オラトリオは力任せに壁を叩いた。拳は真っ赤になったが、それよりも胸が痛んだ。 彼が壁を叩いた拍子にはらりと一枚のメモが落ちてきた。シグナルが写真立ての裏に隠していたものだ。オラトリオはゆっくりした動作でそれを拾い上げた。 「なんだってこんなところに…」 何気なくメモを開くと、そこにはオラトリオの予想を決定付ける文字が並んでいた。 ――警察なんてあてに出来ない。両親が死んでもう5年も経ったというのに犯人を見つけてくれない。いや、犯人なんて本当は見つからなくてもいい。私が本当に知りたいのはどうして両親が死ななければならなかったのかということだけ。 事件の真相を知りたくて、危険を承知で敢えて飛びこんだはずだった、快盗エースとして。 シグナルは一枚のCDケースを取り出した。アルミ面が周囲の照明を薄く反射して光った。 「…ごめんね、オラトリオ」 あんなに優しくしてくれたのに、こんな形で裏切ることになってしまった。 でも、もう誰も巻き込みたくないと…死なせたくないと思った。 自分のそばにいれば必ず巻きこんで殺してしまう。そんな気がしてならないのだ。 彼女の中の記憶は両親との思い出のほかにオラトリオと過ごした日々が付け加えられていた。気分転換にドライブにつれていってくれた。学校まで送ってくれたこともあったし、一緒にご飯も食べた。コードに頼まれてオラトリオが仕事をするように見張っていたこともある。 そして。 シグナルはそっと自分の唇に触れた。 自分も、オラトリオが好き…――好きだったの。 伏せたままの長い睫がわずかに揺れる。やがてそれは意を決したかのように開かれた。一陣の風が弄んだ紫苑の髪をさらりと背中に流す。 もう、決着をつけよう。 この事件と、そして自分の気持ちに。 「…さよなら」 不夜城の明かりを遠く背に受けて見下ろす先に目的の建物があった。 黒のボディスーツが闇にひっそり溶けてゆく。 シグナルの部屋で見つけたメモとオラクルの調査結果が重なった。彼女がどこでこれを手に入れたのかは不明だがここに行ったことだけは確かだ。 クオータの研究所。 ご丁寧に住所まで書いてあった。ほかに、シリウスについて残されていた資料を持ってくること、警察には知らせず、一人で来ることなどが付け加えられていた。 シグナルのマンションからは車で2時間ほどかかる。シグナルはまだ16歳だ、車の運転は…出来るかもしれないが車を持っていない。時間の指定が21:00になっているからどこかで時間をつぶしているか、あるいはもう現地に到着していて作戦を練っているのかもしれない。 どちらにせよ早く辿り着いてシグナルの身柄を確保…じゃなくて、保護しなくてはならない。 あせる気持ちを押さえ、オラトリオは高速道路をひた走る。非常灯をつけてサイレンを鳴らし、洒落にならないような速度で車を飛ばした。緊急車両でも時速制限がちゃんとあるがこういうとき警察って便利だよな、なんて思う。 「それにしても…」 電話の終わりに、シグナルは『巻きこみたくない』とそう言った。それは自分自身でけりをつけたいという気持ちで言ったのだろうが、オラトリオからすればもっと頼ってほしいのだ。あのメモだって見せてほしかった、相談してほしかった。純粋に傷ついてほしくないという気持ちの表れでもあろうが、そこまで頼られないというもの男としてちょっとどころではなく寂しい…。 「終わったら絶対お仕置きだっ」 オラトリオの足はアクセルを踏みっぱなしだ。 建物の内部は閑散としていて人の気配がなかった。それだけでどこかうそ寒い感じがする。 シグナルはヒールの音を響かせながらゆっくりと進んでいった。 両親のいた研究所はもっと明るくて華やいだ印象だった。幼いシグナルには両親のいる研究所のほうが遊園地よりも楽しかったものだ。その研究所は5年前の爆発事故で現在は閉鎖されたままだ。もちろんデータもなくなっているはずなのでその後シリウスの研究がどうなったのか、11歳の彼女に知る由もなかった。 それが今になって持ち主が現れようとは。 廊下をずっと進んでいると丁字路に差し掛かった。案内表示はない。迷っていると右側の明かりがついた。 「こっち…かな」 シグナルは導かれるままに進んでいく。どこかで監視しているのだろうが、見まわしてもカメラらしきものはどこにもなかった。きっと壁にでも埋め込まれているのだろう。 「…趣味悪い」 それから何度か角を曲がると重厚な扉が表れた。右側の壁にタッチパネルがついているが、操作の仕方がわからない。押しても引いてもびくともせず、蹴っても開かない。 黒いグローブの指先が1から0までのパネルを彷徨う。が、やはりわからない。 「やっぱりこれかなぁ」 と太ももに括り付けていたサイドポーチから小さな包みを取り出す。 「はじめて使うんだよね、えーっと、取説取説っと」 シグナルはがさがさと薄めの紙を広げた。 ――はじめてご使用になる方へ 本製品をお買い上げいただきありがとうございます。本製品は最高性能のプラスチック爆弾でございます。用法用量をお確かめの上ご使用ください。 随分丁寧な爆弾の取説である。 「なお、爆発の際は高温になり、また強い衝撃を感じますのでご注意ください、か」 ひととおり取説を読んだので爆弾を設置しようとしたところでタッチパネルが点滅し始めた。赤いランプが数回チカチカ光ると甲高い機械音がなって、緑に変わる。すると小さく鍵の開く音がして、それからゆっくりと開きはじめた。 室内はさらに冷気で満たされているのか、研究所特有の薄暗さと寒気がする。 シグナルは一歩一歩ゆっくりと進んでいった。自分の足音だけがやたらと響く。床はタイルではなくコンクリートのまま続いていた。 「どこにいるの、出てこい!!」 彼女の声はしんと木霊していく。奥のほうに淡い光がぼんやりと浮かんでいるだけだ。 「やっぱりこれ使っちゃおうかな」 手にはしっかりプラスチック爆弾。 ふと、シグナルは背後に人の気配を感じて振り返ろうとした。が、それより速く利き腕の自由を奪われ、布のようなもので口を塞がれる。手にしていた塊がからんと床に落ちた。 「んんっ!!」 誰と言いかけて、シグナルは意識が遠のいていくのを…… 「わかったよ、シグナルがいそうなところ!!」 「ぶげっ!!」 オラクルが慌ててドアを開けると変な声がした。見るとコードが鼻を押さえてうずくまっている。どうやら先ほど強打したらしい。赤鼻のトナカイならぬ赤鼻のコードだ。 オラクルは慌てていたのでその反応も実にあっさりとしている。 「あ、コード。いたの」 「いひゃのれわない、いーひゃらしゃっしゃとひょーこくしよ」 ちょっと涙目で鼻を押さえながらしゃべったのでは威厳もへったくりもないがこの際それはどうでもいいことだ。オラクルは手にしていたプリントアウトをデスク上に広げた。 「シリウスのその後についてちょっと調べたんだ。以前も言ったけどほとんど知られてなくって苦労したよ。で、今度は目線を変えてクエーサーの息子っていう人を探してみたんだ」 「居たんですの? その、クエーサーの息子さんは」 「都内には住んでおらんかったぞ」 「でも日本国内にはいるんだよ。これを見て」 「これは…」 「カルマに頼んで調べてもらったんだけど、赤いところはシグナルが現在所有している建物や土地の場所。そして青いところは先ごろ亡くなったクエーサー氏の地所だったところだよ。いずれも生前に名義が変更になっているんだ」 赤い印は小さかったが数が多かった。青い印は数こそ少ないが大きいものが多い。総数的には差がないだろう。資産価値にしてざっと億単位だ。クオータはともかくとして未成年であるシグナルの資産はあんまり考えたくない。 恐らくクオータはこれらの手続きをするべく日本に戻っているに違いない。 「おそらく、はじめからクエーサーを殺すつもりだったんだろうな」 「たぶんね」 「どういうことですの、お兄様?」 コードの琥珀色の瞳が妹を鋭く捕らえた。 「クエーサーがシリウスのその後、あるいは5年前の研究所爆発事件の真相を知っていたので口封じをされた、というところだろう。ただ今のところそれは推測の域を出ておらんがな」 オラクルもゆっくり頷き、エモーションだけがそんなと呟いた。 「ん…」 目を覚ますと体の自由を奪われたまま床に転がされていた。手首を後ろ手に縛られ、足首も丁寧に結わえられている。割りと正統派な縛り方だ。この際縛り方なんてどうでもいいが、早くこの状態から抜け出したいことに変わりはない。 「関節が外れれば取れるかも…って、外せるわけないじゃないの、関節なんかーっ!!」 もふもふとうごめいてはみるものの縄はちっとも緩まない。 「やっと気がつきましたか」 「え…?」 耳元に冷たく響く靴音とテノールにシグナルは顔をあげた。 「オラトリオ…?」 いや、ちがう。オラクルでもない。だってふたりはそんなに冷たく笑わない。シグナルは混乱する記憶を必死でたどった。が、該当者がおらずただただ困惑するばかりだ。 「思い出せないのも無理はない。貴女がうんと幼いころにたった一度お会いしただけなのだから」 「まさか…あなたは…」 シグナルは驚いて目を見開いた。ぼんやりとした記憶の中で現れる人。一人っ子だった自分が唯一『兄』と呼んだ人。その人が目の前にいるのだ。 「クオータ…」 「そう。私はクオータ・クオンタム・クエーサー。思い出していただけましたか」 「クオータお兄ちゃんが、なんで…」 「それはあなたがいちばんよく知っているでしょう? シグナル…いや、快盗エース」 彼はシグナルのそばに片膝をつくとすっと彼女を抱き起こした。けれど縄は解かない。 シグナルはクオータを見つめた。今まで何をしていたのか、小父の――実父の死を知っているのか、聞きたいことは山ほどある。 「なんで私だと…」 「男の勘って奴ですよ。まぁ、貴金属ばかりだというからすぐに検討はつきました。シリウスを探していたのでしょう? それを探すのはあなたしかいないから」 クオータの瞳は冷たい色を宿していた。 シグナルは急に背筋が寒くなるのを感じた。これから何か嫌なことが怒る気がしてならない。こうやって縛られているだけでも充分なのに。 困惑するシグナルの頬に手を添えて、クオータは耳元に唇を近づけた。 「5年前の事故は私が仕組んだものですよ」 「な…」 突然の告白にシグナルは言葉を失った。 ――クオータの独白。 5年前というと彼は20歳である。 父の姿にはいつもイライラさせられた。科学者でありながら体調不良のためにデータの管理ばかりに回って派手な研究は出来なかった。理論を組み立てることに長けていたがそれさえも他人に譲ってしまう。幼いころはそれも父の美徳かと思っていたが自身が成長するにつれてそうは思わなくなっていた。 そんなときだった、ちょうどあなたに会ったのは。 母親に手を引かれ、幸せを顔いっぱいに広げたあなたは私に向かってちょこんと頭を下げてにっこり笑った。 『こんにちわ、おじさん、えーっと…おにーちゃん?』 『やぁ、よく来たね。お名前は言えるかな?』 『しぐなるです』 『おお、よく言えたね、元気ないい子だ』 これは11年前の話。私が話したいのは5年前だ。 5年前のあの日、私は父が管理していたデータを密かに拝借してシリウスを作ってみた。もちろん、データ不足で理論上完成するものではなかったがそれでもよかった。 たった二人の人間を殺すには手頃だった。 目論見どおりにシリウスは暴発し、研究所全体が爆発した。結果として30人以上もの人間が死んだけれども、シリウスは期待以上の働きをしてくれた。 音井夫妻が作っていたシリウスのデータと未完成品ながらも本体と手に入れることが出来た私はそのまま海外へ留学を続けた。 ところが、だ。 父であるクエーサーがこのことを知ってしまったのだ。証拠は一切残さなかったはずだったが、親とは恐ろしいものだ。事件の後すぐに私が海外に発ってしまったことやシリウスの行方がわからなくなっていることなどから察してしまったようだ。 面倒なことになったと思った。やむなく日本に戻ると父は自首しろとそれはもう口やかましく言った。が、私はまだ決心がつかないからと先延ばしにしていた。するとあろうことか父は私を警察に売ろうとした。仕方がないので自首するふりをして父を撲殺した。そして死因を隠すために火をつけた。ただ燃やすだけだと死因を特定されてしまう恐れがあるからある細工をすることにした。 人体発火を起こすことだ。TVでもやっているだろう、人体発火というのはオカルトでもなんでもない。人間の脂肪が蝋に、服や骨が芯の役割を果たして燃えるものだ。私は煙草に火をつけた。吸う必要はない、ただ火をつけるだけだ。自分の唾液を残すなんてとんでもないことかだからね。それを父の遺体の下に置いておく。すると時間がたつにつれてじわじわと燃えていく、というわけだ。これで父の死因はわからなくなるだろう。 それと前後して快盗エースが現れていることを知った。そしてそれがシグナル、あなたであることも。 彼の独白はあまりに残酷で、シグナルは動くことができなかった。 「なんて…なんてことっ…」 両親だけじゃない、無関係な大勢の人と、自分の父まで手にかけて、それを平然と話せるだなんて。 ――信じられない シグナルの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。この人はなんて残酷で可哀想なのだろう。研究がしたかったなら素直にそう言えばよかったのに。それによる地位や名誉がほしいならそうすればよかったのに。両親はそんなことにこだわる人ではなかったんだから。 『いいかいシグナル、このシリウスとミラは人間とほかの生き物を救うために作るんだよ。地球の環境を守るために作るんだ』 『おんだんかをふせぐの?』 『そうだよ、それにみんながいろんなことでけんかしなくてすむようにね』 両親はいつもそう言っていた。だから研究する人は一人でも多いほうがよかった。そんな両親の志に多くの人が賛同してくれたのに。 そのすべてを殺すことでしか表現できなかった、可哀想なクオータ。 シグナルは涙を切るように目を閉じた。長い睫が僅かな光を帯びて煌く。 「で、肝心のデータは持ってきていただけましたかね」 「…持ってきたよ。またシリウスを暴発されちゃたまらないもの」 「それは上々。出していただきたいところだがあなたを解放するのはとても危険だ。どこにお持ちなんです?」 クオータの指先がするするとシグナルの首筋から鎖骨をなぞった。冷たすぎる感触にシグナルは一瞬体を震わせる。 「っ…!」 シグナルの反応にクオータは冷笑を浮かべた。そのまま弄ぶように指先を動かす。 「さあ、どこなんです? それともこのまま全身に触れてほしいんですか?」 「ちがっ…データはっ……CDに落としてっ…」 「ああ、これですか」 そういうとクオータはどこからともなくプラスチックのケースを取り出した。 「いつの間に…」 「ん? ああ、先ほど縛らせていただいたときに拝借しました」 「そういうのは窃盗って言うんだよ」 シグナルのセリフを横取りするテノールが響く。彼女は驚いたもののその声に安堵もしていた。 「話はさっきぜーんぶ聞かせてもらったぜ、とりあえず未成年者略取と婦女暴行未遂で警察までご同行願おうか?」 ゆるまったネクタイに蜂蜜色の髪も乱れている。シグナルは一生懸命体を動かしてその人を振り向こうとした。 「シグナルちゃん、ちょっと待っててな、今見せ場だから」 「うん…」 オラトリオ、来てくれたんだ…。 もう誰も傷つけたくなかった。でもそばにいてほしかった。相反する心を抑えるようにしてここまで辿り着いたのに。 それとぉ。見せ場もいいけど早く解いてほしいなぁ、と思った。とりあえずシグナルは邪魔にならないようによじよじと端のほうに寄った。オラトリオとクオータ、二人の対峙が今始まった。 「もう少しスピードは出んのかっ!!」 「この車の性能じゃこれが限界ですっ!! 緊急車両にも限度ってもんがあるんですよっ!!」 コードはむすっとして助手席にふんぞり返った。いつも手綱を引いてくれるエモーションはあくまで民間人なので警察においてきた。オラクルは中継に入ってくれている。この車に乗っているのはカルマとコードだ。高位の二人が揃って出張るというので二人の後ろにはパトカーがたくさんついている。 鬱陶しいことこの上ないが成り行き上仕方がない。 「しかも小人数で行きたかったのになんなんだ、後ろの行列は」 「知りません。さ、そろそろしゃべるのをやめないと舌を噛みますよ、コード」 車は高速道路のICに差し掛かる。速度を落とさずにそのまま突っ込んだ。緊急車両ならではの特権だ。 言うなりカルマはアクセルを踏みこんだ。エンジンが唸りをあげて後続を引き離していく。ぶっちぎりでもう誰も追いつけないだろう。 カルマはハンドルを握ると性格が変わるらしい、暗い顔つきでケケケと笑いながら高速道路を暴走まっしぐらである。もう誰もに止められないし止まらない。 「さぁ、行きますよ、ケケケケケケ…・・・・・」 彼の低い笑い声が長く尾を引いていた。 運転中のカルマ、ちょっと怖い。 「ちょっとー、勝手に盛り上がってないで助けてー」 「だーめ。もう少しそのままでいなさい。俺に何も言わないで勝手にここまで来ちゃった、そのお仕置きなんだからな」 「そんなこと言わないで〜〜」 じたじたと暴れるシグナルはクオータと向かい合っていたときよりも活きが…いや、元気がいい。ぴちぴち弾ける16歳。 オラトリオはひとつため息をついてちらりとシグナルを見やった。 「しゃーねーな、話がすすまねーもんな」 言いつつオラトリオはクオータから目を離さない。背中を見せないようにシグナルのそばにしゃがんで縄を解いてやる。シグナルの手首に縄の後がしっかり残って痛々しいほどだ。束縛から解放されたシグナルはやっと安堵の表情を見せる。それはオラトリオも同様だった。 その様子がクオータにはなんとなく気に入らないらしい、せっかくのいい雰囲気をぶち壊そうと口を挟んだ。 「先ほど未成年者略取といいましたがね、私はその子を攫ったりしてませんよ」 「でもこれは逮捕監禁だよな」 間髪置かずにクオータのフックがオラトリオの鳩尾を狙う。オラトリオはシグナルを半ば突き飛ばすようにしてかばった。クオータの攻撃は体格差がありすぎてうまく決まらない。オラトリオもしっかりガードしている。右回し蹴りも側頭部に達する前に腕でガッチリ受け止めてそのままなぎ払う。クオータが体制を崩したところをオラトリオは一気に狙うがクオータも転がってよける。 効果音を入れるならどかっ、ばきっ、の世界だ。 シグナルも何とかしたいところだが大の男二人の乱闘に乱入できるはずもなく、ただ見守っていた。そして気がついた。クオータの背後にもうひとつジュラルミンの扉がある。その向こう側に何があるのかはわからないがいってみる価値はありそうだ。 彼女は乱闘を避けるように扉に近づくと一気に蹴破った。ここは意外と簡単に開いてしまった。 「うそっ…そんなに強く蹴らなかったのに…」 扉は渾身の一撃に耐えられなかったのだろう。シグナルはそこから伸びていた階段をゆっくり降りていった。簡単に設えられた金属製の階段を降りる音が冷たく反響している。床も壁もコンクリートで出来ている。奥のほうにもうひとつ扉があり、開けると一畳半ほどの小さな部屋があった。 「また部屋…」 と言いかけてシグナルは目を見開いた。そこには小さなコンピューターが一台と、ガラスのケースがあった。中身は淡い紫色の水晶だ。 「これは…」 シグナルが手をかけようとした瞬間、胸元が淡く光った。それは首から下げていたMIRAだ。 「MIRAが反応してる…ってことは、シリウス…シリウスなんだ!!」 MIRAは何も言わない。けれどシグナルの言葉に応えるように点滅を繰り返した。 彼女はケースを開けてそっとシリウスに触れた。シリウスは一度大きく光を発したがそれ以上は何も起こらない。その水晶は彼女を拒まなかったのだ。 製作途中の試作品という段階で消息を絶ったシリウスは5年のときを経て本来の所有者であるシグナルの手に戻った。 ――”SIRIUS”はおおいぬ座の一等星、全天一明るい恒星がその名の所以である。天狼星とも呼ばれ、邪悪なるものを焼き滅ぼす星とされてきた。 彼女の手はまだ汚れていない。 血塗られた天狼は乙女の手によって清められ、再び真の輝きを取り戻した。 シグナルがシリウスとの再会を果たしていたころ、オラトリオとクオータはまだ勝負の真っ最中だ。 「いいかげん諦めろや。シリウスはシグナルのものだ」 「そっちこそ帰ったらどうです、シグナル嬢とシリウス、両方手にいれてこそ価値がある」 「なんだと…?」 二人とも息が上がっている。お互いに間合いを保ちながら出方を探っている。 「シグナルは世界的に有名な音井博士の息女ですよ、その資産も億単位だ。研究者としての名声と地位、そして財産を手に入れる。そのためには両方必要なのです」 クオータの言葉は確かに合理的だ。シグナルと結婚すれば亡くなっていても音井博士の娘であるわけだから研究者として跡を継いでもおかしくはない。そして研究によって得られる名声と財産は計り知れない。今でもシグナルは土地だけで億単位の資産を持っている。けれどシグナルはもう金銭的な問題に触れるのをいやがっていた。実際コードが関連事項として彼女の資産を調べようとしたときも彼女自身は自分がどこにどれだけの地所を持っているのか全く知らなかったくらいなのだ。それに両親が亡くなったときその遺産で揉めていたこともあって、彼女はそのことを多く語りたがらなかった。 彼女が欲しいのは財産でもないし、地位や名声でもない。本当に欲しかったものは5年前にすべて灰燼に帰した。そしてそれを奪った男がオラトリオの目の前にいる。 「…可哀想だな、お前は」 「可哀想?」 「ああ、可哀想だ。お前はシグナルが欲しいんだろうけど、シグナルはお前を求めていない。求めるはずがない。お前はシグナルからすべてを奪ったんだからな」 それでも彼女はくじけることなく今日まで生き続けてきた。これから先も生きていくだろう。本当なら幼くして両親を亡くし、遺産争いに巻き込まれかけた薄幸の美少女として世間の同情を買って生きていけたはずだ。なのに彼女はそうしなかった。シグナルは両親の形見ともいうべきミラを使って失われたシリウスを探しつづけたのだ。快盗という非合法な手段を用いてまでも、彼女はシリウスを取り戻す決心を一人で固めていたのだ。けれど本当の彼女は強さだけではない。一人では無理だと悟ると素直に協力者に応じるし、連携も出来る。孤独という雰囲気が誰よりも嫌いで、落ちこんでいるとちょっとしたことで慰めてくれる。 くじけそうになっても何度でも起き上がる。そして倒れるものに手を差し伸べる、シグナルはそんな強さと優しさを持っている。 「…お前はシグナルの本当の凄さを知らない」 「そういうあなたは一体どれだけ彼女を見ていたというのです? 私はあの子が幼かったころから知っているんですよ。とても可愛らしい子だった」 しばし思い出に浸っているのか、クオータは少し遠くを見ていた。 オラトリオの脳裏にはストーカー並びにロリコンという言葉が浮かんでいた。が、オラトリオ、クオータともに25歳。シグナルとは9つ年が離れている。それに目的は違えどシグナルを追いかけていたことに変わりはないのであえて黙っていた。っていうか、自分の場合は警察官としての職務なんだけどね、と思いながら。 「時間は問題じゃねえ。要はどれだけ彼女の本質を見てきたかってことさ。お前はシグナルのうわべしか知らない」 「…今にそんな口も利けなくなるでしょうよっ」 迫ってくるクオータの拳の軌道など分かりきっている。オラトリオは何気なくかわそうとしてその手に瞬間電光を見た。 「何っ!?」 ジジッと小さな音とともにオラトリオの腕を熱い物が掠めた。僅かに痛んだので思わず腕を押さえる。 「…なんだ?」 少しこげたような匂いが鼻をついた。恐る恐る腕を見るとスーツの腕が焼き切られたように裂けているのがわかった。多少動きが鈍くなるもののスーツを着たままだったことは幸運だった。布一枚で命を救われることもある。スーツを着ていなかったら今ごろ軽度の火傷を負っていたかもしれない。 オラトリオはきっとクオータを睨みつけた。 「…スタンガンだな」 アメリカ生まれの高電圧銃は最大で5万ボルトという電流を流し相手を気絶させる。日本の警察官はまだ装備品として認めていない。防犯グッズとして専門店に行けば売っているがいろいろと規制が厳しいので持っているという民間人はほとんどいないだろう。 迸る電流を眺めながらクオータが無気味に笑う。 「そう、これならうまく当てると即死ですよね」 「当たればな」 でも…でも。オラトリオはこれよりもっと強い電流を流すものを知っている。それはシグナルだ。シグナルの瞳は100万ボルト、恋の力は10万馬力だ。スタンガンの最大出力はせいぜい5万ボルト、シグナルの20分の1である。大したことは(精神的には)全くない。しかしながらスタンガンのほうは肉体的なダメージを食らう。ここはなんとしても避けなければならなかった。 「ちくそー、銃でも持ってくりゃよかったかな」 拳銃発砲許可はおろか拳銃所持許可さえ下りていなかったので持ってきていなかった。 クオータの攻撃の手は止まない。そういえばシグナルの姿もさっきから見えない。 「ありゃ、どこ行った? シグナルちゃんは…」 「ここですか」 車を降りたカルマとコードは一見廃墟のような建物を見上げた。後続の警察車両はまだ遠い。そして心なしかコードの顔色が悪い。カルマはお気楽極悪にコードの顔を覗きこんだ。 「どうかしましたか、コード。あなたが急ぐというから緊急車両にもある制限速度を越えて走ったんですけどね」 「…わかっとる」 コードは少しだけ車に酔っていた。が、そんなことを言っている場合ではない。後続の警察車両はまだ一台も見えない。一体時速何キロで走ってきたのか、それは敢えて語りたくないコードである。 建物の周囲はいやに静かで中の様子は全くわからない。見取り図もないし。 「さて、と。どうやって侵入します? 一応捜査令状は取ってありますけど」 「令状があるなら正面から堂々と行けばいい。何、俺様にはこれがある」 コードが取り出したのはジュラルミン製警棒――愛称、細雪。カルマははぁと溜息をついた。 「本当は持ってちゃいけないんですけど、なにかと便利ですもんね」 カルマが取り出したのもジュラルミン製警棒――愛称、特になし。但し彼の場合はコードのように長身で使うのではなく、短身で投げて使うのである。うまくすると壁に刺さったりする、寧ろ刺す。 コードは細雪で自分の肩をたんたんと叩いた。肩たたきにもなるらしい。 「行くか」 「行きましょうか」 警棒の具合を確かめつつ二人が入り口に向かった瞬間。 どおおおおおおおん・・・・・・・… 「な、なんだ!?」 爆音とともに地面が小さく振動した。コードはさっと背後を振り返る。が、周囲に異変はない、地震ではないようだ。さらに上空を見ると、薄く煙がたなびいてきた。 「爆発か?」 「小規模ですが、そうでしょうね」 カルマはパトカーにとって返すと消防と救急車に出動を要請し、ついでに後続車に急ぐようにと連絡を入れた。 ってゆーか、カルマのほうが早過ぎ。 カルマからの指令を受けた後続車の総ツッコミも彼には聞こえない。 「てめー、なにやってんだっ!!」 「あなたが避けるからいけないんでしょう」 「避けなかったら死ぬだろーがっ!!」 コードたちの予想通り、内部では小規模な爆発が起こっていた。クオータのスタンガンが誤ってコントロールパネルを直撃し、そこから出火したのだ。さらに悪いことにそこにはシグナルが持ち込んでクオータが取り上げた小型のプラスチック爆弾も転がっていて、それに引火してしまった。スプリンクラーは作動しているが火は消え切らない、辺りはめらめらと火に囲まれつつある。 クオータは小さく舌打ちした。 「しかたない、ここはシリウスのデータを持って退散することにしましょう。データがあればまた作ることは出来る」 「そう簡単に逃がすかよ」 「逃げますよ、造作もないことだ」 そういうとクオータはまだ生きているコントロールパネルを操作した。すると何事も起こらず、クオータはそのまま走って逃げてしまったのだ! 「ちょっと待てー!!」 そういう場合は普通なにかハイテクな出来事が起こるもんだろう、という期待を見事につかれた心理作戦だ。さらにクオータがドアに近いほうにいたことも幸いしている。 「ちくしょー、って、シグナル、シグナル探さなきゃ」 オラトリオは揺らめく炎の向こうに蹴破られたドアを見つけた。 炎はシグナルのいた部屋にも迫っていた。 爆発の影響で配線が焼かれ、あちこちに影響が出始めたのだ。シリウスを持っていこうとしたシグナルの行く手に炎が立ちふさがる。 「どうしよう…」 さらに悪いことに炎の持つ光と熱をシリウスが吸収しているのだ。このままでは暴走を始めてしまう。 「お願い、止まって!!」 シグナルはシリウスを胸に祈るようにその場に座りこんだ。シリウスはぐずり出した赤ん坊のように光の収縮を続けている――時に蒼く、時に紅く。 「お願いだからっ…もう…大事な人を亡くしたくないからっ…!!」 身体で包んで光だけでも吸収を阻止したい。その胸に抱いたシリウスは炎に反応している。しかしミラも一緒にあるので暴走は何とか押さえられそうだ。 5年前のあの日も、両親はこうやってシリウスの暴発を止めようとしたのだろうか。シグナルの脳裏にその姿が浮かび上がった。 そのときだ。 『シグナル』 ぎゅっと目を閉じていたシグナルは耳覚えのある声にはっと顔をあげた。 幻でも見ているのだろうか、彼女の目の前に死んだはずの両親が立っていた。白衣を着ていて、穏やかに微笑んでいる。 「父さん…母さん?」 『シグナル』 両親の声は優しかった。シグナルは直感的にお迎えなんだと思った。けれど両親は彼女の手を取らず、その髪を撫でただけだ。 「父さん、母さん、私っ…私っ……」 『頑張ったわね』 「母さん…」 母親はそっとシグナルを抱きしめた。傍らの父親も膝をつき、シグナルを労う。彼女の瞳から一筋の涙がこぼれた。 『さぁ、そのシリウスがある限り大丈夫』 「でも、これは…」 暴発寸前のシリウスにシグナルの涙が落ちた。それは一瞬、白い光を放ったかのように見えた。 『…あなたの大事な人を信じなさい』 「大事な人を信じる?」 私の大事な人…さっき、守りたいと思った人…。 彼女の両親は慈愛に満ちた微笑を残してすうっと消えた。消えたことをシグナルは驚かなかった。 ――励ましに来てくれた。 大事な人を信じよう、必ず来てくれる。そして自分は精一杯シリウスを止めよう。シグナルはシリウスを少し強く握った。 …オラトリオに、ここを無事に脱出してもらおう。 「シグナル!! どこだ、シグナル!!」 「オラトリオ…」 シグナルの姿を認めて安堵したのも束の間、燃え盛る炎の中に彼女はいた。しゃがみこんで何かを抱きしめているように見えた。オラトリオは大声で彼女を呼ぶ。 「なにやってんだ、早く来い!!」 「来ないで!!」 シグナルを救おうと炎の中に飛び込みかけたオラトリオを彼女は激しい口調で制した。オラトリオは一瞬動きを止める。 「来ちゃだめ、シリウスが作動してるの」 「何だって…」 「私が何とかするから、オラトリオは逃げて!!」 クオータが放った火から生まれた光と熱がシリウスを過剰に刺激したのだ。下手なことをすると東京が吹っ飛ぶと聞かされているだけにオラトリオの足も竦む。いくらここが都心から離れた海の上で被害が少なかろうと、彼女をおいていくことなどできない。そんなオラトリオの心情を推し量るかのように彼女は微笑んで見せた。 「私のスーツはMIRAで出来てるから。大丈夫だから」 その笑顔は恐ろしく儚げだった。 シリウスを止めることができたとしても、煙に巻かれてしまえば逃げることはできない。スプリンクラーではもはや対応しきれないような火力だ。 でも、彼女を失いたくない。 その思いがオラトリオの行動を決定付けた。 「お願い、逃げて…」 「…ばかやろう!!」 オラトリオはそう叫ぶとゆっくりシグナルのそばに近づいてきた。驚くシグナルは声も出ない。シリウスは彼女の胸の中でまだ強い光を発していた。 「オラトリオ…なんで…」 「女の子一人犠牲にして逃げたなんて、警察官として…いや、男としてそんなこと言えるかよ」 「でも…」 「それに言っただろ、好きだって」 オラトリオはシグナルをそっと抱きしめた。紅蓮の炎がゆらゆらと二人を煽り続ける。同じ色の瞳が強い煌きで互いを映す。 「オラトリオ…」 「どうせ死ぬなら一緒に逝こう、シグナル」 「…ばか」 シグナルはシリウスを抱いたまま広い胸にそっと体を寄せた。ためらうことのない、優しい笑顔で。 オラトリオはぎゅっと彼女を抱きしめた。 「馬鹿でもいいさ、お前と一緒ならな」 紅く蒼い光の中に包まれていく。 記憶の最後は炎と、シリウスの光と――あなたのキスと、ぬくもりだけ。 「ん…」 目を覚ますとそこには何もなかった。崩れかけた壁と熱で曲がった柱、そして焦げた床が広がっている。なぜだかわからないが助かったらしい。黒く煤けた天井を見上げてオラトリオは首だけ動かして見た。右腕に抱いているのはシグナルで、その手にはシリウスがしっかりと握られていた。 「えーっと、助かったのかな…」 もう死ぬんだと覚悟した瞬間、シリウスがものすごく光ったのを覚えている。そのおかげなのだろうか。ただものすごく体が痛い。体が痛くて起き上がれない。 「シグナル、しーぐなーるちゃん」 「んん…」 声が出るので名を呼んでみる。するとシグナルの瞼が数回ぴくぴくと動いた。小さく呻きを上げて、ゆっくりと目を開ける。紫水晶の輝きがじっとオラトリオを見つめた。 「よう、気がついたか?」 「あれ…私たち、天国在住?」 現在時刻がわからない。壁には時計がないし、腕時計は腕が上がらないので見れない。ただ水平線がぼんやりと明るくなっているのがかろうじて解かる程度だ。天国というところはまずお花畑らしいからここは天国ではあるまい。 オラトリオは首だけ動かしてシグナルを見つめた。お互い目が合うと小さく笑い合う。 「ちげーよ、どうやらまだこの世らしい。助かったみたいだぜ」 「あー、そうなんだ…父さんと母さんが助けてくれたのかな」 「そうかもな。で、起きれるか?」 「…体中痛くて無理みたい」 「俺も実は動けないのよねー」 何がおかしいのかよくわからないけど、とりあえず助かったという安堵感で胸がいっぱいだ。シグナルは手に握ったままだったシリウスを再びぎゅっと握り締めた。オラトリオの腕の温かさだけ感じていると一人じゃないんだと実感できた。 「そのうち助けにきてくれるよね」 「ああ、それはもう、ちゃんと来てくれるよ」 「よかった、このまま放っておかれたらどうしようかと思っちゃった」 自分たちの所在くらいは突き止めてくれるだろう。体が動くようになったら自力でここを出てもいいかもしれない。 外がだんだん明るくなってきた。夜明けだ。見えないけれど多分水平線の向こうに朝日が昇っているようだ。 オラトリオは自然と笑顔になっていた。ほんの一瞬とはいえ生死をともにしたシグナルに対し、望んだことがある。それをもう一度告白しなければ。 「あんなぁ、シグナルちゃん」 「なーに?」 「これで事件は終わりだよな」 「…一応ね」 ここでオラトリオ、ほうとため息。 「だったらさ、俺とのことまじめに考えてくんないかな」 「まじめにって?」 ここでシグナル、きょとんとした表情。 「恋人として、さ」 「恋人……ああ、そんなこと言ってたね」 「だろ? だから…さ」 さあ、夜が明けるよ――― 「うん…いいよ」 ねぇ、そばにいさせて――― ちょうど夜が明けたころ、オラトリオとシグナルは駆けつけたコードたちによって救助され、警察病院に運ばれた。二人とも軽い打撲や擦り傷があるもののたいした事はないという。が、シリウスの影響があるかもしれないので2,3日の検査入院を余儀なくされていた。 「あー、また煙草吸ってるー」 「見つかったか」 屋上の柵に寄りかかるようにしていたオラトリオは猫のように背中を丸めた。振り返るとシグナルがかわいい仁王立ちで睨んでいる。 「だめじゃん、屋上は禁煙でしょ。洗濯物に匂いがつくから」 「へーへー、わかりましたよー。まったく、シグナルちゃんは口うるさいんだから」 「なんか言った?」 「いえ、何にも」 そういうとオラトリオはしゃがみこんで煙草を床にこすり付けて火を消し、手に握った。ポイ捨てなんかすると取ってこいなどと言われかねない。シグナルはオラトリオの様子に満足して頷いている。この辺はどうやらコードに仕込まれたらしい。 「午後からCTだって言われてるのに」 「…そーでした」 オラトリオの横に並んで、シグナルは街並みを眺めていた。 ひとつ、たった一つ間違えたならこのまちは灰燼に帰していた。そして今自分がこうしていることもないだろう。 最初の目的どおりシリウスは取り戻したし、両親の死の真相も明らかになった。シリウスはその後シグナルの資料提供を受けて研究を続けてくれるという機関に引き取られることになっている。 もう、自分の役目は終わったんだ。 たったひとつ、残されたことを除いて。 「オラトリオ…」 「ん?」 「私ね、退院したら自首しようと思うんだ」 「自首?」 シグナルは無言で頷いた。紫苑の髪がさらさらと風を孕んで揺れた。オラトリオも黙って彼女を見つめている。 「今度のこと、全部説明しなきゃいけないし……それに」 「それに?」 「…快盗エースとして迷惑もかけたもん。窃盗未遂、不法侵入、公務執行妨害…いろいろやってるから。罪は償わなくちゃいけない」 「シグナル…」 オラトリオが見つめる横顔に憂いはなかった。 「…覚悟はできてるの」 「…そっか」 晴天に浮かぶ雲の行方は風のみが知っている。 退院してからすぐにシグナルはオラトリオに伴われて出頭した。警察署についてすぐにオラトリオはどこかへ消えてしまい、一室にはシグナルだけが残された。6畳ほどのスペースに机とパイプ椅子が2脚置いてあるだけだ。ブラインドから光が差し込んでいるがむしろ陰を多く落としているように思えた。 シグナルは椅子に座ったまま俯いて、誰か来るのをじっと待っていた。これまでも事情を説明するために何度も訪れていたというのに、こんなに静かなのが不思議なくらいだ。廊下から聞こえたざわめきが近づいては通り過ぎるたびに不思議な緊張を覚えた。 ふと、5年前を思い出す。両親を亡くしたあのときもこんなふうに警察に呼ばれた。伯母夫婦に付き添われていたし、未成年ということもあってそんなに長くかからなかった。被害者の遺族ということもあったのだろう、すぐに帰宅を許された。でも今度は違う。自分の手で犯した罪だからそう簡単に済むとは思わない。事態がバッドエンドに進んでいたら、こんなことじゃすまないこともわかっている。 すべて覚悟の上ではじめたことなのだから。 自分自身を鼓舞するかのように膝の上に置いたこぶしをぎゅっと握る。 来訪はあまりにも突然だった。ノックもなしにコードが入ってきた。後ろにオラトリオもついているし、婦人警官もついている。 「同席願ってすいませんね、ラヴェンダー姉さん」 「仕事だ、気にするな」 調書をとるのだろう、ラヴェンダーと呼ばれたその女性はシグナルに背を向けて席についた。シグナルの向かいにはコードが座り、さらに彼女の背後にオラトリオが立っている。 「…さて、今回の件についてだが、お前が快盗エースだということで自首したそうだな」 「はい」 シグナルはしっかりと返事をした。コードは黙ってうなづく。頬杖をつき、何枚かの資料をぱらぱらとめくった。 「で、お前が快盗エースだという証拠はあるのか?」 「証拠…それはコードたちがよく知ってる」 「あのな、シグナル」 シグナルの言葉を遮るようにオラトリオが口を挟んだ。ぽりぽり頭なんか掻いている。 「俺たちはまだ快盗エースに関する物的証拠を掴んでいない。簡単に言うと個人を特定できるような証拠を何一つ掴んでいないんだ」 「だからお前がどんなに快盗エースだと言い張っても特定ができん」 「そんな…」 シグナルは言葉をなくす。確かに指紋はおろか、髪の一筋さえ残さなかった。予告状もメールで、発信元もわからないようにしたし、そのデータは残していない。オラトリオたちと出会ったのは本当に偶然に近い出来事だったのだ。 「お前はその証拠を持っているか、なんでもいい」 「監視カメラには映ってるはずです」 シグナルの言葉にコードは溜息をついた。 「…残念ながら不鮮明でな。アングルもよくない。画像解析の結果も芳しくない」 証拠はないに等しい。シグナルがうなだれていると、オラトリオが妙に明るい声で言った。 「最近多いんだよな、快盗エースに憧れてるだかなんだって自分がそうだっていうやつ」 シグナルははっとして顔をあげた。オラトリオと目があうと彼は小さくウインクをしてよこした。 「迷宮入りになりそうですね、師匠」 「…そうだな」 「でもっ…でもそんなこと…私よくわかんないけど、その、ふたりはキャリアなんでしょう、経歴に傷とかついちゃうんじゃ…」 「んなもん、どーでもいいんだよ。それに証拠もないのに逮捕しちゃったらそっちのほうが問題になるんだよ」 「快盗エースについて窃盗未遂に関しては被害届も出ておらんし、まぁ、器物破損でしょっ引くこともできんことはないがな。東京壊滅を未然に防いだという点において快盗エースによる貢献が大きかった。そこでだ」 「快盗エースの件は不問にしようって決まったのさ」 よりによってオラトリオはコードのお株を奪う。セリフを取られたコードはどこか釈然としないようだ。 「不問って…その、起訴したりとか、書類送検とか…」 「一切しない。その代わりといっちゃ何だけどクオータとの一件でしばらくご逗留願うけどな」 「それじゃ、クオータは…」 「…残念ながら遺体で見つかった」 「そんな…」 クオータの行方は別働隊が追っていたのだが、彼の所有する別荘で発見されたときには既に亡くなっていたという。頭部を拳銃のようなもので打ち抜いていたらしい。遺書がなかったことから自殺他殺の両面から調べていたが自殺という線で決まりそうだ。念のためにほかの別荘も探索したところ今度はクエーサーの遺書が見つかった。音井博士夫妻を殺したのがクオータであることとその自白の一部始終を録音したテープが発見された。身の危険を感じたクエーサーがこの別荘に管理人に宛てて書面をよこしていたのだ。これによって5年前の事件の真相が明るみに出ることとなったが、残念ながら犯人を法で裁くことはできない。被疑者死亡のまま送検されることになった。 「これで、もう終わったんだ」 シグナルはもう何も言えなかった。クオータが死んでしまった。それに今度のことだってあんなに迷惑をかけて、しかも大事なときは誰にも告げずに一人で突っ走ってしまった。 それなのに誰もそのことを咎めないし、それどころか快盗エースの件もなかったことにしてくれるなんて。 シグナルは両手で口元を覆うと声を立てずに泣き出した。 嗚咽に変わると、オラトリオはそっと彼女の肩に手を触れた。 「ごめんね、ごめんね、オラトリオ〜〜〜」 シグナルは弾かれたようにオラトリオの胸にすがった。彼はそっとシグナルを受け止めて背中をさすってやる。 コードとラヴェンダーはそっと部屋を出た。 「本当によかったのか、あれで」 「…ああ。俺様もそこまで鬼でも蛇でもないぞ」 「優しいことだな」 ふたりはそっと扉に視線を投げた。不思議とオラトリオとシグナル、二人きりでも大丈夫だろうと思った。 「世話の焼ける…」 優しい光と温かい優しさに包まれて、事件はようやく終結に向かった。 そして彼岸花が咲くころ、とある霊園に二人の姿があった。季節は秋へと巡り、空は凛とした蒼を湛えて澄んでいた。 「天気が良くてよかった」 百合の花束を抱えたシグナルがゆっくり歩いている。手に桶を持ったオラトリオはその後ろについていた。本当は彼岸の入りに来たかったのだけれどその日は平日だったのでシグナルはこれなかったのだ。なんとなくそんな話をしているとそれなら週末につれていってやるとオラトリオが言ってくれたので彼女はそれに甘える形になった。 「ごめんね、オラトリオ」 「何が」 「せっかく非番だったのに。つまんないでしょ、お墓参りだなんて」 シグナルは少し申し訳なさそうに言った。 「別につまんなくはないよ。シグナルのご両親に会いにきたんだから」 オラトリオは全く気にしていないようだ。もうこの世にはいない両親に会ってくれるというオラトリオの言葉が嬉しい。 「…ありがとう、オラトリオ」 「いいって。でもちゃんと紹介してくれよな」 「わかってるよ」 週末ということもあってか、墓参に来ている家族連れが多い。仲睦まじい親子連れを羨ましそうに見ているシグナルの目に淡く涙がにじんだ。 「…シグナル」 シグナルははっとして手の甲で目をこすった。心配そうに見つめるオラトリオの瞳が痛いほど優しい。 「…ごめんね、なんか…」 「…行こう」 オラトリオは穏やかにシグナルを促した。彼女は静かに従って歩く。 墓まで辿り着くとそこには真新しい花と線香のあとが残っていた。シグナルにはすぐに察しがついたらしく、なんでもないように花を広げ始めた。 「伯母さん、来てくれてたんだ」 「…わかるのか?」 「うん、伯母さんたちしか来ないから」 シグナルの答えは少し寂しい。けれどシグナルは慣れた様子で周囲を整えていく。オラトリオもなんとなく手伝い、線香に火をともして墓前に供えた。ゆらゆらと紫煙が立ち昇る。 手を合わせながら、シグナルは両親にオラトリオを紹介しようとして止めた。彼らはとっくにオラトリオのことを知っているし、認めてもいる。紹介しないかわりに新しい約束をした。 「なぁ、シグナルちゃん」 「なあに?」 「ちゃんと紹介してくれたのかよ」 帰りの車の中でオラトリオは不意にそんなことを口にした。変なところで子供っぽいと思いつつ、シグナルは紹介しなかったといった。 「なんで?」 「だって父さんも母さんもオラトリオのことちゃんと知ってるもん。その代わり約束してきたの」 「約束?」 シグナルはいたっずらっぽく微笑んだ。 「…海につれてってくれたら教えてあげる」 まっすぐ行けば市街地、右に曲がれば海。オラトリオは迷わずハンドルを右に切った。 秋の海は灼熱の夏の名残を穏やかに変えていた。波音だけが鮮やかに響いている。シグナルは靴を脱いで、時に波と戯れつつ素足で砂浜を歩いていた。オラトリオはその後をゆっくりついてきた。ちゃんと海につれてきたのにシグナルはなかなか教えてはくれない。 「なー、そろそろ教えてくれよ」 「なにをー?」 「なにをー、じゃないだろ。何を約束したのか教えろよー」 オラトリオの声にシグナルはゆっくり立ち止まって振り返った。少し困ったように笑い、それでもやっと教えてくれる気になったのか、あげた顔はとても綺麗だった。 「あのねー」 大事なところが波に消される。でもオラトリオにはちゃんと聞こえている。シグナルの言葉にオラトリオはしばらく呆然と立ち尽くした。そして次の瞬間にはもう走り出していた。どんどんシグナルとの差を縮めて彼女を抱きすくめる。 柔らかな紫苑色の髪、細いけど温かい身体、紫水晶の瞳のすべて――抱きしめたくて。 シグナルは穏やかに彼を受け入れた。 「…苦しい」 「だめ。今はなんと言われても離さない」 大きなオラトリオに抱きしめられたシグナルはすっぽりと隠れてしまっている。けれど彼女の微笑みは至福そのものだった。 「…大好きだよ」 「…おう」 ぬくもりが嬉しくて、優しさが愛しくて。 オラトリオの腕の中でシグナルは静かに微笑んだ。 これでいいんだと、思いながら。 この人と幸せになるって、約束したんだよ―――。 それから世間はあっという間に快盗エースの存在を忘れた。警察もこれ以上の被害が出ないと確信し捜査を打ち切った。 「やれやれ、これでやっと息がつけるな」 珍しく自分の執務室にいるコードがずずっと茶をすすった。デスクの前にはオラトリオが立っている。コードの前だというのにどこかニヤニヤとして落ちつかない。そんな彼をコードは横目で睨んで溜息をついた。 「…と思ったら今度はお前か」 「やだなー、師匠。俺何にもしてませんって」 「お前が何をしようと勝手だが警察官の身分を忘れるなよ」 「わかってますって」 ひらひらと手を振るオラトリオ。どこか信用できないがこれ以上は見たくない、なんだかイライラしてきたコードは早々に彼を部屋から追い出すことにした。 「わかったからもう行け。書類は朝一で出せばいい」 「そんな師匠、まだ聞いてもらいたいのに〜〜」 「いちいち俺様に聞かせるなっ!!」 コードが細雪に手をかけるに至ってオラトリオはようやくコードの執務室を辞した。 「まったく…」 「お兄様、オラトリオ様ご機嫌ですわね」 妹のエモーションが華やかな髪をなびかせて微笑んでいる。木漏れ日がさやさやと部屋の中に飛び込んでくる。 「お二人とも、幸せそうでよかったこと」 妹の言葉に、コードは無言で茶をすする。 「でーえっとでえと♪」 オラトリオは勤務時間が終わると一瞬で姿を消す。時間外にちょっと聞きたいことがあってもそれは不可能だ。よその課にいるのかと当たってみてもいやしない。そういえば最近オラトリオと付き合っている、という女性が署内にいない。外にできたんじゃないかという噂が立っているが真相は定かではない。というのが署内での一致した意見であった。しかしオラトリオにしてみればいちいち公表する義理もないのでそのままにしている。 車に飛び乗り、法定速度と交通ルールを守ってオラトリオはある場所に向かっていた。 「遅いなー、時間には出てくるっていってたのに…」 「よーお、お待たせ」 「オラトリオ♪ 待ってたよ」 そこはシグナルとエモーションの通う高校の前だ。二つに結わえた髪も鮮やかにシグナルは笑顔で歩み寄ってくる。後部座席のドアを開けて荷物を放りこむと今度は助手席に座る。シートベルトもしっかり締めるとオラトリオは車を走らせた。 あのときの約束どおり事件も終わったので二人は恋人としてお付き合いしている。 出会いはとんでもなく難儀なものだったがその過程でお互いのことをよく知ることが出来た。ちょっと年が離れているし、シグナルはまだ未成年で16歳だけどこれからのことをいろいろ考えてみる。それだけでなんとなく幸せだったりする。 「オラトリオ…」 「ん?」 「ちゃんと運転してよ」 「わかってるって」 オラトリオはシグナルのリクエストで今日は夜景の綺麗な丘にいくことにしている。一度自宅に戻って着替えてからもう一度車に乗る。 食事を終えてから丘に上ると綺麗な夜景が広がっていた。そして空には満月がかかっている。 「…夜じゃないみたいだね」 「でも夜なんだ、だからこうやって光の存在がわかる。…お前が守ったんだ」 「ううん、みんなで、だよ。私一人じゃきっと出来なかったし、あのとき私を助けてくれたのはオラトリオなんだもん」 「…そっか」 出会ったあの日も、こんな光の中だった。 人の営みが生む灯りと、シグナルを追うサーチライトと、満たされた月の光。 ――月の夜に会いましょう、と出会えた奇跡。 「シグナル」 「なに?」 それ以上は問わなくてもよかった。オラトリオの微笑にシグナルはゆるりと体を預けた。 「愛してるよ、シグナル」 「うん…」 ――重なる心、触れ合う唇から始まる未来 もうなにも怖れない、もうなにも失わない。 自分を守ってくれる人が、そして守りたい人がいるから。 そうしたらきっと新しい何かに出会えるよ ――月の夜に ≪終≫ ≪月の夜に会いたくて≫ やっと終わりました!!『月の夜に会いましょう』は前後編でお送りしなければならないほど長くなってしまいました。ありえません。まぁ結局のところ壮大なOt×S♀がやりたかっただけで、カルマなんかちょっとどころじゃなく壊れちゃってるし(笑)。いろいろ行き詰まってしまってもう止めようかとも思ったのですがなんとなくかいてしまいました。まぁ、楽しんでもらえればいいかな、くらいの気分です。 こんな端っこまで読んでるあなたは偉いです。ご苦労様でした。 |